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「家勤運動」?

「家勤運動」なる聞きなれない創価の活動を聞いた。なんでも会合や自宅で会員さんと一緒に勤行・唱題をする運動らしい。そんなことなら俺も未来部責任者の時に未来部員の小学生たちの自宅で一緒に勤行・唱題を何度もしてたから今時目新しくもないと思いきや、この「家勤運動」の対象者は少年部の小学生でなくいい年こいた男子部。しかもいわゆる「男子部大学校生」といういわば活動家に分類される男子部というのだから藁ってしまう。先日の聖教新聞によると男子部大学校生は会合中心の活動から自宅・会館で一緒に勤行・唱題する「家勤運動」を重視しているらしい(笑)いやでもちょっと待てよ。男子部大学校生とやらがどんな素性なのか知らないが確か創価学会の入会三原則の一番最初に「勤行・唱題を実践している」という項目がありそれが入会条件ではなかったか?それを何を今更「自宅で一緒に勤行」から始めるところからなんだろうね。一人で勤行・唱題も実践できないなら入会資格に達していないよね?自分たちの決めた入会条件を満たさないのに入会させたということになるよな。まぁ2世・3世とかは無条件入会だろうけど、男子部になるまでにまともに勤行・唱題をしてこなかったってことは親は入会だけさせて放置したということか?学会っ子にとっては本当に迷惑な話である。あと「自宅で」というのはわかるが「会館で」というのは「自宅で」勤行唱題ができない事情があるって思うんだが、要は家族に反対されて自宅にカラコピ掛け軸を置いておけない状態で入会させたということなのか?
いづれにしても勤行・唱題すら一人でできないメンバーを「大学校生」として扱わなければいけないとは創価男子部の衰退をまざまざ感じるね。「会合中心」をやめたのだって察するところ「会合」を開いても参加者がいないというのが実情で、相手が来ないならこっちから行くしかないということだと想像している。そもそもさ、いまの創価の勤行なんて方便品・自我偈1遍通しのインチキ勤行でさすがに大作センセのように0分では出来ないが5分もかからず終わってしまう程度の勤行モドキだろ。それすら一人でできないなら「創価大学校」で創価や池田のことを学ぶ前にもっとやることあんじゃね~のって思う。いつも創価民のいう「この信心」というなんのことやら分からない信心すらできてね~じゃないか(笑)まぁ一緒になって勤行する活動家も「勤行」の意義も多分分からないんだろうなぁ。寿量品の長行を読まないと勤行する意味ないって分かっていたら今の創価の勤行がいかにインチキなのか分かるはずだもんなぁ。結局「そういうこと」だから創価活動民は劣化するんだろうな。教える方も教わる方も「分かっていない」だよね。分かっていないまま活動家になり幹部になって一人前の口をきくようになる。そりゃまともに折伏や正宗を破折なんてできるわけないわな(笑)それにしても「家勤運動」とは・・四半世紀前に少年部に対して行っていた活動をいまや男子部に対して行うとはね。まぁ今の男子部の幹部はそれこそ俺が男子部時代の小学生達なんだよなぁ。きっと彼等は思っているのよ「今の男子部って俺たちの少年部時代レベルだよなぁ」って。どんどんお粗末になっていく創価を見るに付け嬉しさ半分・寂しさ半分かな。所詮謗法者の集まりだけどせめて顕正会くらいの「カラ元気」が欲しいよな。


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「有解無信」と「無解有信」

「無解有信」(理解はしていないけど信じている人)の対極として語れるのが「有解無信」(理解はしているけど信じていない)。「新池御書」に、
◆有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし
と書かれているようにこの「有解無信」は「無解無信」(理解もしてないし信じてもいない)人よりダメっぽく言われる。そんな「有解無信」の人というと宗教学者とかが頭に浮かぶけどもっと身近にたくさんいる。例えば元創価からアンチになり創価どころか大聖人仏法まで否定している自称「覚醒者」さん達なんて多分自分を「有解」無信の人だと思っているんじゃないかな。御本尊の相貌を比べたり文献や歴史を研究したり御書の研究をして偽書だのなんだの言っては大御本尊を必死に否定して大聖人仏法を否定したりしている。なかには釈迦仏法を持ち出して大聖人仏法を否定しようとする人もいて笑ってしまう。それでも自分で色々と学んで否定してる人はまだマシな方で、ネットのネタで色々と言ってる人を見るととてもじゃないが「有解」の人は思えない。それでも一人前に大聖人仏法を「分かった風な口」をきいているのだから滑稽だ。
そもそも俺は「有解無信」なんてものは大聖人仏法においては「理」としては存在するかもしれないが「現実」には存在しないと思っている。なぜなら「無信」の者が「解する」ことなどないからだ。「有解」というからには大聖人仏法がなんたるかを「理解」していなければいけない。大御本尊はニセモノ?それならそれでいいだろう。じゃぁ大聖人仏法の「体」は具体的には何であって何処にあるのか?それを明確に語る「覚醒者」は一人もいない。本仏は釈迦?それならばその釈迦仏と誰を指すのか?インドに生まれた釈尊であるならば、釈迦以前の仏を取らずに何故「釈迦仏」だけ採用するのか?五百塵点劫の釈迦なのであれば、一体その釈迦はどのような姿をしていて何を説き何を本尊として定めたのか?それを書いてくれる「覚醒者」もいない。ただ大御本尊や大聖人本仏を否定するだけで代替案すらないわけだ。そんな人々が「有解」であるわけないと思うのだ。そもそもいつも書くように「教学」というのはあくまでも大聖人仏法の法門法義を学ぶことであって世間一般的な学問ではない。そして仏法における「解」とは法門法義を理解するを指して「解」と呼ぶわけだ。世間一般の学問を指して「解」なんて言っていないのである。「解」は「信」と一体なのだから「無信」者が「解を有する事」は事実上不可能なのである。だから「有解無信」という言葉は有名無実の存在なのである。「無信」は全て「無解」なのである。どんなに利口そうに大聖人仏法を語り否定しても、その根本は「無解」でしかない。
学会員や法華講員の方の中にも「教学」の話をすると「無解有信」の言葉を翳して遮る人をたまに見かける。そういう人の気持ちの中には「教学」ばかり語る人を「有解無信」の人として見ているフシがある。「教学も大事だけどそれよりも信心」というセリフを何回も聞いてきたが今いったように「有解無信」なんていう存在は無い。「有解」であればそれは当然「有信」なのである。それを「有解」の人を見て「無信」であるかのように決めつけるのは「美人は性格が悪い」といっているのと同じだと思う。もちろん「諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知」である。ただ「知ること能わず」なのは「諸仏の知恵」のことである。つまり大御本尊の仏力・法力はいくら学んでも知ることはできないのであり、また自分の浅知恵でそれを決めつけてはいけない。ただ「信じる」以外にはない。しかし法門法義に関してはいくらでも学ぶべきだし知ることはできる。むしろ化義の折伏において「法門法義」に「無解」であることに満足していてはダメだろう。弘教も破折も育成も教学が無ければ進まない。創価であれ法華講であれ何かあればすぐに「唱題」というけどそれは間違っていないけど(創価の場合は唱題以前に本尊が間違っているが)それで一体どれだけの人が納得するのか。納得がない折伏は結局将来の退転者を増やすだけだと思う。なかには「無解」であっても「強信」の人はいるかもしれないが創価時代の経験からするとそれはむしろレアケース。そして客観的なコンセンサスを取れるのはやはり教学だ。「無解有信」はとっても尊いがやはり日蓮大聖人の弟子としては「有解有信」の信心を目指して努力していくべきだろう。「顕謗法抄」に引用されている涅槃経には、
■善男子若し人信心あつて智慧有ること無き是の人は則ち能く無明を増長す若し智慧有つて信心あること無き是の人は則ち 能く邪見を増長す
とある。「無解有信」は無明を増長し一歩間違えれば創価民の陥る■信ずる者にして慧無く顛倒して義を解するが故にと「顛倒解義」になるし「有解無信」は邪見を増長する。
やはり日興門流として大聖人の直参の講である法華講員としては「有解有信」の信心を目指していきたいと思う。


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御講拝読御書研鑽(2020年2月・日女御前御返事)

黄河は千年に一度すむといへり聖人は千年に一度出ずるなり、仏は無量劫に一度出世し給ふ、彼には値うといへども法華経には値いがたし、設ひ法華経に値い奉るとも末代の凡夫法華経の行者には値いがたし

昨晩、御講に参詣してきた。正宗では毎月の御講の折にご住職の御書の法話が行われいる。昔はお寺ごと違う御書を拝読していたみたいだが昨年くらいから全国の末寺で同じ御文を拝読するようになった。折角、毎月御書を拝読しているのだから拝読御書の研鑽をしてみたいと思う。早速今月の拝読御書の「日女御前御返事」の上記の御文を研鑽してみる。
この御文は、「持妙法華問答抄」の
◆受けがたき人身をうけ値いがたき仏法にあひて争か虚くて候べきぞ
などの御文と同意で、南無妙法蓮華経に巡り合う事の難しさ、そして尊さを教えてくださっている御文です。【設ひ法華経に値い奉るとも末代の凡夫法華経の行者には値いがたし】とはここで言われている「法華経」とは釈迦仏法における文上法華経のことで「法華経の行者」とは言うまでもなく大聖人のことです。つまり法華経は読むことができてもそれを正しく読む法華経の行者には会うことが難しいといことです。そしていつも書くように法華経の行者とは日蓮大聖人で、日蓮大聖人とは南無妙法蓮華経の事に他なりません。
◆されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり(御義口伝)
そしてこの法華経の行者の色心二法はまた本尊なのです。
◆日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝)
そして日蓮大聖人の色心二法の当体である戒壇大御本尊が「法華経の行者」の体なのです。
つまり、この戒壇大御本尊に値うことが難しい事だということです。なぜそれほど難しいのかというと、日寛上人は三重秘伝抄で次の3つの理由を挙げています。1には仏がこの世に現れることが非常に稀な事。2には仏が出現しても説法する事が稀であること。そして3つ目は仏の説法を聞いてもそれを信じることが稀であるという事。ここでいう説法の「法」とは南無妙法蓮華経のことです。法華講になれば当たり前のように御開扉をうけ大御本尊にお目通りできますが、実はそれこそ本当に奇跡のようなことなんですね。よく考えてみてください。末法の我等は本未有善の衆生です。ということは久遠元初から気の遠くなるくらいの長い時間この南無妙法蓮華経を一度も聞かずにきてしまった人間なんです。それが今世で法華経の行者たるご本仏・大御本尊のおわします時に生まれたわけです。折角そのような千載一遇のチャンスに巡り合ったのに大御本尊を信受しないのであれば次いつ巡り合うか分からないわけです。ましてや創価の如くその説法を聞き一度は受持したもののそれを捨ててしまうなど哀れこの上ないわけです。仮に池田センセが素晴らしい聖人だとしても1000年に一人のレベルなんです。そんな人間の言葉に騙されようやく出会えたご本仏を捨てるなんでバカとしかいえない。この御文の直前には、
◆例せば父母なんどには謀反等より外は子息等の身として此に背けば不孝なり、父が我がいとをしきめをとり母が我がいとをしきおとこを奪ふとも子の身として一分も違はば現世には天に捨てられ後生には必ず阿鼻地獄に堕つる業なり、何に況や父母にまされる賢王に背かんをや、何に況や父母国王に百千万億倍まされる世間の師をや、何に況や出世間の師をや、何に況や法華経の御師をや。
との言葉があります。「法華経の御師」と比べれば池田ごとにの「世間の師」なんて小物もいいところなんですよ。こんな小物でしかも邪師に誑かされてどうすんだということです。
創価民や顕正民の皆さんが本当に自他共の幸福を望んでいるんであれば早く創価・顕正を辞め大御本尊に戻る事ですね。いつ戻ってもいいですが、来年は日蓮大聖人御生誕800年の佳節。折角ならその慶事に参加できればそれに越したことないと思うので年内には大御本尊のもとに戻り、会い難き「法華経の行者」たる大御本尊に会いにいくことをオススメします。大石寺は謗法だ。御開扉は謗法だ。なんていう池田や浅井に騙されている場合じゃないですよ。


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令和の言論妨害。創価のスラップ訴訟。

創価によるスラップ訴訟による被害が拡大しているようだ。スラップ訴訟というのは恫喝訴訟・威圧訴訟というのもで強者が弱者に対し恫喝を目的に仕掛ける訴訟のことなんだが、実は当ブログの数名の読者の方や俺がフォローしているSNSの管理者さん数名が創価からスラップ訴訟を仕掛けられたことを明かしていてそのうちのいくつかのツイッターのアカウントがSNS上からすでに消滅している。このスラップ訴訟は訴訟制度を悪用した手口で「発言封じ」「いやがらせ」目的なので仮に裁判になってもその結果はどうでもいいわけで、要は相手に対し何らかの苦痛を与えばそれだけで「いやがらせ」の目的は果たせるという実にヒドイ行為である。まぁ創価の言論妨害・いやがらせ訴訟はいまに始まったことではない。古くは藤原弘達氏等の著書などを買収・脅迫して発言を封じ込めようと画策した「言論出版妨害事件」を起こし、宗門から破門後の日蓮正宗に対する常識では考えられない数の訴訟を起こした。対宗門の裁判では創価からの訴訟の7割がたが敗訴または敗訴に近い和解だったが、実はそんなことは最初から分かっていた話で創価が起こした裁判の数々は負けることは織り込み済みで目的は日蓮正宗と日顕猊下を貶めることと財政面を含め日蓮正宗を弱体化させるのが真の狙いであると広宣部のなかでは共通認識だった。簡単にいうと「いやがらせ」目的の訴訟でありスラップ訴訟だったということだ。そしてそれを今度は一般人にまで適用しているのである。創価からスラップ訴訟を受けた人たちは、アンチ創価である点は共通しているが、元創価の法華講員もいれば元創価の退会者もいる。そして驚くことに現役の創価民ですら創価からスラップ訴訟を起こされている。しかもそのほとんどが著作権に事寄せた訴訟である。聖教新聞を始めとする創価の機関紙などのを「勝手に引用した」という理由で訴訟を起こされているわけだ。確かに新聞記事のほとんどは著作権の範疇ではあるが、それを引用したからと言っていちいち訴訟を起こすのは創価くらいではないだろうか?朝日や読売に著作権違反で訴訟を起こされた個人なんて少なくても俺の周辺ではみたことない。言論や表現の自由といった憲法上の権利があってこその新聞だろう。その新聞社(聖教は新聞社ではないが)が個人の発言・言論・表現の自由を妨害することを目的とする訴訟を起こすことがナンセンスだろう。ましてや創価の聖教新聞には「人権」だの「対話」だのと言う言葉がこれでもかと書かれているが、実際に創価のやっていることは「対話」ではなく「発言封じ」であり、言論の自由を認めない「人権無視」の訴訟である。「著作権の問題だから言論の自由と関係ない」とかいう創価民もいるだろうが、どんな訴訟理由であってもその目的は反創価に対する「言論封じ」「恫喝」「いやがらせ」であることは明白である。なぜなら、反創価以外の創価民も聖教新聞をSNSに引用したり自サイトに張り付けたりしているのにそういうサイトの管理者には訴訟を起こしていないではないか。「著作権云々」というならばそうした普通の学会員のサイトやSNSも訴訟の対象とすべきだろう。そもそもが創価の正義は言論戦で決するのではないのか?その言論戦の象徴が聖教新聞であろう。聖教新聞を引用され批判されたならカウンターで反論するのが正しい創価活動家という者だ。結局それができないからスラップ訴訟などという恫喝をするのだろう。これは言論戦にすでに創価側が勝てない事の表れである。つまり創価に語るべき正義などないということだ。いや正義どころか恫喝・いやがらせを一般市民までに仕掛けてくるわけだから、あるいみヤ〇ザよりもたちが悪い。そんな反社団体が宗教法人を隠れ蓑に多くの特典を与えられているのである。これでは日本に損害を与えるる団体でしかない。宗教団体でありながら一般市民に苦痛を与える団体を宗教法人として認可していいのか?だたでさえ創価は宗教法人格取得時から本尊と教義を変更しているのだから宗教法人としての申請・審査のやり直しをすべきだろう。オウムの一件をもう忘れたのか。いずれによこうしたスラップ訴訟に関する「反スラップ」の法整備を急がなくていけないだろう。ヘイトばかり強化しスラップに対する対応が進まないのは片手落ちだと思う。まぁ「著作権」云々とスラップ訴訟を仕掛けている創価だが、今年1月の創価新報に系指されている大石寺の写真が宗門の機関紙である「大白法」の画像をそっくりパクった画像であるという証言もある。やはり創価は創価である。こんな組織に在籍していればそれは世間様からの信用を得ることは難しいわな。末端の普通の創価民さんはとっとと創価から離れ、普通の一般市民に戻ることをお勧めしますよ。何かあれば次に創価から訴訟を起こされるのは貴方かもしれませんよ。


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創価教学じゃない御書講義(2020年2月座談会御書・諸法実相抄)

行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

今月の座談会御書は「諸法実相抄」の最後の一文のあまりにも有名な一節です。本ブログでも何度も引用した御文なので復習というか確認というかそんな感じで書きます。この御文は大聖人仏法の大事である「信・行・学」を御教示されている一節で、創価では「御本尊根本」「題目根本」「御書根本」と聞かされるけど、これらはそれぞれ「信」に、約せば「御本尊根本」、「行」に約せば「題目根本」、「学」に約せば「御書根本」ということなんです。創価幹部の場合はバラバラに使うのでわかりずらいんですね。
で、行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候への部分だけど、「行」といのは「本門の題目」のことでこれには「自行(勤行・唱題)」と「化他(折伏)」があります。「学」はいうまでもなく「教学」です。一応「行」と「学」に分けていますが大きく言えば「行学」はともに「修業」です。日寛上人の「当流行事抄」に
◇大覚世尊設教の元意は一切衆生をして修行せしめんが為めなり
と書かれているけど大聖人の設教もまた同じです。大聖人仏法だけなく全ての宗教の修業はこの「行学の二道」に尽きるんです。
「我もいたし人をも教化候へ」と聞くと「自行化他の題目」ばかりそ思われがちですがこれは「行学二道」の修業のことだから「学」もまた自分も学び他人にも学びを勧めることが大切です。創価にしろ法華講にしろとかく活動家の傾向として「行」をメインにし「学」を軽く扱いがちなんだけどそうではない。仏法を失うのは個人であれば「教学」がないとうのが一番の要因だと思う。大御本尊を捨てた創価民たちは「行」は有ったが「学」が無かったから仏法を失ったと言って過言ではない。また弘教をしなければ仏法は実質なくなるが、「学」のない弘教は弘教とはいえないと思う。「教を弘める」には「教学」は必要。折伏・破折を「教学」抜きで語るのは俺は狂気の沙汰だとすら思っている。また「信心」「仏法」とは具体的な修行(行学)の上にしか現れないのだから「行学二道の修業」の中にしか信心は事実上存在しない。「行学の二道」に励むことが信心そのものということです。

次の行学は信心よりをこるべく候というのがこの御文の重要ポイントで、さっき全ての宗教の修業はこの「行学の二道」に尽きると書いたけど、この「行学の二道」とは「信心」から生まれるわけです。つまり「何を信じているか」で「行学の二道」の修業は変わるということです。そこでこの御文の直前に、
◆一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ
と大聖人が信ずるべき対象を「一閻浮提第一の御本尊」と明確に示されているわけです。この「一閻浮提第一」というのは日寛上人が「末法相応抄」で、
◇当に知るべし第一は即ち是れ最極の異名なり、若し爾らば一閻浮提第一とは即ち是れ名字究竟の本仏なり
とご指南されています。名字究竟の本仏とは言うまでもなく久遠元初報身如来である日蓮大聖人に他なりません。さらに日寛上人は「観心本尊抄文段」で、
◇問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり
と日蓮大聖人=妙法=一念三千の本尊であることをご指南しています。そしてこのご指南が書かれている同じ「観心本尊抄文段」の中で、
◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なりと言われ「撰時抄愚記」でも
◇文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一・本門戒壇の御本尊の御事なり
とご指南されています。つまり「一閻浮提第一の御本尊」とは「一閻浮提総体の本尊」である弘安二年の本門戒壇大御本尊であるというのが大聖人の弟子檀那・日興門流の「信心」なのです。この戒壇大御本尊への信心から生まれる「行学の二道」を励むことがこの御文の一番のポイントです。「大御本尊から生まれる行学の二道」とは逆に言えば「行学の二道によって大御本尊への信を強める」のが正しい修行でありその正しい修行に正しい結果が現われるわけです。創価にも顕正にも「行学の二道」はあるけど「正しい信心」から起こっていない。それを破折するのが日興門流の正しい修行です。

力あらば一文一句なりともかたらせ給うべしとは「随力弘通」ということです。「力が無いから弘通しない」「力がないから破折しない」というのではなく、自分自身の現在の力や環境下に置いて出来る範囲で語っていくということです。別に無理をすることありません。無理して周囲に反対され嫌われて「法難だ」なんて喜んでいるようじゃいけませんし、無理をさせるような指導をして「法難を起こせ」なんていうのもナンセンスです。法論・破折なら嫌われるのは当然だけど、弘教が目的ならば無理して嫌われるのは弘教ではなく自分や幹部・活動家の自己満でしかない。それで起こったイザコザなんてものは法難でもなんでもない。今は語れなければ語れなくてもいい。語れるようになろう、なりたいと祈っていけばいいのです。そうすれば自然と「力」(教学力だけではなく)が付き語れるようになります。それが随力弘通というものです。語れるようになった日のために「行学の二道」に励むことが大切で、「行学の二道」に励むためには大御本尊への「信心」が重要ということです。「信行学」はまた「身口意」の三業、「戒定慧」の三学の修行にも通じますから3つが揃って力を発揮するんですよ。


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Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大御本尊を捨て謗法の邪教団と化した創価学会を破折します。

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