創価ファシスト

ブログ村の創価カテからこのブログを追放しようとする記事が書かれている。
とある人から連絡をもらった。
基本俺は創価系ブログをあまり読まないので
「ああ、そうなんですか」と感じなんだけど
創価脳活動家さん達がいよいよ本性を現したね。
普段はブログで、自由・平等だの
世界平和だの人間主義だの
お前が言うか?というような
綺麗事を書いちゃいるが
創価脳の本性とは「こんなもの」である。
こんなのはただのファシストである。

俺は当時は休筆中でよく知らないが
何年か前にも学会員さんの某ブログを
同じような形で、ブログ閉鎖・創価カテから撤退させたらしいと
昔誰かがコメントで教えてくれたことがある。
今回はその二番煎じで、標的はこのブログなのか?
俺ってイジメられているのか?(笑)
それは知らなかったぜぃ(笑)

しかしまぁくだらないというか暇人というか。
ブログ村で誰がどこのカテにエントリーしようと自由だろ。
(最近では強制移動させられちゃったブログも多々あるが)
そもそも、ブログ村は創価学会で運用しているサイトでもないし
自分たちも参加者の一人に過ぎないのに
他人のブログに「でていけ!」って。
バ○なのか?それとも発狂したのか?
なんでもかんでも自分の思い通りりじゃないと気がすまない困ったちゃん達ですね。
そんなに「イヤ」ならば
自分がブログ村の創価カテにエントリーしなきゃよろしい。
ある意味こういうサイトはパブリックなところなのだから
他人に出て行け。と言える場所じゃない。
なにをトンチンカンなことを言っているのやら・・
いずれにしても程度の低い人達だなぁって思う。

自分と自分の仲間さえよければそれでいいという創価民族主義。
自分達の反対勢力を排除しようとする排他性。
創価の組織第一主義の集団主義。
大作センセという指導者原理主義。
現在の創価は、宗教団体とは名ばかりで
その実は、大作ファシズム教団であると思われる。
そしてその大作ファシズムの体現者が
いわゆるバリ活または創価脳と呼ばれる
創価ファシスト達である。
その存在はおよそ仏法の対極に位置すると言っても過言ではない。

創価学会ってどんなとこ?
大作ファシズムを浸透させ、創価ファシストを育成する。
そんなとこ。である。
創価学会に入会するとどうなるの?
創価カテに多く見られるような
創価ファシストさんのようになる。
世間からスポイルされること請け合いである。

大衆迎合し仏法を歪曲・矮小化し
甘い言葉で巧みに貴方に近づいてきて
貴方を創価の組織に引き入れようとする創価ファシストたち。
その本性は自分達の都合の悪い人や団体などを
徹底的に排除する。という
愚かで浅ましい人間性の持ち主なんだよ。
中にはファシストではない常識的な学会員さんもいるが
そう言う人は貴方を創価に勧誘したりしない。
なぜならそのような会員さんは
内心では創価の組織に嫌気がさしているからね。
どうやら創価の人間革命ってのは、
正しい方向に変わるのでなく
悪い方向に変わることなんだなって思うね。
そいえばファシストって「革命」好きだもんな。

とはいえ、創価ファシストさんたちは
能力のある方々はさほど見受けられないので
なかなか創価ファシズム運動も
広がらないっていうのが現状ではあるが・・

そういえば大作センセは「悪は群れる」と指導していたが
まさに現状のブログ村創価ファシスト達はそのまんまで少し笑える。
まぁいくら集まったところで所詮は邪教徒の集まり
大聖人仏法の正義を覆すことなどできないのは既に明白である。

◆日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚へ候、
悪は多けれども一善にかつ事なし(高橋入道殿御返事)

また、このブログから敗走していった方々が
負け犬遠吠えをいくら吠えようとも
大聖人仏法を覆すことなどないし
何度、ここにやって来ようと最初から勝負は見えている。
創価ファシストなどに万が一にも勝ち目はない。

◆既に日蓮かちぬべき心地す(四条金吾釈迦仏供養事)

とはいえ、冒頭に書いたように
俺は創価ファシストさん達のブログはほとんど読まない。
興味がわいたタイトルの記事は読むがそれ以外は読まない。
(そういう記事が少ないのでほとんど読まないのだけど)
なので、文句がある時はここに来て直接言ってもらえないかね?
あ!それは無理か。
それが出来れば最初からそうしているもんな(笑)
じゃぁしょうがないね(笑)
ご自分のブログで反対勢力のネガティブキャンペーンをお続けくださいな。
俺はここで、貴方たち創価ファシストの
邪義・己義の数々を、粛々と破折しますので。

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教学とは信心だよ

最近の創価活動家の教学離れには目を覆うものがある。
教学離れというレベルをはるかに超えて
最早、教学軽視といっていいレベルである。
昔から創価幹部・活動家にはその傾向はあった。
男子部活動家時代に幹部のわけわからない指導に
「そうことは御書に書いていないでしょ?」と反論すると
「教学あればいいってものじゃない。教学ばかりやると退転する」
な~んてよく言われた。
原島嵩氏を引き合いに出すのも常套句だ。
このブログを批判する多くの創価系ブログの管理人たちが
まったく同じロジックを書いているらしいが
いかにもダメ創価活動家(自称)らしい
相変わらずの金太郎飴のステレオタイプばかりで
本当に創価脳ってのはあるんだなぁってつくづく思う。
教学の重要性については何度も書いているが
何度書いても理解できないのが創価脳なんだろうね。

教学っていうのは「頭がいい」「頭が悪い」というカテゴリーの話ではない。
このブログでも「学術的」に大聖人仏法の教学について疑義を挟む人達がいたが
俺は決まって「信心がなければ」大聖人の法門法義は理解できない。
と言い続けた来た。
つまり学力と教学力は全く関係ないということだ。
求道心。つまり信心があるか?ないか?
その1点が教学力に差を生むのさ。

諸法実相抄に曰く

◆行学は信心よりをこるべく候、

教学は信心によって学ぶのである。
信心のない人は題目をあげない。のと同じように
信心のない人は教学を学ばない。のである。
故に「教学がない」ことを正当化するような人間は
信心がない。ということになる。
それを否定するのは上記の大聖人のお言葉を否定するということだ。
それとも、「題目なんてあげなくても信心があればいい」とか
「題目をあげすぎると退転する」とでも言うつもりか(笑)
「教学がなくても信心があればいい」などというのは
「題目をあげなくていい」と言っている事と同じである。

このようなことをいうヤツは
自分の信心のなさを正当化し隠蔽しているに過ぎない。
また、教学を単に頭のよしあしと捉えるのも
学術的に富士門流の教義に非難を加えようとする
無信心の僧俗のような発想で
仮にも「日蓮仏法」を語っているという自負があれば
そのような門外漢の人々と同レベルの
発想・発言をするとは何とも情けないではないか。

上記の諸法実相抄の御文の前後には

◆行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず
◆我もいたし人をも教化候へ
◆力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

とのご教示を述べられている。
行学の二つはどちらが欠けても正しい仏法にならない。
人を教化し一文一句を語る為には正しい教学がなければ不可能だ。
ましてや、他者を破折するつもりであるならば尚更である。
御書の「一文」のあげることもできずに
一体何をもって邪宗を破折するのか?
ただ「日顕宗が悪い。日顕宗撲滅」
と書いたり言ったりしているのは
ヘイトスピーチを繰り返しているだけの
破折でもなんでもない印象操作に過ぎない。
まさ今の創価活動家のやっていることがソレだ。
それは折伏でも広宣流布でもなく、
単なる創価活動家達の名聞名利以外の何物でもない。

◇学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事
◇論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事

と日興遺誡置文のご指南の通り
いまの多くの創価活動家は、
「予が末流に叶う可からざる」輩である。
日興門流でないのだから日蓮大聖人の門流でもない。
もっとも日興門流であるなら

◇日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊(日興跡条条事)

を受持の対象から外すことなど絶対に有り得ないけどな。

ともあれ、「教学があっても信心が云々」という
幹部・活動家には気をつけたほうがよい。
このセリフの中には「教学なんかなくても私のほうが信心は上」という
憍慢・傲慢な生命がある。
そんな生命であるから真摯に教学を求めることができないのだ。

例えば一生懸命勉強をして東大に合格した人を
遊び呆けいた人間が
「あいつは頭がいいけど俺の方が人間としては偉い」
そう言ってるようなものである。
そう言う人は俺には偉いとは思えない。
単なる僻み嫉妬の類だろう。それは。
教学軽視の活動家も同じである。
自分が学ばないくせに、教学を学んだ人を見下すのは
単なる、僻み・嫉妬・愚痴
自分のそういう本性を知られたくないから
教学と信心を懸命に「分別」しようとする。
教学と信心は別物としようとするわけだ。
でもそうした考えは大聖人の教えに反しているのある。
教学とは信心なのだ

賢明な学会員のみなさんに教えます。
創価幹部・活動家の信心の程度を知る
一番早く確実な方法は「教学」の質問をすることです。
それにきちんと答えられるかどうか。
きちんと答えようとするどうか。
それでその人の信心を知ることができます。
大聖人の御書も引用せず
学会指導で誤魔化そうとする幹部・活動家を信じてはいけません。
そういう幹部・活動家は無信心でロクなもんじゃありません。
まずは根本の御本尊について聞いてみるのがいいでしょう。
本門本尊とは何か・
そして本門の本尊を受持しなくていい。という理由をね。
ここのブログにコメントしてきた創価の面々は
全員無回答で遁走劇を繰り広げたロクデナシばかりですが
さてあなたの地元の幹部はどうでしょうね。
ちゃんと信心のある幹部が組織に残っているといいですね。

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夏休みの宿題(死後の生命のこと)

今週から、休暇をとった途端に天気悪くほとんど雨。
明日から1泊で海に行くのだけど天気が悪そうでテンションも上がらない。
でもしっかり楽しんでくるけどね。
とその前に牡丹さんからの夏休みの宿題を済ませよう。
先日、牡丹さんから
【死後の生命は本当はどうなるのでしょう。】という
かなりヘヴィな出題をもらった。
しかも、書こうと思っていた「上野殿後家尼御返事」の一節を
先に古本屋店主さんに書かれてしまい途方にくれているわけで・・(笑)
とはいえ「死後も生命」という話は
折伏の時にもしばしば話題になるし

◆されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし(妙法尼御前御返事)

と大聖人も言われている。
自分自身も牡丹さん同様に「死んだらどうなる?」と
考えたことは何度もある。
結論だけ言ってしまえば「死んだことがないから分からない」のだが
さすがに仏法者として「死んでみなきゃ分からない」じゃぁちょっと無責任だよね。

ここから先はあくまでも、大聖人の御書等を読んでの
個人の考えを書くので、そのつもりで読んでもらいたのだけど
まず、創価活動家がよく言う
「死んだら宇宙に冥伏する」説があるが
あながち間違えとは思わないが、この「宇宙」の解釈が問題だ。
この「宇宙」というのをいわゆる誰もが想像する
天文学的な意味で使っているのならばそれは「間違い」だ。
「宇宙」という文言は御書にはないし
天文学的意味の「宇宙」というのは
「始まり」があるのだから当然「終わり」があることになる。
そうなるとそこに冥伏した生命もまた「有始有終」ということになり
生命は永遠。ということにならなくなってしまう。
故に大聖人仏法に即して言う場合の「宇宙」とは
天文学的な「宇宙」という意味ではなく
「宇宙法界」・・宇宙はいらないか。「法界」ということだろう。
「法界」をわかりやすく「宇宙」の言っているのであれば
「宇宙に冥伏」でもいいが、どうも創価活動家は
普通の意味で「宇宙」と言ってるフシがあるので
そうであれば創価の言ってることは間違っている。
死後の生命は「宇宙」に冥伏するのではなく
「法界」に冥伏する。それが正しいだろう。

では、「法界」とは何か?詳しい説明は省くとして、御書には

◆法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし(草木成仏口決)

とあるように、「法界」=「仏身」だ。
もちろんここでいう釈迦如来というのは文上の意で
文底の意でいうのであれば釈迦如来とは久遠元初自受用身である。
日寛上人は観心本尊抄文段で

◇自受用の身土は十法界の全体なり
◇「法界に遍あまねし」は自受用身なり

とご指南されている。
そしてこの自受用身とは御本仏大聖人のことであり
また戒壇大御本尊のことである。
「法界」=「仏身」=「大聖人(大御本尊)」という方程式であるから
死後の生命は御本仏の生命に冥伏する。
それがオレの結論である。
御本仏とは言え、当然一念三千の当体であるから
十界が存在する。
大御本尊を捨てれば死後その生命は「地獄界」に行くということだろう。
そして死後は自力ではそこから脱出できない。
ただし、「地獄界」とはいえ仏界(ご本仏の中の)所具の地獄界であるから
いつかは脱出できるがそれはいつだかわからない
大御本尊を捨てた謗法の者は、それまで無間地獄で苦しむことになる。
実に可哀想だと想うが、それが大聖人の仏法の法理だ。

とまぁ色々書いてきたが、
要約すれば全ての人は
「死後の生命は大御本尊の元に帰る」というのが俺の考えである。
大御本尊への信を貫いた者の臨終は千仏来迎であり、
謗法の者の臨終はその逆である。

◆我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず(顕立正意抄)

俺は大御本尊への信を貫き楽しい臨終を迎えたいと想う。
大聖人は信心を貫いた人の臨終は

◆退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならばあら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし金の繩を以つて八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり(松野殿御返事)

と言われている。
友人葬で創価の導師も引用する一節だが
大御本尊を捨てたらこんな臨終は迎えられない。

そして、そのあとで大聖人と霊山でお会いする。

◆一流は未来え持せ給え霊山に於て日蓮日蓮と呼び給え、其の時御迎えに罷り出ず可く候。(遠藤左衛門尉御書)

なんと楽しい臨終ではないか。
そうなる事を信じ今世を退転なく生きていこうと思っている。
幸か不幸かその時には大御本尊を捨てた大作センセや創価活動家はそこにはいない。

◆信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず(松野殿御返事)

行き先は俺たちとは違う場所である。
この大聖人の言葉を信じるのあれば
早く「大御本尊」への信を取り戻すことだ。
人の一生なんて意外と短いからな。

以上で、牡丹さんからの「夏休みの宿題」は提出済。ということで。
明日は、雨だろうと何だろうと海で遊んでやる~

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創価脳になると読解力なくなるのか?

eco◆Smw69 さんが、ウォッチブログのあべひ君が
前回の「墓苑」についてのブログ記事に反論していることを教えてくれた。
あべひ君というと以前会館で葬儀ができないのは
「建築確認」が原因だ。
というシロート同然の反論で大いに笑わせくれた方だが
今回もまた、シロートの意見を堂々とブログに書いて
その無知・・いや無恥を余すとことなく披露してくれている。
前回の反論の時も、わざわざ
「俺はそういう仕事をしている」と教えてあげたのにね(笑)
では最初にあべひ君のシロート考えを軽くイジってみる。
(以下▼があべひ君の発言)

▼まず、墓地は分譲マンションのように「買う」ものではない。墓地を経営する公益団体(たとえば寺とか)から、ユーザーが一定の利用条件に応じて「借りる」という趣旨のものがほとんどである。

そんな事は常識である。あべひ君のドシロートなところは、
「買う」=「所有権」を得ること。だと思っているところである。
「買う」というの「権利を得る」ことであり「所有権」に限らない。
それに墓「地」は賃借であるが、
墓「石」は動産であるから所有権である。
墓石のリースなんて聞いたこともない。
このような場合借地権の不動産においては
「売買契約」を締結するのが常識。
つまり売買とは所有権に限定されない。のである。

もっと単純に言えば、通常墓を取得するとき
ほとんどの人が「お墓を買った」という。
「お墓を借りた」などと言っている人を聞いたことがない。
当の学会員さんも「お墓を買った」と言っている。
つまり一般常識として墓は「買うもの」として認知されているのだ。
あべひ君やあべひ君の周りの人だってそうだろう?
「墓を借りた」なんて言わないし聞かないだろ?(笑)
見識の前に常識を知るべきだよ。あべひ君。

▼ユーザーが一定の利用条件に応じて「借りる」という趣旨のものがほとんどである。したがって相続の対象となる「財産」にはならない。

「墓地」も相続の対象になる。相続税の対象とならないだけである。
また、墓石は所有権であるが、これも相続税の対象財産にならない。
さらに土地も所有権の墓地もあるが、これまた相続税財産の対象外。
つまり「お墓」というのはどんな権利状態であっても相続税の対象外の財産なのである。
なぜなら、墓地や仏具は「祭祀財産」だからであって
あべひ君の言うような「借りている」からという理由ではない。
賃借権の不動産は「借りて」いても相続税の対象になるのだよ。

▼消費者契約法における「過量」にあたるので契約をとりけし 払ったお金をかえしてもらお

墓苑の契約も消費者契約法の範疇である。

▼たとえば月極駐車場を借りているのとよく似ている。

この辺りがいかにもトーシローの発言で、
月極駐車場というのは短期借地である。
墓苑の場合短期借地ということはあり得ないので月極駐車場とは全く違う。
むしろ、一般の借地(または期間が決まっていれば定期借地)と同じである。
また、月極駐車場などの賃貸契約の場合
通常は賃貸料として毎月支払う契約である。
対し墓地は初めに一括して賃借する対価を支払う。
こうした場合は「賃貸契約」ではなく「売買契約」を結ぶのが一般的だ。
例えば借地の上に自分で住宅を建てた場合は
底地も含めて「売買契約」を締結する。
土地が「賃貸契約」で建物が「売買契約」なんていうのは
30年以上この商売をしている俺でも見たことがない。
なので「墓苑」というのは「権利」を購入する行為であり
「借りているだけ」などというのは
「何も知らない」つまり「無知」な人間の発言なのである。

個人的にはこうした長期にわたり権利を保有する墓地については
賃借権や地役権・使用権などの登記をするべきだと思うが
国も相続税という税金がとれなから登記の必要なしと定めたのだろうと思う。
未登記という事は第三者に対抗できないから本来は登記すべきと思っている。

あべひ君。墓苑の契約が月極駐車場を借りるのと似てる?だって
いま説明してあげたように
全然似ても似つかないのモノなのだよ(大笑)
あべひ君の見識と知識とやらは、
ドシロート丸出しの浅はかな(墓だけに)もので
プロから見れば大笑いのモノばかりなのである。
何も知らないのに「知ったかぶり」すると恥かくよ。

さて、ひとしきり笑ってところで本題に入る。
このほかあべひ君は、
▼墓地を借りて墓石を設置することに対し一家族一基が妥当だという法律も判例もない。
などと書いているが、本当に呆れるくらい文章の読解力がない。
これは彼だけに限らず、ここにコメントを入れてきた
ほとんどすべてのカツドウカに共通する。
前回の俺のブログ記事において、
俺が「買うというのはどういうことか?」とか
「借りると買うの違い」とかを問題にしたか?
また「墓石設置の数量について創価が法律違反をしている」
と趣旨のことを書いたか?
もう一度読んで欲しいが、そんな趣旨の記事ではない。
おそらく1000人が読んでもあべひ君のような解釈するのはあべひ君だけだと思う
(創価脳が1000人読むともっと多いかもしれないが)

前回の会館の記事もそうだが、
一人の人間がいくつも墓を買うのが違法かどうかでなく
一般常識で考えればおかしいだろ?って書いたのである。
また、「仏法の本義」にない仏事は不要といって僧侶を排除しているのに
「仏法の本義」にはない「墓」などを何で取り扱っているんだ?
と問いかけているのである。
そんなに小難しい文章もかいていなし
抽象的な表現も使っていない。
誤読しようがない記事だと思う。
事実。あべひ君以外の読者の皆様は誤読していない。
あの記事を誤読するとなると
著しくに文章の読解能力が欠如しているとしか思えない。
そうでなければ、わざと話をすり替えているか。のどちらかである。
もっともわざと話をすり替えられる能力がある人間であれば
もう少し上手にすり替えるだろうから
やはり読解力がない。という事だろう。
それが「創価脳」の特徴なんだろうね。
まぁ、「本尊義」を聞いているのに答えないような
「日本語」が読めないカツドウカよりは「日本語」が分かるだけましだが
「文章」になると分からなくなってしまうところが惜しいね(笑)
「創価脳」になると読解力がなくなるのは何故なのかなぁ。
変な小説を毎日読んでるからなのか?
だから、語彙力も要約力も思考力も低下するのか?
知ってる言葉は「日顕宗」
要約するのは「日々の勤行」
思考はハナから停止中。
それじゃ文章を理解することは難しいよね。
やはり、あの変な小説がダメなのではないかね?

さて再びあべひ君。
僧侶はいらないが墓は売る。
墓はうるけど塔婆はいらない。
そもそも墓と塔婆は仏法の本義から言えば同じなのに。
何故塔婆は不要で墓苑は必要なのか?
そのような趣旨が前回ブログの内容だ。
ここまで書けばキミでも理解できるだろう。

そこでだ。あべひ君。
「仏法の本義」に照らして塔婆は不要だけど墓苑は必要。
「仏法の本義」に照らして遠方の墓苑をいくつ買ってもいい。
とうような反論記事を書いて見給え。期待しているぞ。
あくまでも「仏法の本義」に照らして書いてくれたまえよ。
そうそう大聖人の文証を引用するのも忘れないでくれよ。
なんなら釈迦の経典や天台・妙楽などの論でもOKだ。
まぁ、無理に書かなくてもよいけどな。
なにせキミのブログで大聖人仏法の話が書かれているのは見たことないから
おそらく「仏法の本義」なんていわれても
どうせまた俺を「笑わせにくる」記事になる事と予想できるし。
まぁ、キミの無知&無恥丸出しのブログも
「お笑い」としては俺も高く評価している。
でも、他人のブログを論評するブログを続けるならば
もう少し読解力を鍛えた方がいいと思うぞ。
そうだな。夏休みは読書感想文でも書いてみたらどうだろうか?
他人のブログを読んでる暇があったら
良書を読んだ方がいいと思うよ。
大作センセもそういってるじゃないか。

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墓は売るんだよね?

みなさん、そろそろお盆休みですか?
私は来週休暇をとる予定。
特に遠くには行きませんが
「お墓参り」だけは欠かせない行事です。
私、若い頃から「お墓参り」が好きでして
いまも毎年正月2日。お彼岸。お盆と年に3~4回「お墓参り」します。
中でも夏のお盆の墓参が一番好きです。
少し涼しくなった頃、ヒグラシの声を聞きながらお墓参りするのが大好き。
その後のビールも格別です。
最近では、お墓参りする人も少なくなったようで
墓参り代行業なんていうのの登場してます。
無縁仏になっちゃっているお墓も結構あるとか
「墓参り」好きの私には寂しい話です。

さて、地元の創価の知人に聞いても、
なかなか「墓参り」できないらしいですわ。
理由は「墓が遠い」から。
そう、創価の墓苑を買っちゃった学会一家は
そう簡単に墓参もできないようですね。
私の地元から一番近い創価の墓苑は
高速道路で片道2時間。
有名な温泉街のさらに先の山の中です。
日帰りできるけど、そうそう墓参に行ってられない距離だね。
友人の一人は数年前にその墓苑を引き払って
車で10分ほどの地元の墓苑を買いなおしました。
自分か死んだときに創価の墓苑じゃ誰も来なくなる。と言ってた。
親御さんが買ったとはいえ、とんだ無駄金使わされたと言っていた。
それでも彼なんてまだいい方で
別の創価の友人一家は、温泉街の山間の墓苑の他に
静岡と北海道厚田村の創価の墓苑を持っているらしい。
北海道の厚田村なんて一生行かないだろう。と言っていた。
それにしても、一家に3つの墓苑って・・・・
MY聖教ならぬ、MY墓苑だね。
明らかにそんなに必要ないし、明らかにそんな売り方はあくどいよ。

去年「消費者契約法」が一部改正になって
過量な内容の消費者契約は取り消すことができるようになった。
事業者が消費者に通常の分量を超える量を売りつけたら契約取り消しができる。という内容。
一定要件はあるものの、墓をいくつも売りつけるのは明らかに過量。
事業者が知らなかった。とは言わせないよ。
これだけ統監がしっかりしているのだからね。
これで知らなかった。と言うならば、創価の統監が適当ってことにもなる。
そもそも一番最初が厚田村ってのがもう最初から詐欺っぽい。
厚田村に創価の墓苑を持っている会員さん大勢いるでしょ?
で、何回行ったの厚田村に。
自分が死んだら誰が厚田村に納骨いってその墓参するの?
最初から厚田村の墓苑を全国販売することがオカシイんだね。
まぁ土地が安いし「厚田村」といえば売れると踏んだ作戦は成功だけど
「会員の為に」作られた場所とは思えないなぁ
大作センセが死んだら厚田村に埋葬するならまだしも
戸田先生の墓すらないのだから。

しかしまぁ、葬儀に僧侶を呼ぶのも塔婆供養も
「仏法の本義ではない」
「そんなものは坊主の金儲けだ」と言って
そんなものは不要だ。とかいいながら
「墓」を売るのは何故?
創価の理論からすれば、「墓」だって「仏法の本義」にはないよ。
釈迦時代のインドには「墓」なんてないし
釈迦仏法自体が輪廻転生なんだから「墓」なんて必要ない。
「納骨堂」もいらないでしょ。
それが「仏法の本義」じゃね~の?
確かに日本は勝手に埋葬できないから
墓苑や納骨堂などの遺骨を保管する場所は必要だけど、
それを創価の事業としてやる必要はないね。
民間でいくらでもやっている。
「仏法の本義」に照らせば「墓も不要」でしょ?
僧侶は不要だけど、墓は必要ってのは
どんな「仏法の本義」に照らすとそうなるのか聞きたいよ。
どうしても会員さんの為。と言いたいならば
創価の会員さんには「無料」で、
墓なり納骨堂なりを贈呈しなさいな。
それなら納得もするよ。
何より「墓」や「納骨堂」欲しさに入会者も増えるかもよ。
え?そんな死にぞこないの会員に墓を贈呈したら「赤字」になるって?
うん。うん。そうでしょう。
それはイヤなんだよね。
つまりさ、仏法の本義なんてどうでもいいんでしょう?
要は「金儲け」の為に仏法を利用をしているだけってことだよね?
いやいや、悪いとは言ってないよ。
邪教団はどこでもやっていることだから創価だけダメとは言わない。
でもね、自分たちがそういう邪教団ってことを自覚しなさいな。
もっとゴキちゃんみたいにコソコソやりなさいよ。
せめて世間様に迷惑をかけない事を心がけて欲しいですな(笑)

そうそう、話は戻るけど家族で創価の墓苑を複数買っちゃった会員さん
ダメもとで消費者センターに相談したらどうですか?
ひょっとしたら契約取り消ししてお金えお取り戻せるかも?よ。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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