どこかで見たような構図だな。

日大アメフト部の問題で昨日当該日大選手の謝罪会見があった。
二十歳そこそこの若者が精いっぱい謝罪している姿は痛々しい。
監督・コーチの指示があったとはいえ実行しなければ良かったのだ。という意見もあるだろうが
果たしてそんなことは可能だったのか?
もしも自分が彼の立場だったら監督の意向を無視することができるのか?
多分、彼の立場だった誰もが彼と同じような行動をしていたと思う。
精一杯の謝罪をし、青春を賭けていたアメフトも辞めるという彼を誰がここまで追い込んだのか?
いうまでもなく、監督・コーチである。
そしてこの期に及んでもなお、「齟齬である」という言い逃れをしている大学。
日大側の言い分では、当該選手に責任を押し付けているようにしか聞こえない。
「全て私の責任です」という内田元監督のセリフも白々しく聞こえる。

ああ、そういえば似たような事が何度もあったなぁ~ってふと思う。
この構図。そう創価の活動にソックリだ。
広宣流布だとか師匠に応えるだとか言われて
半強制的に学会活動を「させられて」いた学会さんが大勢いた。
幹部の側(やらせる側)の理論から言えば、「強制」なんてしていない。ということなんだろう。
でもさ、相手が「強制」だと感じたら「強制」なんだよなぁ。
もちろん、創価幹部にいわれても「やらない」選択肢もあるし
「やってしまった」のは自己責任なんだろうけど
創価という閉鎖的な世界で生きていくためには
「イヤイヤ」でも幹部に言われたことを実行しなければいけないわけで
件のアメフト部の当該選手と同じ構図なんだな。

また督は彼にそのようなことをさせたのは成長させるため。
といった趣旨の事を言っようだがこれまた創価幹部と同じ。
「君の成長ために。君の事を思って。」
何も広宣流布にならない学会活動をやらせるようとする。
学会活動で嫌な思いして友人に嫌な思いさせて一体何が成長するのだろう?
俺にはサッパリ分からないな。
「嫌な思いをしたりさせたり」することで人が成長するとは思えない。
「苦手なことに挑戦」するということは大切だとおもうけど
学会活動に無理に挑戦して一体何になるのか?
聖教新聞の拡販や公明党への投票依頼を「イヤイヤ」やって
自分の人生が豊かになるのだろうか?
「苦労は勝ってでもしろ」というが、買わなくていい苦労は買う必要はない。
ましてや、今の学会活動なんていうのは「大聖人仏法」とは何の関係もない。
こんなことをしてもチリほども福運などつめないし、露ほども功徳なんて出ないのは
文理に照らして明白だ。

しかも、会員さんに指導をしている幹部は
誰一人会員さんの責任なんて持たないし持てない。
だって、会員さんを救う力は一凡夫の創価幹部にはないんだから。
それは、会長だろうとセンセだろうと同じ。
そのくせ全部自分が責任を持てるような口っぷりで指導するわけだ。
これまた件の監督よろしく白々しいたらありゃしない。
所詮、創価幹部・活動家が守ろうとしているのは
創価や大聖人仏法や会員さんではなく
せっまい創価という世界の中の、自分自身の立場とか見栄なんだよね。

日蓮大聖人曰く

◆わづかの小島のぬしらがをどさんををぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、仏の御使となのりながらをくせんは無下の人人なりと(種種御振舞御書)

創価幹部が何をどいってみても大御本尊を捨てた今の創価は謗法である。
そんな創価幹部のいう事に何もおじることなどない。
学会活動なんてしなくても何の罪にもならない。
謗法団体の創価をやめたって何のことはない。
大御本尊を信じる心があれば信心なんて一人でもできる。
ましてや大御本尊を受持すれば

◆只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし(聖愚問答抄)

とあるように、創価の謗法は全て滅するわけです。
心ある学会員の皆さんは一日も早く創価をやめて正法・正義に戻るべきでしょう。
いつまでも、創価幹部に騙されて「仏法の反則行為」(謗法)を続けていれば後悔をするのは貴方だけです。
もう気づいてるでしょ?そんなことには。学生ならともかく立派な大人なら。


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供養を返せ!とかいうバ○学会員達

相変わらずいまだに「正宗が学会から寄進(供養)された物(寺院)等を返してから創価を批判しろ」
なとどいっているバカ学会員がいる。
本人は「凄く理屈にあった素晴らしい主張をしている」とでも思っているのだろうが
本当に、哀れというか恥知らずというか恩知らずというか
「ご供養」の意義も分かっていないバカとしか言いようがないね。
創価はね大作センセからして「供養をしてやった」とい感覚だから分からないのだろうが
「ご供養」ってのは「してやる」ものではなく「させてもらう」ものなんだよ。

◆ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり(白米一俵御書)

と御書にあるように、ご供養とは志であり凡夫はその志にで成仏するからだ。
「法施」であれ「財施」であれ、供養=信心なのだよ。
それを「俺を批判するなら供養を返せ」というのは、志(信心)がない証拠だ。

そもそも正宗に供養を返せ。というならばその前に創価がしなければいけないことがたくさんあるだろう。
まずは、宗門から下付された御本尊の返納。
創価が回収した日顕師書写の御本尊は宗門側には一体も返納されていないと言っているがどうしたんだ?
返したならいつどうやって何体の御本尊を返納したんだ?
それと、創価本部にあるメイドイン大作の本尊な。あれも返せや。いつまで使ってんだ?
もう破門になったのだから、正宗の本尊は全てキチンと返納しろ。な?

それと、その理屈で言うならば当然創価を退会した人や除名にした人は謗法なんだろから
そうした人たちが創価時代にした「財務」や新聞代も全て当人に返却しろ。
俺にも当然返してくれよな?創価から見たら俺は謗法なんだから返金しなきゃならんだろうよ。

そして、破門前にした「供養」の返還を求めるならば
破門前に「大御本尊」にいただいだ「功徳」の結果もそっくり返しなさい。
戸田先生も大作センセも「大御本尊」の功徳をいただいた。とハッキリ言っている。
当時の学会員さんも同様に「大御本尊」に功徳をいただいた。という認識だろ。
「供養を返せ」というならば、「功徳」も返さなきゃダメだろ?
「功徳」をもらうだけもらったら「金返せ」ってよ。お前らクレーマーか?
クレーマーだって返金受けたら品物は返すんよ。
創価が大きくなったのだって「大御本尊」の功徳だろ。
「違う」と言ったらば、「功徳がある」といって供養させた大作センセは詐欺師だぞ。
だから破門以前の「創価会館」や信濃町の本部や聖教新聞社などの土地家屋創価学会が使った金。
大作センセの個人資産もだ。
それらは全て「大御本尊の功徳」なのだから、大御本尊に返しなさい。

そもそも創価がしてきたご供養ってのは、正宗の僧侶にしてたわけでも大作センセにしていたわけでもない。
大御本尊(大聖人)にしていたんだろ?
つまり最初から、創価や大作センセが自由にしていい金なんてないんだよ。
本来であれば創価が会員に、寺院や総本山に直接ご供養するように指導すればよかったわけだ。
それを自分たちが供養をピンハネしたいから創価に一度入金させたんだろ。
最初から創価の集めた金は大御本尊のものだったんだよ。
それを破門したら返せというのは、大聖人に対して「そう言ってる」ということだ。
大聖人が後に退転した名越の大尼に、もらった供養返したか?
返してね~よ。でも退転した名越の尼を批判している。
そんな大聖人は「詐欺師」「泥棒」なのか?
本当にバカも休み休み言え。という話だ。
むしろ、「詐欺師」「泥棒」は、大御本尊に対する会員の真心の供養を中間搾取していた
創価であり大作センセの方だろうが。
その浄財でアイツらは在家なのに仕事もしね~で一生食っていってるんだろ。
大御本尊に感謝してもしきれないほどだろうが。
そんな当たり前のことすら理解できないから
「教学」も「信心」もない学会員はバ○だって言うんだよ。
どうせこというバ○に限って、大御本尊に供養なんてろくすっぽしてね~んだ。
大御本尊に対してご供養をしている。という思いがあれば、
供養を返せなんて言葉は出てこないし
何よりも「大御本尊を受持しない」なんて
狂った創価に対して黙っていないはずだからな。

ともあれ、「正宗に寄進(供養)したものを返せ」というならば、
学会本部の本尊等の「カラーコピー掛け軸」以外の本尊を正宗に返納し
(カラー掛け軸は本尊じゃないのでゴミになるから返さなくてよし)
創価を退会・除名した人たちから受け取った過去の金銭を全額返金し
破門前の創価学会や自分が受けた「功徳」を全て大御本尊に返してから
初めて堂々と言えるセリフであって
それらを何一つしていない連中がドヤ顔でいっても
全く説得力なければ理屈も通らない。

それと今の学会員さんにいっておくけど
創価の財務は供養じゃないからね。
「ご供養」というのは「三宝」に対してさせていただくものであって
在家の「リーマン宗教家モドキ」にするものでありません。
大作センセは三宝具備じゃありません。
創価学会なんていう組織もまた然り。
そんなただの「会費」を無駄に払うくらいなら、
「大御本尊」にご供養したほうがいいですよ。


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世界192か国という妄想

最近の創価活動家は教学もなくまともな法論ができないので
何かと言うと「創価学会は全世界192か国に広まった」という話しますね。
世界192か国に広まった事実により創価が正しい。というわけです。
で?192か国に広まった事実はどう証明するの?
創価民がいう192か国の事実がどこにも書いてない。
創価のホームページにすら192か国が掲載されていない。
この192か国がどこなのか全ての名を挙げている学会員もいない。
まぁ。192か国を覚えろって言われても覚えられないと言われれば確かにそうなんだが
だったら、創価がない国・広まっていない国を教えてもらいたい。

現在世界の国の数は、国連加入国が193か国で、通常は196か国と言われている。
196-192は、「4」である。この4か国が創価が広まっていない国というだ。
その「4か国」とはどこなんだね?
192か国は言えなくても4か国くらいは答えられるはずなのに誰も知らないのだ。
そして192か国に1200万人と言っているが、192か国には当然日本も入っているわけで
そうなると、日本の創価が827万世帯で1世帯1.5人だとするともう1200万人を超えしまうんじゃないか?
日本の会員数を水増ししているか海外の会員数を水増ししているか知らないが甚だ怪しげな数字だろう。

どこに広がっているか誰も知らない、答えられないのに
「192か国に広まっている事実」などといい
その事実をもって創価が正しいと主張する活動家達。
これって客観的に見て間違っているでしょ?
創価が正しいという根拠となる「192か国」という事実が証明できないのだから
それは「事実」ではないと思うのが一般的な人間の思考なわけ。
つまり君たちの言う「192か国に広まっている」といのは
事実ではなくて、単なる与太話でしょ。
自分達で捏造した嘘を、事実であるといって、それが正義だという。
頭おかしくありませんか?
世界192か国に広まってなんていうのは完全に妄想ですな。
「学会が世界192か国に仏法を広めた」なんて調子こいてるそこの活動家さん。
まずは、広めていない国くらいは答えましょうよ。
とこう書くとまた適当なウソをいうんだろうけど。
なにせ、どんな適当なこと言っても検証できませんからね。
さすがは詐欺師団体です。


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やはり創価は御本尊をわかっていないらしい。

ひごちゃんさんからのコメントで過日の創価新報に書かれていた創価が大御本尊受持しない理由。
毎度毎度低レベルな話を繰り返していてもう何度も破折済ではあるけど
おバカな学会員がネットで拡散して、なおかつあたかも創価の主張が大聖人の真意であるかのようにウソを書くので
一応、また破折しておこうと思う。
創価新報に書かれている内容は、

C作戦で学会の破壊を企て、御本尊を信徒支配の道具にしたのが日顕である。
そもそも、宗門が宗旨の根幹とする弘安二年の御本尊を、自ら「偽物」と軽んじた日顕である。
つまり、日顕宗は御本尊云々する資格はない。会則変更で学会は弘安二年の御本尊を受持の対象としないとした。
これに対し日顕宗は「学会は弘安二年の御本尊を否定した」などと騒いでいるが難癖に過ぎない。
謗法にまみれた邪宗の寺にあるから「受持の対象にしない」だけである。
学会が、日顕宗以外の寺にある御本尊を受理しないのと同じである。
御書には「弘安二年の本尊だけを根本とせよ」とは一切記されていない。
むしろ、大聖人は阿仏房に与えた御本尊を「出世の本懐とはこれなり」(1304)
と記され、弘安二年の御本尊が唯一絶対のものでないことは
御書に照らして明白である。宗門の主張は文証なき妄説にすぎない。


簡単に言うと大石寺は謗法の地だからそこの本尊は受持の対象としない。
ということで、もうすっかり顕正会と同じようなことを言い出しているわけだ。
これはね。人法一箇ってことが全く分かっていないわけ。
創価はね、大御本尊も本門本尊である。言っている。
本門本尊と言うのは人法一箇であることも認めている。
人法一箇というのは、「ご本仏」そのものという意味だろう。
その「ご本仏」が謗法の地にあるから受持しない。と言っているのは
鎌倉時代の日蓮大聖人を信じないといっている僧俗と一緒なわけ。
大聖人ご在世当時の日本はね、上一人から下万人まで謗法であり、当然日本全体が謗法だったわけだろ?
だったら、その謗法の地である日本にいらっしゃる大聖人を捨てるのか?って話。これ道理ね。
この道理以前に、「ご本仏」がいる場所を謗法と思うこと自体間違っていて
「ご本仏」がまします場所こそ寂光土なわけ。

◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所喉は誕生の処口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なればいかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し人貴きが故に所尊しと申すは是なり(南条殿御返事)

◆設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏法華経も地獄にこそをはしまさずらめ(崇峻天皇御書)

と文証に明確だろ。
人法一箇の本門本尊がある場所が謗法の地になることはないのだよ。

で、この阿呆どもは、

むしろ、大聖人は阿仏房に与えた御本尊を「出世の本懐とはこれなり」(1304)と記され、弘安二年の御本尊が唯一絶対のものでないことは御書に照らして明白である。宗門の主張は文証なき妄説にすぎない。

などど言っているが、これは大聖人の一期の化導の次第ということを
全く理解できていない痴れ者の言うことで
それについては長くなるのでその話はそのうち書くが結論だけ言うとね
大聖人の顕される御本尊というのはね、「弘安」期になって究竟するのだよ。
阿仏房に与えたのは弘安以前の未究竟の本尊。
もちろん未究竟であってもご本仏のご境涯で
一機一縁の御本尊を阿仏房に与えているから「ニセモノ」でない。
しかし、一閻浮提総与即ち総体の本尊たる一大秘法とはなりえない。
しかもお前ら創価のコピー掛け軸だって弘安期の本尊の相貌じゃね~か。
で、この弘安期の本尊の中で「一閻浮提総与」に耐えられる本尊と言ったら
弘安二年の大御本尊以外にはないのだよ。
それ以外の弘安期の本尊で一大秘法の名に耐えられる本尊があるのであれば
その本尊を具体的に言ってみなさいよ。
そもそも「御書に書いてない」とかいってけど、お前ら身延か?(哀)
身延の連中も「御書に日蓮が本仏である」と書いてないから本仏じゃないっていうんだよ。
で?創価にとって大聖人はご本仏なのか?
だったら「日蓮は本仏である」という御書はあるのか?
ね~よ。そんな御書は。
でも依義判文すれば大聖人がご本仏であるという御文は数多ある。そうだろ?
それと同じで弘安二年の大御本尊が一大秘法である御文だって数多ある。
お前らが「身延読み」しかできね~からって
「文証なき妄説」とか五老僧みたいなこと言ってんじゃね~か。
じゃぁ何か、「大聖人が末法のご本仏」っていうのも
「文証なき妄説」なのか?え?どうなんだ?
お前らさ、歴代法主書写の本尊と大御本尊とまったく同じ。
と言っているが御書のどこにそんなこと書いてある?
在家が勝手に化義を変えていいとどこに書いてある?
創価学会仏なんて言葉はどこに書いてある?
在家が在家に供養すると功徳がでっるってどこに書いたあるんだよ。
お前ら創価のいっていること、やっていることこそ文証なき妄説っていうんだよ。
いや信徒をだまくらかしているんだから、妄説じゃなくて詐欺っていうもんだ。

それとな、「謗法の寺」っていうのは身延のごとき寺をいうんだよ。
なぜか?それは身延が大御本尊(ご本仏)に背いているからだよ。
戸田先生も
◇「富士大石寺に背くやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない」
と指導しているが、永遠の指導者も否定るのかえ(嗤)
それに、なんで創価を破門することが「謗法」なんだね?
結果、お前らは大御本尊を捨てたんだろ?
破門は正しかったということだろ。謗法どころか正法を守ったという方が正解じゃね~か。

その脳みそ足りないオツムで考えてみろよ。
「大御本尊を捨てる」のが正しくて。
「大御本尊を守る」のが謗法ならば
この世のにはすでに日蓮正宗しか謗法は存在しない。
ということは「舎衛の三億 」の原理から言えば広宣流布は完了しているという理屈になる。
だとしたら、もう創価は弘教する必要ないのだから、選挙も新聞もやらなくていい、
いや創価学会そのものが必要ないだろう。
だって広宣流布が終わってるんだから。
違うか?お前らの理屈だと違わないだろ?
もう広宣流布は終わってるんだから「ガッカイカツドウ」なんて必要ないのに
なんで会員にそんなことやらせるんだよ。

全く文証も理証もないこんな幼稚でインチキな創価の主張を
真に受けて納得してる会員ってどんなんだよ。
さっきも書いたがオツムが弱いか信心が弱いか
あとは邪師にだまされ邪教に洗脳されているのか
またはその全てが見事に揃ってしまってフイーバーしたか(笑)

まぁ、別に創価学会がどんな見解を持っていても構わないよ。
ただ、この創価の主張は大聖人の弟子旦那の主張ではないということだし
大聖人仏法でもなく、ただの創価の見解であるってこと。
つまり創価は大聖人仏法とは無関係な新興宗教団体にすぎないし
大聖人仏法を誹謗している邪教団のひとつであるという認識をもってくれよ。
そして、このような創価のような団体と創価を信じる人々を
大聖人仏法では「謗法」と呼ぶことは覚えておきなさいな。

そうそう、最後に書くけどお前たちは自分達の本尊の元になった
日寛上人のご本尊になんで「お目通り」しないんだ?
なんで「ご供養」しないんだ?おかしいだろ?
さっさと、浄円寺に参拝しろよ。浄円寺にご供養しろよ。
それが「信心」ってもんだろ(爆笑)



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創価教学じゃない御書講義(30年5月座談会御書・椎地四郎殿御書)

末法には法華経の行者必ず出来すべし、
但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、
火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや、
大海へ衆流入るされども大海は河の水を返す事ありや
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「椎地四郎殿御書」です。
学会版の御書では大聖人40歳の時の御書になっていますが
現在の大石寺版では60歳のときの御書に改正されています。
御書の研究が進み色々と改正されいることが
大石寺版の御書と創価版を比べるとわかります。
まぁ残念ながら創価御書はずっと変更することもないでしょう。
その一点だけとってみても創価が大聖人仏法と遠い存在になったことがわかります。
もっとも、今の学会員さんは御書は必要ないから修正しなくても問題ないでしょうね。
今月の座談会にもどうせ大白だけ持って御書は持っていかないんでしょ(笑)

さて今回の拝読範囲ですが
但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、
の部分は、

◆凡夫の仏になる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり(兵衛志殿御返事)

と同じ意味です。
信心をしていて様々の苦難を受けるのは自身の信心が正しい証明なのです。
それは何を意味するかいえば成仏できることを意味します。
しかもそれらの苦難とは護法の功徳力で転重軽受しているわけです。
本来ならばもっと苦しまなければならい所を軽くすんでいるわけですから
賢者は喜び、逆に愚者は疑い起こし退転するという過去世と同じ過ちを犯すわけです。
といっても、苦しい辛いっていうのは嫌です。
「過去世の謗法なんて知らね~よ」って思う事も度々あるし
「信心しているのに、なんでこ~なるの」って思うってしまうのが凡夫というモノです。
私など苦難があると年中そんなことをふと思ってしまいます。
そんな時にいつも思い出すのが

◆此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり
譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず
年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、(佐渡御書)

この御文です。
病気・経済苦など様々な苦難は、本来は尽きることのない未来までひとつづつ続くわけです。
今世は病気、来世は貧乏、その次は・・・といった具合に未来にわたって続いていくわけです。
これらは過去世の謗法が原因なのですが、正しい信心に出会い信仰してくならば
未来における苦難を軽く今受けているんだと。
いまの目の前の苦難を乗り越えれば明るい未来が待っている。
そんな想いで私は題目を上げています。

賢者はよろこび愚者は退くこれなり
強盛の信心弥弥悦びをなすべし


と大聖人が言われるのはこのような意味があるからです。

さてここで問題になるのは自身が「法華経の行者」たる信心をしているかどうか?です。
苦難があるから「信心が正しい」のではありません。
「正しく信心している」から苦難が起こるのです。
ここを勘違いするのが創価活動家達です。
今回拝読箇所の冒頭ぼ

末法には法華経の行者必ず出来すべし

の一文をよくよく心に留めてください。
末法に出来した法華経の行者って誰ですか?
そうですよね。末法のご本仏である日蓮大聖人です。

◆日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり(別当御房御返事)
◆日蓮は日本第一の法華経の行者なり(南条兵衛七郎殿御書)

まさか、大作センセとか自分たち学会員だ。なんて驕慢を起こしてないですよね?
我等のごとき末法の荒凡夫が法華経の行者となるは
日蓮大聖人の弟子旦那となることが条件なのです。
つまり法華経の行者を信じることが法華経の行者の一分なのです。
そして法華経の行者の当体とは

◆本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝巻下)

とあるように御本尊であり、その御本尊の究極とは日寛上人が

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。

とご指南されている本門の戒壇大御本尊です。
戒壇大御本尊こそが無二の法体であり、法華経の行者大聖人の色心二法なのです。
それが日興門流であり、日興門流こそ日蓮大聖人の弟子旦那なのです。
それ以外に日蓮大聖人の弟子旦那は存在しません。
戒壇大御本尊を信受しない学会員は、大聖人の弟子旦那ではなく法華経の行者ではありません。
要するに「邪教」を信じている者にほかならない。
ゆえに今の「カッカカツドウ」をしていて起こる苦難は「三障四魔」ではありませんし
「護法の功徳力」による転重軽受もありません。
仏法的解釈をすれば、過去世どころか今世の謗法による現象です。
むしろこれから「尽未来際が間」苦しみ続けるということでしょう。
法華経の行者の当体たる大御本尊を捨て悪用する罪は重いのです。
創価の信心をして大難がきたなら「強盛の信心」をしなければいけません。
「強盛の信心」とはどこまでも大御本尊に信を取ることです。
それは、創価を離れ創価を破折するということを意味をします。
「創価学会は正しかったんだ」なんて悦んでいるのは「愚者」なのです。

今月の御書を何度も読み考えてくださいね。
大御本尊を捨てるのが「法華経の行者」なのか?
大御本尊を信じ抜くのが「法華経の行者」なのか?
一体、どっちですか?
そして、あなたはどっちなんですか?


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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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