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池田先生の指導と汚ダイモク

創価から日蓮正宗に移籍して4年。自分でも色々と変わったなぁって思う事が多々あるけれど、そのうちのひとつが勤行・唱題の時の姿勢です。創価で活動し始めた時に池田先生の「理想的な勤行」という指導のプリントを貰って経机に置いていたことを思い出します。今ではネットでその指導を読むことができます。便利な世の中になりましたね。池田先生の「理想的な勤行」の指導は、
■題目の声で信頼が決まる。
■発音が不完全だったり,声が急に高くなったり,低くなったりする人は,それが生活に現れてくる。例えば「みょうれんげきょう」等,「南無妙法蓮華経」は一字欠けても功徳はない。

と具体的に誰でも分かるように唱題について書かれています。また
■勤行・唱題は、リズムカルに、爽快に行っていただきたい。だれが聞いても好感をうけるような勤行が本当です。
■白馬がパッパッと駈ける様な朗々とした勤行唱題をしていきましょう。

とも池田先生は御指導されています。日亨上人も、
◇お題目の唱え方は、身に油断怠りなきよう、意に余念雑念なきようにありたい。口より出す声は早口であったり粘口であったりしてはならぬ。落ち着いて確固と尻強に中音に唱えねばならぬ。
と御指南されているように唱題の唱え方が大切で重要なことだと正宗に移籍して再確認しました。ではそんな池田先生のオダイモクを一緒に聞いてみましょう。(3分48秒頃から池田先生のオダイモクが聞けます)

いかがでしたか?私はジャイアンのリサイタルを聞かされているのび太の気持ちが少しわかったきがします。池田先生の唱題の声で白馬を想像することは全くできませんでした。ガマガエルが「ゲゴゲゴ」啼いている声にしか聞こえません。そういえば池田先生はよく「宗門を外護した。外護した。」と泣いていますが、唱題でも「ゲゴゲゴ」言ってますね。(笑)「誰が聞いても好感を受ける」というよりどちらかというと「誰が聞いても不快感を持つ」唱題ではないかと思います。まさに、「汚ダイモク」という表現がピッタリなんですよね。最近、御住職の唱題を聞きなれたせいか池田先生の唱題を聞くとますます汚らしく感じてしまいます。地声や滑舌の悪いのは仕方ないのですが池田先生の「汚ダイモク」は適当なんですよね。「字」も上手い下手があるけど下手でも丁寧に書けばそれが伝わってきますが下手なのに適当な字をみると心が全然こもっていないって思いますよね。池田先生の唱題はそんな感じです。全然、心がこもっていないという印象。さらにジャラジャラと数珠を揉む音。昔ある学会員が「池田先生は数珠を揉むのが上手なんだよ」と言ってましたが、上手い・下手という以前に数珠は揉んだらアカンだろ?って話ですよね。戸田会長も数珠は揉まないのが本式と言ってます。池田先生は戸田会長から教えてもらわなかったのでしょうか?もちろん法華講員で数珠を揉んでいる人はほぼ見かけません。池田先生自身も、
■合掌であるから,手の平をキチッと合わせなければならない。
と指導しています。数珠を揉んでいたら合唱になりませんよね。この他にも池田先生は、
■勤行はいい加減にやって,学会活動のみ一生懸命さっそうとやっている人がいる。この人はやがて退転していく人だ。(先生は0分勤行)
■勤行が本当に出来ない人は駄目だ。どんなに「キャリア」があっても駄目だ。それは創価学会の敵だ(先生は0分勤行)
■勤行をしないということは,努力すらしないということだ。(先生は0分勤行)
■勤行をきちんとやっているかいないかは自分が一番良く知っている。(先生は0分勤行)
と指導し、更には破門前は、
■体が疲れている時、寝てしまった方が回復するのではないかと思うかも知れないが、そうではなく、しっかり勤行をするのだ。(先生は0分勤行)
と指導されていましたが破門後は、
■疲れ切った時には、題目三唱で終わらせることがあってもいいんです。
■無理をせず、早く休んで、翌朝さわやかに起き、朗々と朝の勤行を行った方が、長い目で見れば、ずっとよい場合も少なくない。(先生は朝から0分勤行の後に按摩90分)
と御指導されています。「ゲゴゲゴ、ジャラジャラ」の池田先生の汚ダイモクの声に池田先生の信心の全てが顕れていますね。大聖人は、
◆声仏事を為す之を名けて経と為すと(御義口伝)
◆声を聞いて心を知る色法が心法を顕すなり(木絵二像開眼之事)
と仰せです。私も美声ではありませんけど一編のお題目を丁寧に唱えていくことを心がけて唱題しています。私は創価の大誓堂なるところに行ったことはありませんがそこでは池田先生の唱題がエンドレステープで流れているとのこと。「ゲギョゲキョ」とまるで蛙の合掌(合唱)ですね(笑)「茹でカエル」状態の学会員さんに相応しい場所だと思います。

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創価教学じゃない御書講義(2021年12月座談会御書・聖愚問答抄)

されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば篭の内にある鳥の鳴く時空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し。

年内最後の座談会御書は『聖愚問答抄(下)』の御文です。『法華初心成仏抄』にも同じ趣旨の御文がありますがそれは以前講義しましたので過去記事を参照してください。
過去記事はこちら▶ 創価教学じゃない御書講義(29年度8月座談会御書・法華初心成仏抄)
今回の『聖愚問答抄(下)』と『法華初心成仏抄』の違いと言えば、書かれたのが佐前(佐渡流罪前)か佐後(佐渡流罪前)かというところです。この『聖愚問答抄』は佐前の大聖人の鎌倉期の御書になります。『三沢抄』で大聖人が自ら
◆又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ
と仰せのように佐前の御書は大聖人の一期の化導の中で釈迦仏法における爾前経のような法義になります。佐前においては大聖人はいまだ三大秘法はおろか観心の本尊についても明かしていません(当然御本尊の御図顕もされていません)佐前における大聖人の化導は権実相対をメインに専ら口唱題目の流布にあります。創価民はこの佐前の御書を用いて「題目主義」「唱題即成仏」かのごとく考えますがそれは大聖人仏法の未顕真実の教えだけを捉えた浅はかな主張と言えます。大聖人の御書を読むときは爾前経を法華経をもって開会するのと同じように大聖人の出世の本懐である一大秘法の戒壇大御本尊をもって会通していくことが重要です。もちらんその会通は自分勝手にしてはいけません。極理師伝の御当代・御歴代上人の指南に沿った会通でなければ邪義・邪見となります。ですから御書を学ぶと同時に日寛上人の文段等の御歴代上人の御指南を学ぶことは御書を理解するために重要な教学になります。さてでは今回の御文を会通するとどうなるか?会通できない創価教学ではこの御文の直前に書かれている、
◆所謂釈迦多宝十方の諸仏上行無辺行等普賢文殊舎利弗目連等、大梵天王釈提桓因日月明星北斗七星二十八宿無量の諸星天衆地類竜神八部人天大会閻魔法王上は非想の雲の上下は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり
この部分を創価では「宇宙の法則」とか「十界全ての衆生の仏性」とか訳しますがこの訳が大聖人の仏法を理解できていない低レベルの学会教学の真骨頂です。そもそも「宇宙のリズム」と合致した所で成仏できる理由がありません。上記の【所謂釈迦多宝十方の~】の御文は何を顕しているかいるかというと、まさにこれは御本尊の相貌を密示されているのです。ですから「宇宙のリズム」でも「十界全ての衆生の仏性」などではなく、ここに書かれている十界衆生とは御本仏日蓮大聖人の己心の十界であり御本尊のことなのです。言い換えれば御本尊の仏力・法力のことを言われているのです。大聖人御在世で本尊も顕れていないこの時は「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることは即大聖人を信受することですから唱題を勧奨しているわけです。日寛上人は『観心本尊抄文段』で口唱題目について
◇問う、但信心口唱に即ち観行成就するや。答う、但本尊を信じて妙法を唱うる則は、所信所唱の本尊の仏力・法力に由り速かに観行成就するなり
と御指南されています。「観行成就」とは簡単にいうと成仏という意味です。つまり御本尊を信じて唱題すれば御本尊の仏力・法力によって成仏する。ということです。成仏の「成」とは「ひらく」という意味があります。つまり己心の仏界を開く(涌現する)ことなのですが、己心の仏界を涌現(開く)のは御本尊の仏力・法力によるものであって自力ではできないのです。そして御本尊の仏力・法力を得るためには御本尊に対する信力と唱題という行力が必要なわけです。この四力が冥合することを「観行成就」といい「成仏」というのです。今回の例えにある「籠の外の鳥」とは御本尊の仏力・法力の事であって「宇宙の全衆生の仏性」などというチンケでインチキなモノではありません。そして仏力・法力の根本・源泉が大聖人色心二法の体である戒壇大御本尊なのです。ですから戒壇大御本尊を捨てた創価民がいくら題目を唱えようとも籠の外には何も集まりません。ましてや仏力も法力もない創価本尊に集まってくるのは悪鬼・魔民の類です。ですから創価民は題目をあげれば上げるほど己心の三悪道・四悪趣の生命が涌現するのです。創価バリカツの言動・姿にそれが如実に現れていると思います。つまり創価本尊に題目なんか唱えてはいけない。不幸になるということです。今年も残り1カ月。悩みある学会員さんや信心ある学会員さんは年内のうちに創価活動を止め、できれば退会し、さらに出来れば戒壇大御本尊の許に戻り創価謗法の大掃除をして清々しい新年を迎えられますよう心からご祈念申し上げます。

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「富士の清流」のゴミ掃除から30年。

今日は正宗から池田創価が破門されて30年目の記念日だそうだ。「魂の独立記念日」らしい。「破門された」と言ってみたり「独立した」と言ってみたり一体どっちやねん!(笑)といつも思う。それにしても時の流れは早いね。私は平成2年11月7日に日蓮正宗創価学会に入新入会した。最初はたまに本幹に連れて行かれる程度で聖教新聞もとっていない「なんちゃって会員」だったけど夕方のニュースで創価が正宗から破門されたと知った時は多少は驚いた。あれからもう30年もたったんだね。「魂の独立」をして創価がこの30年やってきたことを振り返ると、御観念文を御祈念文と言い換え日目上人の名前を御祈念文から削除し「池田大作」への報恩感謝を祈念文に追加し、修行の基本である御座三座の勤行を方便品・自我偈の1座の簡易勤行にして、ついには7年前に大聖人仏法の根本である戒壇大御本尊を捨て去ったという蛮行を繰り返してきた歴史がある。「魂の独立」などどカッコつけているけど結局は池田創価が自分達の好き勝手な信心をしたかったというだけ。いうならば謗法の地頭・波木井実長(日円)のような者が創価学会員であり、その者たちを誑かして謗法者にした張本人の池田大作は民部阿闍梨日向のような者だね。戒壇大御本尊を捨てるだけならまだしも身延さながら大御本尊を後世の作だと言ってみたり自分達に都合の悪い御書(特に相承関連の御書)を偽書だと言ってみたり、なるほど今の創価は身延日蓮宗と教義がそっくりで最初から身延の信徒団体ではないかと見間違うほどだ。日円は自分の好き勝手な信心をしたかった。日向は日興上人より自分のことを尊敬してもらいたかった。まさに創価民と池田そのものであると感じている。そんな感じでこの30年が経過したが、池田創価は「魂の独立」後に世間に認知され社会的な地位が向上したのか?と言えば全くそんな兆しもない。むしろ日蓮正宗という伝統的な仏教教団から破門されたことにより創価は戦後生まれの怪しい新興宗教団体というイメージが強くなっただけだろう。肝心の弘教も方もさっぱりと進まず組織は弱体化の一途をたどっている。現役創価活動家がどんなに虚勢を張ってみても先日は女子部が消滅しているし組織の統合も進んでいるし何よりも青年部の活動家が激減しているのは事実である。もちろん信徒数の公式発表は827万世帯でこの30年間全く増減していない。しかも既に創価民の中でさえ御本尊に仏力・法力はないという会員まで出現している。30年前の破門当時は戒壇大御本尊を否定する学会員などいなかった。むしろ「河辺メモ」を持ち出し日顕上人を「戒壇大御本尊をニセモノ呼ばわりした謗法者」と責めていたくらいだ。それがどうだ。いまや戒壇大御本尊をニセモノ呼ばわりしているのは当の創価民の方だ。さらに頼みの綱の公明党の比例得票は破門直後に池田大作が目標として掲げた1000万票に遠く及ばない。そして極めつけが池田大作は2010年5月を最後に会員の前から姿をけした。こうしてみるともはや完全に正邪はハッキリしている。現証もそうだが、大聖人の仏法においてはいかなる理由があろうとも仮に法主上人が仏法と相違したという事実がハッキリしていようとも戒壇大御本尊を捨てる側が「謗法者」であり「邪教」なのである。それなのにまだそれに気が付かずに池田創価が大聖人仏法の正義だと主張している創価民がいることが元学会員としては情けなく悲しい気分になる。もっとも池田創価を崇拝する「謗法者」は当宗にとっては大聖人・日興上人以来の富士の清流を汚すゴミのような存在だ。創価が30年前の破門を「魂の独立」というならば、当宗にとって30年前の創価破門は日顕上人が富士の清流のゴミ掃除をした日ということになろう。長い宗門の歴史の中では定期的に富士の清流の水底にたまったゴミを清掃しなければならない。そうやって謗法・異流儀というゴミを除いてきたからこそ富士の清流は今日まで保たれている。池田創価という大謗法の粗大ゴミを処分したのは日顕上人の大英断であると思っている。「池田創価はやがて戒壇大御本尊を蔑ろにするだろう」と予見した日顕上人の慧眼に感服する。信心ある学会員さんはいつまでも創価学会という名の謗法のゴミ山に身を置いていてはいけませんよ。長くそんなところにいると本当のゴミになってしまいますから。因みに私も元ゴミだったけどリサイクルされて資源になって戻ってきました(笑)「捨てればゴミ、分ければ資源」です。(笑

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TS氏の本尊観にみる創価の宗教としての限界。

TS氏との対話が終わりました。終わったというより彼が一方的に打ち切っただけですけど(笑)短いやり取りで大半は大した内容もない感じでしたがTS氏の本尊観が最後に聞けたのは私としては大きな収穫でした。氏曰く。「創価学会の本尊には仏力も法力も備わっていない」と。それを聞いて安心と納得をしましたね。この本尊観はTS氏の個人的見解ですから学会の公式見解でもないし学会員の総意ではありません。でもTS氏と同様の本尊観を持っている創価民は他にも大勢いると安易に想像できます。本尊の開眼の話をすると、「自分が題目をあげることによって本尊を開眼する」という創価民がたくさんいます。これは逆に言うと題目をあげなければ仏力も法力も本尊に宿らないということですから根本はTS氏と同じ本尊観です。創価本尊には仏力も法力も元々は備わってのであれば、それは「単なる本尊風のカラーコピー掛け軸」であり、それを大聖人仏法の本尊とは言わないので「ニセ本尊」というのは正しいということになります。(仏力も法力も備わっていなくても本尊と論証できれば別ですが)もちろんTS氏とは違い「本尊には仏力も法力も備わっている」と思っている創価民も大勢いるでしょうが私はそこに創価の宗教としての限界を見た気がします。つまり学会員の本尊観はマチマチでバラバラだといことです。ひとつの宗教または宗教団体において自宗の本尊について信徒がここまでバラバラな見解を持っている宗教は創価以外にありません。例えば氏との対話でも分かるように法華講員は「戒壇大御本尊は御本仏・日蓮大聖人である」という見解で統一されています。地域性も年齢も性別も関係なく同じ本尊観なのです。これは日蓮正宗・法華講だけが特殊なのではなく、どんな宗教でもどんな宗旨でも、顕正会でも幸福の科学でも自宗の本尊に対する見解が信徒によってバラバラになるような事はないのです。何故ならいつも書くように宗教とは「本尊(宗)の教え」だからです。本尊観が同じ人間が集まるから「宗教団体」になるのです。また宗教法人の認可の要件にも「本尊」と「教義」が備わっているは大前提となっています。それなのに創価は本尊観が信徒によってマチマチなわけです。「教義」が浸透していないわけですから「教義」自体が間違っているか教団の指導体制が間違っているかどちらですが、「教義」が間違っているならば当然「本尊」が間違っているということになり、指導体制が間違っているなら創価学会は「間違った組織」であるといことなります。どちらにしても信徒の本尊観がバラバラであるというのはその教団自体が信用に足りない教団であるといえるでしょう。さて大聖人の御書には、

◆総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し(生死一大事血脈抄)
◆はわき房さど房等の事あつわらの者どもの御心ざし異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なしと(異体同心事)
とのお言葉があります。戸田2代会長はこの「異体同心」について、【異体同心という言葉はいかなる言葉であるかという問題です。異体同心の心という字は、「観心本尊抄」の観心に通ずるんです。観心が、観心が同じだから異体同心と言うのであります。観心とは何を指すか。弘安2年の10月12日の大御本尊様を信受奉るという心が同じだから異体同心と言うんですよ】。と指導しています。池田大作は戸田会長のこの指導を「師匠と同じ心」などとすり替えていますが同時に池田大作は【異体同心の心は、信ずる心です。信仰が同じという意味です。】とも言っています。【信仰が同じ】というのは本尊観が同じということに他なりません。いまの創価民は「戒壇大御本尊を受持しない」という戒壇大御本尊に対する本尊は同じなのでしょうが肝心な自宗の本尊に関してはバラバラな」見解です。つまり創価には異体同心の信心は存在しない。よって創価民が言うところの「信心の血脈」も存在しないつまるところ創価の信心では成仏しないということになります。「ニセ本尊か否か」以前に創価組織にいたら成仏できないということです。ともあれ、信徒の本尊観がバラバラである事は創価が宗教としてのテイをなしていないということでありそれは宗教としての終焉を意味します。創価が会員に徹底指導して創価民達に一貫しているのは「選挙は公明党」という思想だけです。今回のTS氏との対話は本当に大きな収穫でした。ありがとうございました。


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弥四郎国重と熱原三烈士を考える。

弥四郎国重と言えば本門戒壇の大御本尊の願主であることは皆さん御存じだと思います。戒壇大御本尊の脇書きに【本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白】と記されています。古来からこの弥四郎国重については様々な見解があります。私も創価時代に弥四郎国重とは誰のことなのか?と疑問に思っていたところ戸田会長の「大聖人己心の弥四郎国重である」という指導を読んで合点がいきました。また日蓮正宗の公式な見解も「本門戒壇の大本尊は唯一究竟の大目的の下に、大聖人境界中の弥四郎国重」(日蓮正宗要義)「御本尊の願主は熱原の人々を代表とする法華講衆を、大聖人の境界中の己心の弥四郎国重」(日蓮大聖人正伝)となっています。さてそこから「大聖人の己心の弥四郎国重とは?」と考えるようになり私なりにひとつの結論に至りました。(以下は私の個人的見解です)私の思う弥四郎国重とは久遠元初の信徒なのです。久遠元初に仏宝と僧宝がいたのなら当然そこに衆生(信徒)がいないと不自然です。仏も僧も衆生を教化するために出現する訳ですから当然そこには三宝を受持する衆生がいるはずなんですね。私はその久遠元初の信徒こそが「大聖人の己心の弥四郎国重」ではないかと思っています。そして、鎌倉時代に久遠元初の仏宝は大聖人として久遠元初の僧宝は日興上人として出現したのだから当然久遠元初の信徒も同じ時代に出現するはずでそれこそが熱原三烈士であると考えています。熱原三烈士が日興上人によって折伏・教導されたのも、その殉教が戒壇大御本尊建立の機縁になったのも全ては久遠元初の信徒としての振る舞いであったと思います。仏宝・僧宝の化導を助け、後代の信徒の明鏡となる姿を示す。法華経の地涌の菩薩同様に大聖人・日興上人の久遠からの信徒でなければできることではないと感じるわけです。もちろんこれは私の勝手な考えですから他人に話す時は私の我見であることを伝えてから話しますがそれほど大きく逸脱していないかなと自賛もしています(笑)そしてそんな弥四郎国重を思う時、自分もまた久遠元初の信者の一分としてその列に加わりたいと願い、戒壇大御本尊をの分身を授与された法華講衆として弥四郎国重に連ならなければならないとの決意を新たにします。戒壇御本尊の分身である御形木本尊を下付いただける資格があるのは法華講衆だけと大聖人が決めました。創価学会員や顕正会員には戒壇大御本尊の書写本尊をコピーであっても拝む資格はないのです。そもそも彼らに与えられた本尊ではないのですから。


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ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。現在は池田創価から日蓮正宗に戻り法華講員です。池田創価の風聞・風説を基にした批判や悪口ではなく、日蓮大聖人の法門・法義・事実を基に大謗法の池田創価とその他異流儀を破折します。また破折以外にも教学など日蓮大聖人の仏法の話なども書いているブログです。

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