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鯛焼き支部長の幼稚すぎる詐術を嗤う。

ひごちゃんさんと鯛焼き君の対論が終わったようです。まぁ鯛焼き君のような教学力ゼロ人間に何をいっても理解できないから適当なところでやめて正解です。ひごちゃんさんが再びのコメント欄に鯛焼き君のコメントの転載をしてくれましたが今回は本当に酷い内容です。もっともひごちゃんさんが言うように破折されつくされた10年前のネタを書いているだけなのでいちいち今更あんな駄文に回答することもありませんね。ただ今回の鯛焼き君のコメントには創価活動家が使う「ダマシのロジック」が満載でしたので、今後創価活動家と法論・対論をすることがあった時の場合のために創価・鯛焼きのの「ダマシ論法」を解説しておきます。(以下太字はひごちゃんさんが転写してくれた鯛焼き君のコメント)

ダマシ論法1「話題変換・拡散話法」
▼また過去にも17世日精上人はじめ大聖人の本義に外れた僧侶がいたのは歴史的事実です。
▼日精上人以外にも近年で言えば日開上人、日恭上人、そして日顕上人。残念な事実ですが。

今回のひごちゃんさんとの対論は、草木成仏の法義である開眼が御本尊に必要か否かというのがテーマです。
つまり開眼について法門・法理での話をしているわけです。にも拘わらず対論のテーマと全く関係ない日精上人等の御歴代の話を始める。これは、自分が回答できないので話題をすり替え論点を拡散させる。ダマシ論法です。うっかりこの話に食いついたらいつの間にか「草木成仏」や「開眼」といった法門から離れ根拠もなにもない創価新報ばりのくっだらない話にどんどんすり替えられてしまします。このように創価が話題を変えようとするのは回答できないからです。今回で言えば鯛焼き君は「草木成仏」の法義を「理解できていない」ということです。彼等は正宗をはじめとする他宗に対抗するロジックが全くないのですよ。インチキ新興宗教の悲しい性といえばそれまでですが、このような時は新しい話題に反応してはいけません。法華講員さんだと御歴代のことを言われるとつい反応してまうの気持ちは分かりますが、冷静に論点となっているテーマだけで責めましょう。

ダマシ話法2「文証出したぞ詐欺」
鯛焼き君は私から文証なければ邪義といわれたのが悔しかったのかひごちゃんとの対論では御書の一節を引用しています。
ところが、彼はその引用した御文に自分の勝手な解釈を付け加えるのです。これは「文証だしたぞ詐欺」で良く創価が使う手口です。一応御書を引用しておけば「文証」を出したと思われがちですが、「文証」とは自分の主張の正当性の裏付けですから、その裏付けとなる御文をまた自分勝手に解釈しては「文証」にならないのです。今回彼が引用した御書を読めば普通の人ならば「書写本尊に開眼不要」とか「木絵二像に御本尊は含まれない」などというは書いていないのです。どうしてもそれを言い張るならば、他の御文を更に文証として挙げるか、「木絵二像には御本尊は含まれない」と直接的書いてある御文を引用すべきなのです。そのような御文を初めて「文証」というのです。御書を引用すればなんでも「文証」になるわけでありません。引用した文証にあれこれ解釈をつけてきたらそれは「文証」になっていないので注意深く観察してください。

ダマシ論法3「デマによる印象操作話法」
いよいよ追い込まれた創価が必ず使うのがこのデマを使った「印象操作話法」です。今回彼は
いかに、あなた(とダメ出しブログの管理人)が表面的な字面でしか御書を読めてないことがよく分かる主張です(笑)仏像=御本尊を見なしてしまう低い境涯を恥じたほうがよろしいでしょう。
とこのような「印象操作」を行っています。我々は仏像=御本尊など一言もいっていない。我々が言っているのは御本尊も仏像に含まれる。ということで「仏像本意」などと言っていないのです。ところが彼はあたかも我々が「仏像が本尊である」と言ってるかの如くご丁寧に「身延(日蓮宗)」とまで書いてデマをかいて印象操作しているわけです。そもそもどんなに初信であっても法華講員が大聖人の曼荼羅本尊以外の仏像・仏絵を本尊であるなどというわけがない。それを承知で鯛焼き君はデマを流し印象操作するわけです。しかもそれを言うための文証に「日蓮正宗」の文書を引用しています。「日蓮正宗」の文書を「文証」として引用するのであれば当方も戸田・池田発言を「文証」にしても良いというこですから、ならば「開眼の重要性」について指導は戸田・池田の指導で腐るほどある。つまり鯛焼きは戸田・池田を「日蓮宗」と批判していることになります。

ダマシ論法4「見てきたようなウソを言う話法」
これはダマシ3の印象操作話法と連動して使う手口です。鯛焼きは次のような発言をしています。
そもそも御本尊様を書写する際にステテコ姿で書いていた法主や(笑)
誰がいつステテコ姿で書写していたのか?かつて創価は「いつ・どこで・だれが」はハッキリしないものは「デマ」「ウソ」の類である。といっていましたが、鯛焼きは「いつ・どこで・だれが」はステテコ姿で本尊書写したのか証明しなければいけません。きっと彼はそれを証明することなどできない。何故なら自分ではそんな姿見ていないからです。このように「見てきたようなウソ」を平気でついてデマを流し人格攻撃に転じるのが創価です。「印象操作」と「デマによる人格攻撃」結局創価との対論は最後はこうなることが多いです。それは創価側が法門・法義では勝てないからです。そうそう、言葉遣いがどうこうとかいうのも法門では勝てないことの裏返しです。そしてそれもまた「印象操作」です。言葉つかいのこと言うならば、日蓮大聖人の四箇の格言なんて酷いもんですよね。(笑)そもそもデマによる印象操作するような人間が言葉つかい云々なんていうのはチャンチャラ可笑しいわけです。

この他にも質問スルー」・「質問返しという詐術もちょいちょい使います。これはよく同時に発動するのですが、こちらの質問に答えずに、質問に対して質問で返す。という術です。このような時は相手が質問に答えるまで何度も同じ質問を繰り返しましょう。(現に今回の鯛焼きくんも当方の質問をいくつかスルーしています)

そんな三流詐欺師・鯛焼き君が出した答えと言うのがまた噴飯もので、
>◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)
こういう事を「開眼」となります。
であれば、御本尊様には「南無妙法蓮華経」と書いてありますね?
なぜ、法主があらためて開眼(何を開眼するのか分かりませんが)をする必要があるのか? まったく答えになってません

だそうです。つまりコイツは「南無妙法蓮華経と書くことが開眼である」といっているわけです。ということはですね。「誰でも好きなモノに南無妙法蓮華経とかけば本尊になる」ということです。自分自身が信じて題目あげてもいいなって思うものに自分で「南無妙法蓮華経」と書けばそれが三大秘法にになるらしいのです(大笑)だったら気持ち悪い創価本尊なんて不要です。自分の好きなモノに「南無妙法蓮華経」と書いて本尊にしましょう。それが三大秘法になるのだから当然創価に入会しなくても創価を退会しても功徳がでて幸福になれるそうですよ。鯛焼き教義は「創価学会に入会しなくても幸福になれる」「創価学会をやめても幸福になれる」らしいですから是非みなさんそうしましょうよ。(片腹痛)早速今夜家に帰ったら好きなモノに「南無妙法蓮華経」とかいて題目三唱いてくださいね。いやはや私も多くの「莫迦活」を見てきまたがここまでのは初めて遭遇しました(笑)
みなさんも、次の創価との対論の時は、創価の「ダマシ論法」に気を付けるのは当然として、
この支部長さんの話を創価活動家に是非教えてあげてください。
私も早速次回の創価対論・創価折伏のときには「現役の創価の支部長は南無妙法蓮華経と書けばなんでも本尊になるって言っていたぞ」と教えてあげようと思っています。これもひごちゃんさんがわざわざ当ブログに鯛焼き君のコメントを転載してれたお陰です。本ブログならば半永久的に今回の鯛焼き発言は保存可能ですから。ひごちゃんさんありがとうございます。


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ひごちゃんさん。こんな感じいいのでは?

ひごちゃんさんが例の鯛焼き君と議論をしているみたい。
私はいまは全く鯛焼き君のブログは読んでいない。
大聖人仏法の根幹である「本門の本尊」について本当に何一つ説明できないような人の我見を読んでも時間の無駄。
根本が分かっていないのに枝葉の話をされても全く興味に値しない。
が、ひごちゃんさんからコメントをもらったのでひごちゃんさんへの返答を書いていたのだが
少し長くなってコメント欄だと読みづらいので記事として書く。
まぁ鯛焼き君の主張なんて記事に上げるレベルではないのだけど(笑い)
以下少し読みづらいだろうけど、コメントの返信として書いたものをコピペした。

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こんにちは。

> 管理人様、この道理のわからん奴に
> 何と言えばよいのでしょうね。
> 草木成仏には開眼供養が必要だと説いているのに、まだ御本尊様に開眼供養は要らないと押し通す。

所詮、己義・邪見の人間ですから何を言っても無駄なんですけどね。まぁ淡々と破折すればいいと思いますよ。

> 私(創価学会)は、「仏像」に開眼供養する意義は認めても、「御本尊」に開眼供養する意義などない、という立場です。
> つまり「仏像」=「御本尊」ではないのです。
> 依文は何度も引いておりますが、富士一跡門徒存知の事
> 「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」

これは釈迦等の仏像・絵像とご本尊を対比しているだけで御本尊が木絵二像ではないと言っているのではないことはこの前文で明らかです。仮にこれを依文としたとしても「御自筆の本尊」と明記されているので書写の本尊は含まれない。つまり「書写の本尊」は「開眼不要」という文証になりえない。逆に観心本尊抄には

◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか

と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。

> 話を戻しますが、ゆえに「草木成仏」「開眼供養」を否定しないことと、
> 御本尊様に「開眼供養」など必要ありません。
> と記事タイトルにしたことは、まったく矛盾しませんし、むしろ当然のことだと考えております。

まずは「草木成仏」と「開眼」を別物だと思っているフシがあるので。「莫~迦」と笑っておく。
で御本尊に開眼不要ならばなぜ大聖人は「草木成仏」の法理を御書にかいたのか?大聖人滅後に書写本尊以外の本尊は「開眼の有無」以前に不要なのだから「開眼しても木絵二像は本尊にならない」とだけ書けば済むのにわざわざ開眼について言及されされたのか?まさか大聖人滅後のおいて御本尊以外の仏像・絵像も開眼すれば本尊になる。というような事は言わなだろう。ならばこのようなご指南(開眼についての方法)をされたのは、ご自身の滅後の書写本尊を念頭にいれていると考える方が道理に合う。また今の創価に「開眼供養」をする場面など実際にはない。それは開眼を否定しているのと同じことではないか。

> >大聖人様がその草木を成仏させるには、開眼供養が必要と説かれたのなら、開眼供養は必要と理解するのが普通ではありませんか
> ここが誤った解釈です。

誤っているのは鯛焼き君の解釈のほうである(笑)

> そもそも「開眼」って何なのでしょう?

◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)

こういう事を「開眼」というのである、創価カラコピにいつ誰が大聖人の魂を移したのか?には無回答か(笑)

> 木絵二像開眼之事
> 「仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は、不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。」とある通りで、
> 仏は三十二相八十種好の色法を備えているが、木絵二像は三十一相までしかない。ゆえに欠けている残り「梵音声」を加えることで三十二相となるが、この「梵音声」を加えることを「開眼」と仰せなのです。
> もちろん「法華経」=「南無妙法蓮華経」と読むのは言うまでもありません。
> このように、不完全な「仏像」に対して「開眼供養」することは理解しますが、翻って「御本尊」に当てはめるのは無理があります。

コイツはちゃんと「木絵二像開眼之事」を読んでいるのか?(嗤)要するに「御本尊は三十二相」が揃っているから開眼の必要がないという主張なんだろうが、

> では、あなたが「御本尊には開眼供養が必要」と言うからには、御本尊に何かが不足しているという認識なのでしょうが、それはいったい何なのですか? 御書に即してお答えください。

この痴れ者が引用した同じ木絵二像開眼之事には

◆但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに

と明確に書いてあるわ(笑)三十二相揃っていても仏にはならないとな。「心」がなければ仏=本尊にはならいのだよ。
そして開眼とはさっき私が引用した通り「ご本仏の心法」を移すことに他ならない。相貌さえ正しければ三十二相が揃っているから開眼はいらない。なんてのは全くもって教義に疎い無知・無教学のヤツの言い草だ。習い損ねの学者とはまさしく創価・鯛焼き君のことだ。
さて、これでも本尊に開眼不要と言うならば「誰が読んでも分かるような文証を出せ」といっておこう。出せなきゃ鯛焼き君の負けだよ(笑)

> >現に草木成仏口決の最後には
> 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、
> 天台妙楽伝教内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて妙法蓮華と云うべきを円頓止観とかへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。」
> >大曼陀羅が草木成仏の究極と説かれておりますよ。
> この御文では「塔婆」を立てて開眼供養する理屈については分かりますが、なぜ「御本尊」を開眼供養するのか?については明確ではありません。
> 「塔婆」も「御本尊」も一緒の扱いで論じている根拠が不明です。

本当に御書を読んでないんだな。草木成仏口決というのはその名の通り「草木成仏」の法義を書かれた御書だ。草木成仏とは非情の成仏の事で、その一例として塔婆について書いてあるだけで「塔婆」の話がメインじゃないことは全文読めばわかることだ。ご都合主義の切文教学?いや御書を悪用する創価らしい言い訳だ。大御本尊も含め全ての御本尊は「非情」でないのか?ならば「御本尊は非情でない」という文証だしてみろよ。

> >最後に、日興上人の御文を出されていましたが、日蓮大聖人様の法門は全て日興上人に受け継がれた訳ですから、
> >日蓮大聖人の本意を説かれるのは当たり前の事です。
> ここは誤解をされているようです。
> 日興上人は大聖人の本意に従っているからこそ、「大聖人の法門では絵像・木像の仏は本尊ではない」と断言されているのです。

ほほ~では、日興上人は先ほど引用した「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」のこの末法初出現の仏像とは「御本尊のことでない」と断言したというこになるがそれでいいのだな。では日興上人は「末法初出現の仏像」とは何の事だといっているのだね?この「仏像」とは釈迦像か?阿弥陀か?薬師か?いったい何をさているのか日興上人の文証を提示して説明してみなよ。
そもそもがさっきも言ったが「富士一跡門徒存知の事」は開眼についてかかれた書ではなく、あくまでも五老僧と日興上人の立場を対比した書なのだよ。そんな御書を引用して「大聖人の法門では絵像・木像の仏は本尊ではない」と断言されている?ってホンモノの莫迦か?しかもオマエが引用した部分のどこで【断言】してるんだ?そうやって嘘ばかりかくんじゃないよ。どこにも「御本尊は木絵二像ではない」などと断言されているところはないではないか(大笑)この御文の全体はこうである。

◆五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。

ほれ、これを通解してみろ。どこに「木絵二像に本尊は含まれない」と断言している箇所がある?この部分はあくまでも「曼荼羅正意」をご指南されているのであって、「御自筆の本尊」との対比の為にこのような表現をしているのに過ぎない事は明白だ。

> にもかかわらず、あなたは「木絵二像」を「本尊」とみなしたうえで「開眼供養が必要」としていますが、これが誤りだということ。

にもかからずオマエは日興上人が「木絵二像を本尊とみなしていない」などという妄想を根本に御本尊に開眼不要などという痴論を言っている。それが誤りであり謗法なのである。

> 「塔婆」の「草木成仏」の原理を用いて、「御本尊」を「草木成仏」させるというのは大聖人の本意ではないのです。


オマエ達創価は塔婆供養を否定してるではないか(笑)「塔婆の草木成仏の原理」ってなんだよ(笑)草木成仏は「塔婆」限定なのか?ならば塔婆を否定しているオマエ達は「草木成仏」も否定していることなるだろ。頭大丈夫か?(大笑)
無理して知ったかぶりするなよ(笑)知らないなら「私は草木成仏がいまいちわかりません」と正直に書けばいいんだよ(笑)
草木成仏が分からないヤツが「開眼」について講釈たれるとは本当に厚顔無恥だな。

まぁ~鯛焼き君にはこんな感じでいいと思いますよ(笑)
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それにしても本当に創価の連中ってこの程度の教学力でよく「日蓮仏法」なんていえるもんだね(哀)
御書を適当に引用すれば「反論」したとでも思ってるのだろうか?(惨)
今回の鯛焼き君は「文証」になるような「御書」を引用していない。
「自分が勝手に解釈」している文が文証になると思っているのだから、鯛焼き君だけにオメデタイ。
木絵二像に御本尊は含まれない。というなら鯛焼き君の解説なしで誰が読んでも「そのように書いてある」文証をだしなさいな。
それが出せなければ鯛焼き君の負けですね。


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セカハジさんのご質問への返信。

先日、セカハジさんからいただいた質問への返事を今日は書こうと思います。
なるべく簡潔に私の思っていることを書きたいと思います。(以下太字はセカハジさんのコメントです)

・日蓮大聖人の仏法のいいところ、(またこれは失礼かもしれませんが)足りないなと思うところってなんでしょうか?
まずはこの質問の答えてとして逆説的になりますが、大聖人仏法のいいところは「足りない所がない」という事です。
大聖人仏法は純円の教えといい「欠けているとこがない」のが大きな特徴です。
様々な角度から言えるのですが、少しだけ書くとまず「法」の側面から言うと「教・行・証」といって
教=仏の教え・行=修行法・証=修行によって出る結果。のこの3つが全てそろっています。末法の現在では「教」のみあって「行」「証」が欠けている教え(法)ばかりですが唯一大聖人仏法はこの「教・行・証」が揃った法です。
そして「人(仏)」の側面から言うと「主・師・親」という3つの徳があるのですがこれは簡単に言うと衆生を救い・守り・導く力です。この3つの力が揃っているのがこれまた末法今時では日蓮大聖人だけです。
そして、この「法」と「人(仏)」は一体でその本体が大御本尊です。ですから大御本尊には全てが揃っているわけです。
そのことを念頭に大聖人仏法の信仰とはどのようなものかというと、念仏のような「絶対他力」ではなく、かといって禅宗のような「絶対自力」でもないとうところです。人生は自力だけでも他力だけでも切り開けない。自他力の双方が揃って初めて成功や幸福を得られるものだと私は感じてます。私はこんな大聖人仏法を「四力本願」の信心と言ってます。その話は過去に書きましたのでそちらを併せて読んでもらえると幸いです。
http://sokadamedasi.blog27.fc2.com/blog-entry-556.htmlhttp://
たゆまず努力する力とその努力が報われる運。この二つを得ることができるのが日蓮大聖人の仏法です。

・創価学会の教義の問題は何でしょうか?
(教学にはまだまだ無知でして、申し訳ないのですが、わかりやすく教えていただけると幸いです。正直なところ、大御本尊については記事を読んでもまったくわかりませんでした)

今の創価の教義は大聖人仏法ではないので創価が大聖人仏法だと言わなければ何の問題もありません。創価がどんな教義を言うと自由です。ただし「仏法」ではありません。誰かが言ってましたが「仏法をベースとした創価(凡夫)の教え」ですから果たしてそれで幸福になるかどうかはわかりません。さてところが創価が卑しくも「日蓮仏法」などと自称しているわけですが、大聖人仏法だというのならば創価の今の教義は全て間違いです。その根本は「戒壇大御本尊を捨てた」ということです。「日蓮仏法」とは、日蓮大聖人を「仏」として立てる仏法の事を言います。そして大聖人を「仏」と立てるのは、大聖人の弟子である日興上人の門流以外にありません。(日興門流とはいうまでもなく日蓮正宗だけなのですが)日興上人は大聖人仏法の一切をただ一人相承したお方ですが
その日興上人に大聖人から授けられた根本の御本尊こそが戒壇大御本尊なのです。ですからコレを捨てるという事は日蓮仏法を捨てるという事になります。また創価は唯授一人血脈も否定しているので日興上人も否定してることになります。大御本尊と血脈相承こそが「日蓮仏法」の根幹ですからそれらを捨てた創価の現在の教義はおよそ「日蓮仏法」などと呼べる代物ではないわけです。創価は自分達の教義変更を懸命に正当化していますが誰一人として創価の現在の教義が正しいという事を論証できまん。日蓮仏法といいながらそれを論証できないわけですから現在の創価の教義は全て自分勝手な教義だということです。自分達で教義を勝手に作りなおかつそれを「日蓮仏法」などいいしかも正当な日興門流の日蓮正宗を誹謗するということが大問題なわけです。

・創価学会に入るメリット、デメリット(信仰上、というより社会的なもの)はなんでしょうか
メリットとしてはとりあえず知り合いが増える、ということですが退会するとなるともう付き合いはほぼなくなります。「裏切りもの」「退転者」と罵られたり「地獄に落ちる」などと言われる場合もあります。また創価以外の人間関係が稀薄になって友達と疎遠になる人が多いです。
あとはヒマつぶしができる。とにかく創価はやることが多いので暇な時間が無くなります。暇つぶしくらいならまだしも貴重な時間も無くなる可能性が高いです。趣味や家庭サービスや仕事上のお付き合いなどは諦めたほうがいいでしょう。
それと少し活動するとすぐに幹部になれるので自分より役職が下の会員に指導をすることができます。ただ自分より上の幹部には逆に訳の分からない不条理な指導をされます。上席の言うこと聞かないと除名になるので気を付けてください。
デメリットは、今書いちゃいましたが「金」「時間」「友人」が減るくらいですかね。たいしたデメリットでもないかもしれません(笑)
ですから創価に入会して幸福感を味わえるのは、友達ができなくで淋しい。仕事や趣味や生き甲斐がなく毎日ヒマで充実できない。会社や社会ではうだつが上がらなくて一度でいいから何かの役職を手にしてみたい。というような人だと思います。実際に私が初めて男子部の会合に参加した時は自分の創価以外の周りの友人たちとは人種が違う人たちの集まりだと感じました。こういっちゃなんでけど友達とか彼女とかできないタイプ。もちろん私自身も友達にはなりたくないタイプが多かったです(全員ではないですがそういうタイプが多かったという感想です)ようするに世間や社会では「何者でもない」「何者にもなれない」「何者かになろうとも思わない」そんな方は、創価に入会するとあっという間に創価の中では「何か」になれる。婦人部さんなんていい例で創価内では「ナントカ部長」なんて呼ばれてる方は創価がなければただの友達がいない淋しいオバサンですからそれは創価の中は楽しくて仕方ないと思いますよ。そういう方ならばきっと創価学会が合っているし、創価で幸福感を感じると思います。
ただそれは「信仰」ではないですね。と言うか今の創価には信仰なんて実際には存在していませんからね。
だからいかなるメリットがあっても創価に入会してはいけないと思います。
信仰と人生・社会は表裏一体なんです。お金や健康みたいに自覚ができないから多くの人は信仰と人生を切り離してしまうのですが実は一体。というのが大聖人仏法です。ですから大聖人仏法に敵対する創価に入会しても百害あっても一利なしです。
友達作って余暇を楽しみたいなら、サークルに入って趣味をみつければいいわけです。
公明党の選挙活動を応援したいのなら創価に入会せずに公明党の党員になるだけで大丈夫です。つまり今の創価のメリットは他に何かで十分代用できる、というより他の何かの方が学会活動より絶対に楽しいと思います。

簡単にかきましたが、創価に入会するかどうかはセカハジさんの自由です。
ただひとつだけ覚えていて欲しいのは「創価学会は日蓮大聖人とは無関係」という事です。
そして大聖人仏法からみれば創価は大謗法の団体である。ということです。
ですから仏法でいう所の「功徳」はなくだた悪業だけを積むことになります。
そこだけ最初に理解していただければあとはご自身の判断ですから無理にとめたりしません。
先ほど書きましたが、人生は誰(何)と出会って誰(何)を選ぶかです。
出会うのは他力であり選ぶのは自力です。
創価と出会い本ブログと出会ったのも他力(運・縁)です。
あとはセカハジさんが自力で取捨選択してください。


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天野達志氏に査問の通知が届いたようです。

創価学会広島県審査会より通知

今日私のツイッターのTLに天野さんに創価本部から査問の通知が届いたというツイートが流れた来た。
とうとうというかやはりとうか、あの人に査問通知が来ない方がおかしいからご本人も想定内だと思う。
上記に天野さんがSNSで公開した創価の通知の画像をリンクしたので良かったら読んでみて欲しい。
天野さんというのは例の沖縄の県知事選で創価の三色旗を持ってデニー候補を支援した人で知っているいる人も多いと思う。
私も天野さんに届いた創価からの通知を読んだが、本当にヒドイ内容だ。
以下強調文少し抜粋する(太字が創価の通知からの引用)

まず最初に、
「当審査会は、貴殿に対する処分の申請を受理しました」
の書き出しで始まるのだが、どこの誰がいつ天野さんを処分するように申請したのかが書かれていない。警察だって被害者が誰なのかくらい教えるし、原告が誰だか知らせないような裁判なんてない。いったい誰が天野さんに対する処分の申請したのか?本当にそんなことを申請した人間がいるのならその人が誰なのか知らせるのが普通だろう。こんなの単に創価学会としてではなくあくまでも会員からの申請があったということにしたいだけだろ。

続いて、「貴殿は、代理人を選任することはできません。また審査手続きは非公開ですので、第三者を同席させることもできません。」
と書いてある。どんな犯罪者であっても弁護士を付ける権利があるのに弁護士どころか誰も連れてくるななんて、いつの時代の話でどこの国の話なんだって。非公開で第三者が同席できなら創価は何でもやりたい放題だし、密室での言動がどうだったのかいくらでも創価のいいように捏造できる。いや最初からそのつもりだからこそ「一人で来い」といっているのはミエミエだ。なんとも薄汚い手口ではないか。
天野さんへの処分内容は当然「除名」なのだが、その理由がつらつらと書いてある。要約すれば「本部の執行部を批判した」もっと簡潔にいえば「執行部に逆らった」から除名にするということだ。それにも関わらず最後に取ってつけたように

「この会の(略)指導に反し」「この会の秩序を乱す行為」「会員としてふさわしくない行為で」かつ「この会もしくは会員に迷惑を及ぼす行為」に該当する

などと書いてある。一体「この会」は何をする会なのか分からない。この会の目的として会則4条には【この会は、日蓮大聖人の仏法の本義に基づき、弘教および儀式行事を行ない、会員の信心の深化、確立をはかることにより、各人が人間革命を成就するとともに、日蓮大聖人の仏法を世界に広宣流布し、もってそれを基調とする世界平和の実現および人類文化の向上に貢献することを目的とする。】と明記されている。であれば、この会の指導とはこの目的に沿ったものを「指導」と呼ぶのであって、それ以外の目的に関するものは「指導」ではないはずだ。目的外のことを強制することは「指導」ではなく「命令」である。命令違反を処分するような組織はおよそ宗教法人として税制優遇を受けるにそれこそ相応しくない。そもそも会員に目的以外のことを「命令」して強制するようなモノを宗教として認めることが大問題だ。
天野さんが批判しているのは公明党とそれを支持している創価執行部である。創価の会則には「公明党を支持しなければならない」ということは書かれていなし、そもそも創価は「政教分離している」と言っているのだから、例え創価が決めた公明党でなくその反対政党を支持したところで何の会則違反にもならない。そして「この会」の目的が選挙ではない以上、天野さんの行動が「この会」の目的から逸脱して、「この会」の秩序を乱し、「この会や会員」に迷惑かけることはありえない。「この会」が選挙を目的とした政治結社であるならば「除名」も妥当だが、「この会」つまり創価学会は「宗教団体」だろ。天野さんの行動が「日蓮大聖人の仏法を広宣流布する」ことや「人間革命」することや「世界平和を実現」することにふさわしくなく迷惑をかける行為なのか処分を申請した人間はそれをまづ論証すべきだろう。というか「この会」の目的からすれば、天野さんへの処分申請は却下しておかしくないはずだ。まぁいずれにせよ、創価なんて警察でも裁判所でも税務署でもない。運営の全てを会員の財務という名の会費でまかなっているのに出頭とは何様だ。「となりの町内会の祭りに行ったから自治会から追い出す」みたいな話で、それならばいままで受け取ってきた会費(財務)を全額返却しろよ。という話だ。以前も書いたが会の目的外での不当な除名処分を受けた会員さんは「財務返還の集団訴訟」を真剣に考えるべきだ。返還されなくても訴訟を起こすだけでも現在の創価の実態を世間に知らしめることができるだろう。

返還訴訟といえば過去に学会員が正宗に正本堂供養の返還訴訟を起こして敗訴したが、それとこれとは話が違うのだ。当時の正宗への供養はあくまでも大御本尊にたいするものであって日蓮正宗に供養したのではない。それはまさしく「供養」と呼べるものであるが、創価の財務はあくまでも「財務」であって実態は「供養」ではなく「会費」だ。正宗から御下付された本尊を使って金を集め実際には職員の給料や本尊と関係のない様々なことに使われている。これを供養とは言わないのである。なので「会費」である以上、一方的に「除名」をするのであれば返還されて当然ではないか。

またこういう話を書くと宗門も大作センセと創価を破門したではないかというヤツもいるが、宗門は創価の政治活動を問題視して破門したわけではない。そもそも宗門は特定政党を支援・支持していない。大作センセの謗法発言から大作センセを総講頭から罷免しただけだ。それなのにその後創価は日蓮正宗の教義の根幹に関わる批判をやめなかったから破門に至ったわけだ。だが今回天野さんは創価の永遠の指導者を批判していない。正宗風に言うとご住職に向かって猊下がいっていることと違うことを言っているではないか。と主張しているだけである。いまだに創価を破門した宗門のことを批判している連中がいるが、同志である天野さんや篠澤さんやその他多くの会員さんを創価執行部は一方的に「除名」にしているのにそれについては誰も何も批判しないのか?オマエラ創価の言うところの「破和合僧」ではないのか?そんな執行部に従順している創価活動家連中も与同罪じゃないのか?宗門には散々言うのになんでこんな理不尽なことが組織で行われているのを平気で見て見ぬふりしていられる神経が俺には理解できない。

天野さんや篠澤さんなんて氷山の一角なんだよ。沖縄では何人も会員さんが会合から締め出されている。沖縄だけじゃない全国で除名や役職停止・活動停止などの処分を受けている会員さんが大勢いる。学会に入会しても選挙は自由だよ。威張るような幹部なんていないよ。一人ひとりを大切にしているよ。なんて書いている学会員のブログやSNSを見かけるがソレ全部嘘だから。実際はご覧のとおり、公明党を応援せず対立候補を応援したら処分。SNSやブログで少しでも執行部を批判したら処分。創価を退会した人間と仲良くしたら処分。自由な投票もできなければ、ブログやSNSさえも好きことは書けなくなる。まさしく「人権無視」「憲法無視」のブラック宗教団体というのが今の創価の実態である。そんな創価からはいっときも早く逃げなければいつどんな罪を着せられて処分されるかわからない。それまで、どれだけ時間と金を創価につぎ込んでもボッタくられた挙句に裏切りもの扱いされてハイそれまでよ。と来たもんだ。今の創価に在籍しているのは、戦争地域に丸腰で旅行しているような危険極まりない行動です。はやく逃げてくてください。
最後に天野さんは「創価奪還」と言ってますけど、創価は「大御本尊」を捨てててからこの数年でこのようにひどい状態になったのは歴史が証明するところです。昔の創価に戻すためには「大御本尊」への信心を戻す以外に根本的な方法はありません。だから今の大御本尊のない創価を奪還しても意味はないと思います。何年かして落ち着いたら自分は何を信じてきたのか何を信じるべきなのかを考えていただきたいと願っています。


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教義論争は無意味なのか。

過日、鯛焼き君ブログを読んだついでに折角なので久々にシニフェイさんの「対話」ブログを読んでみた。
といっても最新記事とコメントを斜め読みしただけなのだが
この度ようやくシニフィエさんが「教義的なことはいわない」ということに気づいたみたい。
ご本人が言うように、興味も知識もない「教学」の話をシニフェイさんや彼のブログの読者の方がしたところでそれこそ無意味というか創価に隙を与えるようなものだからいい判断だと思うね。
鯛焼き支部長さん程度の教学に反論できないのでは、そこからは撤退した方がいいと常々思っていたいたのでシニフェイさんが気づいて良かったよ。ただ少しだけシニフェイさんに言わせてもらいたいのは教義論争が無意味というのは違うと思う。

以下シニフェイさんのブログから引用(太字)
「創価の教義のここがおかしい」と言ったことを伝えることに何の価値もおいてはいませんし、基本的に創価の教義は会員を騙すために適当に捏造したものなので、それに対して日蓮正宗の信者さんもムキになって教義論争をしているのも「何だかなあ」と思います。

かと言って私は日蓮正宗を批判のターゲットにはしません。教義については「何だかなあ」とは思いますが、日蓮正宗が信者を騙してお金を巻き上げていることはないでしょうから、特に批判はしません。批判はしませんが、協力する気もありませんし、何の興味もありません。

よくネット上では創価学会員と日蓮正宗の信者(元学会員)が日蓮の教義についてああだこうだと汚い罵り合いをしているところがありますが、それに何の意味があるのか一度考えたらどうですかと言いたいくらい無意味なことをやっていますよね。単に自分の考えが否定されてお互いに頭にきて喧嘩してるだけです。そう言った意味では創価学会員も日蓮正宗の信者さん(元学会員)も目くそ鼻くそだなと思っています。

まずこのように、正宗を批判する気がないといいながらちょいちょい正宗をDISるような癖は直した方いいと思うけどね。
「ボクは教学に関しては興味も知識もないのでそういった話はしません」でいいと思うのだが、
こうやって軽くDISらずにいられない所がシニフェイさんらしいプライドの高さというかなんというか性格的なものなんだろうね。
それに、誰がシニフェイさんに協力しようといったのかは知りませんが、普通の法華講員ならばシニフェイさんのような無信心かつ無教学の方に協力要請はしないと思われるので安してください。また逆に正宗を批判のターゲットにしてもらっても一向に構いませんよ。無信心で無教学で大御本尊を否定するという意味では、創価学会員もシニフィエさんも目糞鼻糞と私も思っていますから大丈夫です(笑)

さて、DISられた分DISり返したところで(笑)今日のテーマは「教義論争は無意味かどうか」です。
シニフェイさんや彼のブログで退会(覚醒?)した人は結構「教義論争は無意味」っていいますよね。
まぁ、確かに自分達の知らないことを話されても無意味で時間の無駄でしょう。
でもそれはシニフェイさん達にとって無意味なだけなんだよ。
ゴルフをやらない人にゴルフを熱く語っても無意味ですがゴルフ好き同志にとっては意味があるのと同じ。
で、シニフェイさん達がいうところの無意味の理由と言うのは私が理解するところでは
「世間の人はそんな話に興味がないから無意味である」というもの(合ってますかね)
確かにその通りだと私も思うんだけど、それを言っちゃったら世間の人々は「創価学会」になんて興味ないわけですよ。
だからシニフェイさんのブログにも世間の人々は興味などないわけです。
私は人気がない某プロ野球のブログを5年ほど書いるのだが、そのブログは5年ちょっとでアクセス数100万突破しているよ。
それだって別にたいした数じゃなく同じ球団の個人ブログでもっと多くのアクセス集めていブログもたくさんある。
シニフェイさんのブログは創価ブログの中では相当のアクセス数があるのだろうけど
世間一般的には不人気球団の個人ブログ以下のアクセスしかないわけです(笑)
つまり「世間の人が興味が無いから無意味」ならばシニフェイさんのブログだって無意味なんですよ。
まずそこを自覚しましょうや。私はそんなこと百も承知でこのブログを書いてますよ。

私は本ブログを広告収入の小銭稼ぎ目的て書いているわけではないのでアクセス数なんてどうでもいいわけです。
だから世間一般の創価に興味のない人たちに向けて書いているのでもないし世間受けを狙っているわけでもない。
私が本ブログを書いているのは主に学会員さんで信心をしたい人向けに書ているわけです。
教学にも興味ありません日蓮にも興味ありません。だから何も知りませんけど創価は詐欺だと思っています。
という人に書いているわけじゃないのです。
教義論争が無意味だという退会者の方は、結局日蓮仏法には無関心だった元会員さんだろうから教義の話を無意味と思っても仕方ないからそれ自体は否定しない。
でも、本ブログの読者の学会員さんで大御本尊の戻られた方も実際にいますし、本ブログ以外でも「教義的」誤りを指摘するサイトやSNSを経由して創価を退会したり正宗に戻ったりする人も大勢いる。
むしろシニフェイさんのようなスタンスのブログで退会(覚醒)する人の方が少数派ではないかと個人的な体感ではそう感じる。

何故そう思うのかというと私的にはシニフェイさんのロジックには結構無理があると思っているからかな。
多くの人が創価は詐欺だと証言しているからそれは真実である。というロジックは多くの人が創価で功徳の体験を積んでいるからそれは真実である。と言っている創価と同じロジックだろ。つまり自分の主張を「正」というなら創価の主張も認めなければいけない。そうでなければ甚だ不公平で独善的な主張と思わざるを得ない。
またこれでは数の多い方が「正しい」という話になる。ならば100万アクセスソコソコのシニフェイブログの証言よりその何十倍も長く多くの証言のある創価の方が正しいということなる。数的優位を言えば言うほど創価側に軍配が上がる。自分で自分の首を絞めるような行為だと感じる。
確かにシニフェイブログでの皆さんの証言は「真実」で間違いないが、その真実はあくまでも主観的な真実であり客観性に欠ける。
「ジャイアンツが一番ファンが多いのだから球界のルールはジャイアンツが決めるのが当たり前」みたいな言い草に聞こえるんだよね。
それでも何人かは創価を退会(覚醒)するだろうが、そのようなロジックでは創価に到底太刀打ちできないし
何よりも大聖人様はそのようなロジックでの破折はしていない。そのロジックはむしろ創価が好んで使うロジックだよね。

だからなのだ。だからこそ「教義(法門・法義)によって創価を破折しなければならない」のだ。
そもそも大聖人様の破折とは世間なこととか人数の多寡によっていない。
「誰それがこう言っている」ではなく、あくまでも法門・法義によって破折しなければ独りよがりの悪口にしかならない。
創価に所属してても退会してても「教義」に興味のない無信心の人には無意味に映るだろうが、
「信仰」をしている人たちにとってはこの「教義・法門・法義」こそ重要な意味ある事だろう。
私は創価の会員さん達は是非はともかく「信仰心がある」という事を前提とし、良くも悪くも「信仰者である」と信用している。
だから世間話に毛が生えたような話や、創価の犯罪だとか大作センセのスキャンダルとかの罵詈雑言と紙一重の話ではなく、あくまでも法門法義で創価を破折しようと思っている。こうみえても私は創価の会員さんをある程度リスペクトしているつもりだ。
「創価にだったら何を言っても何をしてもいい」みたいな某半島の国のような真似は自分の中ではするつもりはない。
なんにせよ意味があるかないかは他人が決めるもんじゃない。なのでシニフェイさんのブログも意味があると解釈している。
私とはスタンスが合わないが今後は教義論争をやめひたすら彼のやり方で創価を批判していただきたいと思っている。
アンチ創価にもいろいろいるが、「創価は不要」という部分は一致しているのだから。


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創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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