ある男子部のお話

創価が宗門から破門される前の事。
とある20代の男子部が壮年部の幹部に
「折伏とはどうすればできるか?」と質問した。
その質問を受けた壮年部の幹部は
「自分自身を南無妙法蓮華経である。と決めきることだ」と答えた。
それが折伏であり、それ以上でもそれ以下でもない。と。
するとその男子部は
「それなら簡単です」と即座に答えた。
この会話を聞いてみなさんはどう思います?
俺は、この男子部は
よほどの無知(無恥)か
かなり傲慢なヤツかと思った。
いや、無知ゆえの傲慢。傲慢ゆえの無恥。とでもいうべきか。
そもそもこの男子部の信心歴は10年もなく
信心も人生もその体験は極めて少ない。
「自分自身を南無妙法蓮華経と決めきる」
壮年部幹部のこの言葉の重みが本当に分かっていたのだろうか?
「自分自身を南無妙法蓮華経と決めきる」事。
これは折伏のみならず信心そのものの極意であり目的と言ってもいい。
生涯この信心を貫いたとしても果たしてその境涯になれるかわからない。
おれも未だに「自分自身を南無妙法蓮華経である」と
心の底から思えて言えるかと聞かれれば全く自信がない。
もしそう言えるとしたら
自分自身が生涯、大御本尊を信じぬき祈り抜いた時だろう。
生きているうちは無理だと思う。
それを、ハタチそこそこの
信心も人生も未熟な男子部員が
「簡単です」というのだから恐れ入る。
こんなことを平気で言えるのは
よほどのバカか傲慢チキかゴマすりか
いづれにしても、ロクな人間ではないな。と感じた。
もし俺が幹部でこんな男子部員がいたら
その傲慢さを注意するとともに
コイツには信心を続けていいくの無理かも?って思う。
まぁ、その時の壮年部の幹部は
その男子部の答えは聞かなかったことにしたのか
話を続けていたが・・・

果たしてこの時の男子部員のその後はどうなったか?
「自分自身を南無妙法蓮華経と決め切った」ようで
いつのまには「自分自身がご本仏」と思い込んでしまった。
結果、大御本尊を捨てた。
それだけでなく、多くの会員にも大御本尊を捨てさせて
自分を広宣流布の指導者と言わせ
「先生」などと会員に呼ばれ我が世の春を謳歌していたが
どうやら、いまではボケ老人と化してというもっぱらの噂である。
そう、あの無知で傲慢な若者こそ
若き日の大作センセであり
その大作センセの質問に答えていた壮年部の幹部は
在りし日の戸田先生である。
戸田先生は自分の信心の究極である
「自身を南無妙法蓮華経であるときめきる」という指導に
「それなら簡単です」と答えた大作センセをどう思っていたのだろうか?
自分の究竟の悟りとも言える指導を
聞いただけ簡単に分かった。という若者を
「なんと頼もしい男だろう」と思ったのか
「なにもわかってないクソガキが簡単に分かったと言ってんじゃね~よ」と思ったのか
それは戸田先生のみぞ知るところだが
どちらにしても大作センセには戸
田先生の指導が理解できていなかった。
それだけは事実だと思う。

この話を聞いて
「さすがは池田センセは俺たちとは境涯が違う」
と思ったそこの創価カツドウカさん
ご愁傷様です。

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「僧侶は死ね」とでも?

今日はお彼岸の中日。
関東地方は暖かく絶好のお墓参り日和だった。
わが母は今年は塔婆供養ができるようになり
菩提寺で喜んで塔婆供養をしてもらったと言っていた。
創価では塔婆は不要って言われておしまいだから
母も塔婆供養がすることができて良かったと思う。
創価の「塔婆不要論」ついてはさておき
創価では「塔婆供養」をはじめ
葬儀も戒名も法事も、
なんでもかんでも「坊主の金儲けの手段」といって糾弾する。
なんですかね?この糾弾の仕方は?
僧侶がお金をもらってはいけないのか?
僧侶はボランティアなのか?
いくら徳を積んだ僧侶でも生身の人間である以上
カスミを食って生きていけない。
その僧侶が対価をもらえる行為はかなり限定的でそんなに選択肢はない。
前述した、「塔婆」「葬儀」「法事」
それに墓苑でも自前で持っていればその管理費。
それらは創価活動家からすれば
全部「金儲け」だから「全部悪」という事になる。
もちろん、神社や神主だって同じで
地鎮祭だのおみくじや破魔矢・お守りに絵馬などなど
全部「金儲けの手段」で「悪」である。
(創価バリ活は神社なんて端から行かないだろうが)
僧侶や神主がもらっていいのはどんな名目の金銭なんだろ。
多分もらっていいお金なんてないんじゃないか?
だとしたら創価は「僧侶は死ね」と言ってるのと同じである。
俺の知り合いのある寺の二代目は
自分の寺に檀徒がほとんどいなくなり
いまでは同列の他の寺院にアルバイトに行っているが
なんともやりきれない気分とともに
これが「末法」ってやつなのかなとも思う。

そういう反面で、そうかの連中は
自分たちは「金儲け」をしてるわけだ。
しかも、塔婆や葬儀・法事という仏事よりも
さらに仏教の本義に関係ない事で「金儲け」をしてるのだ。
聖教新聞だの大作センセの書籍だの民音だの
そして財務というの名の、
寄付とも会費ともわからない名目不明の集金をする。
僧侶は「塔婆」もダメだけど
在家なら「なんでもOK」って
一体どういう理屈でそうなるんですかね。
創価が税金でも払っているってんだったまだしも
正宗も創価も同じ「宗教団体」じゃない。
「金儲けの手段」って・・・お前らの方がもっとヒデェじゃん。
「在家」の教団が肥えて在家の職業宗教家が贅沢して
僧侶には「質素」とか「清貧」を要求する。
僧も俗も同じ。って言っているくせに
創価って奴らってのはとんでもないね。

今回、母が塔婆供養して思ったんだけど
正宗の塔婆供養って本当に安いよ。
母の今回の塔婆供養は2000円だったそうだ。
因みに嫁の実家の菩提寺の曹洞宗の寺は
塔婆1本8000円らしい。
また友人の実家は天台宗の寺らしいがこちらは
塔婆1本6000円だそうだ。
俺もいままで「塔婆供養」の値段は知らなかったが
他宗と比べると正宗の塔婆供養の金額は破格だと思う。
2000円っていう金額を他のモノに換算すると・・・
そう。あれだ。
聖教新聞1カ月の購読料とほぼ同じ金額だ。
春秋のお彼岸にお盆、そして両親の祥月命日に塔婆をたてても
年間5回で1万円。
聖教新聞は1年購読すると約24000円。
これで「坊主丸儲け」などと創価にいわれちゃうんだから
正宗のご僧侶もご苦労な事である。
むしろ「創価丸儲け」と言いたくなると思う。
まぁ、お金の価値観はひとそれぞれだが
個人的には、ゴミにしかならい創価の社内報を1年購読するなら
お彼岸やお盆に塔婆を立て方が気持ちがいいと思う。
母のスッキリ感も理解できる。
創価としたら「坊主はカスミでもくらってやがれ。ダメだなら死しまえ」
って事なんだろうけどね。
だって「僧侶」は創価の商売敵だから。
とくに日蓮正宗は。
正宗から僧侶がいなくなれば
自分たちがますます儲かるからな。


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無宗教信仰

「無宗教」の比率が日本は過半数を超えているらしい。
世界ではこうした国は、日本を含め中国や北朝鮮など6カ国程だとか。
また世界人口のうちの「無宗教」というのは
15%くらいらしく、「無宗教」という人は世界的は少数派のようだ。
そんな日本人は無信仰なのか?ときかれればそうではないと思う。
初詣やお墓参り盆や彼岸
また各地で行われている祭りの類
昔よりもそうした儀式的なことは少なくなったがなくなっていない。
ずっと昔からやっていたことが未だになくなっていない。
そう考えると日本人は信仰深い民族だと思う。
上記に挙げた宗教的儀式を宗教だと思っていないでけで
「無宗教」というのは一種の信仰だと思っている。
「無宗教」とは「何も信じない」
「何にも祈らない」「何にも願わない」というでなく
「なんでも信じる」「何にでも祈る」という信仰で
それは日本古来の八百万の神信仰の進化系だと思う。
創価はもとより宗教団体から離れる多くの人が
「無宗教」を名乗るもよく理解できる。
宗教とは全て自身の宗派の教義を正しいと主張する。
これは信仰の純粋性であり、
布教とともに信仰の根幹である。
そこに疲れてれれば
「何でも信じて」「布教もしない」という
方向にいくのは当然のことである。
ただやはり人間というのは「信仰心」まで捨てられない。
生まれてこの方ただの一度も
何かに祈ったり。願ったりしたことのない人はそうはいないと思う。
子供の頃何か怖いことがあったりすすると「助けて」と誰にとなく祈ってみたり
高校野球で負けているチームの応援団が手を組んで何かに祈っていたり
「祈り」とはそもそもそういうもであり
だからこそ「人間」だけが信仰を持つ。

宗教者から見れば「なんでもかんでも信じる」ことは信じられないし
無宗教者からみれば「たった一つの事を信じる」ことが信じられない
宗教者からみれば「絶対自力」なんて信用できないし
無宗教者からみれば「他力本願」と見えるのだろう
ただ結局は「何かを信じる」ということに代わりない。
それなのに、宗教者は無宗教者を必要以上に侮り
無宗教者もまた宗教者を必要以上に嘲笑う
そうした人たちを見ていると
なんだか可笑しくなってくる。
宗教者がそんなに偉いのか?
無宗教者がそんなに偉いのか?
どっちも変わんね~よって思う。
大切なのは自分自身が自立出来てるかどうかだよ。
宗教というのは自立するためのものであって
依存するためのものじゃない。
創価のインチキなところはそこにある。
そもそも大聖人仏法は一人の人間を自立させる教えだ。
それも「絶対自力」でもなく「絶対他力」でもなくだ。
ところが創価は会員から自立を奪い依存させる方に仕向ける。
そしてそれを「日蓮仏法」というわけだ。
これが一番の詐欺なのである。
なのでそこから抜け出した人々はある意味「自立」することができたと言える。
あとは自分自身が、宗教を続けるか
無宗教を選択するか決めればいいことだ。
無宗教を蔑む宗教者や
宗教者を嘲笑する無宗教者は
まだまだ途中だなって思う。
自分の主張を語ることはいいことだ。
ただ無駄に蔑んだり嘲笑することしかできないのはどうなんだろうね。
自立できない創価バリ活さんに多いタイプなんだけどね。
無宗教者から宗教者になるにせよ
宗教者から無宗教者になるにせよ
人は何かを信じて生きていくわけだから
自分の信じるモノは自分で決めたいもんだね。

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真実の覚醒の時

創価のMC・詐欺に気づき創価から離れることを
ネットでは「覚醒」と呼ぶ人達がいるようで
「覚醒」とは言い得て妙でなかなかいい表現だと思う。
この覚醒者の皆さんは大きく分けて二通りのよう。
一つは、俺のように「創価はやめても信心はやめない」タイプと
もう一つは「創価と一緒に信心もやめる」というタイプ。
ネット上でも、またリアルにおいてても
どちらかというと「創価と一緒に信心もやめる」
という道を選択する覚醒者さんの方が多数派だと感じる。
今日、そんな多数派の覚醒者の一人と少し話したんだけど
その彼が言うには俺のように「創価はやめても信心を続ける」タイプは
まだ「完全に覚醒していない」状態だそうだ。
ネットなどにも似たような事をいう覚醒者の人がいるが
そう言われれば、お言葉を返すようでだが
むしろ「創価も信心もやめてしまう」方が
まだ創価に騙されて続けいるんだなぁって感じてしまうんだよね。

まぁ、創価をヤメたことはいいことなんでけど
信心まで止めてしまう。もったいないあぁ
信心を止めるだかならまだしも
大聖人仏法まで創価の一部として批判する人(今日の友人がそうだった)を見ると、
創価の本当の部分の騙しに気づいていない。と思うし
これが創価の詐欺の二次被害だと思う。
そう思うとやはり創価学会という存在は「絶対悪」だと思うね。

創価と一緒に信心もやめて、
さらに大聖人仏法も否定する醒者さんが異口同音に言うには、
「紙に字を書いたもの(本尊)に祈ったところで功徳などあるわけない」
「紙に字を書いたもの(本尊)など捨てても罰なんて当たらない」
って事なんだけど、言ってることは間違っていない。
創価の本尊なんて、まさに「紙に字をコピー」した「モノ」でしかなく
そんな「コピー用紙」にいくら祈ったところで功徳なんて出ないし
そんな「コピー用紙」なんていつゴミ箱に捨てようが罰なんてでない。
そんなものが出るほうがおかしい。
それを「功徳」だの「罰」だのと言って
会員から金や時間、さらには友人や恋人まで奪う創価は
「詐欺団体」であることは間違いない。

でもね、創価が「極悪」であるのは
こうした詐欺行為をするからではなんだ。
「詐欺行為」なんての「悪党」レベルの話で「極悪」じゃぁない。
創価の悪の根本は「詐欺行為」でなく
「謗法行為」にある。
現役の会員のみならず、
覚醒した元会員さんにも「謗法行為」をさせる。
これこそが創価が「極悪」である所以だ。
創価の詐欺で奪い取られるモノよりも
創価にさせられた謗法で失うモノの大きい。
「創価は詐欺団体」これはすぐに看破できるだろう。
でも「創価は謗法団体」って気づくのなかなか難儀である。
そこに気がつくのが「覚醒」というのではないかと思う。

創価の本尊で「功徳」が出なかったのは、
本尊のせいでなく創価の信心のせい。
創価の本尊を捨てても罰がでないのは
本尊のせいでなく創価の信心のせい。
創価のいう信心が間違っているから
創価の本尊は功徳も罰もでない「ただのコピー用紙」にしかならないわけだ。
つまり、今日の友人のようなタイプの覚醒者さんは
創価の詐欺には気づいたけど創価の謗法には気がつかないままでいるわけで
ザックリ言うと、創価をやめてなお創価に騙され続けている。と感じる。
「創価で教えてもらった信心とは大聖人の仏法ではない」
そこに気がつかないまま
「創価の教え」=「大聖人仏法」と信じ込んじゃっている。
だから、「アンチ創価」=「アンチ日蓮」になっちゃう。
そういう覚醒者さんは多いと思う。
いつも書いているが正しい信心(大本尊に信をとる)をすれば
創価の本尊であっても「功徳」も「罰」もでる。
逆に正宗の本尊であっても間違った信心なら
覚醒者さんたちがいうように「紙に字をコピーしただけのモノ」でしかない。
日顕前法主憎さに大聖人を捨ててしまった創価と
創価憎さに大聖人を捨ててしまう覚醒者さん達。
こんな言い方をすると腹がたつと思うが
仏法の立場で見てみると、「同じ」カテゴリーなんだよな。
本人は創価をやめて覚醒したと思っているので
結果は創価と同じカテゴリー。
いまだに「創価宗」「池田教」から
心は抜け出せてはいないように見える。
創価をやめることで「詐欺」から身を守り
「詐欺」の片棒を担ぐことはなくなったのだから
それはそれで非常にいいことだし喜ばしいことなんだけど
度が過ぎて「大聖人」まで批判・非難の対象にしてしまうと
創価と同じ「謗法」になり「謗法」の片棒を担ぐことになると思う。

まぁ、「もう信心は懲り懲り」って気持ちもよくわかる。
俺の男子部時代に組織を追放された時に
心底「組織信心」なんて真っ平ゴメン。と思ったし。
だから、もったいないけど「無理」に信心を続けることもないだろう。
いやいや勤行・唱題をしたところで何の意味もないし。
だた「大聖人批判」まで行ってしまうのは賛成できない。
「もったいない」を通り越してしまうから。
創価に言われるまま、色々な活動をしたきただろうけど
御本尊にあげた題目だけは創価関係なく個人の信心だ。
それが実であれ不実であれその題目の分は福運が積まれたことは間違いない。
それを「大聖人批判」で消してしまうどころがマイナスにしてしまうのは馬鹿らしいと思う。
ていうか、創価をやめた今「大聖人批判」をする意味もないし
「大聖人の批判」をしたところで覚醒者が増える事もない。
だからいたずらに創価同様の謗法を犯す必要もないんじゃないか?

創価からの覚醒者さんの多くは
「まだ本当の日蓮仏法を試したことのない人達」なんだよ。
今後、本当の大聖人仏法を試すか試さないかはわからない。
また、大聖人仏法を信仰しようと批判しようと
それは個人の自由であることは言うまでもないが
どちらにしても「創価の教え」から離れて欲しいと思う。
「日蓮大聖人」と「創価宗」「池田教」は無関係である。と認識して欲しい。
その時が真実の覚醒の時なんじゃないだろうか。

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創価の何に騙されたのだろう?

創価を退会した多くの人たちが
「創価に騙されていた」と口にするのだが
俺には「騙されていた」という感覚が少し分からない。
というか「騙されていた」とは思わない。
「騙されていた」というよりも
「裏切られた」という感想かなぁ。
「どっちでも同じじゃないか」と言われれば
確かにそうなのかもしれないが
俺の中では「騙されていた」と「裏切られた」というのは
少しニュアンスが違う。
俺もバリ活時代には、弘教も新聞啓蒙も
選挙も(これはあまり好きじゃなかった)
財務も当然したが「騙された」とはいまでも思わない。
そもそも創価の活動は、創価を拡大するためにしていないし
創価の為にやっているという気持ちはほとんどなかった。
自分の周囲の会員さんにも
「学会活動は信心の枝葉であって信心の根幹じゃない」と言い続けていた.
俺が創価の活動をしていたのは
あくまでも大聖人仏法の信仰者として
大聖人仏法を広めるための手段として活動してたってのが正直なところ。
もちろん、そうすることによって
自身の宿命転換を成し得て一生成仏すること願っていた。

当時の全国男子部長のS藤は広宣部の会合で
「大御本尊を我らの手に取り戻す」と言い切った。
また地元の幹部たちも
「大御本尊を宗門から取り戻す」と
異口同音に言っていた。
だから俺は創価の活動をすれば
どんな形になるかわからないが
いつか自分も含め全学会員が
大御本尊様にお目通りが叶う日が来る。
その言葉を信じ夢見て
創価の活動をし財務もした。
それは、創価に対する供養でなく
あくまでも大御本尊にご供養をしたものだと思っている。
その供養を創価がどう使ったかはしれないが
もしも大御本尊様以外のことに使ってしまったならば
「罰」を受けるのはソイツの方で俺ではない。
だから「騙された」感は、全くと言っていいくらいない。

仮に学会活動に使った時間や財務で出したお金
そういうものが「騙し取られた」モノだとしても、
ご本尊に向かい勤行・題目を申し上げ
様々な苦悩を題目に乗せて祈ったこと。
これは創価に「騙されて」祈ったのか?
といえばそれだけは断じてない。
全て自分が御本尊に聞いて欲しくて上げた題目だし
自分が「祈らざるを得なく」て祈った祈りだ。
創価に「騙された」ほかの会員さんはどうなのだろう?
どうやって「騙されたら」心の底から「祈る」ことができるのだろう?
「祈り」とは本来、自分の心・一念が凝縮された行為であって
「誰かに何かを言われた」からするような行為ではないと思う。
だとしたら少なくても「祈り」(題目)は
「騙されて」使ってしまった時間ではないし
それは創価でなく「御本尊」に
ご供養したという行為なんじゃないかと思う。
だから俺は思うんだうよね
創価は「騙した」のではなく
「裏切った」のだと。
俺は「騙された」ではなく
「裏切られた」のだと。
結果は同じなんだろうけどニュアンスがちょっと違うかなって。

でも今の創価はダメだよ。
完全に最初から「騙し」にかかっているかね。
大聖人を末法のご本仏と仰いでいながら
大御本尊を受持の対象にしない。
しかも今では「創価学会仏」なんて言い出している。
これは、明らかに「騙し」
大聖人仏法でないモノを
大聖人仏法と言って時点で「詐欺」
こんな分かりやすい詐欺をしている
今の創価に騙される要素はないと思うのだが
引っかかっている人が大勢いるんだよな。
そんな現状を見ていると
多くのアンチが語るように
学会活動家ってのはやはり思考停止してるんだろうね。
そして思考停止させることがMCの基本なんだろうな。
やはり、何でもそうだけど
「自分で学ぶ」ってことは大切だよね。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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