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勤行・唱題は総体の修行という話。

以前の記事に「勤行・唱題は総体の修行です」と書きましたが、今日はその話をしたいと思います。「総体の受持・別体の受持」とかいう小難しい話しじゃなくてもっと身近な話です。私達法華講員の修行と言ったら、「勤行唱題・折伏・ご供養・登山(参詣)」ですが、勤行唱題には折伏・ご供養・登山(参詣)の意義がすべて含まれています。私は勤行唱題は総体の修行であり、折伏・ご供養・登山(参詣)は別体の修行と捉えています。ですから勤行唱題は基本中の基本だと思っています。どういうことかといえば、まず折伏ですが、日寛上人の「如説修行抄」文段の中のご指南に、
◆常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わざれば、心が謗法に同ずるなり。口に折伏を言わざれば、口が謗法に同ずるなり。手に数珠を持ちて本尊に向わざれば、身が謗法に同ずるなり。故に法華本門の本尊を念じ、本門寿量の本尊に向い、口に法華本門寿量文底下種・事の一念三千の南無妙法蓮華経と唱うる時は、身口意の三業に折伏を行ずる者なり。
とあります。数珠を手にかけ御本尊に向かい、戒壇大御本尊(法華本門の本尊)を念じ勤行唱題をしている時は、我が身の身口意の三業を折伏しているのです。他者に向かって折伏をするのに自分自身が謗法であっては折伏成就などするわけありません。折伏成就の第一歩は自分自身への折伏であり、それが勤行唱題ですから勤行唱題は「折伏」の修行なのです。

次の同じく日寛上人の「妙法曼荼羅供養抄」の文段の中に、
◆心に本尊を信ずるは意業供養なり。口に妙法を唱うるは口業供養なり。身に曼陀羅を礼するは身業供養なり
とのご指南があります。大御本尊を信じ、御本尊に向かい勤行唱題を申しあげることは、全て身口意三業でご本仏日蓮大聖人へのご供養になるのです。いわゆる「法供養」というご供養です。ご供養したくても金銭的に苦しい時もありご供養できない自分を恥じ入ることも有るかもしれませんが決して恥じることはありません。日々の勤行・唱題は立派なご供養になっているのです。

そして最後に登山(参詣)ですが。これは大聖人の御書の中に、
◆我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事うれしとも申す計り無し申す計り無し(最蓮房御返事)
との御妙判の通りです。ここでは「天竺の霊山」とありますが、末法の霊山・寂光土とはご本仏・日蓮大聖人=戒壇大御本尊のおわします大石寺です。私達が勤行唱題をしているその時は、まさに一歩も動かずして戒壇大御本尊の許へ参詣しているのと同じなんですね。ちゃんと勤行唱題をしていれば、毎日朝晩2回私達は登山(参詣)をしていることになるのです。このように勤行・唱題の修行には、「折伏・ご供養・登山(参詣)」の全ての修行の意義が備わっています。創価時代にもよく聞いた話ですが「自分はいま祈ることがないのであまり題目があがらない」などという人がいます。悩みや目標がないから題目が上がらないという人は勤行・唱題が総体の修行だと分かっていない人なんですね。自分の「お願いばかり」してるだけなんです。苦しいときの神頼みと変わりません。それは大聖人の仏法ではないですね。もちろん、悩みや目標があればいくらでもお願いしてもいいです。でも「祈ることが無いから唱題が上がらない」というのは間違いです。そうい時は、1篇の唱題がご供養になっている、登山になっている。折伏になっていると思って勤行・唱題をするのです。勤行・唱題するときに「今から参詣するわ」「今から折伏するわ」「いまからご供養するわ」っていう気持ちで自宅の御仏壇の前に座ると勤行・唱題も楽しくなり、むしろ時間があるのに唱題しないのは勿体ないって思うようになりますよ。これは私の経験上の話ですけど多分みなさんもそう思うようになると思います。そんなわけで勤行・唱題は総体の修行であるという話をしましたが、勤行・唱題の総体の修行をしてれば、折伏・ご供養・登山(参詣)は免除になる(笑)なんてズルい考えはダメですよ。別体の修行も出来る限り頑張ってください。その上で「登山できない」「折伏できない」「ご供養できない」状況にあっても勤行・唱題の総体の修行を実践すれば必ず登山も折伏もご供養もできるような境涯になりますから別体の修行が今できなくても卑屈になる必要はないということです。
◆かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ(日寛上人・松任治兵衛殿御返事)


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創価の家族・親族への折伏

仲の良い創価の後輩夫婦がいてずっと折伏しているんだけど、なかなか進展しない。特に熱心に学会活動をしているわけじゃないけど結局最後は親や兄弟が学会員なので自分が法華講になって家族や親戚とモメるのがイヤという話になる。一方で家族や親戚が創価でも創価を辞めて大御本尊の許に戻る方も本ブログの読者の方にも大勢います。私もそうなんですが私の子供と兄弟を比較的スンナリ勧戒を受けさせることができたのは彼らが学会活動などしない「なんちゃって」だったからです。これが家族・親族がバリカツ創価幹部だったらそうスンナリとはいきませんよね。創価の謗法を話しても聞いてくれないとか怒り出すとか、中には創価の謗法話をすることもできないで家族に内緒でこっそりと法華講に移籍した人もいるでしょう。創価の謗法を知ってしまった我が身としては、愛する家族や親族を一日も早く創価から救い出し大聖人様の許へ連れ戻したいと思う気持ちは痛いほど分かります。とは言っても焦ったところで事態は直ぐには良くなりませんので、ここはじっくりと腰を落ち着けていく以外にはありません。さて、家族や親族への折伏について日有上人は化義抄のなかで次のようにご指南されています。

◇謗法の妻子眷属をば連々教化すべし・上代は三年を限って教化して叶はずは中を違ふべく候けれども、末代なる故に人の機も下機なれば・五年十年も教化して彼謗法の処を折伏して同ぜざる時は正法信に失無し折伏せざる時は同罪たる条分明なり云云。
要約すると、上代(大聖人や日興上人の時代)では3年間折伏をして相手が信心をしないようであれば、その妻子眷属とは縁を切ると指導されていましたが現在は5年・10年と妻子眷属の謗法を折伏してそれでも相手が変わらなければ、こちら側に謗法与同罪の罪にはならない。折伏しないと与同罪になる。ということです。この御文を日亨上人が次のように註解しています。

◇宗門の信者たる者の妻又は子女其他一家を成す兄弟姉妹等の一族中に無信仰の者あらば間断なく種々の手段を尽くして教化すべし、二祖三祖等の往昔の掟には謗法の眷属には三箇年間・連々と教訓しても・此を用ひずば止を得ず妻は離別し子は勘当し其他の者には絶縁して親族の交際を断つべしとの厳誡なるも・爾来星霜推し移りて漸次に澆季薄信の時機となるが故に・当節にては三年と限らず五年も十年も根気よく彼等の謗法を折伏して猶此教化に従はざるときは・信者として充分の手段を尽したる事なれば仮令教化の効は無かりしにもせよ、教化者の信者の罪とはなるべからず、此に反して妻子眷属の謗法を世間一旦の慈愛に溺れて厳重に折伏せず或は教訓折檻を加ふる事ありとも型式一辺にして厳格の処置を為すの勇気なき者は仮令自己は型式の礼拝読経等を怠らぬにもせよ妻子の謗法と同罪たるべし。
この日亨上人の御指南に書かれているように、5年でも10年でも「根気よく折伏教化」をしていくことが創価の家族や親族に対する折伏の姿勢なのです。確かに「一日も早く」と思う気持ちは大切ですけどこればかりは相手のある事だからどうなるかわからない。ですから「慌てず・焦らず・諦めず」という気持ちで妻子眷属に対して折伏教化をしていきましょう。妻子眷属と信心の話が出来る人はじっくりと信心の話をしてください。いきなり「創価は謗法だから退会しろ」なんていっても逆効果ですからね。一番最初に創価の謗法話をして相手の出方をみて相手が怒ったり反発したりしたら、じっくり大聖人仏法の法門法義や御書を聞いてもらえばいいのです。またいまは家族に法華講に移籍したことを内緒にしなくてはいけない状況の人も嘆いたり諦めたりせずに大御本尊に祈り続ければ必ず話ができる時が訪れますからその日が来るのを楽しみに唱題すればいいのです。因みに私の後輩のO君も勧戒を受けたことを同居している母親に内緒にしていましたが昨年母親にその事実を打ち明けることができ1歩前進しました。もちろんすぐに折伏教化できる妻子眷属については一日も早く勧戒・ご受戒を受けさせることが大切ですけど現在創価で活動・幹部をやっている妻子眷属についてはとにかく5年かかろうが10年かかろうが構わないという長期戦で折伏教化を進めていきましょう。一番いけないのは、日亨上人が言われている、【世間一旦の慈愛に溺れて厳重に折伏せず或は教訓折檻を加ふる事ありとも型式一辺にして厳格の処置を為すの勇気なき】ような態度で妻子眷属に対して折伏教化をしないこと。或いは形式的な上辺だけの話をしても妻子眷属に対する折伏教化を真剣に祈らないことです。そのような信心では妻子眷属をすくえないばかりか、自分も折角大聖人の正法に戻って修行をしても謗法の妻子眷属と与同罪になってしまいます。創価の妻子眷属を持つ法華講員さんは本当に苦労が多いと思いますが5年・10年と祈り折伏教化を続ければ必ず変わりますから頑張りましょう。私も今度は妻の番と思っているのですがこれがなかなか手強い相手(笑)で苦戦していますが頑張りたいと思います。


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驕慢謗法の話。

過日、小野塚さんがコメントに増上慢の事を書いてくれたので今日は「驕慢謗法」について書いてみたいと思います。「慢」というと経典によって七慢・八慢・九慢と諸説ありますが内容は大体似ています。増上慢はそのうちの七慢と八慢に書かれいます。言葉的に分かりやすいのは八慢ですかね。名目だけ挙げると【慢・大慢・慢慢・我慢・増上慢・不如慢・邪慢・倣慢】の8個の慢になります。増上慢は【悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思い、おごり高ぶる】事をいいます。さてこれらの「慢」は全て「驕慢謗法」となります。「松野殿御返事」に有名な十四誹謗が書かれています。
◆悪の因に十四あり。一に憍慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり
この十四誹謗(謗法)の一番最初に書かれているのが「驕慢謗法」になります。このうちの謗法の根本は何かというとこれは門外と門内の二筋があると思います。
◆十四誹謗も不信を以て体と為せり(念仏無間地獄抄)
まず「不信」が謗法の根本であると大聖人は言われていますが、これはあくまでも「門外の人」つまり大聖人の仏法を信じられない信心をしていない人の場合です。大聖人の仏法を信仰している「門内の人」は「不信」ではありませんから十四誹謗を犯す根本は「不信謗法」ではありません。信心をしている人間にとって一番気を付けるべきは「驕慢謗法」であり、この「驕慢謗法」が原因で他の13の誹謗を犯すわけです。池田創価も昔は大御本尊を信じていたけど今は大御本尊を捨てた。その根本原因は池田大作の「驕慢謗法」にあります。そこからどんどん十四誹謗を広げていき最後は「不信謗法」となり大謗法団体となったのが今の創価です。今の学会員はもはや「不信の門外漢」なわけですから学会員さんで正しい大聖人仏法を志すのであればまずは戒壇大御本尊へ信を取り不信謗法を払しょくすることが基本になります。さて、我々法華講員にとっても池田創価は他山の石ではりません。「驕慢謗法」は信心をしている人間が誰しも陥る可能性のある謗法です。これを放置すれば自分もいつ池田創価のような大謗法者になるかもしれません。
◆皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養をもなさず自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし(新池御書)
と大聖人が言われています。大聖人のご在世ですら増上慢になる信徒が数多現れたのです。現代は当時よりも衆生の機根は下がりましたが教育により標準的な知的レベルがあがりましたので驕慢謗法を容易く犯しやすい環境であると思われるので注意が必要です。では、池田創価や浅井顕正などの二の舞にならず驕慢謗法にならない方法とは何でしょうか?それは上記の御文の次下で大聖人がご指南してくださっています。曰く、
◆何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心の歩を運ぶべし。
ということです。【此の経の心をしれる僧に近く】とは具体的にはどういうことかというと、まずは寺院参詣をするということが一番直接的で分かりやすいと思います。所属寺院の御講に参詣してご住職の法話を聞いたりすることですね。それ以外の間接的な方法としては、御書や日如猊下・ご歴代上人の書籍をも読むことも【此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞】することになるでしょう。そして誰よりもこの経の心を知る僧である日蓮大聖人に近づく事。つまり登山して戒壇大御本尊にお目通りすることが大切だと思います。もちろん自宅での勤行唱題も日蓮大聖人に近づくことです。法華講員としては当たり前の日常的なことばかりですが、これが信心を長く続けるうちにできなくなる。そこから驕慢になりやがて十四誹謗をコンプリートした大謗法になってします。だから大聖人は【何としても】【経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞】しなさいと言われているわけですね。ともあれ驕慢謗法、なかんずく増上慢にならないように気を付けたいと思います。ただし創価や顕正と言った謗法異流儀を破折するときは大上段からの上から目線でこれでもかと言うくらい思い切り破折しましょう。
◆我が言は大慢に似たれども仏記を扶け如来の実語を顕さんが為なり(顕仏未来記)
◆されば現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳なりけるか(撰時抄)
と大聖人が仰せのように、極悪の大謗法を破折するのは「大慢」のように見えたとしてもそれは「大正義」ですから。


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宗教と信仰と哲学

信心の話をしていると時折「宗教と信仰は違うのか?」というような話題になる事がある。「同じ」という意見もあれば「違う」という意見もあるが俺手には「似て非なるモノ」つまり宗教と信仰とは「何かを信じる」という意味においては同じだけど狭義においては全く違うと思う。「宗教」の「宗」の文字には「根本」とか「中心」という意味があるが具体的に宗教の宗つまり根本とか中心とは何だろうか?と考えた時にこれは「本尊」であると言える。宗教の宗とは具体的には「本尊」であって、その本尊の教え・説明が「教」ということだと思う。「宗教」とは「本尊」がまずあってそしてその「本尊の教え」がある信仰のことを「宗教」と呼ぶのだと思う。それに対し宗教以外の信仰は「本尊」がない。本尊が無いから「教え」もない。ただ祈り或いは祈りに相当する行儀があるだけの行為。それが「信仰」だと思う。また逆に「本尊」もないし行もなく「教え」だけというのが「哲学」という存在であると思う。例えば「幸福になる」ことを目的とした場合、ただの信仰は幸福になるための行儀(行動)はあっても、幸福になれるという理論的な説明ができない。例えば「トイレをきれいに掃除するとお金に困らない」とか「引き寄せの法則」などは全く理論的に説明できない。それでもそれを信じる人も人もいるわけでそれは宗教ではなく単なる信仰だ。また逆に「哲学」とは理論だけあって行儀がない。仮に行儀あったとしてもある考え(哲学)に対する解釈はマチマチなのでそれに対する行動もマチマチだ。それを行儀とは言わない。つまり「信仰」も「哲学」も人生の糧にはなるかもしれないが様々な問題を根本的に解決する方法にはなりえない。さて、「宗教」とはそうした「信仰」や「哲学」とは一線引いた場所にある。「本尊」があり「本尊に対する教え」があり「万人に一様の行儀」がある。それだけみても「信仰」や「哲学」とは大きく違う。念仏宗には念仏宗の本尊があり教えがあるし真言宗や他の宗派も同じである。だから各宗派それぞれ単独でみれば何も間違ったことは言っていない。各宗派が本尊と決めたものに対してその教えをといているだけだからだ。ここまでは普通に誰でも分かるのだが、その「本尊」に実は勝劣・浅深・高低の差別があることが皆分からない。それを教えてくれたのが日蓮大聖人だ。信仰や哲学といった浅いモノではなく「宗教」を持ちなさい。そして「宗教」=「本尊」を持つならば一番最高の宗教(本尊)を持ちなさいというのが日蓮大聖人の教えである。そして一番最高の宗教(本尊)と何かという事を大聖人は文理と現証をもって大聖人は教えてくれたというわけだ。さて、今書いてきた来たように本来「宗教」というのは「本尊」最初にあり「本尊に関する様々な教え」(法門)があり「法門を具体化する化義」が揃っているモノを宗教というわけだが今の時代「宗教」と「信仰」とがごちゃ混ぜになり「宗教」ではない団体が「宗教法人」になったり「宗教」ではない信仰や哲学を語る人間が「宗教家」を騙る紛らわしい時代になった。その最たる存在こそ創価だ。まず彼らの使用している「本尊」は全て日蓮正宗の本尊である。日蓮正宗を散々罵倒し破門されたにも関わらず彼らは厚顔無恥にも日蓮正宗の一大秘法である戒壇大御本尊を日蓮正宗の歴代上人が書写した本尊をあたかも「自分達の本尊」かのごとく振舞っているのである。しかも戒壇大御本尊と唯授一人法水写瓶を否定し非難しているのにである。さらには自分達の本尊ではないのにその本尊の教え(法門)までも自分達が勝手に作っているという気の狂いようである。しかし悲しいかな創価本尊は日蓮正宗の本尊であるから門外漢の創価民には本尊義など分からないのである。いまの創価民を見てみろ。誰一人として自分達が拝んでいる本尊がなんであるか説明できない。説明する創価民もなかにはいるがその解釈はマチマチである。何故かと言えば「池田哲学」を学んでいるヤツ等ばかりだからだ。また本尊の説明ができない創価民は「私は創価学会の幸せになった」という個人的な功徳論だけで理論はそこにないのである。今の創価民は「宗教」を持った人間など一人もいないのである。「池田哲学」信仰者か「無謬性」信仰者かのどちらかである。なにせ創価には事実上の「創価の本尊は存在しないのだから当然である。本尊が存在しないというのは「宗」が存在していなのだから「宗教」ではないのである。しかもこの人たちは自分達が自ら「宗」(根本・中心)を放棄しまた自ら進んで「宗」(根本・中心)を誹謗しているのだからお笑いである。そんな創価は宗教団体とは名ばかりな集団であり、創価民は「宗教」など持ってはいない単なる池田信仰者でしかない。そんな創価信仰をまとまな「宗教」だと思い込まされ、選挙や新聞啓蒙、創価財務に功徳があるなんて騙されている会員さんが気の毒である。まぁそう信じるのは個人の信仰だから勝手だがそれって「トイレ掃除したらお金に困らない」レベルの話である。そういえば「財務をすればお金に困らない」なんて指導もあるが、だったら「トイレ掃除」でいいじゃないだろうか?それこそお金もかからないしトイレもキレイになって気持ちいい。創価財務よりよほど清々しいのではないかと思う。


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門外折伏・門内摂受。

前回の記事で「門内摂受」と書いたら「それってなんですか?」という質問をされたので少し書いてみる。正確にいうと「門外折伏・門内摂受」というのだけどこの言葉は日亨上人が日有上人の「化義抄」を註解された「有師化儀抄註解」に書かれている言葉です。有師「化義抄」の57条の

◇法華宗の大綱の義理を背く人をば謗法と申すなり、謗とは乖背の別名なる故なり、門徒の僧俗の中に加様の人有る時は・再三私にて教訓して用ひずんば師範の方へ披露すべきなり、其義無くんば与同罪遁れ難き故なり云云。
を日亨上人は次のように註解されている。曰く

◇松野抄に十四誹謗を列挙し給ふは・常に誡め給ふ謗法の分釈にはあらず・故に此の中の第七の不信と第十の誹謗とを除きて余の十二の名称は使用し給ふこと少し、乖背の義も亦多く対外的にして念仏門徒等の上に被らしめ給ふ、対内的には宗綱に違反して信行の途立たざるが謗法なれば謗法の名は至つて重く謗法の罪は門徒の極刑なり、自ら律して針砭に供するは随意なりといへども・濫に他人を憎みて謗法の罪名を被らしむるは・若実若不実却つて其重罪を我身に招く恐るべし、近来間々巷途の説に聞く・何誰は何を為したり謗法なりと・悪言謹まずんばあるべからず、宗祖聖人も阿仏房尼に告げて・謗法にも浅深軽重の次第ありて強ちに悉く取り返へしのつかぬ重罪にあらず、軽き浅き謗法を知らず知らず行ふといへども・其人が色心相応の強信者ならば、強い信心の為に弱い謗法は打消されて罪とはなるべからずと云ふ風の仰せがありしは、全く門外折伏・門内摂受の意もありて・信徒を将護し給ふ大慈なるべし、況んや末輩にありては・自他互に警策し勧奨して寛厳宜しきを得て・異体同心の実を挙ぐべきなり、厳にも寛にも折にも摂にも・根底に大慈大悲の溢るゝあらずんば・万行徒に虚戯に帰せんのみ

「門外」すなわち外部に向かっては折伏であるという事は今回は置いておいて、「門内」すなわち同信の人たちに対しては「摂受」をもって接しないさいというご指南なんですね。日亨上人の上記のご指南を簡単に言えば「謗法」といっても浅深軽重があって全部が取り返しがつかないわけではなく強い信心で消せる謗法もあるから外(門外)に対しては謗法を強く責めても内(門内)に対しては摂受で包容しなさいということです。「阿仏房尼御前御返事」に

◆浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし

と仰せられているように浅い謗法であるなら許し重い謗法であれば信心を励ますのが門内僧俗の在り方なんですね。日因上人の有名なお手紙の一節に「一結講中」ということが書かれています。

◇「一結講中異体同心未来までも相離れ申すまじく候。中に於て一人地獄へ落入り候はば、講中寄合て救ひとるべし。一人成仏せば、講中を手引きして霊山へ引導すべし。

「門内摂受」と「一結講中」は相通じるご指南であり大聖人門下の法華講衆は守っていかないといけませんね。創価民は何かと言えば同じ会員に向かって「謗法だ」とか口にするけど(私も創価時代には散々言われてきました)、上記の日亨上人のご指南に

◇自ら律して針砭に供するは随意なりといへども・濫に他人を憎みて謗法の罪名を被らしむるは・若実若不実却つて其重罪を我身に招く恐るべし

とあるように自分自身の「謗法」を律するためにその言葉を使うのはいいが、何の根拠もなく他人を「謗法」呼ばわりするのは却ってその言った人間が重罪を蒙るのであり謗法なんだよ。謗法というのはだな、上記の日有上人のご指南の通り「法華宗の大綱の義理を背く人」の事を言う。法華宗すなわち日興門下・富士門流の大綱とは何かと言えばその根本は「大御本尊」と唯受一人血脈に「信」を置くことだろ。その二つを捨てた創価こそ「謗法」だということ。だから創価は破門され「門外」になったわけだ。まぁそれはさて置き法華講内では「摂受」が基本だ。モチロン話の内容が教学的に間違っていたり道理に合っていなければそれを指摘するはするが相手を言い負かすようなことや、相手を軽く見たりすることはしないように、ましてや相手の信心を間違っているということは相手に対して「謗法」と言っているのと同義だからそいうことは法華講員になってからはしないようにしている。(創価男子部時代は幹部に「オマエおかしいだろ」とかよく言っていたが)まぁ創価の時と違って組織活動に積極的に参加しているわけはないから他の講員さんと意見対立することもあまりないのだが、先日の座談会の時のような場面に出くわしてしまたら、

◆又此の法門の一行いかなる本意なき事ありともみずきかずいわず してむつばせ給へ、大人にはいのりなしまいらせ候べし(陰徳陽報御書)

との大聖人のご聖訓を遵守し、見なかったこと、聞かなかったことにして何もいわずにただ心を平常にして題目を上げようと思っています。まぁ俺のような交戦部?好戦部?あがりの元創価民は「門内」の人を摂受してるより、「門外」のヤツを破折している方が性に合っているんだけどね(笑)


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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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