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生身の日蓮大聖人。

「戒壇大御本尊は生身の日蓮大聖人」法華講員ならば、いや日興門流の僧俗であれば誰しも当然のように分かっていることなんだがどうも最近の創価民にはよく理解できないらしい。日頃から「生命は永遠だ」とか生命について偉そうに能書きをたてれいる割には「生身」ときくと、「生物学的に生存している状態」であることだとパンピーと変わらない解釈をする創価民も多く「戒壇大御本尊を生身の大聖人」と思えないらしい。どうやら一念三千から勉強しなおさなければいけないくらいに今の創価の教学力は低下しているようだ。そんな教学力のない創価民達に草木成仏の法義を聞かせた所で犬が星を見ているようなもので理解できないだろう。理解できていたら「塔婆不要」とか「塔婆は坊主の金儲け」などという発想にはならないからね。なので今日は草木成仏の話は置いておき別の角度から話をする。大聖人の仏法の信仰者は当然のことだが日蓮大聖人をご本仏と信じる人達だ。そのご本仏が住む本国土とはどこか?というと創価民もいつも読んでいるかもしれない寿量品の自我偈に【常住此説法】とあるようにこの娑婆世界がご本仏の住む国土である。よって日蓮大聖人はご本仏(久遠元初自受用報身如来)として久遠元初以来常にこの娑婆世界にずっと存在しているわけだ。そして末法鎌倉時代に人間の姿(日蓮大聖人)で顕れ末法の法体を末法万年の衆生の為に顕され涅槃されるがこれは【方便現涅槃】つまり方便として涅槃する姿を顕しただけで実は死んではいない。いや寧ろ人間の姿をして生まれた来た方が「方便」と言えるだろう。仏身とは法・報・応の三身だが大聖人は三身即一身の仏身である。このうちの応身というのは何も人間の生身(なまみ)に限定されるわけでない。それが草木であっても応身という。何故なら応身とか仮の姿だからだ。さてそこでもしも人間の日蓮大聖人がご入滅して魂が宇宙に遍満してしまったら応身としての仏身が
現わていないいなのだから、一身即二身にしかならず、無作三身しから無作二身になってしまう。また【常住此説法】の言葉は妄語となってしまう。そんなことは大聖人の仏法においてはあり得ない。大聖人はご入滅後も無作三身のご本仏としてこの娑婆世界に厳として存在している。そう信じるのが大聖人の仏法の信仰者だ。では一体それは具多的に何処に存在しているのか?という話になるが、基本的には大聖人の認められたご本尊いづれかが生身の大聖人の体ということになる。書写本尊は大聖人のご入滅とのタイムラグがあるので「生身の大聖人」にはなりえない。つまり創価本部の本尊は「生身の大聖人」ではない。では大聖人のご真筆のいづれが「生身の大聖人」であるかと言えば、前回記事に書いたように弘安二年ご建立の戒壇大御本尊以外にないのである。
戒壇大御本尊が唯一無二な理由
前回記事に書いたように戒壇大御本尊が「生身の日蓮大聖人である」という理由はたくさんある。自余の真筆のご本尊も検討してしてみたが戒壇大御本尊を差し置いて「生身の大聖人である本尊」である理由が全く見つからない。「生身の大聖人」たるご本尊は戒壇大御本尊以外に考えられないのだ。これは先に結論ありきではなく何年も自分で思索した結果だ。「戒壇大御本尊は常住此説法の生身の日蓮大聖人」それ以外に他に「生身の大聖人」は存在しない。「生身の大聖人」は一人しかいないのである。その生身の大聖人たる戒壇大御本尊を捨てるということは大聖人を捨てるということなのである。大聖人を捨てた人間が大聖人の認めたご本尊と同じ図柄の本尊を持っていようと何の意味もないし、大聖人を捨てた人間が南無妙法蓮華経の題目を唱えた所で悪業を積むだけの行為にしかならない。もしも「戒壇大御本尊」が「生身の大聖人」ではないというなら、三身即一身の仏身で常住此説法のご本仏は具体的にこの娑婆世界のどこにどんな応身如来としての姿で存在しているのかハッキリと示してから言うべきだろう。また全ての本尊が「生身の大聖人」というならキチンとその論拠を示さなければそれは単なる願望・妄想の類だ。一般会員さんは是非地元の幹部にそれを尋ねて欲しい。もしも創価幹部が具体的にそれを示せないのなら戒壇大御本尊を受持しなくても幸福になれるなどといういうのは無責任な与太話だ。無責任な創価の幹部・活動家のウソ仏法話を信じて創価信仰を続けることに何の意味があるのか考えてくださいな。


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戒壇大御本尊が唯一無二な理由

戒壇大御本尊と自余の本尊を全く同じという創価民のために今日は戒壇大御本尊と自余の本尊と違う理由を簡単に書いてみます。(とりあえず長くなるので文証は割愛します)まず第一に、戒壇大御本尊は【大聖人の出世の本懐の御本尊】です。聖人御難事に「余は二十七年なり」と明確に宣言されています。いまの創価民はこの27年を難を受けた年数だなどという身延同様の解釈をするが前後の文との繋がりで読めばこの27年が出世の本懐について述べているのは明らかです。そもそも仏の出生の本懐とは難にあうことではなく一大事因縁であり「一大事」とは大聖人の仏法では三大秘法ですから「余は27年」といわれた弘安2年の本尊で三大秘法の本門の本尊に耐えうる本尊は戒壇大御本尊以外にはありません。
次に戒壇大御本尊は【随自意の本尊】です。大聖人の御本尊の多くは各信徒に与えられた本尊ですからいわば【随他意の本尊】です。大聖人御入滅後の書写本尊は全て【随他意の本尊】です。確かに佐渡始顕本尊や保田の万年供御本尊も「随自意の本尊」と言えますが逆にこれらの本尊には対告衆がいないので仏の説法ではありません。戒壇大御本尊だけが仏の説法たる【随自意の本尊】です。釈迦の出世の本懐たる法華経も「随自意」です。【随自意の本尊】とは【仏(大聖人)の出世の本懐である本尊】ということなのです。
3番目に戒壇大御本尊は【日興上人に相伝した本尊】です。日興上人に相伝した本尊とは、言い換えれば大聖人の一期の弘法の本体であるということです。また広宣流布の暁には事相の戒壇である「本門寺」の本堂にご安置される唯一の本尊なのです。
最後に、これは何度か書いたけど戒壇大御本尊は唯一【悪口罵詈の難を受けている本尊】です。自余の本尊は悪口罵詈などされない。戒壇大御本尊けが大聖人滅後から現在まで数百年に亘り悪口罵詈され続けている本尊なのです。つまりこれは戒壇大御本尊が生身の日蓮大聖人であるということの証左なのです。
すごく簡単に説明しましたがこれだけでも戒壇大御本尊が自徐の本尊と「全く同じ」ではないことがわかります。他の御真筆の本尊と比べても雲泥の差があります。ましてや創価のカラコピ本尊風掛け軸と「全く同じ」であるわけない。文理そして現証どれをとっても創価本尊と戒壇大御本尊が「全く同じ」という結論はでません。創価本尊は出世の本懐の本尊ではありません。そもそもが大聖人の御真筆ではないしそれぞれ願主に求められて書写された随他意の本尊ですから。また創価民の各自の本尊に至っては他の願主に与えられた本尊を改竄コピーしたモノですから随他意の本尊ですらありません。また創価は広宣流布をしていると言いますが、仮に創価が広宣流布したところで事相の戒壇たる本門寺の本堂にご安置できる本尊がありません。(これは顕正会も同じです)大聖人・日興上人は弘安二年の戒壇大御本尊を本門寺の本堂にご安置するように遺命されているわけですからいくら創価民が「広宣流布をしている」と言っても戒壇大御本尊捨てた創価には広宣流布はできないわけです。さらに言えば創価本尊が悪口罵詈されたという事実はどこにもありません。こう書くと創価民達は正宗・法華講に「ニセ本尊」と悪口罵詈されていると反論するでしょうが、「偽物を偽物という」のは悪口罵詈ではなく真実を言っているだけです。もしもそうではないというのであればその論拠を示す必要があります。大聖人の出世の本懐でもなければ真筆でもなく、大聖人の随自意の本尊でもなく。広宣流布の暁に本門寺の本堂にご安置もできない創価本尊の一体何が「戒壇大御本尊と全く同じ」なのか?その説明をちゃんとできる創価民がいるなら申し出てきて欲しいものです。いずれにしても、創価本尊もまた自余の本尊も「全く同じ本門の本尊」というのは創価のウソです。戒壇大御本尊こそが唯一無二の大聖人の色心の二法の法体の本尊でありこれをもって一大秘法というのです。この唯一無二の戒壇大御本尊に信をとらなければ真筆の本尊であってもそこに仏力・法力は宿らない。自宅の本尊も分身散体の本尊になりえないのです。また戒壇大御本尊を自余の本尊と全く同じなどと思い発言する事は「砕尊入卑」の謗法なのです。戒壇大御本尊とは日蓮大聖人なのですよ。わかりますか?学会員さん。


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何故創価教学は狂うのか?

梵我一如さんが「創価森」ブログの狂った御書解釈を紹介してくれていたので読んでみた。
まぁ完全に逝かれていますね。引用するのもアフォらしいのしないが何で創価民の教学は「狂学」になるのか?
実はその理由を多くの創価民が教えてくれている。(以下太字は他ブログからの引用)
鯛焼き支部長は、「日蓮仏法をベースにした創価の教え」といい、
先日紹介した雅彦氏の最近のブログで、
もはや今の時代は情報がオープンになっている。御書は何処でも手に入る、ネット上でも読むことが出来る。僧侶や寺院に頼ること無く、存分に御書を研鑽できるのである。信徒一人一人が御書を根本にして日々の生活を充実させることが可能なのである。
と述べている。これらの考えこそが創価教学が狂う考え。いや創価狂学の根本と言った方がいいかも知れない。
この発想をしているうちは大聖人仏法の法門の正しい理解は到底できない。
前回、日興遺誡置文の
◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事
のご指南を引用したが、この御文は次の
◆当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。
のこの御文と二つでワンセットになっている。
「義道の落居」即ち法門への正しい理解をするためには、「御書を心肝に染める」ことと「極理を師伝」する事であると日興上人は言われている。以前も書いたが「御書」を始めとする文書に法門の全てが書いてある。とするのは顕本法華宗の掲げる「経巻相承」の邪義なのである。日興上人は「極理師伝」と明確にご指南されいる。ここでいう「極理」こそが「法体の理」すなわち法体(極)に関する法門(理)なのである。大聖人がご本仏であることも曼荼羅正意も戒壇大御本尊のことも「御書」には書いていない。なのに何故、大聖人を末法のご本仏と仰ぐことが出来るのかと言えば、大聖人がご本仏であるという「極理」を日興上人以下の御歴代が「師伝」してきたからである。雅彦氏も大聖人がご本仏であると主張しているがそれだって自分で御書を読んで気が付いたわけではあるまい。ところがこの「極理師伝」を否定し、もはや自分で御書を学べる。と勘違いする。これが多くの創価民の教学が狂う原因なのである。

昔、俺が初信の頃ある会合で男子部の幹部が「人間革命」の中の(以下太字は引用)
「若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有(けう)の師への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである。」
という部分を使って指導した、(有名な部分なので聞いたことある人も多いと思うが)
で、俺は「なんかそれはちょっと違う気がするんですが?」と言ったらその幹部曰く、
「妙法への帰命とは、理としては南無妙法蓮華経への帰命だが、事としては師匠である池田先生への帰命なんだよ」と。
ぶっちゃけ、納得感なかったのだが周囲の先輩活動家達は「なるほど。そう言う事なんですね」と感動したりしていた。
この空気が創価の中では蔓延している。オリジナルの解釈をすると感心される。
オリジナルと言っても「日蓮」とか「妙法」とかいう言葉を、「創価」「池田先生」「師弟」とかに置き換えただけだし、
そもそも「御書」をオリジナルで解釈することは「邪義」「我見」以外の何物でもない。
なのに、大作センセを筆頭にこうした「我見」の御書講義が尊ばれもてはやされるのが創価である。
そしてそうした「我見」「邪義」のことを、「日蓮仏法をベースとした創価の教え」などと恥かしげもなく言ってしまうわけだ。
創価は宗門に対して「法主信仰」などと言ってくるが、オリジナルの御書講義を有難がってそれを信じている創価の方が「池田信仰」であり「幹部信仰」であり「自分信仰」なのである。

このように、日興上人のご指南に背き「極理師伝」を否定することは、大聖人仏法を否定することである。「極理師伝」を否定し「法体相承」を否定し、自分の独学で御書を学べるなどと思うのは増上慢の姿に外ならい。

◆経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「次の一行は道門増上慢の者を明す」文文の心は悪世末法の権教の諸の比丘我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵となるべしといふ事なり(唱法華題目抄)

また、そんなオリジナル(我見)の教学で戒壇大御本尊や唯受一人血脈を否定するヤカラは、

◆日蓮が弟子等の中になかなか法門しりたりげに候人人はあしく候げに候(上野殿御返事)

と大聖人に糾弾されるべきヤカラなのである。
こうかくと雅彦氏や鯛焼き君はツマラナイ反論をするかも知れないが、
「極理師伝」により「御書を心肝に染める」のが日興門流の「義道の落居」への方法論なのである。
彼等に限らず日興門流だという自覚があるのであれば日興上人のご指南を素直に受け入れ今後の教学の糧にすべきである。
日興門流ではない。とう人ならば大御本尊も日蓮大聖人も御書も君たちには何の関係もない。
キミ達は五老僧の末裔であり、門外漢である。
「門外漢」ごときが大御本尊に対してグズグズと能書きを垂れていないで
大御本尊に代わる「オリジナルの日蓮仏法」とやらを具体的に示せばよかろう。
ともあれ「創価教学」とやらの「狂い」の根本は「極理師伝」の否定にある。
よって「創価狂学」「創価凶学」が、元の正しい「大聖人仏法」に戻ることはない。
え?池田センセから「師伝」されている?
莫迦だなぁ~「極理」(法体)を持っていない大作センセが何を師伝するんだい?(笑)


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「大御本尊の事が御書に書いてません」ええ。それが何か?

戒壇大御本尊を捨てた邪教創価の活動家がいつもいうのセリフ。
それが「大御本尊につい御書にかいていない」である。
当時聖教での

▼大聖人御自身が、本抄(聖人御難事)において、直接、「弘安2年の御本尊」 について一言も言及されていない。

との説明を受けて創価活動家が「御書に書いていないだろう」なんて調子こいて言っている。
ええ。確かに御書には「弘安二年の大御本尊」について直接的な文言はない。
でもそれが何か?っていう話をしようと思う。
ぶっちゃけ大御本尊について御書に直接書いてないことなど当然の話で
創価活動家の主張なんて鼻嗤いのレベルの話だが、こうした莫迦ツドウカに騙されてる人もいないとも限らないしな。

さて、大御本尊について御書には直接的な文言はない。
同様に「大聖人が本仏である」という直接的な文言もない。
創価莫迦ツドウカはここで思考停止する。この先を考えないからいつまでたっても莫迦なままのなのである。
何故、大御本尊のことや大聖人がご本仏であるということが直接御書に書いていないのか?
こんなことは少し考えれば分かることで、御書に書いていないのはそれらは「法体」に関することだからである。

◆此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。 (三大秘法禀承事)

◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(南条殿御返事)

これらの御文をよく読んでみたまえ。法華経に「三大秘法」や「一大秘法」が直接的文言で書いてあるかね?
法華経には「本門本尊」のことも「本門題目」「本門戒壇」のことも一言も書いていない。
このように「法体」については法華経文上において一言も言及していないのである。
これらの「法体」は上記の御文に明らかなように【面受口決】により教主釈尊から上行・日蓮大聖人へ相伝されたのである。
つまり「法体」というのは、経巻で不特定多数の者に相伝するのではなく
仏法の混乱を守るために面受口決により唯授一人へ相承するものなのである。
今月の御書である「生死一大事血脈抄」講義でもしたが、相承には総別の二義があるのである。
御書というのは「法門」の相伝であり全ての僧俗への相伝ではあるが、

◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)

との御文にあるように「法門」の相伝というのは「法体」の相伝(唯受一人血脈)が大前提なのである。
そして前述のように「法体」の相伝(相承)というのは、面受口決・唯授一人が仏法における鉄則であるから
「大御本尊」のことや「大聖人がご本仏である」ことが、御書に書いていないのは当然の話なのである。
もちろん、大御本尊に関することを筆頭に「法体」については大聖人から日興上人へ唯授一人の付嘱がなされ、
その後日興上人以下のご歴代へと血脈相承されている。それが日興門流ひいては大聖人仏法なのである。
それを言うに事欠いて、御書に書いていないからといって大御本尊不受持の論拠にするとは
莫迦丸出しで無信心の恥かしい痴論であると断言しておこう。
そういえば一知半解の出来損ない創価民がブログで、

▼宗門の人に尋ねたい。一体「御本尊に対する開眼供養の具体的なやり方・その資格を有する条件」が御書の何処に書いてあるのか教えて欲しいものだ。

なんて書いていたが、これも同じ。開眼は「法体」に関する事項ゆえに御書にその詳細が書いてあるわけがないのである。
御書に書いてある開眼についての記述はあくまでも草木成仏等の法門・法理に関することだけだ。
御書に開眼の具体的方法など書いた日には「我こそは本仏である」と名乗る莫迦が必ず現れるだろうしな(嗤)
まぁその前にこの創価民も創価莫迦ツドウカ同様、「開眼」ということを全く理解できていないのだが。
なにが「宗門の人に尋ねたい」なんだか。それほど知りたければ、その中途半端な創価教学を捨てて教えを乞いなさい。と言っておこう。

さて、このような半端な創価狂学莫迦が「御書に書いていない」などという痴論を発するたびの思い出すのが、
顕本法華宗の開祖・日什である。日汁は、経巻相承・直授日蓮 (直受法水)などといって
大聖人仏法は御書を読めば全て分かる。御書に全て書いてあるからそれ以外の相伝は不要などと愚かな主張をした。
今の創価の莫迦ツドウカがいう、「御書に書いてないから大聖人の真意でない」とか「大聖人直結」などという発想は
まさしく「経巻相承」「直授日蓮」の顕本法華宗の教義そのものである。
邪教の発想というのはいつの時代も「同じ発想」なのである。
「法門」と「法体」の違いすら分からず、その相承方法の違いも分からず
小っ恥ずかしい痴論を知ったかぶりしてドヤ顔で喚く姿は見ているこっちが赤面するレベルである。
このような邪義・我見で無信心の半端者に騙されないように気を付けよう。
「御書」にかいてあるのは「法門」で「法体」については御書には書かれていない。
これは大聖人仏法を信仰する者の基礎教学である。
なので創価莫迦ツドウカ達に「大御本尊の事は御書に書かれていない」と言われたら、
「ええ。書いてないよ。そんなの当たり前でしょ。それが何か?」と
鼻でせせら笑いしながら言い返してあげましょう。
そして、創価活動家の莫迦さ加減を教えてあげましょうね。


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やはり創価は御本尊をわかっていないらしい。

ひごちゃんさんからのコメントで過日の創価新報に書かれていた創価が大御本尊受持しない理由。
毎度毎度低レベルな話を繰り返していてもう何度も破折済ではあるけど
おバカな学会員がネットで拡散して、なおかつあたかも創価の主張が大聖人の真意であるかのようにウソを書くので
一応、また破折しておこうと思う。
創価新報に書かれている内容は、

C作戦で学会の破壊を企て、御本尊を信徒支配の道具にしたのが日顕である。
そもそも、宗門が宗旨の根幹とする弘安二年の御本尊を、自ら「偽物」と軽んじた日顕である。
つまり、日顕宗は御本尊云々する資格はない。会則変更で学会は弘安二年の御本尊を受持の対象としないとした。
これに対し日顕宗は「学会は弘安二年の御本尊を否定した」などと騒いでいるが難癖に過ぎない。
謗法にまみれた邪宗の寺にあるから「受持の対象にしない」だけである。
学会が、日顕宗以外の寺にある御本尊を受理しないのと同じである。
御書には「弘安二年の本尊だけを根本とせよ」とは一切記されていない。
むしろ、大聖人は阿仏房に与えた御本尊を「出世の本懐とはこれなり」(1304)
と記され、弘安二年の御本尊が唯一絶対のものでないことは
御書に照らして明白である。宗門の主張は文証なき妄説にすぎない。


簡単に言うと大石寺は謗法の地だからそこの本尊は受持の対象としない。
ということで、もうすっかり顕正会と同じようなことを言い出しているわけだ。
これはね。人法一箇ってことが全く分かっていないわけ。
創価はね、大御本尊も本門本尊である。言っている。
本門本尊と言うのは人法一箇であることも認めている。
人法一箇というのは、「ご本仏」そのものという意味だろう。
その「ご本仏」が謗法の地にあるから受持しない。と言っているのは
鎌倉時代の日蓮大聖人を信じないといっている僧俗と一緒なわけ。
大聖人ご在世当時の日本はね、上一人から下万人まで謗法であり、当然日本全体が謗法だったわけだろ?
だったら、その謗法の地である日本にいらっしゃる大聖人を捨てるのか?って話。これ道理ね。
この道理以前に、「ご本仏」がいる場所を謗法と思うこと自体間違っていて
「ご本仏」がまします場所こそ寂光土なわけ。

◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所喉は誕生の処口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なればいかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し人貴きが故に所尊しと申すは是なり(南条殿御返事)

◆設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏法華経も地獄にこそをはしまさずらめ(崇峻天皇御書)

と文証に明確だろ。
人法一箇の本門本尊がある場所が謗法の地になることはないのだよ。

で、この阿呆どもは、

むしろ、大聖人は阿仏房に与えた御本尊を「出世の本懐とはこれなり」(1304)と記され、弘安二年の御本尊が唯一絶対のものでないことは御書に照らして明白である。宗門の主張は文証なき妄説にすぎない。

などど言っているが、これは大聖人の一期の化導の次第ということを
全く理解できていない痴れ者の言うことで
それについては長くなるのでその話はそのうち書くが結論だけ言うとね
大聖人の顕される御本尊というのはね、「弘安」期になって究竟するのだよ。
阿仏房に与えたのは弘安以前の未究竟の本尊。
もちろん未究竟であってもご本仏のご境涯で
一機一縁の御本尊を阿仏房に与えているから「ニセモノ」でない。
しかし、一閻浮提総与即ち総体の本尊たる一大秘法とはなりえない。
しかもお前ら創価のコピー掛け軸だって弘安期の本尊の相貌じゃね~か。
で、この弘安期の本尊の中で「一閻浮提総与」に耐えられる本尊と言ったら
弘安二年の大御本尊以外にはないのだよ。
それ以外の弘安期の本尊で一大秘法の名に耐えられる本尊があるのであれば
その本尊を具体的に言ってみなさいよ。
そもそも「御書に書いてない」とかいってけど、お前ら身延か?(哀)
身延の連中も「御書に日蓮が本仏である」と書いてないから本仏じゃないっていうんだよ。
で?創価にとって大聖人はご本仏なのか?
だったら「日蓮は本仏である」という御書はあるのか?
ね~よ。そんな御書は。
でも依義判文すれば大聖人がご本仏であるという御文は数多ある。そうだろ?
それと同じで弘安二年の大御本尊が一大秘法である御文だって数多ある。
お前らが「身延読み」しかできね~からって
「文証なき妄説」とか五老僧みたいなこと言ってんじゃね~か。
じゃぁ何か、「大聖人が末法のご本仏」っていうのも
「文証なき妄説」なのか?え?どうなんだ?
お前らさ、歴代法主書写の本尊と大御本尊とまったく同じ。
と言っているが御書のどこにそんなこと書いてある?
在家が勝手に化義を変えていいとどこに書いてある?
創価学会仏なんて言葉はどこに書いてある?
在家が在家に供養すると功徳がでっるってどこに書いたあるんだよ。
お前ら創価のいっていること、やっていることこそ文証なき妄説っていうんだよ。
いや信徒をだまくらかしているんだから、妄説じゃなくて詐欺っていうもんだ。

それとな、「謗法の寺」っていうのは身延のごとき寺をいうんだよ。
なぜか?それは身延が大御本尊(ご本仏)に背いているからだよ。
戸田先生も
◇「富士大石寺に背くやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがない」
と指導しているが、永遠の指導者も否定るのかえ(嗤)
それに、なんで創価を破門することが「謗法」なんだね?
結果、お前らは大御本尊を捨てたんだろ?
破門は正しかったということだろ。謗法どころか正法を守ったという方が正解じゃね~か。

その脳みそ足りないオツムで考えてみろよ。
「大御本尊を捨てる」のが正しくて。
「大御本尊を守る」のが謗法ならば
この世のにはすでに日蓮正宗しか謗法は存在しない。
ということは「舎衛の三億 」の原理から言えば広宣流布は完了しているという理屈になる。
だとしたら、もう創価は弘教する必要ないのだから、選挙も新聞もやらなくていい、
いや創価学会そのものが必要ないだろう。
だって広宣流布が終わってるんだから。
違うか?お前らの理屈だと違わないだろ?
もう広宣流布は終わってるんだから「ガッカイカツドウ」なんて必要ないのに
なんで会員にそんなことやらせるんだよ。

全く文証も理証もないこんな幼稚でインチキな創価の主張を
真に受けて納得してる会員ってどんなんだよ。
さっきも書いたがオツムが弱いか信心が弱いか
あとは邪師にだまされ邪教に洗脳されているのか
またはその全てが見事に揃ってしまってフイーバーしたか(笑)

まぁ、別に創価学会がどんな見解を持っていても構わないよ。
ただ、この創価の主張は大聖人の弟子旦那の主張ではないということだし
大聖人仏法でもなく、ただの創価の見解であるってこと。
つまり創価は大聖人仏法とは無関係な新興宗教団体にすぎないし
大聖人仏法を誹謗している邪教団のひとつであるという認識をもってくれよ。
そして、このような創価のような団体と創価を信じる人々を
大聖人仏法では「謗法」と呼ぶことは覚えておきなさいな。

そうそう、最後に書くけどお前たちは自分達の本尊の元になった
日寛上人のご本尊になんで「お目通り」しないんだ?
なんで「ご供養」しないんだ?おかしいだろ?
さっさと、浄円寺に参拝しろよ。浄円寺にご供養しろよ。
それが「信心」ってもんだろ(爆笑)



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ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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