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「有解無信」と「無解有信」

「無解有信」(理解はしていないけど信じている人)の対極として語れるのが「有解無信」(理解はしているけど信じていない)。「新池御書」に、
◆有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし
と書かれているようにこの「有解無信」は「無解無信」(理解もしてないし信じてもいない)人よりダメっぽく言われる。そんな「有解無信」の人というと宗教学者とかが頭に浮かぶけどもっと身近にたくさんいる。例えば元創価からアンチになり創価どころか大聖人仏法まで否定している自称「覚醒者」さん達なんて多分自分を「有解」無信の人だと思っているんじゃないかな。御本尊の相貌を比べたり文献や歴史を研究したり御書の研究をして偽書だのなんだの言っては大御本尊を必死に否定して大聖人仏法を否定したりしている。なかには釈迦仏法を持ち出して大聖人仏法を否定しようとする人もいて笑ってしまう。それでも自分で色々と学んで否定してる人はまだマシな方で、ネットのネタで色々と言ってる人を見るととてもじゃないが「有解」の人は思えない。それでも一人前に大聖人仏法を「分かった風な口」をきいているのだから滑稽だ。
そもそも俺は「有解無信」なんてものは大聖人仏法においては「理」としては存在するかもしれないが「現実」には存在しないと思っている。なぜなら「無信」の者が「解する」ことなどないからだ。「有解」というからには大聖人仏法がなんたるかを「理解」していなければいけない。大御本尊はニセモノ?それならそれでいいだろう。じゃぁ大聖人仏法の「体」は具体的には何であって何処にあるのか?それを明確に語る「覚醒者」は一人もいない。本仏は釈迦?それならばその釈迦仏と誰を指すのか?インドに生まれた釈尊であるならば、釈迦以前の仏を取らずに何故「釈迦仏」だけ採用するのか?五百塵点劫の釈迦なのであれば、一体その釈迦はどのような姿をしていて何を説き何を本尊として定めたのか?それを書いてくれる「覚醒者」もいない。ただ大御本尊や大聖人本仏を否定するだけで代替案すらないわけだ。そんな人々が「有解」であるわけないと思うのだ。そもそもいつも書くように「教学」というのはあくまでも大聖人仏法の法門法義を学ぶことであって世間一般的な学問ではない。そして仏法における「解」とは法門法義を理解するを指して「解」と呼ぶわけだ。世間一般の学問を指して「解」なんて言っていないのである。「解」は「信」と一体なのだから「無信」者が「解を有する事」は事実上不可能なのである。だから「有解無信」という言葉は有名無実の存在なのである。「無信」は全て「無解」なのである。どんなに利口そうに大聖人仏法を語り否定しても、その根本は「無解」でしかない。
学会員や法華講員の方の中にも「教学」の話をすると「無解有信」の言葉を翳して遮る人をたまに見かける。そういう人の気持ちの中には「教学」ばかり語る人を「有解無信」の人として見ているフシがある。「教学も大事だけどそれよりも信心」というセリフを何回も聞いてきたが今いったように「有解無信」なんていう存在は無い。「有解」であればそれは当然「有信」なのである。それを「有解」の人を見て「無信」であるかのように決めつけるのは「美人は性格が悪い」といっているのと同じだと思う。もちろん「諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知」である。ただ「知ること能わず」なのは「諸仏の知恵」のことである。つまり大御本尊の仏力・法力はいくら学んでも知ることはできないのであり、また自分の浅知恵でそれを決めつけてはいけない。ただ「信じる」以外にはない。しかし法門法義に関してはいくらでも学ぶべきだし知ることはできる。むしろ化義の折伏において「法門法義」に「無解」であることに満足していてはダメだろう。弘教も破折も育成も教学が無ければ進まない。創価であれ法華講であれ何かあればすぐに「唱題」というけどそれは間違っていないけど(創価の場合は唱題以前に本尊が間違っているが)それで一体どれだけの人が納得するのか。納得がない折伏は結局将来の退転者を増やすだけだと思う。なかには「無解」であっても「強信」の人はいるかもしれないが創価時代の経験からするとそれはむしろレアケース。そして客観的なコンセンサスを取れるのはやはり教学だ。「無解有信」はとっても尊いがやはり日蓮大聖人の弟子としては「有解有信」の信心を目指して努力していくべきだろう。「顕謗法抄」に引用されている涅槃経には、
■善男子若し人信心あつて智慧有ること無き是の人は則ち能く無明を増長す若し智慧有つて信心あること無き是の人は則ち 能く邪見を増長す
とある。「無解有信」は無明を増長し一歩間違えれば創価民の陥る■信ずる者にして慧無く顛倒して義を解するが故にと「顛倒解義」になるし「有解無信」は邪見を増長する。
やはり日興門流として大聖人の直参の講である法華講員としては「有解有信」の信心を目指していきたいと思う。


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波田地チャンネル第4弾は「亨師談聴聞記」だって。古っ!

匿名の読者の方がコメント欄に波田地チャンネルのURLを貼り付けて「見てください」と書いてあったので一応観に行ってみたが、動画のタイトルが「宗門・顕正会、大激震の新史料発掘!! 「亨師談聴聞記」 ー堀上人が語った戒壇本尊の真相ー」ってことで既にこの時点で興味を失った。 「亨師談聴聞記」の話題なんて15年以上も前からやってる話で「大激震の新資料」でもなんでもないカビの生えた資料なわけで現実 「亨師談聴聞記」とやらで宗門に大激震なんて全く起きていない(笑)そんな古臭い昔話をいまだにユーチューブでやっているとは完全にネタ不足。まるで昭和の漫才でも聞いているようで波田地氏も相当にヤキが回ったなぁ。 「亨師談聴聞記」というのは昭和26年に堀日亨師の雑談を聞いたものをまとめた文書らしいが(あくまでも創価が言うには)ぶっちゃけ原本も何もない怪文書の類というかむしろお前たちが作ったんだろう!という程度のものである。案の定動画の中でもワープロ打ちされた文書をコピーしただけのものを手に波田地氏がいかにも重要資料のように語っているだけで、そのコピーの元になっている文書を提示してるわけではない。また動画の前半で金原氏の本を持ち上げていたが、波田地氏が言っている「鮮明な戒壇大御本尊の写真(画像)」も当然のことながら示していない。話を戻すが「亨師談聴聞記」なんでいうそれっぽいネーミングをつけた文書の正体は誰が書いたか分からないワープロ打ちされたコピー用紙なのである。普段は御書に対して「それは偽書だから用いない」とか「それは後加文だから用いない」などとこいてるくせに、後加文ですらない怪文書を厚顔無恥にも持ち出してくるとは呆れてモノが言えない。そんなもので我が富士門流法華講を破折するとは笑止千万だ。相変わらずの波田地ロジックのくだらなさに今回も飛ばし飛ばし観たはが(こんな動画を20分もみてたら笑い死にしてしまう)動画の中で波田地氏は法華講は「亨師談聴聞記」の存在を知らないから法論の時にこれを見せれば何もいえなくなるという趣旨の事をいっていたが、法華講が誰も知らないというのはそれこそ「亨師談聴聞記」なる文書が正宗の公式文書ではないということである。そんなものを法論で使えるならこっちだっていくらだって創価の都合の悪いことをワープロで打って文書のテイにして「池田談聴聞記」とネーミングして使えばいい話である。もっともそんなことをしなくても、戸田・池田が「戒壇大御本尊を唯一無二」といい「血脈相承の大事」を指導している創価の公式見解の文書は腐るほどあるから「池田談聴聞記」などという怪文書をわざわざ作成する必要もないがな(笑)仮に原本があって本当に亨師が波田地氏の言うような発言をしていたとしても別に大騒ぎするほどでもないけどな。「亨師談聴聞記」とやらのによればこれは昭和26年の享師の話だそうだが、昭和26年となるとすでに御当代は61世日昇上人だ。享師はすでに御陰尊の身である。つまり法体受持している御当代の発言でもなく享師以下の御歴代もこの発言を追認していない。つまり本当に享師が言われるような発言をしていたとしてもそれは享師の個人的な見解・解釈であり日蓮正宗の公式な見解でもなんでもないとうことだ。とはいえ道理から言っても歴代の上人が大御本尊と血脈相承を貶める発言をされるはずがない。誰が好き好んで自分の立場を貶めるような発言をするだろうか。もしするとしたらその目的は何か?と考えた時、合理的な答えが見つからないわけだ。まぁ)「亨師談聴聞記」を使って法論したければまずこの文書の原本を示してから。出所不明いや自分達でデッチ上げたかもしれぬ文書をつかって破折とは片腹痛い。
◆今経論を以て邪正を直す信謗は仏説に任せ敢て自義を存する事無かれ。(守護国家論)
等の御文の大聖人が言われているように怪文書ではなく御書で破折しなさいよ。波田地チャンネルってほとんど御書の引用がないじゃんwww
さて、動画見て面白かったのは波田地氏曰く「日顕上人は戒壇大御本尊を否定したから偽法主と責めるのある」というクダリだ。確か1本目の動画では「創価の大御本尊と戒壇大御本尊は別物」といってたはずなのに今回の動画でのこの発言と1本目の動画での発言との一貫性はどこにあるのか理解できないのだがそれはさて置き、なるほど創価の「ニセ法主」発言は波田地氏のこの考えが大元となっているというわけだ。無論日顕上人が戒壇大御本尊を否定した事実などどこにもないし今でも法華講は戒壇大御本尊根本の信心をしているのだから大御本尊を否定するような教義など存在しないのは明らかだ。それよりも「戒壇大御本尊を否定したからニセ法主」というロジックならば「戒壇大御本尊」すてた創価は一体何になるのだね?「戒壇大御本尊」をすてた池田と師弟不二と自称しているアナタは一体何の「ニセ」なんだね?まさか自分や大作が正義とはこのロジックであれば言えるはずがないけどど~すんの?(笑)戒壇大御本尊をニセモノ呼ばわりしているお仲間の金原君はどうなの?(笑)
ともあれコレが嘗て「創価最強の論客」「対宗門のスペシャリスト」といわれた波田地氏の実態。完全にメッキが剥がれてみると新報やフェイク・地涌などの与太記事を元に宗門にイチャモンつけてるだけのひと山いくらの無教学創価民と変わらない。攻撃方法も完全にネタバレのマッチポンプ方式。しかも波田地氏が折角編み出したロジックだけ創価に盗まれいまや古巣の創価から攻撃される始末でなんだか淋しいなぁって思うけど自業自得だから仕方ないか。それにしても波田地チャンネルは古いネタばかりで飽きます。「新ネタ」やらないとユーチューバーとして生活できませんよ。波田地さん(笑)


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波田地チャンネルを見てみたが。

創価新報と言えば、元創価新報の記者で平成の宗創問題の時に対宗門の創価教学を考案し大作センセから褒章までもらいながらいまでは仏敵として創価からバッシングされている波田地克利氏。俺は広宣部時代にはその名を聞かなかったがその後その名と主張を知り確かに広宣・教宣で使われている対宗門ロジックは波田地氏の考案した論説が使われている。その波田地氏が昨年ユーチューブに「波田地チャンネル」なるチャンネルを開設してSNSで話題になった。ユーチューバーでひと儲けと思ったのだろうが、チャンネル登録者も再生回数も伸びておらず思惑が外れたかもしれないね。俺も年末年始の休みを利用して全部で3つの動画を見てみたがまぁ内容は現創価執行部批判が大半で俺としてはあまり興味がない分野なので飛ばし飛ばしみていた。俺が聞きたかったのは波田地氏の大聖人仏法に関する法門法義の話だったのが、最初の動画の7分目くらいからの彼の発言を聞いてだいたい察してしまい以降は彼の動画というより彼の教学力に興味を失った次第である。そこで語られていた内容とは概ねこうである。「創価仏法の根本は戸田2代会長の獄中の悟りと大御本尊なのだが戸田会長の言っている大御本尊と大石寺の戒壇の大御本尊は別個のものだ」とこう言う事である。もうこれを聞いた瞬間に波田地氏の教学の底が見えた気がした。氏が言うには創価学会は「創価仏法」というジャンルらしくてその原点は戸田会長の獄中の悟達にあるそうだ。これは誰が聞いても「仏法」ではない。これを「仏法」というならば戸田が仏であることを論証しなければならない。そのためには戸田がいつ・どこで・どんな修行をして仏になったのかという論理歴な論証が必要であるがそんな論証はできるわけない。彼の言う「創価仏法」などという仏法などどこにも存在しないのである。そもそも戸田の獄中の悟達そのものが何を悟達したのか分からない。戸田は「大御本尊とはいったが大石寺の板曼陀羅の戒壇大御本尊とは言っていない」とのことだがそれは至極当然の話である。なぜなら獄中の戸田は大聖人仏法が何たるかをほとんど理解できていない状態だったからだ。戸田が牧口とともに入獄するまでの戸田の信心はどんな状況であったと言えば、師と仰ぐ牧口に付従っていたに過ぎない。その牧口の信心と言えば、最初に常在寺に所属するも教化親の三谷氏と喧嘩別れをして中野教会所(後の昭倫寺)に移籍するもそこでも喧嘩し会員が寺院へ参詣するのを禁止するなどし事実上日蓮正宗と絶縁関係にあった中で戸田は投獄されたわけである。つまり獄中にいた戸田は大聖人仏法の正統たる日蓮正宗とほぼ無縁の状態で大聖人仏法の法門法義の門前をウロチョロしていただけに過ぎない。戸田の獄中の悟達の第1は無量義経の「三十四の非」であり法華経にすら入っていない。第2の悟達の「法華経に説かれる『虚空会の儀式』に参列していたことを悟った」と言う話も「虚空会の儀式」は法華迹門で説かれている話で法華本門にすら入っていない。いかにいわんや文底仏法を戸田は知る由もないのである。要するに獄中及び出所当時の戸田には大聖人仏法の「法体」など微塵も理解できているはずもなく大聖人のご本尊を全て「大御本尊」と思っていたのであろう。それは釈迦仏像等の他宗の本尊と比較して「大本尊」だと思っていた(言ってた)と想像する。まさにこの時の戸田は権実相対レベルで種脱は当然のこと本迹相対ですら怪しいレベルなのである。そんなレベルの戸田の獄中の悟達を創価仏法の根源と言ってるのが波田地氏である。戸田が本当に大聖人仏法の法門法義を理解できるようになったのは、出所後よく御歴代法主の指南を受け正しい大聖人仏法を学んだ後である。獄中の悟達では波田地氏のいうように「大御本尊」と「戒壇大御本尊」の区別がつかなかった戸田ではあるが、その後の戸田は大御本尊といえば大石寺の戒壇大御本尊であるということをよく理解できたようだ。「創価仏法」の仏を仮に戸田だとしよう。「獄中の悟達」とは戸田が発迹顕本するまえの教えなのである。その教えを根源とする波田地教学もまた自己申告通り大聖人仏法ではなく創価仏法なのである。そんな幼稚な教学でよくぞここまでやってこられたと寒心するとともに、これが「あの」波田地氏の教学なのかと落胆した。3本目の動画では波田地教学の目玉である八重の相対の話もしているがそれについてはまた後日触れるとしてまぁ波田地教学には本当にガッカリである。


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戒壇大御本尊を科学判定して欲しいヤカラ。

「戒壇大御本尊を科学判定せよ」などというヤカラについて今日は一言いっておく。
この手のヤカラは正宗が大御本尊を科学判定などしない。という事が分かっていてこう言っているのであろう。
そしてそれを逆手にとって、宗門が科学判定しないのは偽物の証拠であると言いたいわけだな。
「さもありなん」と思う人もいるかもしれないが、こんなもんは単なる印象操作でしかない。
「戒壇大御本尊」について後世の創作説の疑難は玉野日志あたりから言い出し事だろうが、
都度、正宗では御書や他山の文章等を傍証にして大御本尊の正当性を主張してきている。
それに対し、文献学やら歴史学やら色々と持ち出して相も変わらず「大御本尊偽作」説を言っている連中が、
大御本尊を科学判定しろ。などと無理を言って駄々をこねているに過ぎない。
富士門流はすでに多くの文証等を引用し大御本尊の正当性を示している。
もし、それが違うというとならキミ達も文証をもって大御本尊が偽作であると証明すればいいだけの話だ。
ある御書が偽書だというならば自分達がその御書を科学判定して偽書であると100%証明すればよい。
要するに「それ」が出来ないだけだろう。
屁理屈や御託を並べても結局は大御本尊が偽作であると論証できない。
だから「大御本尊を科学判定しろ」なとと因縁をつけてきてるだけの話ではないか。「学術的」などと聞いてあきれるわ。
キミ達が偽物と言ってるのだからキミ達が自力でそれを証明ししなさいよ。
それにな。大御本尊が偽作であるというならば、本物はどこのどの本尊なのかも合わせて明示しなさい。
「ホンモノ」が分からなければ「ニセモノ」であるかどうか判断できないからな。
ちゃんと「ホンモノ」を探し当てて明示してくれよな。

そもそもだ。大御本尊を科学判定しろなんて言っているヤカラは、本物だったら正宗に入信して真面目に信心するのか?
どうせしやしないだろう。そんなヤカラは「ニセモノ」という判定以外は認めない連中なのだよ。
「四条金吾殿御返事」に曰く、

◆無見頂相と申すは釈迦仏の御身は丈六なり竹杖外道は釈尊の御長をはからず御頂を見奉らんとせしに御頂を見たてまつらず

竹杖外道とは釈迦在世の外道で、仏が一丈六尺の身長であることを疑って竹の杖で仏の身長を測ろうとしたがその竹杖がどうしても釈迦の身長に届かずに仏の身長を知ることができなかったのである。大御本尊を疑い科学判定しろなどと言っている連中は、まさしく竹杖外道そのもであり哀れなほど滑稽である。キミ達には大聖人仏法とは何であるかなど理解できるはずがないのである。とはいえ無信心人々や身延はまだそれでも良い方だ。最悪なのは学会員でありながら大御本尊を科学判定せよなどという狂言を吐く連中である。なぜならば創価の教義は「日蓮大聖人を末法のご本仏」としているからである。大聖人仏法といいながら大御本尊を科学判定しろなどと外道と一緒になって騒いでいる創価民ほど頭か逝かれている連中はいない。大本尊偽作説を唱えている創価民は一体自宅で「どんな本尊」に祈っているか?大御本尊は偽物だがその書写のコピーの創価本尊はホンモノとでも言うのだろうか?そんな主張は正常な人間の範疇を超えている。そういう創価民に限って自分の中に御本尊はある。と言い出すのである。ならば、まずは自分の胸でも腹でも切り裂いてお前の中にあるという御本尊を科学的・医学的に証明してみせなさい。いいか?謗法の創価民の諸君。富士門流の信仰者にとって大御本尊を科学判定しろ。というのは、お前の胸を掻っ捌いて己心の本尊とやらを見せてみろ。と言っているのと変わらないのだよ。謗法の創価民の諸君にとっては「だたのモノ」かもしれないが大聖人仏法の信仰者にとって大御本尊とは、わが身・わが命なのである。キミ達が自分の命を懸けて己心の本尊とやらまづは証明したまえ。大御本尊を科学判定せよなんていうのは、それをキミ達が実行してからの話だ。

さて、この件について先日紹介してもらった雅彦氏のブログには(以下太字は引用)

私が戒壇本尊の科学的検証を提唱したのは、最大の理由は未来の信徒の為である

などと書いてある。笑わすにも程がある。雅彦氏はタダの創価民だ。大御本尊を受持もしていない門外漢で信徒でも何でもない。
信徒でもなんでもない人間が我等信徒の心配など「大きなお世話」である。
ホントにそう思っているならば、まずは正宗に入信し自分が信徒になってからにいいなさい。赤の他人が他所様の本尊云々し、その信徒の心配する必要はない。他人が我等信徒の心配など無用である。むしろご自分の「創価脳」と死んだあと行き先を心配したらどうだ?また

純粋に日蓮仏法を信じる者ならば真実を求めるべきである。妄信に陥ってはならない。

などと書いているが、「純粋に大聖人仏法」を信じる者は、「大御本尊を科学鑑定せよ」などは言わないのである。
ついでに書くが「日蓮」と呼び捨てにもしないはずだ。
雅彦氏のような創価民は、信徒でもなければ純粋に大聖人仏法を信じる者でもないということだ。
要は彼のような創価民は単なる外道でしかない。
そんな外道たちが大御本尊を否定できない腹いせに「大御本尊を科学鑑定せよ」などといった所で
そんなモノまともに相手にするとでも思っているのか?
「正宗は科学鑑定から逃げた」と、顕正会ばりの印象操作しかできないとは本当にお気の毒である。
我々、日興門流・富士門流もそして信心ある学会員・顕正会員は、
このようなつまらぬ印象操作に惑わされることなく、大御本尊を受持していきたい。


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ミイラ取りがミイラになる。

俺のエントリーしてる日本ブログ村の「創価批判」村。
最近、当ブログの読者の天覇さんや鯛焼き支部長ブログを出禁?(笑)
になった梵我一如さんのブログが新たにエントリーされ少し賑やかになり良かった。
自分がアンチ創価だからなのかアンチ創価系のブログの方が読んでいて楽しい。
「創価村」にエントリーされているブログも含め、どうも学会員ブログってつまらない。
多分、創価系ブログは「信心」について書いていないから面白くないのだと思う。
大作センセとか創価の活動とかブログ主の体験談とか提灯記事ばかり。
たまぁ~にアンチ創価を批判している記事もあるけど、法門法義からの批判ではなく
新報や地涌などの自分達創価側の使い古されたテキストを基にしたアンチ批判で、
そんな主張に共感する人間がお仲間以外にいるのか?と思わざるを得ない。

さて以前当ブログのコメントで創価系ブログのいくつかを推奨していただいた。(天覇さんのブログとか)
創価系というよりもどちらかというよりもアンチ色ある創価系ブログのご紹介だったが、
その中のひとつの「創価学会と日蓮仏法と活動」というブログを久しぶりに読んだ。
ずっと以前に当ブログと俺のことも一度記事にしてもらったので時折読んではいた。
(俺へのプロファイリングはあまり当たっていなかったが)
ブログ主の雅彦氏(?)は創価民には珍しく教学を一生懸命学んでいる様子で、
創価臭が抜け切れていない部分があるにせよ、共感できる部分もあった。
一時、「気楽に語ろう」渡辺氏 や想学談林「運ちゃん」氏 などを批判(破折)していた。
渡辺・運ちゃん両氏はいわゆる「学術」中心の日蓮本仏否定論者だ。
それに対して雅彦氏は異議を唱え「日蓮本仏」を主張して批判していて共感する部分はあったのだが、
ここ最近の記事を読むと、御本尊の相貌のこととか開眼についてとか少し雲行きが怪しい感じになってきた。
まぁでもそれはそれで創価民である雅彦氏の立場ならば仕方のない事だと思うが、
今年になってからの記事だと思うが、「大御本尊の真偽を検証すべき 」などと言い出した。
その記事とは(太字は雅彦氏の記事から引用)

大御本尊の真偽の問題をハッキリさせる事が重要だろう。第三者機関に依頼し科学的に検証すべきだ。選択肢としては筆跡鑑定や筆法鑑定や放射性炭素年代測定などがある。これらを組み合わせて精度の高い検証をして貰いたい。

という内容である。この記事を読んだ感想は「ミラ取りがミイラになった」かぁ。である。
渡辺氏や運ちゃん氏が大聖人本仏・大聖人仏法を否定していることに関して散々批判をしてきた張本人が、
大御本尊を科学鑑定して真偽をハッキリさせろ。と言うなんて実に滑稽だ。
大御本尊の科学鑑定云々についてはまたそのうち記事で書くが、
結局、雅彦氏は大聖人仏法云々と言ってるのに、
「学問」を盾に御書を偽書としたり、大御本尊を偽物と結論付けている人達と全く同じ主張をしているわけで
彼自身が大聖人仏法が何であるか全く理解できていないのである。
これでよく渡辺氏や運ちゃん氏を批判できるもんだと思う。
俺から見れば「大御本尊を科学鑑定せよ」と言った時点で
残念ながら大聖人仏法に対する信心のない無信心の人と変わらなくなってしまった。
日興遺誡置文に曰く、

◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。

いつも書くが、「科学的」とか「学術的」な方向に走って大聖人仏法を見失うのは
結局は、「義道の落居」つまり大聖人仏法の法門の筋道が分からないまま、他の学問を学んでしまうからなんだね。
渡辺・運ちゃん両氏は俺と同じ広宣部出身だから尚更そうなる可能性が高い。
広宣部出身者ってのは教学マニアが多く理解力もある人が多いからちょっと間違えると大聖人仏法から逸脱しちゃう。
俺も3年間くらい御書を離れ釈尊の経典や天台や龍樹挙句の果てには道元や親鸞まで読んだけど、
こうした釈迦仏法を学んでいくと、「法」が中心になってしまい「人(仏)」については稀薄になっちゃうんだよね。
そうなるといつのまにやら大聖人仏法から離脱してしまう。
いやその感覚ってすごく分かる。凄くわかるんだけどその仏法の知識はもう仏法じゃないって俺は思う。
雅彦氏に関しては恐らくは渡辺・運ちゃん両氏よりも教学的な知識は乏しいと思われる。
なので彼の場合は、大聖人仏法が何たるかという確信を持たないまま、
色々な知識に触れているうちに「大御本尊を科学鑑定せよ」などという方向にブレたのだと思う。
大聖人仏法の法門法義の筋道を理解しない創価民が大作センセのスピーチや創価教学を学ぶとやはりこうなる。
渡辺・運ちゃん両氏のように「大聖人仏法否定」であればそれはそれで特になんとも思わないが、
「大聖人仏法」の正当性を主張している人間が「大御本尊を科学判定」なんて言うのは、
雖讃法華経・還死法華心というものであり「大聖人仏法」を否定するより悪い。
大聖人仏法とは何か?それは「戒壇大御本尊」なのである。大御本尊の中に大聖人仏法の全てが存在する。
それ以外の所に大聖人仏法はないのである。大御本尊へ信を取ることが
日興上人のいわれる所の「義道の落居」なのである。
それなくして他宗の法門を学んでも意味がない。ましてや邪教の教えをや。である。
雅彦氏には早く「義道の落居」を遂げて欲しいと思う。
また彼のように教学が好きならばそれも可能だろう。
ただ、創価教学から脱皮する必要はあるが頑張って欲しいと思う次第だ。


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ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
【旧】日蓮正宗創価学会員(現日蓮正宗法華講)戒壇大御本尊を捨てた謗法団体でありながら日蓮大聖人の名を騙り世間や会員をだまし続ける創価本部・幹部・活動家の欺瞞・詭弁とインチキ創価教学
を徹底的に破折し正しい日蓮大聖人の仏法を宣揚します。

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