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「有解無信」と「無解有信」

「無解有信」(理解はしていないけど信じている人)の対極として語れるのが「有解無信」(理解はしているけど信じていない)。「新池御書」に、
◆有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし
と書かれているようにこの「有解無信」は「無解無信」(理解もしてないし信じてもいない)人よりダメっぽく言われる。そんな「有解無信」の人というと宗教学者とかが頭に浮かぶけどもっと身近にたくさんいる。例えば元創価からアンチになり創価どころか大聖人仏法まで否定している自称「覚醒者」さん達なんて多分自分を「有解」無信の人だと思っているんじゃないかな。御本尊の相貌を比べたり文献や歴史を研究したり御書の研究をして偽書だのなんだの言っては大御本尊を必死に否定して大聖人仏法を否定したりしている。なかには釈迦仏法を持ち出して大聖人仏法を否定しようとする人もいて笑ってしまう。それでも自分で色々と学んで否定してる人はまだマシな方で、ネットのネタで色々と言ってる人を見るととてもじゃないが「有解」の人は思えない。それでも一人前に大聖人仏法を「分かった風な口」をきいているのだから滑稽だ。
そもそも俺は「有解無信」なんてものは大聖人仏法においては「理」としては存在するかもしれないが「現実」には存在しないと思っている。なぜなら「無信」の者が「解する」ことなどないからだ。「有解」というからには大聖人仏法がなんたるかを「理解」していなければいけない。大御本尊はニセモノ?それならそれでいいだろう。じゃぁ大聖人仏法の「体」は具体的には何であって何処にあるのか?それを明確に語る「覚醒者」は一人もいない。本仏は釈迦?それならばその釈迦仏と誰を指すのか?インドに生まれた釈尊であるならば、釈迦以前の仏を取らずに何故「釈迦仏」だけ採用するのか?五百塵点劫の釈迦なのであれば、一体その釈迦はどのような姿をしていて何を説き何を本尊として定めたのか?それを書いてくれる「覚醒者」もいない。ただ大御本尊や大聖人本仏を否定するだけで代替案すらないわけだ。そんな人々が「有解」であるわけないと思うのだ。そもそもいつも書くように「教学」というのはあくまでも大聖人仏法の法門法義を学ぶことであって世間一般的な学問ではない。そして仏法における「解」とは法門法義を理解するを指して「解」と呼ぶわけだ。世間一般の学問を指して「解」なんて言っていないのである。「解」は「信」と一体なのだから「無信」者が「解を有する事」は事実上不可能なのである。だから「有解無信」という言葉は有名無実の存在なのである。「無信」は全て「無解」なのである。どんなに利口そうに大聖人仏法を語り否定しても、その根本は「無解」でしかない。
学会員や法華講員の方の中にも「教学」の話をすると「無解有信」の言葉を翳して遮る人をたまに見かける。そういう人の気持ちの中には「教学」ばかり語る人を「有解無信」の人として見ているフシがある。「教学も大事だけどそれよりも信心」というセリフを何回も聞いてきたが今いったように「有解無信」なんていう存在は無い。「有解」であればそれは当然「有信」なのである。それを「有解」の人を見て「無信」であるかのように決めつけるのは「美人は性格が悪い」といっているのと同じだと思う。もちろん「諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。所不能知」である。ただ「知ること能わず」なのは「諸仏の知恵」のことである。つまり大御本尊の仏力・法力はいくら学んでも知ることはできないのであり、また自分の浅知恵でそれを決めつけてはいけない。ただ「信じる」以外にはない。しかし法門法義に関してはいくらでも学ぶべきだし知ることはできる。むしろ化義の折伏において「法門法義」に「無解」であることに満足していてはダメだろう。弘教も破折も育成も教学が無ければ進まない。創価であれ法華講であれ何かあればすぐに「唱題」というけどそれは間違っていないけど(創価の場合は唱題以前に本尊が間違っているが)それで一体どれだけの人が納得するのか。納得がない折伏は結局将来の退転者を増やすだけだと思う。なかには「無解」であっても「強信」の人はいるかもしれないが創価時代の経験からするとそれはむしろレアケース。そして客観的なコンセンサスを取れるのはやはり教学だ。「無解有信」はとっても尊いがやはり日蓮大聖人の弟子としては「有解有信」の信心を目指して努力していくべきだろう。「顕謗法抄」に引用されている涅槃経には、
■善男子若し人信心あつて智慧有ること無き是の人は則ち能く無明を増長す若し智慧有つて信心あること無き是の人は則ち 能く邪見を増長す
とある。「無解有信」は無明を増長し一歩間違えれば創価民の陥る■信ずる者にして慧無く顛倒して義を解するが故にと「顛倒解義」になるし「有解無信」は邪見を増長する。
やはり日興門流として大聖人の直参の講である法華講員としては「有解有信」の信心を目指していきたいと思う。


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戒壇大御本尊を科学判定して欲しいヤカラ。

「戒壇大御本尊を科学判定せよ」などというヤカラについて今日は一言いっておく。
この手のヤカラは正宗が大御本尊を科学判定などしない。という事が分かっていてこう言っているのであろう。
そしてそれを逆手にとって、宗門が科学判定しないのは偽物の証拠であると言いたいわけだな。
「さもありなん」と思う人もいるかもしれないが、こんなもんは単なる印象操作でしかない。
「戒壇大御本尊」について後世の創作説の疑難は玉野日志あたりから言い出し事だろうが、
都度、正宗では御書や他山の文章等を傍証にして大御本尊の正当性を主張してきている。
それに対し、文献学やら歴史学やら色々と持ち出して相も変わらず「大御本尊偽作」説を言っている連中が、
大御本尊を科学判定しろ。などと無理を言って駄々をこねているに過ぎない。
富士門流はすでに多くの文証等を引用し大御本尊の正当性を示している。
もし、それが違うというとならキミ達も文証をもって大御本尊が偽作であると証明すればいいだけの話だ。
ある御書が偽書だというならば自分達がその御書を科学判定して偽書であると100%証明すればよい。
要するに「それ」が出来ないだけだろう。
屁理屈や御託を並べても結局は大御本尊が偽作であると論証できない。
だから「大御本尊を科学判定しろ」なとと因縁をつけてきてるだけの話ではないか。「学術的」などと聞いてあきれるわ。
キミ達が偽物と言ってるのだからキミ達が自力でそれを証明ししなさいよ。
それにな。大御本尊が偽作であるというならば、本物はどこのどの本尊なのかも合わせて明示しなさい。
「ホンモノ」が分からなければ「ニセモノ」であるかどうか判断できないからな。
ちゃんと「ホンモノ」を探し当てて明示してくれよな。

そもそもだ。大御本尊を科学判定しろなんて言っているヤカラは、本物だったら正宗に入信して真面目に信心するのか?
どうせしやしないだろう。そんなヤカラは「ニセモノ」という判定以外は認めない連中なのだよ。
「四条金吾殿御返事」に曰く、

◆無見頂相と申すは釈迦仏の御身は丈六なり竹杖外道は釈尊の御長をはからず御頂を見奉らんとせしに御頂を見たてまつらず

竹杖外道とは釈迦在世の外道で、仏が一丈六尺の身長であることを疑って竹の杖で仏の身長を測ろうとしたがその竹杖がどうしても釈迦の身長に届かずに仏の身長を知ることができなかったのである。大御本尊を疑い科学判定しろなどと言っている連中は、まさしく竹杖外道そのもであり哀れなほど滑稽である。キミ達には大聖人仏法とは何であるかなど理解できるはずがないのである。とはいえ無信心人々や身延はまだそれでも良い方だ。最悪なのは学会員でありながら大御本尊を科学判定せよなどという狂言を吐く連中である。なぜならば創価の教義は「日蓮大聖人を末法のご本仏」としているからである。大聖人仏法といいながら大御本尊を科学判定しろなどと外道と一緒になって騒いでいる創価民ほど頭か逝かれている連中はいない。大本尊偽作説を唱えている創価民は一体自宅で「どんな本尊」に祈っているか?大御本尊は偽物だがその書写のコピーの創価本尊はホンモノとでも言うのだろうか?そんな主張は正常な人間の範疇を超えている。そういう創価民に限って自分の中に御本尊はある。と言い出すのである。ならば、まずは自分の胸でも腹でも切り裂いてお前の中にあるという御本尊を科学的・医学的に証明してみせなさい。いいか?謗法の創価民の諸君。富士門流の信仰者にとって大御本尊を科学判定しろ。というのは、お前の胸を掻っ捌いて己心の本尊とやらを見せてみろ。と言っているのと変わらないのだよ。謗法の創価民の諸君にとっては「だたのモノ」かもしれないが大聖人仏法の信仰者にとって大御本尊とは、わが身・わが命なのである。キミ達が自分の命を懸けて己心の本尊とやらまづは証明したまえ。大御本尊を科学判定せよなんていうのは、それをキミ達が実行してからの話だ。

さて、この件について先日紹介してもらった雅彦氏のブログには(以下太字は引用)

私が戒壇本尊の科学的検証を提唱したのは、最大の理由は未来の信徒の為である

などと書いてある。笑わすにも程がある。雅彦氏はタダの創価民だ。大御本尊を受持もしていない門外漢で信徒でも何でもない。
信徒でもなんでもない人間が我等信徒の心配など「大きなお世話」である。
ホントにそう思っているならば、まずは正宗に入信し自分が信徒になってからにいいなさい。赤の他人が他所様の本尊云々し、その信徒の心配する必要はない。他人が我等信徒の心配など無用である。むしろご自分の「創価脳」と死んだあと行き先を心配したらどうだ?また

純粋に日蓮仏法を信じる者ならば真実を求めるべきである。妄信に陥ってはならない。

などと書いているが、「純粋に大聖人仏法」を信じる者は、「大御本尊を科学鑑定せよ」などは言わないのである。
ついでに書くが「日蓮」と呼び捨てにもしないはずだ。
雅彦氏のような創価民は、信徒でもなければ純粋に大聖人仏法を信じる者でもないということだ。
要は彼のような創価民は単なる外道でしかない。
そんな外道たちが大御本尊を否定できない腹いせに「大御本尊を科学鑑定せよ」などといった所で
そんなモノまともに相手にするとでも思っているのか?
「正宗は科学鑑定から逃げた」と、顕正会ばりの印象操作しかできないとは本当にお気の毒である。
我々、日興門流・富士門流もそして信心ある学会員・顕正会員は、
このようなつまらぬ印象操作に惑わされることなく、大御本尊を受持していきたい。


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ミイラ取りがミイラになる。

俺のエントリーしてる日本ブログ村の「創価批判」村。
最近、当ブログの読者の天覇さんや鯛焼き支部長ブログを出禁?(笑)
になった梵我一如さんのブログが新たにエントリーされ少し賑やかになり良かった。
自分がアンチ創価だからなのかアンチ創価系のブログの方が読んでいて楽しい。
「創価村」にエントリーされているブログも含め、どうも学会員ブログってつまらない。
多分、創価系ブログは「信心」について書いていないから面白くないのだと思う。
大作センセとか創価の活動とかブログ主の体験談とか提灯記事ばかり。
たまぁ~にアンチ創価を批判している記事もあるけど、法門法義からの批判ではなく
新報や地涌などの自分達創価側の使い古されたテキストを基にしたアンチ批判で、
そんな主張に共感する人間がお仲間以外にいるのか?と思わざるを得ない。

さて以前当ブログのコメントで創価系ブログのいくつかを推奨していただいた。(天覇さんのブログとか)
創価系というよりもどちらかというよりもアンチ色ある創価系ブログのご紹介だったが、
その中のひとつの「創価学会と日蓮仏法と活動」というブログを久しぶりに読んだ。
ずっと以前に当ブログと俺のことも一度記事にしてもらったので時折読んではいた。
(俺へのプロファイリングはあまり当たっていなかったが)
ブログ主の雅彦氏(?)は創価民には珍しく教学を一生懸命学んでいる様子で、
創価臭が抜け切れていない部分があるにせよ、共感できる部分もあった。
一時、「気楽に語ろう」渡辺氏 や想学談林「運ちゃん」氏 などを批判(破折)していた。
渡辺・運ちゃん両氏はいわゆる「学術」中心の日蓮本仏否定論者だ。
それに対して雅彦氏は異議を唱え「日蓮本仏」を主張して批判していて共感する部分はあったのだが、
ここ最近の記事を読むと、御本尊の相貌のこととか開眼についてとか少し雲行きが怪しい感じになってきた。
まぁでもそれはそれで創価民である雅彦氏の立場ならば仕方のない事だと思うが、
今年になってからの記事だと思うが、「大御本尊の真偽を検証すべき 」などと言い出した。
その記事とは(太字は雅彦氏の記事から引用)

大御本尊の真偽の問題をハッキリさせる事が重要だろう。第三者機関に依頼し科学的に検証すべきだ。選択肢としては筆跡鑑定や筆法鑑定や放射性炭素年代測定などがある。これらを組み合わせて精度の高い検証をして貰いたい。

という内容である。この記事を読んだ感想は「ミラ取りがミイラになった」かぁ。である。
渡辺氏や運ちゃん氏が大聖人本仏・大聖人仏法を否定していることに関して散々批判をしてきた張本人が、
大御本尊を科学鑑定して真偽をハッキリさせろ。と言うなんて実に滑稽だ。
大御本尊の科学鑑定云々についてはまたそのうち記事で書くが、
結局、雅彦氏は大聖人仏法云々と言ってるのに、
「学問」を盾に御書を偽書としたり、大御本尊を偽物と結論付けている人達と全く同じ主張をしているわけで
彼自身が大聖人仏法が何であるか全く理解できていないのである。
これでよく渡辺氏や運ちゃん氏を批判できるもんだと思う。
俺から見れば「大御本尊を科学鑑定せよ」と言った時点で
残念ながら大聖人仏法に対する信心のない無信心の人と変わらなくなってしまった。
日興遺誡置文に曰く、

◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事。

いつも書くが、「科学的」とか「学術的」な方向に走って大聖人仏法を見失うのは
結局は、「義道の落居」つまり大聖人仏法の法門の筋道が分からないまま、他の学問を学んでしまうからなんだね。
渡辺・運ちゃん両氏は俺と同じ広宣部出身だから尚更そうなる可能性が高い。
広宣部出身者ってのは教学マニアが多く理解力もある人が多いからちょっと間違えると大聖人仏法から逸脱しちゃう。
俺も3年間くらい御書を離れ釈尊の経典や天台や龍樹挙句の果てには道元や親鸞まで読んだけど、
こうした釈迦仏法を学んでいくと、「法」が中心になってしまい「人(仏)」については稀薄になっちゃうんだよね。
そうなるといつのまにやら大聖人仏法から離脱してしまう。
いやその感覚ってすごく分かる。凄くわかるんだけどその仏法の知識はもう仏法じゃないって俺は思う。
雅彦氏に関しては恐らくは渡辺・運ちゃん両氏よりも教学的な知識は乏しいと思われる。
なので彼の場合は、大聖人仏法が何たるかという確信を持たないまま、
色々な知識に触れているうちに「大御本尊を科学鑑定せよ」などという方向にブレたのだと思う。
大聖人仏法の法門法義の筋道を理解しない創価民が大作センセのスピーチや創価教学を学ぶとやはりこうなる。
渡辺・運ちゃん両氏のように「大聖人仏法否定」であればそれはそれで特になんとも思わないが、
「大聖人仏法」の正当性を主張している人間が「大御本尊を科学判定」なんて言うのは、
雖讃法華経・還死法華心というものであり「大聖人仏法」を否定するより悪い。
大聖人仏法とは何か?それは「戒壇大御本尊」なのである。大御本尊の中に大聖人仏法の全てが存在する。
それ以外の所に大聖人仏法はないのである。大御本尊へ信を取ることが
日興上人のいわれる所の「義道の落居」なのである。
それなくして他宗の法門を学んでも意味がない。ましてや邪教の教えをや。である。
雅彦氏には早く「義道の落居」を遂げて欲しいと思う。
また彼のように教学が好きならばそれも可能だろう。
ただ、創価教学から脱皮する必要はあるが頑張って欲しいと思う次第だ。


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元創価職員3人組よ。大御本尊を口にするなよ。

久しぶりに元創価職員3人組のブログを読んだ。
というのも最近彼らが「大御本尊を信仰の対象から外した創価の教義」を批判しているということを知ったからだ。
ようやく彼等も多少は「信心」について真摯に考えることができるようになったのかと思ったのだが、
ヤツラはやっぱりな~んも分かっていない単なる糞ガキだったことがよくわかった。
記事のによるとヤツラの座談会の参加した会員さんから2014年の創価の教義変更について創価執行部への糾弾の声が上がったらしい。
(以下太字は3人組ブログからの引用)その会員さん曰く。

教義変更後に書かれたこの随筆には、『六大秘法』の一つである『法本尊』という言葉が、用いられているんです。 ということは、“学会本部として用いないこととした『六大秘法』を、池田先生が用いている”という矛盾が生じているんです。

大作センセは「法本尊」の言葉を使っているのに「六大秘法」用いないと言った本部は間違っている。ということだそうだ。
くだらなすぎて固まってしうが、3人組はそこから「今の創価執行部は間違っている」と本部批判を始めた。
ところが「「創価学会の教学を根底から覆す『教義改悪』を行なった学会本部」に対する提言」と題する記事の内容の酷いこと。
「大御本尊根本に教義を戻せ」といっている割には大御本尊に関する御書の引用はなく
「六大秘法」などど言っている割には日寛上人のご指南も皆無で
ひたすら大作センセの詐欺まがいのスピーチを引用している駄文だ。
コイツラの態度を見ていると、「大御本尊」は「法本尊だが、「人本尊は大作だ」と言っているようである。
「六大秘法」を口にしながら「一大秘法」を知らないとはとんだマヌケどもである。

「等しく『本門の本尊』である。」としておきながら、大石寺にある「弘安2年の御本尊」だけは「受持の対象としない」と特筆しているのです。 その目的は、「大石寺のみを切り離す」ということに他ならない。

などと創価本部を批判しておきながら同時に

日蓮大聖人の不二の弟子・日興上人は、富士大石寺を建立し大聖人の信心を護り抜かれました。しかし、腐敗・堕落した坊主らによって、日蓮仏法は700年にして白法隠没せんとしていた。

などと大石寺や日顕前法主をはじめ宗門の僧俗を腐敗・堕落などといい大石寺を「謗法の地」などと書いているのである。
「白法隠没」ってなんなん?「白法」ってのは釈迦仏法のことで大聖人仏法は大白法だ。その大白法が隠没するなんて大聖人が一体いつそんなことを言っているのか?それともコイツ等は釈迦仏法と大聖人仏法の違いさえもできていない無教学のアンポンタンなのか?はたまたこのアンポンタンこそが「池田教学」というものなのか?どっちにしてもこんなアンポンタンに大御本尊を何たるかなどと理解できているとは到底思えん。またその莫迦さ加減に輪をかけたように

初代牧口先生の一念によって、日蓮仏法は護られ現代に蘇った。

なんて言っている。おいおい、一体いつ大聖人仏法が無くなったのだ?「蘇った」というからには大聖人仏法が「無くなった」時期があったということだがそれは一体いつからいつまでなんだ。牧口ごときの信心が全く分かっていなかったジジイに一念で大聖人仏法がどうにかなるとでも思っているのか?牧口のジジイの一念ごときとご本仏の一念を同等だと思っているのか?ああ?どうなんだアンポンタンのクソガキ3人組さんよ。さらに言うにことかいて

創価三代の師匠が死にもの狂いで創られた創価学会の伝統教義を、根底から覆す破壊といってもよいものである。

とは何事だ。「大御本尊根本」という教義が創価三代の伝統教義だと?創価三代会長が創ってきただと?フザケるにも程がある。
「大御本尊根本」の教義とは我が日興門下の伝統教義でその教主はご本仏日蓮大聖人であり、700年間死に物狂いで守ってきたのは日興門流すなわち日蓮正宗の僧俗であってお前達創価ではない。大御本尊根本とは創価如きの伝統教義などでは断じてない。お前達の教義は大作根本であり、教主は大作だろうが。他人様の教義を勝手に自分のモノにし他人様の功績を自分の功績にするその厚顔無恥さは、まさにオマエたちの師匠である大作センセと同じだな。

要するにこの元創価のガキどもは、大本尊を自分達の仲間を繋ぎとめる手段として、
また創価執行部に対する攻撃のタマとして利用しているに過ぎない。
私利私欲のために大御本尊の名前を使っているだけだ。
そんなクソ野郎の発言を俺は日興門下として看過できないのだよ。
いいか、ガキども。大御本尊はお前達にはなんの関係もないのだから容易くその名を口にするのではない。
「大御本尊」はオマエ達クソガキ3人組にも、オマエ達が批判する創価執行部にも全く無関係な存在なのである。
オマエ等と創価執行部が確執していがみ合うのはオマエ達の勝手にすればいい。
でもな、オマエ達となんの関係もない「日蓮正宗」の信仰の根本である大御本尊を
オマエ達の政争の具に利用するんじゃねぇよ。お前らは謗法どうして勝手にいがみ合ってりゃいいんだよ。

そもそもオマエたちのいう「大御本尊根本」とは具体的にはどのような信心なんだよ。
大本尊のおわします大石寺を謗法の地といい、大本尊にお目通りすることはもちろんご供養のひとつもできないで
どうやって「大御本尊根本」の信心をするつもりだ?
だた会則とご観念文に「大」御本尊と書いてあればそれだけで「大御本尊根本」の信心になるのかよ?(嘲笑)
そのことについて詳しく書けよ。具体的な「大御本尊根本」の信心についてひとつもかいてね~じゃね~か。
足軽会だかなんだか知らね~が、お前らが「軽い」のは「オツム」の方だよ。
「大御本尊根本」って言えばいいってもんじゃね~んだよ。
所詮、オマエたちも現執行部と同じだよ。大聖人仏法を利用して、私利私欲のために会員さんを騙す創価体質そのものだ。
こんなくっだらないことしてる暇があったらちゃんと労働しろよ。本当に使えないガキどもだな(笑)
会員の皆さんもよく考えてみなよ。創価執行部もこの3人組も「根」は一緒だからね。

◆恣ままに三寸の舌を振いて衆生の眼目を抜き五尺の身を養わんが為に諸仏の肝心を滅す、併ら只仏法の怨魔と為り専ら緇門の妖怪と謂う可し。(念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状)

執行部もこのクソガキ3人組も大聖人仏法を利用し純真な信仰者であるいち会員を騙し利用しているだけのヤカラだよ。
本当に「大御本尊根本」とするならば、まずはこうしたヤカラから離れることです。
そして正宗や創価云々でなくまずは自分自身の信仰態度をを見つめ直すべきですよ。
自分は心から「大御本尊根本」の信心をしているのか?自問自答すべきです。


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教義論争は無意味なのか。

過日、鯛焼き君ブログを読んだついでに折角なので久々にシニフェイさんの「対話」ブログを読んでみた。
といっても最新記事とコメントを斜め読みしただけなのだが
この度ようやくシニフィエさんが「教義的なことはいわない」ということに気づいたみたい。
ご本人が言うように、興味も知識もない「教学」の話をシニフェイさんや彼のブログの読者の方がしたところでそれこそ無意味というか創価に隙を与えるようなものだからいい判断だと思うね。
鯛焼き支部長さん程度の教学に反論できないのでは、そこからは撤退した方がいいと常々思っていたいたのでシニフェイさんが気づいて良かったよ。ただ少しだけシニフェイさんに言わせてもらいたいのは教義論争が無意味というのは違うと思う。

以下シニフェイさんのブログから引用(太字)
「創価の教義のここがおかしい」と言ったことを伝えることに何の価値もおいてはいませんし、基本的に創価の教義は会員を騙すために適当に捏造したものなので、それに対して日蓮正宗の信者さんもムキになって教義論争をしているのも「何だかなあ」と思います。

かと言って私は日蓮正宗を批判のターゲットにはしません。教義については「何だかなあ」とは思いますが、日蓮正宗が信者を騙してお金を巻き上げていることはないでしょうから、特に批判はしません。批判はしませんが、協力する気もありませんし、何の興味もありません。

よくネット上では創価学会員と日蓮正宗の信者(元学会員)が日蓮の教義についてああだこうだと汚い罵り合いをしているところがありますが、それに何の意味があるのか一度考えたらどうですかと言いたいくらい無意味なことをやっていますよね。単に自分の考えが否定されてお互いに頭にきて喧嘩してるだけです。そう言った意味では創価学会員も日蓮正宗の信者さん(元学会員)も目くそ鼻くそだなと思っています。

まずこのように、正宗を批判する気がないといいながらちょいちょい正宗をDISるような癖は直した方いいと思うけどね。
「ボクは教学に関しては興味も知識もないのでそういった話はしません」でいいと思うのだが、
こうやって軽くDISらずにいられない所がシニフェイさんらしいプライドの高さというかなんというか性格的なものなんだろうね。
それに、誰がシニフェイさんに協力しようといったのかは知りませんが、普通の法華講員ならばシニフェイさんのような無信心かつ無教学の方に協力要請はしないと思われるので安してください。また逆に正宗を批判のターゲットにしてもらっても一向に構いませんよ。無信心で無教学で大御本尊を否定するという意味では、創価学会員もシニフィエさんも目糞鼻糞と私も思っていますから大丈夫です(笑)

さて、DISられた分DISり返したところで(笑)今日のテーマは「教義論争は無意味かどうか」です。
シニフェイさんや彼のブログで退会(覚醒?)した人は結構「教義論争は無意味」っていいますよね。
まぁ、確かに自分達の知らないことを話されても無意味で時間の無駄でしょう。
でもそれはシニフェイさん達にとって無意味なだけなんだよ。
ゴルフをやらない人にゴルフを熱く語っても無意味ですがゴルフ好き同志にとっては意味があるのと同じ。
で、シニフェイさん達がいうところの無意味の理由と言うのは私が理解するところでは
「世間の人はそんな話に興味がないから無意味である」というもの(合ってますかね)
確かにその通りだと私も思うんだけど、それを言っちゃったら世間の人々は「創価学会」になんて興味ないわけですよ。
だからシニフェイさんのブログにも世間の人々は興味などないわけです。
私は人気がない某プロ野球のブログを5年ほど書いるのだが、そのブログは5年ちょっとでアクセス数100万突破しているよ。
それだって別にたいした数じゃなく同じ球団の個人ブログでもっと多くのアクセス集めていブログもたくさんある。
シニフェイさんのブログは創価ブログの中では相当のアクセス数があるのだろうけど
世間一般的には不人気球団の個人ブログ以下のアクセスしかないわけです(笑)
つまり「世間の人が興味が無いから無意味」ならばシニフェイさんのブログだって無意味なんですよ。
まずそこを自覚しましょうや。私はそんなこと百も承知でこのブログを書いてますよ。

私は本ブログを広告収入の小銭稼ぎ目的て書いているわけではないのでアクセス数なんてどうでもいいわけです。
だから世間一般の創価に興味のない人たちに向けて書いているのでもないし世間受けを狙っているわけでもない。
私が本ブログを書いているのは主に学会員さんで信心をしたい人向けに書ているわけです。
教学にも興味ありません日蓮にも興味ありません。だから何も知りませんけど創価は詐欺だと思っています。
という人に書いているわけじゃないのです。
教義論争が無意味だという退会者の方は、結局日蓮仏法には無関心だった元会員さんだろうから教義の話を無意味と思っても仕方ないからそれ自体は否定しない。
でも、本ブログの読者の学会員さんで大御本尊の戻られた方も実際にいますし、本ブログ以外でも「教義的」誤りを指摘するサイトやSNSを経由して創価を退会したり正宗に戻ったりする人も大勢いる。
むしろシニフェイさんのようなスタンスのブログで退会(覚醒)する人の方が少数派ではないかと個人的な体感ではそう感じる。

何故そう思うのかというと私的にはシニフェイさんのロジックには結構無理があると思っているからかな。
多くの人が創価は詐欺だと証言しているからそれは真実である。というロジックは多くの人が創価で功徳の体験を積んでいるからそれは真実である。と言っている創価と同じロジックだろ。つまり自分の主張を「正」というなら創価の主張も認めなければいけない。そうでなければ甚だ不公平で独善的な主張と思わざるを得ない。
またこれでは数の多い方が「正しい」という話になる。ならば100万アクセスソコソコのシニフェイブログの証言よりその何十倍も長く多くの証言のある創価の方が正しいということなる。数的優位を言えば言うほど創価側に軍配が上がる。自分で自分の首を絞めるような行為だと感じる。
確かにシニフェイブログでの皆さんの証言は「真実」で間違いないが、その真実はあくまでも主観的な真実であり客観性に欠ける。
「ジャイアンツが一番ファンが多いのだから球界のルールはジャイアンツが決めるのが当たり前」みたいな言い草に聞こえるんだよね。
それでも何人かは創価を退会(覚醒)するだろうが、そのようなロジックでは創価に到底太刀打ちできないし
何よりも大聖人様はそのようなロジックでの破折はしていない。そのロジックはむしろ創価が好んで使うロジックだよね。

だからなのだ。だからこそ「教義(法門・法義)によって創価を破折しなければならない」のだ。
そもそも大聖人様の破折とは世間なこととか人数の多寡によっていない。
「誰それがこう言っている」ではなく、あくまでも法門・法義によって破折しなければ独りよがりの悪口にしかならない。
創価に所属してても退会してても「教義」に興味のない無信心の人には無意味に映るだろうが、
「信仰」をしている人たちにとってはこの「教義・法門・法義」こそ重要な意味ある事だろう。
私は創価の会員さん達は是非はともかく「信仰心がある」という事を前提とし、良くも悪くも「信仰者である」と信用している。
だから世間話に毛が生えたような話や、創価の犯罪だとか大作センセのスキャンダルとかの罵詈雑言と紙一重の話ではなく、あくまでも法門法義で創価を破折しようと思っている。こうみえても私は創価の会員さんをある程度リスペクトしているつもりだ。
「創価にだったら何を言っても何をしてもいい」みたいな某半島の国のような真似は自分の中ではするつもりはない。
なんにせよ意味があるかないかは他人が決めるもんじゃない。なのでシニフェイさんのブログも意味があると解釈している。
私とはスタンスが合わないが今後は教義論争をやめひたすら彼のやり方で創価を批判していただきたいと思っている。
アンチ創価にもいろいろいるが、「創価は不要」という部分は一致しているのだから。


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ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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