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御講拝読御書研鑽(2021年5月・妙心尼御前御返事)

浄名経涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候、病によりて道心はをこり候なり、又一切の病の中には五逆罪と一闡提と謗法をこそおもき病とは仏はいたませ給へ今の日本国の人は一人もなく極大重病あり所謂大謗法の重病なり

今月の御講拝読御書は「妙心尼御前御返事」でした。本抄は短い御書ですが自身の信心の糧となるお言葉がちりばめられている御書ですので是非、通読してみてください。さて最初に【病によりて道心はをこり候なり】という有名な御文があります。文に則せば一応は「身体的病=病気」のことですが、「病」というのはいわゆる病気だけはなく、経済苦など生活上の全ての苦悩が「病」に当たります。我々凡夫は苦しみや悩みがないとなかなか信仰心がおきません。「悩みがないから題目があがらない」と公言する人も多くいます。苦悩に直面してやっと本気で道心(信仰心)が生まれるわけです。さて、題目をあげながら身の上に起きている苦悩の原因を突き詰めていくと結局最終的には「過去世の謗法」に行きつきます。身に覚えがある事もあるでしょう。例えばギャンブルで借金苦になってしまっていたら原因はギャンブルなんですけどではなんで借金するほどギャンブルにのめり込んでしまったのか?と突き詰めれば結局は自分では「分からない」わけです。しかし三世を知るご本仏はその根本原因を「五逆罪・一闡提・謗法」であると教えてくれているわけです。そして「五逆罪・一闡提・謗法」の中でも更に「大謗法」が極大重病であるというのです。つまり身の上に起こる様々な苦悩という病を引き起こしてる根本原因は「大謗法」にあるということです。よく謗法と五逆罪を混同する人がいますが(創価民が正宗のことを破和合僧の謗法といいますが破和合僧は謗法ではなく五逆罪です)「大謗法」は「五逆罪・一闡提」よりも重病(重罪)なのです。
◆五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり(呵責謗法滅罪抄)
しかもこの「謗法」という根本の重病は今回の拝読部分の次下に、
◆あまりに病おもきゆへに我が身にもおぼへず人もしらぬ病なり
と書かれているように自覚症状もなければ他人も分からないステルス癌のようなものなのですね。これを治癒するためには本抄に
◆謗法の大悪は又法華経に帰しぬるゆへにきへさせ給うべし
と書かれています。ここでいう所の「法華経」とは
◆此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし、南無妙法蓮華経は師子吼の如しいかなる病さはりをなすべきや(経王殿御返事)
とのご指南の通り、曼荼羅本尊のことであり一大秘法に戒壇大御本尊のことです。ここ大事ですよ。上記御文の「師子吼」というのは「本尊」のことであり「唱題」ではありません。病を治癒する力があるのは本尊なのです。根本の大御本尊を離れた題目に大謗法を消す力はありません。それどころか大謗法に大謗法を重ねることになり更に病は悪化するのです。話を戻しますが全ての苦悩の根本である大謗法は我々凡夫は知ることができません。だから仏は私達が分かるように病気や貧乏などという苦悩を与えて気づかせて道心を起こさせて根本の大病を治療させようとしてくださるわけです。今回の拝読箇所の直前に【このやまひは仏の御はからひか】と言われているのはそのような理由からです。つまり現在どんなに苦しくて辛くてもそれはご本仏が計らった仮の病です。ですから【道心】を起こせば必ず乗り切る事ができるばかりがそれ以上に幸福になれるということです。ご本仏が作り残された【色香美味】の良薬である戒壇大御本尊を手にし飲むことができるのは法華講だけですから、楽しく喜んで自行化他の題目を唱えていきましょう。


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創価教学じゃない御書講義(2021年5月座談会御書・立正安国論)

帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せば豈驚かざらんや豈騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か

はい。今月の座談会御書はこの立正安国論の御文ですね。いやいや実に分かりやすい。要は「選挙の戦いしろよ」って話ですね。なにせ当該御文は創価が選挙をする意義を無理やりこじつける唯一のテッパンの御文であり、創価切文教学の象徴ともいえる御文です。創価が言うには信仰者として自分の幸福だけ祈るではなく社会や世界の安寧・平和を祈ることが大切でその一環として政治に関わるらしいです。だから選挙=立正安国=信心なんだそうです。こんな切文のコジツケを真剣に言う莫迦杉君達が政治になんて関わって欲しくないと思うのは私だけでしょうか?そもそも、立正安国論に大聖人が政治について言及している所なんてありません。ちゃんと立正安国論を学んでいるんですか?大聖人は世が乱れ人民が苦しむ原因は、
◆世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る
と神天上の法門を示されています。そして人々が正法に背くのは邪法を弘めるヤツがいるからで、そういう邪法を弘める人間こそが世を乱し人々を苦しめている「一凶」である。と言われてます。故に
◆如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
と言われているわけです。そうした全体の中で【汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か】と言われているわけですよ。四表の静謐を祈るのは万祈を修めることであり。それよりも「一凶」を禁しなければ社会や世界の安寧・平和はない。というのが大聖人のご指南です。だから選挙=立正安国=信心などという方程式は創価が会員に選挙運動をやらせるための詭弁でしかないのです。では、【四表の静謐を祈る】とはどういうことなのか?確かにコロナ収束や世界平和を祈ることも一理はありますが、その根本は【一天四海本因妙広宣流布】の祈りなのです。そして【一天四海本因妙広宣流布の祈りは】必ず折伏・弘教になって顕れるわけです。大聖人は「如説修行抄」で、
◆法華折伏破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり
と言われており広宣流布以外に平和世界の実現はありません。だからこの立正安国論の最後に、
◆唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。
と折伏勧奨をされているわけです。選挙を立正安国論に結び付けるのは大聖人の仏法を矮小化する冒涜です。それにそもそもが創価こそが一凶でありその創価が支援する公明党もまた一凶です。立正安国論では法然(選択集)を一凶に指定しますが何故選択集が一凶であるかといえば、
◆捨閉閣抛の字を置いて一切衆生の心を薄んず
とあるように、法然は正法である法華経を「捨てよ、閉じよ、閣[さしお]け、抛[なげう]て」と言って多くの人々に捨てさせたからです。そして現在では末法のご本仏・日蓮大聖人の色心二法であり末法衆生成仏の本因である戒壇大御本尊を多くの人々に捨てさせている創価こそ一凶であることは御聖訓に照らして明らかなのです。「一身の安堵を思わば」まず創価とは関わらない。創価の依頼は聞かない従わないことです。「金」(聖教新聞の購読など)も「時間」(創価の会合にいくなど)も「票」も何一つたりとも創価に施してはいけません。創価会員の皆さんもですよ。貴方が創価をやめればその分世界平和に近づくのですよ。
◆所詮国土泰平天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり楽う所なり、早く一闡提の施を止め永く衆僧尼の供を致し仏海の白浪を収め法山の緑林を截らば世は羲農の世と成り国は唐虞の国と為らん、然して後法水の浅深を斟酌し仏家の棟梁を崇重せん。(立正安国論)
最後に、以前書いた立正安国論の題号だけ講義をリンクしておきます。

題号だけの御書講義②(立正安国論)


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日興遺誡置文の研鑽④

日興遺誡置文の研鑽の第4回目です。今回は2項目です。では早速はじめます。

一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。
まず「学問未練」とは一応は「教学がまだ完全ではない」という意味ですが、これは広く我等・末法の荒凡夫全員を指します。どんなに教学が有ると自負しようが所詮私達は凡夫ですから大聖人仏法の法門法義を完全に理解できることなど不可能です。よって私達は全員「学問未練」の者なのです。それにも関わらず、指導者ぶって自分が全てを知っているかのように法を説くのは実に傲慢なことであり、しかもそれが自分の人気取りや利益ため(名聞名利)の言動であればその人は日興上人の弟子でないと言われています。名聞名利で法を説く人物を仏法では「食法餓鬼」と呼びます。
◆食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり(四条金吾殿御書)
上記に御書の御文には「出家」と書いてありますが、これは鎌倉時代においては出家の僧侶以外に仏法を説く人がいませんからこのような表現になっていますが現代においては在家でも仏法を説く人は大勢いますから食法餓鬼は出家に限定されません。まさしく、創価には池田大作を筆頭に末端の幹部に至るまで全員がこの食法餓鬼です。創価では日興上人を僧宝と呼んでますが、その日興上人から「予が末流ではない」と言われているのですから憐れなものです。ならば私達は「儲けたい」「異性にもてたい」とかいった自分の欲望を祈ってはいけないのかといえばそうではありません。日寛上人は立正安国論の文段で次のように御指南されています。
◇縦い名聞の為にもせよ、若しは利養の為にもせよ、身に妙法の行を立て、口に妙法の行を説け。或は身を仏前に運び、口に妙名を唱えよ。若し爾らば意業は自ら妙法の大善に入るべきなり云云。
要約すると、たとえ名聞利養を求めて信心を初めたしても、正しいご本尊に向かいご本尊を信じて本門の題目を唱えるという、身・口で正行を行えば自然と心(意)も名聞名利に囚われなくなっていくのです。つまり日々の勤行唱題を正しく行っていくことです。また、
◆後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし(新池御書)
との大聖人のご指南をしっかりと守っていく事が肝要です。登山や参詣そしてご供養をしていくことが名聞名利に陥らないための実践であり、日興門流としての在り方だと思います。

一、予が後代の徒衆等権実を弁えざる間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文す可き事。
「徒衆」とはご僧侶方の事です。本条項においては「権実」と書かれていますが、これは日興上人の時代においては五老僧でさえ権実相対が理解できていなかったので一応「権実を弁えざる」と書かれただけで実際に弁えるべきは種脱相対です。またこの権実とは釈迦仏法では法華経(実)と爾前経(権)ですが、大聖人仏法においては、実教とは南無妙法蓮華経の大聖人仏法であり、釈迦仏法は法華経を含め全て権教となります。「出離証道」とは成仏という意味で、即身成仏の大聖人仏法を学ぶためには父母師匠の恩を振り捨て本山の詣でる。即ち出家しなさいということです。なぜ本山で学ぶのかといえば大聖人仏法は相伝仏法ですからただ学問を学べば出離証道が可能になるのでありません。血脈付法の法主上人に給仕して初めて本当に意味での「学び」になるわけです。その為には父母等の恩を捨てなければ修行ができないからです。一読すると両親の恩を捨てるというのは酷いように感じるかもしれませんが実は仏法の為に父母等を一時的に振り切る事こそが最高の報恩になります。
◆仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母師匠国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母師匠等の心に随うべからず(報恩抄)
との大聖人のお言葉に通りです。本条項はご僧侶に対する遺誡ですが私達在家信徒にも通じる条項です。信心をするに当たり両親などの家族や友人に反対されることもあるでしょうけどそうした反対意見に従うことなく信心を貫く事が自身も父母等も成仏することになりそれが一番の報恩なのです。創価民が池田先生や両親に対しての恩を本当に感じているのであれば今すぐ創価を去って戒壇大御本尊の許に戻り父母や師匠のことを祈る事が真実の報恩であるということです。「学会のお陰」「池田先生のお陰」というのは世間的な恩でしかありません。モチロン世間的な恩義を大切にするのは悪い事ではありませんが、仏法者であるならば仏法での報恩を一番に考えるべきでしょう。


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御講拝読御書研鑽(2021年4月・開目抄)

大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。
今月の御講拝読御書は「開目抄(下)」でした。開目抄については以前「題号だけの御書講義」という記事を書きました。

題号だけの御書講義①(開目抄)

では、今回の拝読範囲の研鑽をしていきたいと思います。まず【大願を立てん】とありますが、大聖人の立てた大願の内容とは◆御義口伝に云く大願とは法華弘通なり(御義口伝巻上)と言われているように顕正会のいうような「国立戒壇の建立」などはなく「法華弘通」です。これが大聖人の大願ですから当然大聖人の御遺命も「国立戒壇」ではなく「法華弘通」です。何故かと言えば「法華弘通」こそが一切衆生成仏の方法だからです。そして具合的に何を弘通するかといえば「本尊」です。本文で【我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず】とありますが、この部分は「柱=主徳」「眼目=師徳」「大船=親徳」と大聖人が主師親三徳具備のご本仏であられることを明かしていて、この「主師親三徳」とは、◇三徳有縁を本尊と為すべし(末法相応抄下)と日寛上人のご指南にあるように、大聖人の色心二法であり「本尊」なのです。ここでいう「有縁」とは末法の衆生に「縁がある」という意味です。この辺については「六巻抄」の学習の時にまた詳しく書きますが、大聖人の色心二法の本尊とは戒壇大御本尊ですから、この戒壇大御本尊に備わる仏力・法力即三徳の功徳を弘通することが大聖人の大願であり御遺命であり我等門下の使命であり誓願です。そして「法華弘通(折伏)」の上で大切な心構えを【智者に我義やぶられずば用いじとなり】と言われています。もとより大聖人の法門法義が他者に破られることはありません。それは700年来の宗門の歴史を見ても明らかです。それを確信することが破邪顕正の折伏を行う上でのキモです。折伏・対論で反論できないことも有るかもしれませんが、それは自身の勉強不足だけの話であり決して大聖人仏法の法門法義が不完全なわけではないのです。その時に自分が反論できなくても学べば必ず邪義を破折することができますから自信をもって破邪顕正の折伏を実践していくことが大切です。さて今回は、【法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも】の部分を深堀りしたいと思います。今回拝読部分の直前に◆善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべしと書かれていますが、当該部分を日寛上人は文段の中で◇「『日本国の位を譲らむ』とたばかるは善につけてなり。『父母の頸をはねん』とおどすは悪につけてなり。是れ世間の極善・極悪を挙ぐるなり」と解説されています。「謀り」と「脅し」とはまさに創価や顕正などが会員に対して行う常套手段ですね。「この信心(創価の信心)をすれば必ず幸福になる」とたばかり、「創価を辞めたら地獄に落ちる」と脅すわけです。それはさて置き私が今まで見て来たり自分を振り返る時に思うのは信心が停滞してしまう原因は「善悪」二つのパターンがあって二つのタイプの人がいます。自分の願いが叶ったり悩みが解決したり又仕事や遊びが充実して楽しくなると信心が疎かになってしまう「善につけて信心が停滞するタイプ」と悩みがたくさんあって毎日が苦しくなったり精神的に弱ってしまうと「信心なんてしている場合じゃない」といって信心が疎かになる「悪につけて信心が停滞するタイプ」です。私はどちらかというと「善につけて停滞するタイプ」かもしれません。だから日々の苦悩がなくならないのかな?なんて思います(涙目)どんな時でも信心を根本にすることが大切ですよね。苦悩の最中でも大聖人を信じ歯噛みしながら題目を唱え、功徳に溢れていたら報恩感謝の心で題目を唱える。◆苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へこれあに自受法楽にあらずや(四条金吾殿御返事)これが信心というものなんだと今更ながらに思います。またいかなる理由があろうとも末法の主師親三徳の当体である戒壇大御本尊を捨てれば地獄の業を積みます。仮に創価本尊でも功徳が出たとしても戒壇大御本尊を捨てれば地獄行きの業を積むわけです。創価本尊で功徳が出るから大御本尊は必要ないなどいうロジックは間違っているし通用しない。それが大聖人の御妙判なのです。ともあれ我等大聖人門下は楽しくても苦しくても自行化他の唱題を重ね大聖人の大願を受け継いでいくのが大切で、そこに即身成仏・一生成仏があるのです。私もそのことにようやく気が付きつつあるところまではきました。なので最近では「飲む前に夕勤行」ができるようになりました(笑)


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六巻抄拝読の為の基礎知識⑨(依義判文抄①)

今月から「依義判文抄」です。六巻抄その名の通りは全部で6個の「抄」がありますが、前半の「三重秘伝抄」「文底秘沈抄」「依義判文抄」までは「化法」についての御指南になっており、後半の3抄は「化義」についての御指南になっています。この前半の3抄を一つの大きな「抄」と捉えるとこの「依義判文抄」は大聖人仏法の化法における根本・主題が書いてあるいわば【結論】が書かれている「抄」です。今日はキリがいいところまで書きたいので少し長めになりなると思います。

◇明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟くも糟糠を執し橋を問う、何の益かある。而も亦謂えること有り、文証無くんば悉く是れ邪偽なり
最初に「文(証)」と「理(義理)」の関係です。「糟糠を執し橋を問う」とは『大方等陀羅尼経第三』に説かれる求道者の愚行のことで、その内容とはある僧侶が大施会に行く途中の橋について智者に色々と質問しているうちに大施会が終わってしまったという間抜けな話で。「橋」とは「文」の譬えです。「文」の枝葉末節に拘り「理」を得ることができない愚行を説いています。身延学者などのがこのタイプです。御書の真偽をあれこれ論議するばかりで肝心な大聖人仏法にたどり着かないタイプ。闇者です。一方で「文証」のない主張をする創価民もまた「邪偽」です。橋を渡ってもいないのに大施会へ行ったと嘘をいうのが文証無視の創価民です。文とは理を説明したものですから理を知ることができなければ文を読む意味はなく、また文を離れて理を説明することできない。では、正しく「文」を読むにはどうすればいいのかというと「依義判文」して読みなさいというのが日寛上人の御指南なのです。なぜそれが可能であるかというと既に三大秘法という義理が顕されているからです。

◇故に開山上人の口決に慣ならって謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏に広宣流布の為なり、必ず其の近きを以て之を忽せにすべからず云云。
そこで本抄で日寛上人が日興上人の「上行所伝三大秘法口決」に倣い法華経の文を「依義判文」するわけです。そしてこの「依義判文」に書かれていることを忽せにしてないけない。と言われています。これを蔑ろにしているのが今の創価です。

◇撰時抄上に曰く「仏の滅後、迦葉・阿難・馬鳴・龍樹・天台・伝教の未だ弘通したまわざる最大深秘の大法経文の面に顕然なり、此の深法今末法の始め後五百歳に一閻浮提に広宣流布す」等云云。問う、夫それ正像未弘の大法、末法流布の正体、本門の三大秘法とは一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、寿量品の中には但文底秘沈の大法なり、宗祖何ぞ「最大深秘の大法経文の面に顕然なり」と言たもうや。答う、一代聖教は浅きより深きに至り次第に之を判ぜば実に所問の如し。若し此の経の謂れを知って立ち還って之を見る則は爾前の諸経すら尚本地の本法を詮せざること莫し、何に況や今経の迹本二門をや。天台大師玄文の第九に「皆本地の実因実果、種々の本法を用いて諸の衆生の為に而も仏事を作す」と云うは是れなり。故に知んぬ、文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し。故に「経文の面に顕然なり」と云うなり。
ここは、「開目抄」や先の「三重秘伝抄」などでは三大秘法は文底に秘沈されていると説明しているのに、大聖人は「撰時抄」で文の面(文上)に顕然としていると言われているのは何故か?という質問があり、それに対し浅いところから順次判断すれば文底秘沈となるが、文底の義を知りそこから立ち返って法華経を読めばその文上に三大秘法が説かれていると回答します。この「浅いところから順次読む」のは「依文判義」の読み方で相待妙で、「文底の義から読む」のが「依義判文」で絶待妙です。その後、日興上人が神力品の文を依義判文した「上行所伝三大秘法口決」の御文を挙げます。すると問者は、神力品以外にも文上に三大秘法が説かれている法華経の文はあるか?と聞いてきます。そこで日寛上人は「それが聞きたければまずは三大秘法の開合を知らないとわからない」と回答し、そこから三大秘法の開合についての御指南に入ります。

◇問う、若し爾らば三大秘法開合の相如何。答う、実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。 又本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義を成す、此の六義散じて八万法蔵と成る。例せば高僧伝に「一心とは万法の総体分かって戒定慧と為り、開して六度と為り、散じて万行と為る」と云うが如し。当に知るべし、本尊は万法の総体なり、故に之を合する則は八万法蔵但六義と成り、亦此の六義を合する則は但三大秘法と成る。亦三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり。若し此の開合の意を得ば亦所引の文意を得ん云云。

この三大秘法開合の御指南が、本抄のみならず六巻抄全体を通しても一番大切な部分であり大聖人仏法における根本的な教義です。この御指南の中の「一大秘法」の部分だけを戒壇大御本尊を捨てた自分たちに都合が悪いからと言って勝手に不採用にしたのが今の創価教学です。【若し之を了せずんば経文を引くと雖も恐らくは解し易からじ】と日寛上人が言わるているように、三大秘法開合の義を不採用にしてしまえば御書を読んだところで理解できないのです。いまの創価教学が全く大聖人仏法になっていないのは三大秘法の開合、就中一大秘法の義を用いないからです。そもそも、三大秘法の開合のうち「合」の義とは大聖人の御書に説かれている「南無妙法蓮華経」を会通するための法義なのです。大聖人の諸御書には「南無妙法蓮華経の題目」について「口唱題目」のことであったり「本尊」のことであったりその時や相手によって様々な角度から判じています。これらの諸御書を過ちなく判断するための会通を加えたのが「三大秘法の開合の法義」です。簡単に説明すると、「南無妙法蓮華経」には、「体・用・相」の3種の立てわけがあります。「本尊」は「体」であり「題目」は「用」であり戒壇は「相」です。この南無妙法蓮華経の「体・用・相」が三大秘法なのです。そして題目は「体である本尊の用」であり、戒壇は「体である本尊の相」なのです。よって「題目」と「戒壇」は「体である本尊」に付随しているのです。体を離れて「用」「相」が単独で存在する訳がありません。よって「一大秘法」とは「本門の本尊」であり、そこから三大秘法が開かれるのです。ゆえに日寛上人は【本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり】と一大秘法の本門戒壇のご本尊に三大秘法が総て存在すると御指南しているのです。この誰でも分かる道理を無視して屁理屈をつけて一大秘法義を否定しているのが今の創価なんですね。だから「題目をあげれば功徳がある」などという間違った創価教学を信じてしまうわけです。更にお笑いなのが彼らは「本尊を信じて唱えるのが本門題目でその場所が本門戒壇である」といいます。そんなことは御書のどこにも書いていない。また彼らはある御書に書いてある「法華経の題目」という文を「ご本尊」と変換したりします。彼らがそのような解釈をすることができるのは、すべてこの日寛上人の三大秘法の開合の義を採用しているかに他なりません。それにも関わらず彼らは日寛上人の三大秘法の開合の義を「不採用」にしているのです。これほどの自語相違のインチキ教学はありません。日寛上人のご本尊を改竄して利用するだけでなく、日寛上人の御指南まで改竄して利用する。これがいまの創価なのです。話はそれましたが、この三大秘法の開合の義は非常に大切な法義です。ですから私達が御書や経典を読むときは一大秘法から立ち返って読むことが大切になります。私が「御書は全て戒壇大御本尊の説明です」というはこのような意味です。私達はすでに一大秘法の戒壇大御本尊を知っているのですから「依義判文」して御書等を読んでいくことが大切です。これが分かると「御書」が本当に理解できるようになるんですよ。そうなると創価や顕正のインチキ教学もすぐに見抜けるようになります。私の体験談ですけど本当ですよ。

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Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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