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法華講員の育成

私の所属寺院で「地区編成」をするそうです。なるべく住んでいる地域ごとに地区を再編成するらしいです。創価式のいわゆる「横線」って感じなんでしょうかね。まぁ個人的には特に影響もないのですが地区編成の理由を地区長さんに尋ねたら「折伏・育成」の強化?らしいです。他の寺院でそれで成果を上げているようなのでそれに倣ったようです。いいと思った事は真似るのも大切な事ですね。「育成」というと私的にはやはり「教学」だと思います。創価活動家時代の体験に基づいてそう思うんですけどね。私が創価の会合・活動に参加し始めた時に感じたのが「日縁大聖人の信心が知りたいのに教えてくれない」ということでした。学会活動の事や池田センセのことは手取り足取り教えてくれるのですが肝心の大聖人の仏法を教えてくれないわけですよ。任用試験を受験するときにようやく大聖人仏法のことが学べたっていう感じでした。そこで私は自分が幹部と呼ばれるようになり会合を企画できる立場になった時に、教学中心の会合にしました。部活はほとんど教学。そして地区リーダーや活動家には、「部員さんに最初に教えることは学会活動のやりかたではなくて大聖人の仏法だそ」といつも言ってました。結果は会合や活動に参加するメンバーが2倍3倍と増えていきました。そんな経験から私は「育成は教学にあり」というのが持論なわけです。確かに会合に来たり活動に参加したりする人数が増えるのは活動者側からすれば「目に見える結果」なんですけど、そればかりを追っていくと方法論に走ってしまって本当に育成にはならないと思います。育成っていうのはその人を一人の信仰者として自立させることであって単純に活動家を増やすということではないと思います。正しい信心を教えないと多くの創価民が退転したようにイザというときに信仰が役に立たなくなります。自立した信仰者とは法華講員でいうと、五座三座から始まって、御講への参詣・登山・ご供養そして折伏を自主的にしていける人が自立した信仰者なわけです。そのためにはどうしたらいいかといえばこれはもう理屈で分からせるしかないと思うわけです。確かに信心は理屈ではありませんし行動がなければ本当の信心とはいえませんけど、それは既にある程度信心の基礎がある人がいうセリフで自分が何をしているのか分かっていない状況で「勤行」「参詣」「折伏」っていわれても出来るはずもないし面白いわけもない。だから最初にやるべきことは「教学」だと思うわけです。私が正宗に移籍して法華講員さんと触れ合って感じたのは、信心に対する行体が素晴らしいということです。学会員の御本尊や仏具等に対する扱いとはと雲泥の差で驚くともに素晴らしいなぁって感じ自分も学会時代とは比べものにならないくらいお給仕等の行体が改善されました。一方で教学という部分では創価の方が歩があるなぁと感じたのも事実です。法華講には教学試験がないから仕方のでしょうが、難しい法門法義ではなく基礎教学の部分を知らない人が創価に比べると多いと思いました。もちろんそんな事知らなくても正しい信心はできますが、「折伏」や「育成」をしていくのであれば「教学」は絶対に必要だと思いますし今の法華講員さんに更に教学が身についたら「鬼に金棒」です。「学」というと創価でも法華講でもそうですが何となく重要性が低いように思われがちなのですが、行学の二道は一体です。あえて分けて言うなら、「行」は正行で「学」は助行ですかね。そして「行」と同様に「学」にも自行化他があります。自分の信心を強めたり退転しないための教学は自行の学で、折伏・破折、育成など相手を説得しコンセンサス得るための教学が化他の学です。この自行化他の学は行と一体の学であり行学の二道は不二だと思っています。逆に言えば、自行化他に属さず「行」と一体にならない「学」は「教学」とは言いません。そのような「知識」はトリビア=つまらない豆知識ですからそれこそ不要です。話がそれましたが育成の根本は教学にあると思います。ネット等をみていると折伏が出来ている寺院の法華講員さんは他の寺院の法華講員さんより教学を勉強しているなぁと感じます。また教学が分かってくると信心も楽しくなってきます。仕事だって新入社員で何も分からず言われたことをこなすよりも、仕事が分かってきたて自主的にできるようになった方が楽しいですからね。何でもそうですが「分からないことをやる」ことほど退屈な作業はありません。創価の選挙活動なんてまさに「つまらなさの極致」でしたね(笑)そんなわけで個人的な意見としてはまずは地区長さんとかの活動している法華講員さんから教学力をつけていく事が育成につながるのかなぁと思っています。と他人事のように書いてしましたが、私も自分の折伏した人達を育成し多少なりとも所属寺院ひいては大聖人の力になれるよう尽力したいと思っています。


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宗祖・日蓮大聖人ご生誕800年、おめでとうございます!

今日は待ちに待った宗祖・日蓮大聖人のご生誕800年の御正当会。全国・全世界の日蓮正宗の僧俗のみなさん、大変おめでとうございます。各地の寺院では記念の法要が行われていることと思います。私の菩提寺でも法要が行われていますが、コロナの緊急事態宣言下ということで人数が制限されていて残念ながら私は法要への参加はできませんでした。しかし今朝、自宅の仏壇にいつものお菓子とお酒に加え果物とお赤飯をお供えし朝の勤行唱題の折に大聖人様へご生誕800年の祝辞と感謝を申しあげ、先ほど菩提寺に立ち寄りご住職にご供養をお願いしてきました。また昨年の100日唱題行後も今日の日を目指して一日2時間以上の唱題を続け、2か月で約40万遍の題目のご供養も添えることができ、法要には参加できませんでしたが晴れ晴れとした気持ちでこうしてブログを書いています。800年前の今日、日蓮大聖人は【毎自作是念以何令衆生得入無上道速成就仏身】との産声(産湯相承事 )とともに最初で最後となる娑婆世界への生誕をなされました。その後、戒壇大御本尊という不滅の相をもって今もなお【常住此説法】のお姿を現じていらっしゃいます。実に有難く尊いお姿です。振りかえれば約30年前に日蓮正宗創価学会に入信・入会し、その後破門後の創価で男子部の活動家となり、宗門・日顕上人に敵対しやがて創価の組織を追放され流浪のような身となっていた自分が3年ほど前に戒壇大御本尊の許に戻り、そして今日の宗祖生誕800年の大佳節の日を法華講の一員として迎えることができたのは不思議の因縁と思えます。会い難き人身を受け会い難き仏法に出会えたことだけでも一眼の亀が浮木に出会えた喜びですが、更にこのような大佳節に大聖人の弟子旦那の末席に座り寿ぐことができたのは、まさしく今世人界の一番の思い出であろうと感じています。そして今日から次の宗祖ご生誕900年に向けて自行化他の信心の歩みを進めていきたいと思います。もとより宗祖ご生誕900年まで私の今世の寿命は持ちませんが100年後もまた日蓮大聖人の弟子旦那として生まれその場に立ち会いたいと思っています。次回の900年の時は法要にも参加できるように頑張ります(笑)その時を楽しみに今日からまた心機一転、「信行学」に励んでいきたいと思います。本日は、本当におめでとうございました。


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100日唱題行が終わりました。

9月7日から始まった100日唱題行が昨日終わりました。1日2時間唱題を100日間。昨晩の8時過ぎに最後の2時間唱題を終えてついに満行。やり切った感がありましたね~。1日2時間というのがポイントでした。1週間で14時間なら休日の時にまとめて唱題すればいいのだけどそれだと1日2時間にならない。私は唱題行が始まる前までは1日1時間から1時間半の唱題をしてたからあと30分延ばせばいいから楽勝かなと思っていましたが、外出や外泊の日の2時間は結構大変でしたね。朝から出かけるときは出かける前に2時間唱題をしてから外出したり外泊の時はホテルの部屋で唱題したりという時もあったけど1日2時間100日間をクリアしました。いままでこんなに唱題したことないだろうって感じでした。創価では唱題会はやるけど100日唱題行なんてやらないしね。とにかくやり切ったことに充実感はありました。「毎日2時間も題目上げたってそんなに祈る事なんてないだろう」って思う人も大勢いると思うけど、唱題って別に「願いを祈る」ために唱えるわけではないんですよ。少し前にMCさんへのコメントにも書いたけど、唱題は「願いを叶える呪文」じゃなくて「成仏するための修行」なんですね。私もそれに気が付くまでは唱題と言うと何か悩みがあったり願いが有ったりを祈る事だとばかり思ってました。だからあまり題目が上がっていなかったし題目上げているときは「お願い事」ばかりしていました。でも唱題は「願掛け」じゃなくて「修行」なんだと気づいてからは唱題行も楽しくできるようになりました。創価男子部時代に部員さんからよく「悩みがないから題目があまりあがりません」と言われたけど、その当時は「悩みがない?折伏もできていないのに悩みがないのか!」なんて言ってましたけど(笑)いまならそんなこと言いません。「お題目は成仏の為の修行なんだから悩みがあるとかないとかは関係ないんだよ」と優しくいいます。功徳の有無も関係ありません。あくまでも成仏への修行ですから功徳があっても無くても、悩みがあってもなくても修行するわけです。その修行のオマケとして功徳が存在するだけの話で最初から功徳狙いの行為は修業とはいえません。だから何の苦悩がなくても唱題はするものです。偉そうに言っていますが私も創価時代には変な題目をあげていました(テヘペロ)今は唱題行とは「総体の修行」だと捉えています。「別体の修行」とは、参詣・登山、ご供養、折伏ですが勤行唱題はそれら別体の修行を全て含む総体の修行です。その理由はまた近いうちに書きますが、唱題行は成仏する修行であると捉えられると、苦悩や功徳があってもなくても唱題行を積極的に行うことができますし、創価民のように「池田先生との師弟誓願の祈り」などという莫迦げた祈りはしなくなります。これもそのうち書きますが「池田先生との誓願の祈り」は祈り方として全く間違っているので創価民の人で幹部から「誓願の題目」なんていうインチキ指導を受けて実践している人はやめた方がいいです。そうやって祈っていたら【絶対に祈り・願いは叶いません】これは教学的に間違いありませんから。というわけで100日唱題行を無事終えることができましたが今日からまた心機一転「総体の修行」である唱題行を実践してきたいと思います。全国の法華講員の皆様も100日唱題行お疲れ様でした!


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御報恩御講と座談会。

今週末は月に一度の御講があります。私が法華講になったばかりの頃は創価感覚がまだ抜けていなくて御講は創価の座談会と同じような感覚で「行けるときだけ参加すればいいや」と思っていました。実際に最初の頃は御講に参加しないこともありました。御講でやることは勤行・唱題をしてご住職の法話を聞くだけで、創価の座談会のようにこっぱづかしい歌もなければ勇ましい活動報告などの催しはありません。勤行をして法話を聞くだけなら別に参加してもしなくても大丈夫だろうという感覚だったんですね。でもある日何がきっかけだかは忘れたけど御講にはちゃんと参加しなければ創価の座談会とは違うんだと思い改めそれからは毎月の御講に参詣できるようになりました。「御講は創価の会合と違って御報恩の為に催されるものだ」と気づいたわけです。最初から気づけよと思いますがまぁとにかく途中で気づいたわけです。御講に参詣しご住職と共に勤行唱題をしご住職の御書講義(法話)を聞く。それらは単なるプログラムではなく全てが大聖人様に対する報恩感謝でありご供養であるわけです。それ故に御講への参詣は功徳もある。これは創価の座談会というイベントとは全く異なる集まりだということです。創価の座談会に「報恩感謝の念」で参加している創価民なんて誰一人として聞いたことありません。創価の座談会はつまり単なる会員内部のイベントですから参加してもしなくてもいいわけです。もっといえば面白ければ行けばいいしつまらなかければ行かなきゃいいレベルなんですよね。だから創価幹部側は「面白いイベント」を目指すわけです。でも御講は違います。特別なイベントはありません。「報恩感謝」のご供養ですから、面白いとかつまらないとかそういう類のものではないわけです。私が折伏した元男子部の友人がご住職の御書の法話に「今日の御書の所は知っている。聞かなくても分かっている」と言ったことがありますが、法話を聞くのも「知っているとか、知らないとか」ではなく、その法話を聴聞するところに意義があり功徳があるわけです。
◆法師品には「人有りて八十億劫の間無量の宝を尽して仏を供養し奉らん功徳よりも法華経を説かん僧を供養して後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば我れ大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり(松野殿御返事)
との大聖人のご聖訓に書かれている通りです。とかく私を含め元創価はなかなか創価時代の感覚が抜けなくてダメな部分が多いですが私の折伏した元創価男部の面々もまだ創価臭が抜け切れていない部分もありますが御講に参詣するようになってきました。さて、御講参詣というと元法華講員や現役法華講また創価の連中が「御講に強制参加させられる」などという発言をする人もいますがこの言い方もいかにも創価っぽい。でも現実に「御講に来い」としつこい法華講の活動家?さんもいるのでしょうが、それもまた創価感覚が抜けていないのだろうと思います。ただお寺に参詣するように促すだけでは創価の活動家と同じですから気を付けないといけないと思います。「お寺に来れば功徳がある」「御講に参加するのが法華講の信心」それは正しいのでしょうがやはり御講の意義をしっかりと話し、何故参詣に功徳がるのかということを話さないと単なる結集の為の人集めにしか思われません。私は法華講の活動家ではありませんが、自分が折伏した人達には何事においても「意義」や「理由」を説明するように心がけています。もちろん御講に限らず化義に関してはただ教える・伝えるのではなく、化法(法門・法義)に即して正しく説明することが大切だと思います。それが出来ないのが創価であり、やらないのが創価感覚です。ともあれ今月も御講に参詣しご供養させていただき、大聖人にこの1か月間の様々な出来事を報告し次の御講までも目標や決意そして願い事をしてこようと思ってます。今の私にとって御講は報恩感謝のご供養の勿論だけど、1カ月に一度、大聖人に正式に色々なことを報告する日でもあるので御講日は楽しみでもあります。創価時代の座談会とはダンチなんですよね。


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座談会に皆で参加してみた。

先日、自分の所属している地区の座談会に自分が関わった元創価男子部の連中3人と一緒に参加した。皆で座談会に参加するのは初めて。本当は皆まだ正月休みだったから面倒だったけど地区長さんにどうしてもと言われたので地区長さんの顔を立てるつもりで皆で参加した。この日は法華講幹部のA氏が「顕正会破折」というテーマで「戒壇義」について話をしていたがその話の中で「戒壇の建立は御遺命ではない」という話があった。実は以前座談会に出た時も違う法華講幹部氏が同じような事を言っていたので話が終わった後に「戒壇建立は三秘抄にも一期弘法付属書にも明確に書かれているのだから御遺命ではないというのは違うのではないか。戒壇建立を御遺命ではないはないなんていったら顕正会に逆に破折される危険性があると思いますよ」と意見を言った。それからA氏と意見交換をしていると別の法華講員のB氏が「信心は理屈じゃなくて無疑日信が大切なんだ」と言ってきたので「そんなことは分かってますよ。でも今のテーマは顕正会の破折であり戒壇義なのだからちゃんと理論構築ができてなくてどうやって破折するんですか?」とB氏に聞くと「大聖人様の仏法は戒壇様と猊下様に信伏随従することだと教えればいい」というので「それをどうやって教えるのか?文証・理証以外の何で教えるのか?そもそも無疑日信でいいというなら顕正会も学会員もみんな無疑日信ですよ」といったのだがB氏とは全く話が噛み合わず、「門内摂受」とのご指南もあるのであまり突っ込まなかったけど、B氏は上記のこと以外に「お寺に来なさいよ」と言っり(それは地区長さんが私が参詣している事をいってくれた)「御書も自分勝手に読んでては間違える」と言ったり(これは私は歴代上人のご指南を元に学んでますよといったら「それなら大丈夫」といってたけど)なんでしょうね。なんかマウント取ろうとするんですよね。このB氏とはこの日初めて言葉を交わした程度で初対面なのに。ああ、だからと言ってこのB氏に対して怨嫉もなけりゃ批判もないしましてや破折してやろうとも思っていませんよ。いつも書くように創価と違って法華講は「しがらみ」がありませんからそんな気持ちは起きません。B氏と次に会話する機会があるかどうかも分かりませんから。だったらわざわざこんなこと書かなくてもいいのですが、私のように法華講初心者に分かって欲しいんですよね。「どこにでもそういう人はいる」と言う事を。私は創価時代もそうだったけど自分の信心を基準に他人の信心を決めつけることが嫌いです。でもどの組織にも他人の信心を評価する人はいるんですよ。だけどそのような人に出会って何か言われても気にする必要はないということです。その人の信心ををジャッジできるのは本人とご本仏だけなんです。それ以外は皆同じ末法の荒凡夫です。そんな荒凡夫から褒められようと貶されようとなんてことはないわけです。そもそもさっきも言ったみたいにもしも同じ講内に気が合わない・苦手な人がいたらその人に近づかなければいいだけです。法華講員が参詣するのは他の法華講員に会いに行くわけじゃないでしょう。あくまでもご住職に法門を聞いたりお寺のご本尊に題目をご供養したり時にはお寺にご供養するためだと思います。気の合わない講員さんと交わらないことは決して異体同心の信心を破ることではないですから同じ講員さんから何か言われても気にする必要もない。気にしなければ怨嫉なんてすることもないし信心を止めてしまうこともありません。万一どうしても我慢できない時はご住職に相談して対処すればいいわけです。また自分自身が他の講員さんに対して相手の信心に対して指導めいた事をいうのも避けましょう。在家同士で信心の指導めいたことをやり出すと創価みたいに怨嫉の宝庫になってしまいますからね。ただ。批判とか非難ではく教学(法門法義)に関しては間違っていることは間違っていると教えてあげないといけないとは思います。ぶっちゃけ「戒壇建立」を御遺命・ご命題ではないなんて言ったら顕正会に秒殺されます。文証に明確にあることを否定することになりますから。信心は理屈ではない事は間違いないですが、法の正邪は文理、つまり理屈なんです。それ抜きに「現証」なんて言い出せば法の正邪なんて判別できないですかね。そんなこんなが有った座談会でしたが色々と教学以外の事が学べて良かったと思います。ご住職が本山にいかれてて不在だったのが残念でしたが。しかし座談会とか法華講に必要なのかな?とも思いました。なんか創価の真似っぽくて。せめて「座談会」ではない呼び方だといいんですけどね(笑)


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ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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