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創価教学じゃない御書講義(30年度12月座談会御書・米穀御書)

同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、
又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、
又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり
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今年最後の座談会御書は、「米穀御書」です。学会版御書全集では「高橋殿御返事」となってますが
高橋六郎入道宛てではなく、南条時光に宛てた御書であることが有力ということで正宗版では「米穀御書」という題号です。
断簡(お手紙の一部)でとても短い御書ですが、
「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」という有名な一節がある御書です。
今回の拝読箇所は財務を意識した12月らしい部分ですな。
聖教新聞の解説にも「御供養の精神 」なんてことが書いてあります。
いやいや、創価の財務は会費・寄付の類であって「ご供養」ではないのに
こうやって御書を利用して毎年会員を騙して金を巻き上げる。
振り込め詐欺とは創価の財務の事ですな。
そもそも、正宗に対して「こんなに供養してやった」「いままでして来た供養を返せ」
なんて言っている創価の連中が「御供養の精神」を騙るなんてちゃんちゃら可笑しい。
全く一体どの口が「御供養の精神」なんて言うのかとあきれ返ります。
だから創価の財務は、「会費」扱いで丁度いいのです。「ご供養」なんて言ってはいけません。
だいたいから「ご供養」で、一口(ひとくち)なんていう単位をきいたことがない。
一口という単位を使うのは「寄付」であって「供養」ではないと思いませんか?

さてそれはさておき、今回の御文のポイントとは「謗法の者」と「法華経の行者」ですね。
どちらもやると長くなるので「法華経の行者」についてをメインに書きます。
創価の財務で功徳が出る。という主張は財務は会費ではなく供養であるという考えに立脚しています。
そしてその思考をなさせているのは、自分達や創価が「法華経の行者である」という邪義です。
いつも書きますけど、こうした邪義は全く総別の立てわけができていない創価流の「糞味噌教学」です。

◆糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり(報恩抄)

コレが創価教学です。臭くてたまらんのですが、便所にずっといるカツドウカは麻痺していて
こんなにも「臭い」創価教学を「いいかほり」と思ってしまうのですね。
いいですか?「法華経の行者」とは日蓮大聖人ただお一人なのです。

◆日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり(別当御房御返事)
◆日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。(撰時抄)

このように大聖人様お一人が「法華経の行者」なのです。
何人たりとも大聖人様に肩を並べることもできない故にご本仏なのです。
大作センセをいくら「栴檀」と言ってみてみても、「糞」は「糞」でしかありません。
いいですか?ここが大聖人仏法の基本中の基本ですよ。
そして、「法華経の行者」の実態とは何かというと、

◆されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、(御義口伝巻下)
◆本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝巻下)

との御文に明らかなように、妙法七字であり御本尊のことです。
そしてこの御本尊とは一大秘法の戒壇大御本尊なのです。
なぜなら今回の御文には

◆一切衆生を利益するなればなり

とあります。一切衆生を利益する御本尊とは「一閻浮提総与」の大御本尊以外にないからです。
つまり、いつも言うように戒壇大御本尊は日蓮大聖人であり法華経の行者なのです。
ここが根本なのです。その上で総じていうと(広げて解釈すると)

◆貴辺日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ(四条金吾殿御返事)

等の御文にあるように大御本尊を信じて信行に励む弟子旦那もまた「法華経の行者」となるわけです。
上記の御文で「日蓮にしたがひて」とは、大聖人様の色心二法である戒壇大御本尊に信を取る人のことです。
そして「謗法の人」とは、

◆不信とは謗法の者なり(顕謗法抄)
◆正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり(顕謗法抄)

などの御文にあるように、大御本尊に不信を抱き大御本尊を捨てるだけならず他人にも大御本尊への信を捨てさせる
創価学会執行部とその手先となっている、バリカツ・創価幹部のことです。
今回の御文と全く同じ内容が書いてあるの御文があります。

◆設いこうをいたせどもまことならぬ事を供養すれば大悪とはなれども善とならず、
設い心をろかにすこしきの物なれどもまことの人に供養すればこう大なり(衆生身心御書)

この御文で「まことならぬ事」とは、財務のみならず全ての学会活動、さらには創価の勤行・創価本尊への唱題です。
つまり創価での全ての活動は「まことならぬ事」=謗法への供養です。
ですから、やればやるほど善にはならず「大悪」となっていくわけです。
逆に創価でも大御本尊に信を取っているのならば、功徳はあります。
(とはいっても早めに創価から離れることに越したことはありません)

おさらいします。根本の唯一無二の法華経の行者である大聖人様の当体である戒壇大御本尊を捨てる人間を
「法華経の行者」などといわない。
このことが分かれば創価が謗法であることが分かる。
それが分かればいかなる名目のいかなる活動も謗法への供養だと知ることができる。
それを知れば創価の「大聖人仏法詐欺」には騙されなくなります。
財務がただの「会費」だとしても「謗法への供養」となるのでご注意ください。

そもそも、学会員が法華経の行者ならば供養を受ける側であって払う側なのはおかしいでしょ?
同じ法華経の行者なのに、払う人ともらう人が存在するなんて普通にオカシイですよね。



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創価教学じゃない御書講義(30年11月座談会御書・崇峻天皇御書)

中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも
世間の心ねもよかりけりよかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢穴賢、
蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり
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今月は財務もあるので「崇峻天皇御書」の有名な一節。今年はやけにド直球です(笑)
心の財が大切だよ。蔵の財なんて惜しんじゃいけない、さぁ財務を頑張って心の財を積みましょう。ですか(藁)
御書をつかって金集め。それだから「大聖人仏法詐欺」なんだよ。創価は。
それと気になったんだけど、コレさ区切るところおかしくね?
「穴賢穴賢」まではその前の文につなげた方が良くね?
で「第一なり」の下の「此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」で区切るんじゃね~の?普通は。
それだと、ど真ん中過ぎるのでちょっと区切り方を変えたのか?
切文教学の創価教学らしいっちゃらしいけど。
てなわけで区切り方が変だから今日は後半の部分だけやりますね。
男子部時代に何十回と講義したし、まぁ読んだ通りなんだけど
この部分の講義をするときによく話をした、「四人の妻」という仏法説話があります。
結構有名な説話なので聞いたこともあると思うけどザックリすると、

ある男に4人の妻がいました。一人目はいつも心にかけ大切にしてきた妻。
二人目は他人と戦ってまで手に入れた可愛い妻。
三人目はいつも一緒じゃないけど嬉しい時や悲しい時に寄り添ってくれた妻。
四人目はあまり気にも留めず大切に思ってこなかった妻。です。
時が過ぎ男がいよいよ死出の旅立ちが近くなったので自分と一緒に行ってくれるように妻に頼みました。
一番目の妻には「私は大切にしてもらいましたまたが貴方と一緒には行けません」と断られます。
二番目の妻にも「私も一緒には行けません。私は自分から望んで貴方の妻になったわけでありません」と言われました。
三番目の妻は「一緒には行けませんが最後の日まで側にいて貴方をお見送りします」と言いました。
最後に四番目の妻に話すと「私は親元からはなれてからすっと貴方と一緒にいますからあなたから離れることはしません。
いつまでもどこへでもついていきます」と言われました。
さて、この四人の妻ですが、一番目の妻は自分の肉体(身の財)のことです。
2番目は妻は財産や地位(蔵の財)です。3番目の妻は家族や友人のことです。
そして、ずっと離れずどこにでも付いてくる4番目の妻とは「心」のことです。
「心」だけが死んだあともずっと付いてくる。そういう話です。

さて、この四番目妻は何も良妻と限ったわけではありません。
良妻(善業)もいれば悪妻(悪業)もいます。
良妻になるか悪妻になるかは、夫(自分自身)次第です。
いつでもどこでもどこまでも付いてくる「心」という4番目の妻。
できれば良妻(善業)として付いてきて欲しいですよね。

そこで大聖人は、
◆此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし
と言われているのです。(やっぱりここで区切った方がいいでしょ)
心の財を積む・心に財に積んであげることこそ4番目の妻を良妻にする方法です。
気にも止めず放置プレーでは主人を大切に思うわけはないのです。

ではどのようにしたら「心の財」を積むことができるのか?といえば

◆釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(観心本尊抄)

とあるように、妙法五字即ち日蓮大聖人の色心二法である大御本尊を受持することです。
我々凡夫は戒壇大御本尊を信じ唱題することによって、
釈尊の善行(因行)とその功徳(果徳)の全てを心に積むことができると、大聖人様は言われています。
また、大御本尊(ご本仏)への強き信心が、蔵の財や身の財を守るのです。

◆されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ(乙御前御消息)

諸天善神が必ず守る。「セコムしてますか?」よりも心強いですね(笑)
そして

◆夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず果報つきぬれば所従もしたがはず(中略)ただ心こそ大切なれ(四条金吾殿御返事)

とあるように、蔵の財も身の財も全て心から生まれてくるのです。
これは、ある程度ちゃんと生きてきたオトナなら否定はしないと俺は思います。
「心の財」を積むというのは「福を運ぶ」ことです。
自分で運ぶのです。だから「福運」というのです。
運がいいとか悪いとかでなく、自分自身が福を運ぶ作業をしたかどうかです。
大聖人仏法とは以前も書きましたが、おすがり信心ではない。
それが分からない人は大聖人仏法が分かっていないだけです。

結論をいうと、「心の財」を積むということは、大御本尊(ご本仏)に対する信仰心です。
日寛上人は、「松任治兵衛殿御返事」で

◇かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ

とご指南されています。
大御本尊を捨てた創価の連中は、身は貧しくない(いやむしろ職員は裕福)が信心つまりは心が貧しい。
心の財(信心)を捨てたのだから、まさしく乞食同様です。

◆此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし

と大聖人が言われいるのです。
今月の座談会でこの御文を学んだのであれば、
すぐに大御本尊への信を取り戻すのが御書を読んだということになります。
さぁ、年末までには、蔵の財や身の財のみならず
心の財をも奪い取る創価学会から離れましょう。
さもないと、悪妻が死んだ後にもついてきますよ。
「貧しい信心」には「貧しい結果」しかないのです。


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創価教学じゃない御書講義(30年度10月座談会御書・日女御前御返事)

穴賢南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、
信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす
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今月の座談会御書は、「日女御前御返事」ですね。
「日女御前御返事」はこの別名「御本尊相貌抄」と「品々供養事」の2編あります。
今回の「御本尊相貌抄」は創価活動家が大好きな「胸中の肉団」云々の一節が書かれている御書です。
この御文を文証にして学会員は本尊は自分の胸中にある。なんていう間違った認識と指導をするわけです。
今回はその御文ではありませんけど、本御書の結論的な一節です。
さて今回は先月同様に「本門の題目」についてのご指南です。
この短い御文の中に「本門の題目」とは?ということが凝縮されています。
「本門の題目」には、必ず「信」と「行」が備わっていいます。
逆に言うと「信・行」が備わっていないのは「本門の題目」ではありません。

◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて
南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり(日寛上人・文底秘沈抄)
◇当に知るべし、行に始終あり。謂く、信心はこれ唱題の始めなり。唱題はこれ信心の終りなり。
これ則ち刹那の始終、一念の因果なり。 (日寛上人・取要抄文段 )

今回の拝読箇所の【南無妙法蓮華経とばかり唱へて】というのが「行」です。つまり「唱題」そのものが「行の題目」です。
そして【仏法の根本は信を以て源とす】とうのが「信の題目」となります。
これは創価が大好きな同書の

◆此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり

と全く同じことを言われているわけです。
この御文も【法華経を持ちて】というのが「信の題目」で【南無妙法蓮華経と唱うる】が「行の題目」
つまりこれらの御文は「本門の題目」言い換えると「勧心」についてのご指南であって「本尊」のご指南ではないわけです。

◇但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、
これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。(日寛上人・観心本尊文段)

それを「本尊」のご指南だと読み違えあまつさえ自分自身がご本尊である。
などという解釈・指導する創価バリカツは「発狂中の肉団子」であると申し上げておきましょう。

さて、「信の題目」というのは、上記のご指南に明確にさているように「本門の本尊を受持」することです。
「本門の本尊を受持する」のが「信の題目」であり「根本」であり「本門の題目を本門の題目たらしめている」ことになるわけです。

本御書の御文に

◆日蓮が弟子檀那等正直捨方便不受余経一偈と無二に信ずる故によつて此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなりたのもしたのもし十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり

この部分の【御本尊の宝塔の中へ入るべきなり】とは、「仏界即九界」の本因妙です。
創価の好きな【胸中の肉団におはしますなり】とは「九界即仏界」の本果妙です。
本因妙は、「本門の本尊」即ち一大秘法の大御本尊を受持する「信」により
本果妙は、「本門の本尊」を信じて唱題する「行」によって成立します。

◇我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。
我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。故に九界即仏界なり。(日寛上人・観心本尊文段)

この本因本果が「本門の題目」により自身の色心に顕れる。それが当体蓮華です。
当体蓮華を別のいい方で「成仏」というわけです。
その成仏の根本は「本門の本尊」への「信」であり、さらいえば「本門の本尊」の根本は
一大秘法の戒壇大御本尊であるというのが大聖人仏法なのであります。
故に、その根本中の根本である、戒壇大御本尊を受持しない。すなわち不信の学会員が唱える題目は
「本門の題目」などとは到底呼べる代物ではないわけです。
結果「南無妙法蓮華経」と唱えても成仏もしなければ、肉団子の中に本尊が顕れることなどあり得ません。
謗法者の胸中になぜに御本尊が顕れるというのでしょうか。

大作センセの有名なスピーチで私もリアルタイムで聞いていましたが
▼「宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。信心の二字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。」 (平成五年九月七日・本部幹部会)
というのがあります。完全に頭のイカレタ爺さんの譫言です。
信心の中しか御本尊はない。というのは本門戒壇大御本尊を信じる(受持する)心の中にしか
「観心の本尊」は顕れない。ということなんですよ。
さて、この大作センセのご指導通りで言えば
いまの創価がご本尊と呼んでいるモノですが
そんなものは「ただのモノ」です。一応の機械です。金蔓製造機だもの。センセの指導だ(笑)
とまぁこうなります。大作センセは「ただのモノ」を3000円で売りつけたわけですね。
これぞ「金蔓製造機」の真骨頂ですね。
なんでも今度は特別御形木なんていう正宗をまねた「金蔓製造機」を販売なさるとか?
5000円ですかね。今度の「モノ」は(笑)

今日は奇しくも本門戒壇の大御本尊御建立の10月12日。
いつまでも創価の金蔓製造機の「パチモンの本尊もどき」に「ニセモンの題目」なんてあげていないで
「本門の題目」に立ち返った方がいいんじゃないですか?
え?板曼荼羅の日なんて俺たちには関係ない?
いやいや、そんなバリカツさんなんかに言っていませんよ。
「信心」が残っている学会員さんに言っているんですよ。


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創価教学じゃない御書講義(30年度9月座談会御書・四条金吾殿御返事)

苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて
南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、こ
れあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談御書は「四条金吾殿御返事」。別名「衆生所遊楽御書」です。
非常に短い御書ですが、今回の御文は有名な一節ですね。
この御書の一番最後の結論の部分です。
この御書の冒頭は

◆一切衆生南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文あに自受法楽にあらずや

と書かれています。「衆生所遊楽」と「自受法楽」は同じというか
南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって「自受法楽」することができる故に、
衆生つまりこの信心をする我らのいる場所は「遊楽」する場所となるということです。
同じく今回の御書に

◆現世安穏後生善処とは是なり

と書かれているように常に我らのいる場所は「遊楽」の場所となるということです。
「遊楽」=「自受法楽」ということになります。
この「自受法楽」とは「自分自身の力で法楽を受ける」という意味です。
教学的に言うと、「自受」とは「信力」「行力」であり「法楽」とは「仏力」「法力」です。
つまり「自受法楽」とは「四力」ということですね。
一般的に宗教は「他力本願的」にイメージされますし実際そのような宗教も多くあります。
逆に無宗教の人々は「自力本願的」な生き方を潔しとしてるようにも見受けられますが
実際の人生においては、自分自身の力だけで幸福になる事も運だけで幸福になる事もないでしょう。
自分の努力の上で運を味方につける人が成功したり幸福になっていると思います。
「絶対自力」でも「絶対他力」でもダメだと感じます。
そこでこの日蓮仏法の登場なわけです。
「信力・行力」という「自力」と「仏力・法力」という「他力」を冥合させた姿が「自受法楽」です。
この姿を戸田会長は「絶対的幸福境涯」と呼んだのでしょう。
「自力本願」でも「他力本願」でもなく、「四力本願」が日蓮仏法なわけです。

そしてこの「四力本願」が成立するのは
正しい「仏力・法力」=正しい本尊と
正しい「信力・行力」=正しい本尊を信じての題目が必要となるわけです。
この御文に書かれている【南無妙法蓮華経とうちとなへ】というのは言うまでもなく【本門の題目】です。
ただ「南無妙法蓮華経」と唱えていればいいということではありません。
【本門の題目】とはこれまた言うまでもないけど、一大秘法の大御本尊に備わっている題目です。
言いかえるといつも言っている「大御本尊を信受して唱える題目」です。
そしてこれもまたまた言うまでもなく「大御本尊を捨てた学会員の唱える題目」
は「本門の題目」ではありません。
つまりいくら「信力」と「行力」が強くても、「仏力」と「法力」が備わっていないので、
「自受法楽」=戸田会長のいうところの絶対的幸福境涯になることはありません。
この御書には次のようにも書いてあります。

◆遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや

これはですね。創価のいうよな「自分が仏だ」っていうような意味ではありません。
日寛上人が観心本尊抄文段のなかで

◇我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。

と言われているように、大御本尊を信受して本門の題目を唱え奉れば
わが身にご本仏の「仏力」「法力」が湧現する。わけです。
この日寛上人のご指南がまさしく「自受法楽」という事です。

また、創価は「誓願の題目」といいますが、やりたいひとは「誓願の題目」もいいですけど
本当に「苦しい」「辛い」「悲しい」時に、無理に「誓願」は必要ありません。
また、無理に「誓願の題目」をあげされるような指導もいただけませんね。
この御文に書かれている通り「苦しいから助けてください」でいいのです。
「広宣流布に○○しますから××してください」なんて祈るのはナンセンスです。
そもそも、こんな祈りはご本仏と取引しているみたいじゃないですか。
「苦しい時は苦しい」「悲しい時は悲しい」
助けて欲しい。守って欲しい。それでいいんです。
「仏力」とは何ぞや?と聞かれれば、それは「主師親」の三徳です。
子供が病気の時に「いうこと聞くから病院に連れて行って」といわれる親がいたとしたら
苦しんでいる子供になんてこと言わせてるんだよ。一体どんな親だよ。と思いませんか?
苦しい時には余計なことを言わずに苦しいといえば、ご本仏は救ってくれ守ってくれ
悩んで迷っているときには「迷ってます」「悩んでます」といえば導いてくれます。
それがご本仏のもつ「仏力」であり「法力」です。
「広宣流布頑張ります」というのは、「楽を楽と開いたとき」に感謝の気持ちで祈ればいいのです。

こんな素晴らしいご本仏を捨てた学会員さんは可哀想ですね。
しかもある日突然、自分の意思と関係なく捨ててしまったのだから哀れとしかいいようがありません。
どんなに泣こうと喚こうと祈ろうと、創価のコピー掛け軸相手ではどうにもなりせん。
ましてや、選挙のことだとか新聞啓蒙のことだかご本仏と関係ない誓願したり
仏敵の大謗法者・大作センセにお応えするなんて祈ったりした日には衆生所遊楽どころじゃありません。
てか、創価の組織で活動している時点で「衆生所遊楽」じゃないでしょ(笑)
あんな訳のわからない連中と日々顔を突き合わせているだけで疲労困憊です。
それが楽しくて仕方ない患部・罵詈活さんは

◆「常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し」(兄弟抄)

という人達でしょう(笑)

大聖人は、【いよいよ強盛の信力をいたし給へ】と言われています。また

◆汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ(立正安国論)

とも。

いま創価で間違った信心をしてしまっている皆さん。
大切なのは「いよいよ」つまり今からです。
創価信仰をスッパリやめてご本仏の元にお戻りください。
それが「自受法楽」の
「絶対的幸福境涯」への
絶対的な条件です。


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創価教学じゃない御書講義(30年度308月座談会御書・松野殿後家尼御前御返事)

未だ見参にも入らず候人のかやうに度度御をとづれのはんべるは
いかなる事にやあやしくこそ候へ、
法華経の第四の巻には釈迦仏凡夫の身にいりかはらせ給いて
法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候、
釈迦仏の御身に入らせ給い候か又過去の善根のもよをしか
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今月の座談会御書は「松野殿後家尼御前御返事」です。
これまた随分とマイナーなところをもってきましたなぁ。
この御書は別名「盲亀浮木抄」といって、有名な一眼の亀さんのお話が書いてありますが
そこではなく最後の方の一文を座談会御書として採用です。
まぁ何かしらの意図があるからこの一文を選んだのでしょう。
さしずめ「池田先生にお会いしたことがなくともまたお会いできなくても弟子として師匠に尽くしていく」
ってな感じな講義をすれば、患部や罵詈活に受けること間違いなしです。
今となっては、大作センセを知らない世代も増えたでしょう。
そして大作センセも姿を現さない。
まさにそうした状況に置かれている学会員さん達を働かせるのに持って来いの一文です。
そして、これはひょっとしたら、いよいよ大作センセの涅槃も近づいたという
メッセージではないかと秘かに勘ぐっています。
創価の事だから大聖人の御入滅に合わせて大作センセの生命維持装置を外す。
なんていうストーリーを練っていつかもしれませんね。
オウムの麻原彰晃のように「死」を伝説にすり替えるのもまたよくある手口ですからね。
しかしまぁ創価ってやつはなんとしても大聖人と大作センセを同等にしたくて必死ですな。

さて、「松野殿女房御返事」には

◆されば女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば、
梵王も天眼を以て御覧じ帝釈は掌を合わせてをがませ給ひ地神は御足をいただきて喜び
釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給うらん

と、ご供養に対して述べられています。
「松野殿後家尼御前御返事」では、【法華経の行者を】供養すべきよし。と言われ
「松野殿女房御返事」では、【法華経を】供養しましませば。と言われています。
前者は「人」の約して「法華経の行者」。後者は「法」に約して「法華経」。
これは何を意味しているかというと「人法一体」ということです。
ご供養の相手は当然日蓮大聖人ですから、大聖人が「人法一体」の体。と言うことです。
そして、この大聖人の人法一体の体とは大御本尊なのです。

◆戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、
日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝巻下)

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。
既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

つまり、大作センセや創価に尽くす(供養)しても、諸仏・諸天は何一つ喜ぶことはありません。
いやむしろ、大聖人の色心二法の大御本尊を捨てた捨てた創価は謗法なのです。

◆有る人此れを分つて云く「先きに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり一に・慢二に懈怠三に計我四に浅識五に著欲六に不解七に不信八に顰蹙九に疑惑十に誹謗十一に軽善十二に憎善十三に嫉善十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し(松野殿御返事)

大御本尊を捨てた大作・創価はこの十四誹謗の全てが見事に当てハマってるでしょう。
創価の患部・罵詈活の身に入り込んでいるのは釈迦仏じゃぁありません。悪鬼ですよ。
悪鬼入其身の凡夫を諸天・諸仏が守護する道理はありません。
故に創価の祈りなど叶う道理もありませんね。
魔の通力を「功徳」と勘違いしてる姿が悲しいほど滑稽です。
(しかも功徳の現証とかいってブログに書いちゃうイタい子もいます)

まだ見ぬ戒壇大御本尊に恋慕の思いを抱き
一心に大御本尊への信を貫くその心こそが釈迦仏が我が身に入った心と言うのです。
もちろん、法華講員になれば大御本尊に会えますけど
大御本尊への信がなければ見参しても全くではないが意味がないし
各自の事情でその立場に無い人でも
大御本尊への信をもって唱題することはそのまま法施・理供養になるでしょう。
さぁさぁ、大聖人への思いがまだ貴方に少しでも残っているならば
大聖人を捨てた、創価・大作への供養はすぐに止め
その身から「悪鬼」を追い出してください。
そして大聖人(大御本尊)への信を取り戻してください。
法華講になろうとなるまいとどっちでも構いません。
貴方が大御本尊への信を取り戻すことが大切です。
毎月、御書を学ぶのは「創価教」を学ぶためではないでしょう?
違いますか?


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ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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