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創価教学じゃない御書講義(2019年6月座談会御書・呵責謗法滅罪抄)

何なる世の乱れにも各各をば法華経十羅刹助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり

6月の座談御書は「呵責謗法滅罪抄」。創価男子部の会合では・・・
「さぁいよいよマル参の戦いだ。一人でも多くのFを取って池田先生に勝利のご報告をしよう!」
「部長・・そうは言ってもボク友達ないのでFが取れないんです」
「なに~・いいか湿った木から火を起こす。乾いた砂漠の砂から水を出すほど祈るんだ。必ずFのひとつやふたつは取れるはずだ」
「ハイ!部長。分かりました。砂漠で水を必ず見つけてみせます!」
って感じ?バカですかぁ~?(笑)
この御文は日蓮大聖人様が常に我々のことを祈ってくださっているというとてもありがたい御文なのです。
【何なる世】というのは横に全宇宙。縦に永遠。ということで、我々がどこにいようとそしていつの時代に生きようと
ご本仏日蓮大聖人が我らの成仏を強盛に祈ってくれているのです。
【各各】というのは総じて言えばすべての衆生であるが、別して言えば大聖人の弟子のこと。
「四条金吾殿御返事」に曰く、

◆日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をばひまなく法華経釈迦仏日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり

と言われているように、「法華経の命を継ぐ人」を特に祈って下さっています。このご本仏の祈りはご本仏の心法でありその当体が大御本尊なのです。大御本尊に備わる「仏力」とはこの御文にある仏菩薩諸天をも動かす大聖人の祈りの一念ことなのです。
創価や大作センセはこの御文を引いて、「師匠は弟子のことを祈ってくれる。ありがたい。」などどいうけど、
しかしながら、大聖人の「仏力」がいくら偉大であっても信力・行力がなければそれを享受することはできない。
ご本仏は本来一切衆生の味方であり、一切衆生はご本仏の味方でもあります。

◆「今此三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此処は諸の患難多し唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説いて、此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり

しかし、
◆おのおのは随分の日蓮がかたうどなり、しかるをなづきをくだきていのるにいままでしるしのなきはこの中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ、をもいあわぬ人をいのるは水の上に火をたき空にいゑをつくるなり(辧殿御消息)
との御文にあるように、本来味方であり大聖人の祈り(仏力)を受けられる立場でありながら「心を翻す」衆生はその祈りが叶わないのです。
ましてや、創価の如き大御本尊(ご本仏)を捨て去った者が、どんなに祈ろうとその祈りが叶うことはない。

だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだいのり叶いたるやうにみえて候、はきりどのの事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなかりしかばいかんがと存じて候いしほどにさりとてはと申して候いしゆへにや候けんすこししるし候か、これにをもうほどなかりしゆへに又をもうほどなし、だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつてをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身もだんなもほろび候なり。(四条金吾殿御返事)

むしろこの御文にあるように、祈りが叶わない上に己自身もその眷属もまた「滅びて」しまうのです。
重要なのは自分人が「ご本仏に祈ってもらえる」ような「信心」をしているかどうか。
つまり純真に大本尊を信じているかどうか。ソコですね。その上で自分の身に降りかかる苦難・逆境に立ち向かう祈りをした時に、
まさに「奇跡」と思われる功徳が現れるわけです。それが「四力冥合」した本当の信心の力です。
いいですか?自分がただ強盛に祈っても結果は出ない。「唱題」に力があるのはない。大本尊に力があるのです。
そこを勘違いして題目を死ぬ気であげれば功徳が出るなんて思ってはいけません。
大御本尊を捨てた創価カラコピ掛け軸に死ぬ気で祈れば死ぬだけです。

さて、正宗では大御本尊のお目通りの際には時の猊下が一緒に勤行・唱題してくれます。大御本尊の内証を相伝している猊下が祈ってくれるとういうのは今回の御文の通り大聖人が祈ってくれているのと同じです。また菩提寺のご住職も御講等では信徒とともに勤行・唱題し我ら信徒のことを大御本尊に祈ってくれています。これは非常にありがたいことです。創価で大作センセが一緒に勤行・唱題してくれますか?口では「会員の皆様のことをいつも祈っています」なんて言っているが、大作センセが唱題会とか参加したことなんてある?個人的にも大作センセが10時間唱題をしたとか、今日は何時から何時までは題目あげてます。なんて聞いたことある?ないだろ。なにせ勤行0分センセだからな。
仮に大作センセが学会員一人ひとりのことを祈っていたとしても、
大作センセの祈りは「仏力」でも「法力」でもなく、単なる信力・行力なので「ありがたい」かもしれないが
別に大作センセの祈りが我々に何かをもたらすことはないのである。
対する正宗の法主上人は内証に大御本尊の法体が流れているので大聖人の名代として信徒のことを祈っているし、
末寺のご住職は法主上人の弟子として大御本尊に信徒を取り次いでくれている。
大作センセがいかに本仏を気取ろうと、大聖人にはなれない。
仏力・法力を所持しているのは大聖人だけなのである。
ここが分からないのが創価民であり創価民をそうさせているのが創価教学だ。
正宗では自分と一緒に猊下や住職が実際に勤行・唱題するし大御本尊(ご本仏)につながっている。
対する大作センセや創価上級幹部は「祈っている」というだけだし、大本尊を捨てている。
この違いなんだよな。一体どっちが本当に信徒を大切に思っているか、大聖人のお言葉の通りの行動をしているか一目瞭然なんだけどな。

ともあれ、我々は法華経の命を継ぐ者となり、大聖人のかたうどとして生涯を通し、ご本仏にいつの世にも祈ってもらえる信心をしてきましょう。創価でモヤモヤしている会員さんも一日も早く大聖人に祈っていただける境涯になるといいですね。その為には一刻も早く創価の活動をやめ創価を退会し大御本尊の元に戻ることです。
(創価カラコピ掛け軸に題目あげても無駄だからやめたほうがいいですよ)


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美有さんの好きな開目抄の一節。

先日は皆さんの好きな御書の一節を教えてくれてありがとうございました。
御書はやはりいいですよね。勤行0分先生の言葉とは重さが違う。胸に響きます。
今日は、美有さんの好きな開目抄の、

◆我並びに我が弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし


について少し書いてみることにします。
この一節は忘れもしない私が初信の頃、創価からこの御文が書かれた印刷物が配布され
経机の上に置いて勤行の度に読んでいた御文。
創価風に解読すると、「真の時こそ師との誓いを果たしてこそ・・・」
みたいな創価お得意の師弟不二に無理くり持ってい行くのでしょうが、
そんな創価民は、勤行0分先生大作センセと何の約束したんですか?そこが酷く疑問です。
更に疑問なのは、大作センセと何かの約束をすると「仏界に至る」ことができるのか?ってことです。
大作センセに弟子を仏界に至らしめる「力」があるというのは「大作信仰」でしょ。
大作センセにそんな力があるわけないのに、なんの為にどんな約束をするのかサッパリ意味不です。
この御文に書かれている「我」とは言うまでもなく日蓮大聖人です。
なので、我々は日蓮大聖人と約束するのが普通でしょ。

◆実に無始曠劫の契約常与師倶生の理ならば日蓮今度成仏せんに貴辺豈相離れて悪趣に堕在したもう可きや( 最蓮房御返事)

とのご聖訓にあるように、我々は不退の信心をする事を約束し、
それに対してご本仏は我々を「必ず成仏」させることを約束してくれるわけです。
この約束を交わすのが御授戒です。
破門後に入会した創価会員さんは、そもそも御受戒を受けていないのでご本仏と約束を交わしていない。
だからご本仏は貴方達を必ずしも成仏させる理由は無いので、
破門後の入会の会員さんにはこの御文は全く関係のない(というか今の創価に御書は全く無関係だけど)
破門前の学会員さん。それが「拙き者」ですね。奪って言えば「謗法者」です。
破門前の学会員は全員もれなくお寺で御授戒を受けている。
御受戒の時に、ご仏前で貴方達は何を約束したか覚えていますか?
御受戒の時に大聖人の弟子はこう約束するのです。

◎「今身より仏身に至るまで爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や」
◎「今身より仏身に至るまで爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」
◎「今身より仏身に至るまで爾前迹門の不妄語戒を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や」

〇「持ち奉るべし」


と。思い出しましたか?これが大聖人様と我々がした「約束せし事」です。
ところが今の破門前の創価民は、朝夕に御本尊に題目を唱えているにも関わらず、
大作センセとダーハラ怪鳥達執行部、それを支持する患部・活動家達に騙され
大御本尊に疑い起こし、ついには創価民は皆大御本尊を捨てたのです。
いいですか?今の創価は「戒壇大御本尊も本門の本尊」と定義しているに受持しない。と言っているんですよ?
「本門の本尊を持ち奉らない」と堂々と言っているのです。
正しく、「拙き者は約束したことを真の時に忘れる」のですね。
先に挙げた 最蓮房御返事には、大御本尊(大聖人)と伴に生まれるのは、
無始曠劫の契約(約束)があったからです。にもかかわらず荒凡夫の大作センセとのよくわからない約束を優先して
ご本仏との無始曠劫の契約を破棄した創価民さんはもう大聖人様と一緒でいることはできないのです。
大聖人と共にいることのできない状態。それを無間地獄というのです。
本当にそれでいいの?大作センセや同じ創価の学会員さんと別れたくないという気持ちは分からないでもないが、
この御文の続きには、

◆妻子を不便とをもうゆへ現身にわかれん事をなげくらん、多生曠劫にしたしみし妻子には心とはなれしか仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。

と書かれています。ここを読み直して欲しいかな。

ともあれ、破門後入会の学会員さんは、御受戒を受けてまずは日蓮大聖人と約束を交わしましょう。
また、破門前の学会員さんは勧誡を受けて「拙き者」の汚名を返上してください。
一日も早く「自然(必ず)に仏界にいたる」正しい大聖人仏法を実践できるように願っています。


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創価教学じゃない御書講義(2019年5月度座談会御書・種種御振舞御書)

此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければたもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなくゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し

平成も終わり「令和」の新時代になりましたね。元号が変わったからどうということでもないけれどなんとなく少し新しい気分になってます。「令和」1発目の記事は創価教学じゃない御書講義です。今月の座談会御書は「種種御振舞御書」の上記の御文。「令和」になっても同じ御文ばかり繰り返しているな。たまには今まで取り上げていない御文にすればいいんじゃないかと思うが面倒くさいのだろうね。どうせ座談会御書講義なんて「大白蓮華」読むだけだからね。で、梵我一如さんが紹介してくれた創価ブログ「なんちゃらの森」の管理人さんの解説では、「日蓮によりて」というカ所を「創価学会によりて」「自分によりて」「公明党によりて」と読み替えると分かりやすいそうな。(嘲笑)これぞ「創価教学」の真骨頂。見事なまでの頭破作七分ぶり。創価の御書講義って大聖人様をdisるのが目的なんじゃないかと最近では思い始めてきたよ。よくぞここまで御書を小バカにした解説ができるもんだな。さて今回の範囲の冒頭の此の文とは開目抄のことを指しています。開目抄とは人本尊開眼の書で、

◆日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり(開目抄下)

と大聖人御自身が主師親三徳具備の末法のご本仏であることを宣言されているのが開目抄ですね。「主師親三徳具備の人」を仏とする理由は今回は置いておくけど、日蓮によりて日本国の有無はあるべしというのは「末法のご本仏によって日本国は守られている」という意味だ。ところが創価ネットなどの解説では、あえて大聖人が末法のご本仏であるという解説をせずに、「法華経の行者」「指導者」という言い方している。なるほどその解釈ならば、「日蓮」を「創価」や「大作」や「自分」と置き換えても辻褄があう。そんな魂胆がミエミエだ。しかしこの御文の最後に、例せば立正安国論に委しきが如しと記されているのに注目しよう。立正安国論の書かれている災難の由来はいうまでもなく、神天上法門でありその根本は「背正帰邪」である。「人本尊」である大聖人を捨てることがそのまま「正法」を捨てるという事になる。つまり大聖人は人法一箇の存在であるということだ。「人」に即していえば大聖人が正法を保持しているとうことなる。それ故にご本仏なのである。「法華経の行者」というのはあくまでも外用のお姿であり本地はご本仏であるという事がこの御文からも容易に理解することが出来る。故に日本国の有無・日本の人の魂・日本の柱は、ご本仏・日蓮大聖人お一人を指すのである。大聖人以外に法体を所持している者はいないからだ。また

◆日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり父母なり師匠なり、今久遠下種の寿量品に云く「今此三界皆是我有[主君の義なり]其中衆生悉是吾子[父母の義なり]而今此処多諸患難[国土草木]唯我一人能為救護[師匠の義なり]」と云えり、三世常恒に日蓮は今此三界の主なり(産湯相承事)

とのご聖訓にあるように、ご本仏・日蓮大聖人は「三世常恒」なのである。「三世常恒」である以上、「大聖人滅後に大聖人に代わる人」など存在しない。そしてその「三世常恒」姿とは、大聖人の色心二法を建立された戒壇大御本尊に他ならない。大御本尊こそが、滅不滅の「三世常恒」の大聖人そものもなのである。その大御本尊を誹謗すれば、個人も国も難にあうのである。ましてや創価や顕正のような大御本尊を利用するようなヤカラの存在は同じ種種御振舞御書の一節に

◆かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし

と書かれているように「亡国」の一凶なのである。「創価によりて日本国は滅ぶべし」だ。

さて、この御文を

▼衆生を庇護する主の徳を支えるのは「勇気」であり、衆生を教導する師の徳を支えるのは「智慧」であり、衆生を育む親の徳を支えるのは「慈悲」である。これはそのまま、現代において求められる指導者像そのものでもある。この「勇気」と「智慧」と「慈悲」をすべて具えた指導者こそ、我らが創立者・池田大作先生、その人である。

などと解釈した創価学園の莫迦がいたが、この莫迦に限らず創価民の中には「現代の主師親具備の人は大作センセ」と思って疑わない連中もまだまだ多い。もしその説を採用するならば日本の存亡は大作センセ次第ということになる。あるいは創価次第という事か?「その通り」と創価の罵詈活はいうのだろうが、ならば大作センセが本仏であるという事になる。それは言葉にしなくても事実上の「大作信仰」「創価信仰」であろう。そんな連中が宗門に向かって「法主信仰」などと印象操作を繰り広げているのだから片腹痛い。創価の言う「法主信仰」などというデマゴーグについてはまた機会があれば書くが、正宗の僧俗が今回の御文を「御法主上人によりて日本国の有無はあるべし」なとど変換しているのを聞いたことないわ。日興門流はあくまでも大御本尊に信をとっていることが御書講義ひとつとっても分かるではないか。「創価学会によりて」「大作センセによりて」「公明党によりて」等々そんな風に勝手な変換をするのは創価の方である。オマエ達こそが謗法なのである。

ともあれ、今回の御文で大切なのはここでいう所の「日蓮」とは大聖人お一人であるという事であり大御本尊のことであるということだ。別な言い方をすれば「ご本仏」とは唯一無二の戒壇大御本尊以外に存在しないということである。それを勝手に色々なモノに変換するのは我見であり邪義なのである。一日も早くこの邪義・我見の創価教学を捨てて正しい法門の筋道を立てらることを願っている。それが自分の幸福の為であり「令和」時代を良くしていく方途ではないだろうか。


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何故創価教学は狂うのか?

梵我一如さんが「創価森」ブログの狂った御書解釈を紹介してくれていたので読んでみた。
まぁ完全に逝かれていますね。引用するのもアフォらしいのしないが何で創価民の教学は「狂学」になるのか?
実はその理由を多くの創価民が教えてくれている。(以下太字は他ブログからの引用)
鯛焼き支部長は、「日蓮仏法をベースにした創価の教え」といい、
先日紹介した雅彦氏の最近のブログで、
もはや今の時代は情報がオープンになっている。御書は何処でも手に入る、ネット上でも読むことが出来る。僧侶や寺院に頼ること無く、存分に御書を研鑽できるのである。信徒一人一人が御書を根本にして日々の生活を充実させることが可能なのである。
と述べている。これらの考えこそが創価教学が狂う考え。いや創価狂学の根本と言った方がいいかも知れない。
この発想をしているうちは大聖人仏法の法門の正しい理解は到底できない。
前回、日興遺誡置文の
◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事
のご指南を引用したが、この御文は次の
◆当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。
のこの御文と二つでワンセットになっている。
「義道の落居」即ち法門への正しい理解をするためには、「御書を心肝に染める」ことと「極理を師伝」する事であると日興上人は言われている。以前も書いたが「御書」を始めとする文書に法門の全てが書いてある。とするのは顕本法華宗の掲げる「経巻相承」の邪義なのである。日興上人は「極理師伝」と明確にご指南されいる。ここでいう「極理」こそが「法体の理」すなわち法体(極)に関する法門(理)なのである。大聖人がご本仏であることも曼荼羅正意も戒壇大御本尊のことも「御書」には書いていない。なのに何故、大聖人を末法のご本仏と仰ぐことが出来るのかと言えば、大聖人がご本仏であるという「極理」を日興上人以下の御歴代が「師伝」してきたからである。雅彦氏も大聖人がご本仏であると主張しているがそれだって自分で御書を読んで気が付いたわけではあるまい。ところがこの「極理師伝」を否定し、もはや自分で御書を学べる。と勘違いする。これが多くの創価民の教学が狂う原因なのである。

昔、俺が初信の頃ある会合で男子部の幹部が「人間革命」の中の(以下太字は引用)
「若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、希有(けう)の師への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである。」
という部分を使って指導した、(有名な部分なので聞いたことある人も多いと思うが)
で、俺は「なんかそれはちょっと違う気がするんですが?」と言ったらその幹部曰く、
「妙法への帰命とは、理としては南無妙法蓮華経への帰命だが、事としては師匠である池田先生への帰命なんだよ」と。
ぶっちゃけ、納得感なかったのだが周囲の先輩活動家達は「なるほど。そう言う事なんですね」と感動したりしていた。
この空気が創価の中では蔓延している。オリジナルの解釈をすると感心される。
オリジナルと言っても「日蓮」とか「妙法」とかいう言葉を、「創価」「池田先生」「師弟」とかに置き換えただけだし、
そもそも「御書」をオリジナルで解釈することは「邪義」「我見」以外の何物でもない。
なのに、大作センセを筆頭にこうした「我見」の御書講義が尊ばれもてはやされるのが創価である。
そしてそうした「我見」「邪義」のことを、「日蓮仏法をベースとした創価の教え」などと恥かしげもなく言ってしまうわけだ。
創価は宗門に対して「法主信仰」などと言ってくるが、オリジナルの御書講義を有難がってそれを信じている創価の方が「池田信仰」であり「幹部信仰」であり「自分信仰」なのである。

このように、日興上人のご指南に背き「極理師伝」を否定することは、大聖人仏法を否定することである。「極理師伝」を否定し「法体相承」を否定し、自分の独学で御書を学べるなどと思うのは増上慢の姿に外ならい。

◆経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「次の一行は道門増上慢の者を明す」文文の心は悪世末法の権教の諸の比丘我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵となるべしといふ事なり(唱法華題目抄)

また、そんなオリジナル(我見)の教学で戒壇大御本尊や唯受一人血脈を否定するヤカラは、

◆日蓮が弟子等の中になかなか法門しりたりげに候人人はあしく候げに候(上野殿御返事)

と大聖人に糾弾されるべきヤカラなのである。
こうかくと雅彦氏や鯛焼き君はツマラナイ反論をするかも知れないが、
「極理師伝」により「御書を心肝に染める」のが日興門流の「義道の落居」への方法論なのである。
彼等に限らず日興門流だという自覚があるのであれば日興上人のご指南を素直に受け入れ今後の教学の糧にすべきである。
日興門流ではない。とう人ならば大御本尊も日蓮大聖人も御書も君たちには何の関係もない。
キミ達は五老僧の末裔であり、門外漢である。
「門外漢」ごときが大御本尊に対してグズグズと能書きを垂れていないで
大御本尊に代わる「オリジナルの日蓮仏法」とやらを具体的に示せばよかろう。
ともあれ「創価教学」とやらの「狂い」の根本は「極理師伝」の否定にある。
よって「創価狂学」「創価凶学」が、元の正しい「大聖人仏法」に戻ることはない。
え?池田センセから「師伝」されている?
莫迦だなぁ~「極理」(法体)を持っていない大作センセが何を師伝するんだい?(笑)


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創価教学じゃない御書講義(2019年度4月座談会御書・日眼女造立釈迦仏供養事)

譬えば頭をふればかみゆるぐ心はたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべきさわがぬ水やあるべき

今月の御書は「日眼女造立釈迦仏供養事」です。相変わらず同じ御文を何度も使いまわししていますね。いままでやったことのない御文を取り上げるというような努力が見えませんね。同じ御文ばかりでは会員さんも飽きちゃうんじゃないの?まぁ学会教学なんぞ学んだそばから忘れちゃうから同じ御文の繰り返しでもいいちゃいいのだろうけろうけど。
さて、今月の御書だけど四条金吾の奥方の日眼女さんが厄年にあたり釈迦一体仏を造立したことに対するお返事です。何故「釈迦仏」を作ったことを大聖人が讃嘆したのかというと、1に大聖人仏法の弘教初期だから許した。2に阿弥陀仏を作る人が多い中で釈迦仏を作ったこと。3には大聖人様の御境涯で観れば日眼女の造立した釈迦仏は一念三千久遠元初自受用報身の本仏となるから。と日寛上人はご指南されている。そこで今回の拝読箇所でポイントなるのは「教主釈尊」の拝し方になる。
身延などは、文上の教主釈尊のみを知り文底の教主釈尊を知らない故に、本仏に迷い本尊に迷うわけだ。
教主釈尊といっても実には六種の教主釈尊の意味がありその体は違う。
日寛上人のご指南に、

◇「『教主釈尊』の名は一代に通ずれども、其の体に六種の不同あり。謂わく、蔵・通・別・迹・本・文底なり。名同体異の相伝、之を思え。第六の文底の教主釈尊は即ち是れ蓮祖聖人なり」

とあるように蔵・通・別・迹・本・文底の教主釈尊がおりその体は不同なのである。そして大聖人仏法の「教主釈尊」の中心は、そのうちの「文底の教主釈尊」であり、文底の教主釈尊とは久遠元初自受用報身如来であられる日蓮大聖人のことである。

◆下種の法華経教主の本迹 自受用身は本上行日蓮は迹なり、我等が内証の寿量品とは脱益寿量の文底の本因妙の事なり、其の教主は某なり。(百六箇抄)

では日蓮大聖人の「体」とは具体的には何か?といえば大聖人の色心二法を移し滅不滅の相を示され我等幼稚の末法の衆生に与えられた「本門戒壇の大御本尊」である。というのが、唯一日蓮仏法と呼ばれる富士門流・日興門流の根本教義である。

さて、創価では今月の御書解説を聖教新聞に掲載していたが曰く。
ここでの教主釈尊とは、宇宙と生命を貫く根源の一法である、南無妙法蓮華経と一体の仏のことです。大聖人は、仏の生命である南無妙法蓮華経を、末法の衆生のために御本尊として顕してくださいました。 故に、私たちにとって“教主釈尊を動かす”実践とは、御本尊を信受して真剣に祈ることです。
だそうな。南無妙法蓮華経と一体の仏とは、一体どんな仏なのか?これこそが大御本尊なのであるが創価は「南無妙法蓮華経と一体の仏」などといういかにも分かったような詭弁を使い誤魔化す。具体的な仏の姿を言えないのでは「理の一念三千」もいいところである。これのどこが「事の一念三千」と呼べるのだろうか?また仏の生命を御本尊として顕したというが、肝心の仏の生命=心法は一体どのような理屈でまたどんな方法で創価のカラコピ掛け軸に移したのか?そこをまるきり説明していない。まさか創価だけの秘法があるわけではあるまい。ここが創価イカサマ教学の真骨頂である。いつも肝心な部分は全く何も説明しないのである。そして創価民は分かってもいないくせに分かったつもりになる。これだから罵詈活創価民は「本尊義」すら語れないのである。前述したがここでいう教主釈尊とはあくまでも一大秘法たる戒壇大御本尊なのである。その大御本尊を不受して創価カラコピを信受したところで「教主釈尊」が揺り動く道理はないのである。
また聖教では、
仏界の生命を涌現させることです
などと書いているし創価民の中には己心の本尊云々と抜かしているヤツもいるが、
仏界を涌現させるのも己心の本尊云々も同じ意味で、これは境智冥合を意味している。
大御本尊(境)を信じて題目を上げる(智)即ち本門の題目を唱えることが己心の仏界・己心の本尊を涌現させることなのである。
その境妙の根本である大御本尊を捨てた創価民の己心の仏界など単なる理であり涌現などしないし、己心の本尊なんて存在しないのである。

この御文は「教主釈尊」たる大御本尊に強く祈る時に諸天善神が動き必ずいい方向に人生が開いていくということだ。
諸天善神を動かす力が仏力・法力であり、その仏力・法力を働かせる力が信力・行力ということなんだ。
俺がいつも言うようにこの「四力本願」の力。これこそが大聖人仏法の神髄なのである。
仏力も法力も持たないカラコピにいくら懸命に祈っても何も起こらない。
もし何か起きたとしたらそれは祈らなくても自力で十分できることでしかない。
家を買う事も、仕事で評価され給料が上がることも、家族が仲良く暮らすのも、そんなことは祈らなくても出来てる人は大勢いる。
そんなモンは功徳でもなんでもない。それこそ学会活動なんてやってないで真剣に仕事やめて家族向き合えや。という話である。
ましてや、選挙の勝利なんて祈りは愚の骨頂で、公明党の為に教主釈尊が諸天善神を動かす必要も義理もなにもないのである。
どうしても教主釈尊に動いてもらいたなら大御本尊にご供養のひとつでもしたらどうだ?
まぁ創価謗法民にはそれは出来ない話だが。
ともあれ、いつも言うが人生は「自力」だけでも「他力」だけでもダメ。
同じ祈るなら本当に「力」にある者に祈る方がいいに決まっている。
創価のカラコピと戒壇大御本尊とどっちに祈った方がいいかなんて普通は分かる。
日蓮大聖人と大作センセとどちらがご本仏かなんてのも普通に分かる。
創価にいるから普通に分かることも分からなくなるんだよ。
そろそろちゃんとした信心しませんか?学会員さん!


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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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2017.10.26~
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