教学とは信心だよ

最近の創価活動家の教学離れには目を覆うものがある。
教学離れというレベルをはるかに超えて
最早、教学軽視といっていいレベルである。
昔から創価幹部・活動家にはその傾向はあった。
男子部活動家時代に幹部のわけわからない指導に
「そうことは御書に書いていないでしょ?」と反論すると
「教学あればいいってものじゃない。教学ばかりやると退転する」
な~んてよく言われた。
原島嵩氏を引き合いに出すのも常套句だ。
このブログを批判する多くの創価系ブログの管理人たちが
まったく同じロジックを書いているらしいが
いかにもダメ創価活動家(自称)らしい
相変わらずの金太郎飴のステレオタイプばかりで
本当に創価脳ってのはあるんだなぁってつくづく思う。
教学の重要性については何度も書いているが
何度書いても理解できないのが創価脳なんだろうね。

教学っていうのは「頭がいい」「頭が悪い」というカテゴリーの話ではない。
このブログでも「学術的」に大聖人仏法の教学について疑義を挟む人達がいたが
俺は決まって「信心がなければ」大聖人の法門法義は理解できない。
と言い続けた来た。
つまり学力と教学力は全く関係ないということだ。
求道心。つまり信心があるか?ないか?
その1点が教学力に差を生むのさ。

諸法実相抄に曰く

◆行学は信心よりをこるべく候、

教学は信心によって学ぶのである。
信心のない人は題目をあげない。のと同じように
信心のない人は教学を学ばない。のである。
故に「教学がない」ことを正当化するような人間は
信心がない。ということになる。
それを否定するのは上記の大聖人のお言葉を否定するということだ。
それとも、「題目なんてあげなくても信心があればいい」とか
「題目をあげすぎると退転する」とでも言うつもりか(笑)
「教学がなくても信心があればいい」などというのは
「題目をあげなくていい」と言っている事と同じである。

このようなことをいうヤツは
自分の信心のなさを正当化し隠蔽しているに過ぎない。
また、教学を単に頭のよしあしと捉えるのも
学術的に富士門流の教義に非難を加えようとする
無信心の僧俗のような発想で
仮にも「日蓮仏法」を語っているという自負があれば
そのような門外漢の人々と同レベルの
発想・発言をするとは何とも情けないではないか。

上記の諸法実相抄の御文の前後には

◆行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず
◆我もいたし人をも教化候へ
◆力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

とのご教示を述べられている。
行学の二つはどちらが欠けても正しい仏法にならない。
人を教化し一文一句を語る為には正しい教学がなければ不可能だ。
ましてや、他者を破折するつもりであるならば尚更である。
御書の「一文」のあげることもできずに
一体何をもって邪宗を破折するのか?
ただ「日顕宗が悪い。日顕宗撲滅」
と書いたり言ったりしているのは
ヘイトスピーチを繰り返しているだけの
破折でもなんでもない印象操作に過ぎない。
まさ今の創価活動家のやっていることがソレだ。
それは折伏でも広宣流布でもなく、
単なる創価活動家達の名聞名利以外の何物でもない。

◇学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事
◇論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事

と日興遺誡置文のご指南の通り
いまの多くの創価活動家は、
「予が末流に叶う可からざる」輩である。
日興門流でないのだから日蓮大聖人の門流でもない。
もっとも日興門流であるなら

◇日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊(日興跡条条事)

を受持の対象から外すことなど絶対に有り得ないけどな。

ともあれ、「教学があっても信心が云々」という
幹部・活動家には気をつけたほうがよい。
このセリフの中には「教学なんかなくても私のほうが信心は上」という
憍慢・傲慢な生命がある。
そんな生命であるから真摯に教学を求めることができないのだ。

例えば一生懸命勉強をして東大に合格した人を
遊び呆けいた人間が
「あいつは頭がいいけど俺の方が人間としては偉い」
そう言ってるようなものである。
そう言う人は俺には偉いとは思えない。
単なる僻み嫉妬の類だろう。それは。
教学軽視の活動家も同じである。
自分が学ばないくせに、教学を学んだ人を見下すのは
単なる、僻み・嫉妬・愚痴
自分のそういう本性を知られたくないから
教学と信心を懸命に「分別」しようとする。
教学と信心は別物としようとするわけだ。
でもそうした考えは大聖人の教えに反しているのある。
教学とは信心なのだ

賢明な学会員のみなさんに教えます。
創価幹部・活動家の信心の程度を知る
一番早く確実な方法は「教学」の質問をすることです。
それにきちんと答えられるかどうか。
きちんと答えようとするどうか。
それでその人の信心を知ることができます。
大聖人の御書も引用せず
学会指導で誤魔化そうとする幹部・活動家を信じてはいけません。
そういう幹部・活動家は無信心でロクなもんじゃありません。
まずは根本の御本尊について聞いてみるのがいいでしょう。
本門本尊とは何か・
そして本門の本尊を受持しなくていい。という理由をね。
ここのブログにコメントしてきた創価の面々は
全員無回答で遁走劇を繰り広げたロクデナシばかりですが
さてあなたの地元の幹部はどうでしょうね。
ちゃんと信心のある幹部が組織に残っているといいですね。

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創価教学じゃない御書講義(29年度8月座談会御書・法華初心成仏抄)

我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて
我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり
譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まる が如し、
空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し
口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必 ず顕れ給ふ
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は、「法華初心成仏抄」
現在の創価教学のデタラメさを象徴する部分ですね。
本文に入る前に、題号の部分を少し書きます。
「法華初心」というのは、このまま読むと
「法華信心の初心者」ということになるでしょうか。
「初めて法華の信心をする人」が「成仏」をする方途をご教授してくださっている御書です。
この「初めて信心をする人」というのは、「信心を初めて日が浅い」というような意味でなく。
過去世に下種を受けなかった衆生。という事だと思ってます。
「本未有善」の衆生ですから、末法の凡夫の我々の事です。
つまり「法華初心成仏抄」とは、末法凡夫の我々の成仏の方途を明かされた御書です。
その結論部分が今回の座談会御書の御文になります。

さて、今回のポイントは
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて」の部分です。
創価教学では、この部分をもって自分自身の中に本尊がある。
自分自身が妙法の当体である。なんて言い出す。
それこそ創価の凡夫本仏論。自分本尊論。の邪義なんですね。
大聖人仏法には、「総別」「理事」「能所」「文上文底」等あるわけです。
仏教学とか学術だとと言ってる方々に
大聖人仏法の法門法義を言っても理解できない。といつも言っているのは
彼等には御書を法門・法義の上から読めないから。
何故そう読めないかと言えば、一言で言うならば「不相伝」だからです。

◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)

いまの創価もまた、不相伝家の門外漢なので
上記の一文を読んで、「自分の中に本尊がある」などという身延ごときの解釈をする。
妙法の当体についてついては「当体義抄」に詳しいのでそちらを学んでほしいが
この妙法の当体については「両重の総別」の義がある。
日寛上人は、取要抄文段で

◇今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり。

とご指南されている。
一応総じては一切衆生妙法の当体だが、別しては大聖人の弟子旦那が妙法の当体である(第1の総別)
次に、総じていえば大聖人の弟子旦那は妙法の当体だが、別しては大聖人お一人が妙法の当体である(第2の総別)
この二つの総別をあわせて【両重(二重)の総別】という。
つまり、創価のいう「己心本尊」というのは
総じてのはなしであり「理」の上の話。
六即に配すれば、創価学会員は「理即」なわけ。
「理即」の凡夫である以上「事」の成仏はない。

◇若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり(取要抄文段)
◆又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん(曾谷殿御返事)

その両重の総別を弁えたうえで上記の御文を解説すると
「我が己心の本尊」とは、凡夫である自分の己心でなく
ご本仏たる大聖人の己心の本尊。ということだ。
大聖人の己心の本尊を崇め奉り(信じる)
南無妙法蓮華経の唱題行をすることによってのみ
「法華初心」である末法凡夫の我らは成仏可能であるということが
今回の御文のポイントだね。
日寛上人の観心本尊抄文段には

◇我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり

とのご指南があるが、この指南と今回拝読の御文とは同じことを言われている。
そこで日寛上人が「この本尊」と言っているのは、同じく本尊抄文段に

◇本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり
◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の 本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり

とのご指南で明らかな通り、「弘安二年の本門戒壇大御本尊」なの。
大御本尊こそが、大聖人の己心の本尊であるということだね。
この御本尊に題目をあげるのが「本門題目」であり
「本門題目」とは言い換えれば「大御本尊を受持する」ということになる。
この「本門題目」によって、我が己心の妙法を顕し
また他の仏性も引き出すことができるということである。
それを「成仏」というわけだね。
大作センセは

▼私たちがひとたび、妙法蓮華経と唱えれば、その一切の仏性を呼び現す力が題目にはあるからです

などとフザケタ講義をしているが
「唱題」に力があるのでなく、「本門題目」に力があるのだよ。
そしてさっき書いてけど「本門題目」とは「大御本尊受持」の事。
大御本尊を受持しない創価幹部・活動家が
どれほど「南無妙法蓮華経」とうわ言のように叫んでも
「事」として仏性を顕現することはできない。
自身の仏性を顕現できないのだから他者のもまた然り。
一体、どこの誰が大御本尊を受持せずに成仏可能などいってのか。
大作センセだろ。そう言っているのは。
今回の「法華初心成仏抄」に、

◆宗宗各別に我が経こそすぐれたれ余経は劣れりと云いて我が宗吉と云う事は唯
是れ人師の言にて仏説にあらず

と書かれている。
創価の正義?それは「仏説」ですか?
先日の創価活動家のコメント読めば「仏説」かどうか一目瞭然だ。
むしろ、今回の御書(法華初心成仏抄)は次の御文を心に刻んで欲しい。

◆菩薩人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ

大作センセのいうことも
創価幹部のいうことも
創価活動家のいうことも
すべて「人師」の言葉であり
「仏説」は皆無なのだ。
創価学会仏の「仏説」というなら話は分か・・・・
・・・らないな。
だって、創価学会仏だとそんな「仏」自体が
最初からイカサマだもんな。

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創価教学じゃない御書講義(29年度7月座談会御書・乙御前御消息)

いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ
青き事は藍より出でたれどもかさぬれば藍よりも色まさる、
同じ法華経にてはをはすれども志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「乙御前御消息」
この御書はそんなに長くなく、御消息文で読みやすい
だけど結構といろいろ大聖人仏法のについて書かれていて
日々の生活中でも役にたつ御書なので
ぜひ、全文通しで読むことをおススメします。

さて、座談会で取り上げるのは上記の御文。
いわるゆる「従藍而青」ってヤツです。
「青は藍より出でて藍より青し」ってヤツです。
荀子の言葉を天台が引用したものを大聖人が引用しました。
本来の意味は、弟子が師匠を超えることの例えですが
ここでは、「同じ御本尊でも志(信心)を重ねれば他の人より功徳が出る」
という意味で使われています。
ひとつには、「他人と同じ御本尊」という意味で
もうひとつには、「いままで同じご本尊」という意味で使ったりします。
「他人より功徳ある」とか
「いままで以上の功徳がある」とか
そんな感じですね。

ではここでいう志(信心)とは具体的にはどういうことかというと

◆天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりもなをそむればいよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきはいよいよあをきがごとし(上野殿後家尼御返事)

とあるように、志(信心)とは修行の事を指します。
大乗仏法の修行と言えば、六波羅蜜(または五波羅蜜)なのだけど
大聖人仏法においては「受持」だけです。
(聖教啓蒙とか選挙活動は不要です)

◆未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

とあるように、大御本尊には「六波羅蜜自然在前」といい
最初から六波羅蜜が備わっているので「受持」するだけでいいわけです。

◆法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり(日女御前御返事)
◆五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可し(御義口伝巻下)

とのご教示は、「受持」の一行(一つの修行)に他の修行が備わる。という意味です。
因みにこれを「総体の受持」といい大聖人仏法の修行はこれだけ。
末法の荒凡夫の私には大変喜ばしい限りです。

この総体の受持については、日有上人は「化義抄」で

◇法花経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したまふなり、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用ひ給ふなり、文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し今此三界の文を誦し、塔婆などに題目を書写するは受持の分の五種の修行と心得べきなり云云。

とご指南されています。

さて、次に「受持の修業」とは具体的には「何をするのか」というと
日寛上人が、文底秘沈抄で

◇夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり
◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり
◇信行具足して方に本門の題目と名づくるなり、何んぞ但唱題と云わんや

とご指南されているように、「本門の題目」の唱題行のこと。
「本門の題目」とは「本門の本尊」を信じて題目を唱えること。
「本門の本尊」を信じる。という「信」と
「題目を上げる」という「行」の両方揃って
「本門の題目」になり
「本門の題目」をあげることが
「総体の受持」になるわけです。
「信」がなければ「ただの題目」ということですね。

では、ここで創価の主張を見てみると

▼「本門の本尊」 としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」 も含まれる

といって、大御本尊を「本門の本尊である」と認めているのに
「受持の対象としない」と主張しているわけである。
つまり「本門の本尊を受持しない」と言ってるわけ
これで大聖人仏法を、信仰し行じている団体だ。というわけですよ。
ね?イカレテませんか?
「すべて等しく本門の本尊」ならば
等しく受持しなければいけません。
大御本尊はもとより、身延の真筆本尊も全部受持しなければ謗法だよね。
「受持しなくていい本門の本尊」なんて存在するのですか?
逆に言えば「受持しなくていい本尊は本門本尊とはいえない」でしょう。
一体御書のどこに「受持しなくていい本門本尊があります」と書いてある?
ないよ。そんな本門の本尊なんて。
「創価のコピー本尊」は受持しなくていいけど
アレは「本門の本尊」じゃないから受持する必要はないというだけの話。
もちろん身延の本尊も、顕正会の本尊も
本門の本尊じゃない。
だから受持しなくていい。
むしろ受持しないほうがいい。というレベルの話だ。

創価の会員さん、いいですか?
「本門の本尊」を受持しないで題目をいくらあげても
それは、ただの題目であって本門題目じゃぁありません。
本門題目ではないのだから「大聖人仏法の修行」でもありません。
大聖人仏法の修行ではないのだから、利生(功徳)も出ません。
「青」は「藍」からでますが
貴方たちは「藍」ではないもので「青」を出そうとしてるわけです。
もしそれで「青くなった」というならば
それはインチキかもしくは魔の通力なんですよ。
まづは、大御本尊への信を取り戻しましょう。
方便自我偈でもいいから五座三座の勤行をできるだけ実践しましょう。
ご観念文は大切ですよ。創価の御祈念文なんて読んではいけません。
ちゃんと本尊供養・三師供養のご観念をすること。
それが最低限の修行であり
最低限の大御本尊への信です。
その信心をすれば、必ず今まで以上の功徳が出ます。
そういうことが書いてあるのが、今月の御文です。

追伸:大作センセのなし得なかった大御本尊にを捨てるという行動に出た
現在の原田クン以下の学会首脳部のみなさんは
謗法という意味では大作センセを超えました。
まさに従藍而青の弟子ですね。
大作センセもさぞやお喜びのことでしょう。

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一凶・・・それは創価大作教

牡丹さんから「一凶」についての話をしてもらったので
今日は「一凶」について書いてみる。
「一凶」と言えば立証安国論に書かれている

◆如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには

の「一凶」というわけだが
まぁ、創価のオフィシャルサイトや創価系ブログでは
日蓮正宗を揶揄した日顕宗という宗派が
この「一凶」であると、散々と書きなぐっている。
その理由として、正宗は「法主信仰」「相続差別」をしたり
創価を破門したりしたから「一凶」であるというわけだが
全くもって、御書を利用した「いいががり」で
少し基礎教学があれば
またはきちんと立正安国論を読めば
「一凶とは日顕宗だ」なんていう
創価や創価活動家の主張がいかにデタラメであるかすぐわかるはずだ。

立正安国論を通しで読めば分かるように
ここでの「一凶」とは具体的には念仏とそれを広めた法然を指している。
その理由は法然の説いた念仏は
「背正帰邪」の教えであるからだ。
冒頭の神天上法門のキモはこの「背正帰邪」にある。

◇一、世皆みな正しょうに背そむき人悉ことごとく邪悪に帰す文。
 今この八字肝要なり。別しては「背正帰邪」の四字肝心なり。邪正の相対は題号の下の如し。正とは三箇の秘法の事なり。これ元意なり。(立正安国論愚記)

法然は選択集で捨閉閣抛の四字をもって阿弥陀仏を除く
全ての仏と法を衆生に捨てさせた。
なかでも仏の出世の本懐である法華経を捨てさせたのは
一切衆生を不幸にする根源であることから
法然と念仏を「一凶」と断じたわけだ。
「一凶」とは「仏の出世の本懐」を
人々に捨てさせる人と法の事を指す。
仏の出世の本懐とは三大秘法をいい。
大聖人の出世の本懐とは戒壇大御本尊に
究竟されるのは言うまでもない。
つまり、大聖人の言われる「一凶」とは
大御本尊への信を捨てさせる人間やその思想を言う。

さて、ここで翻って見てみると
日蓮正宗においては、いわゆる「日顕」もだれも大御本尊を捨てていない。
捨てないどころが今でも僧俗一致して守っている。
方や創価は大御本尊を受持の対象から外したにもかかわらず
自分たちは間違っていないと多くの詭弁を弄している。
大御本尊への信仰を守っている教団と
大御本尊を受持しないと明言している団体
どちらが「法然」なのか?
どちらが「謗法」なのか?
どちらが「一凶」なのか?
普通に道理を理解できる人なら言わなくても分かるはずだ。
そう、「一凶」とは、大作センセと創価学会の事以外にはないのだ。
そんな、大作センセや創価を破門した宗門になんの咎があるだろうか?
そもそも信徒を破門することは「謗法」でもなんでもない。
また「法主信仰」や「僧俗差別」が仮に存在していたしても
これまた「謗法」ではない。
逆に、「麗しい人間同士」の集まりだとしても
大御本尊を自ら捨て、また他人にも捨てせること。
それこそが「謗法」であり「一凶」である。

立正安国論に曰く、

◆悲しいかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり

本尊義を始め教義・化義を毎年の変える創価こそ多くの会員を迷わせる魔縁だろう。

最後に法然が何故このような邪義を唱えるに至ったのか?
それも立正安国論に書いてある。

◆是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず

まさに今の大作センセの邪義は大聖人の仏法によらない
無信心に起因している。

◆人皆其の妄語を信じ悉く彼の選択を貴ぶ

これは、そんな大作センセの「妄語」を信じて
人間革命だの大作スピーチばかり尊ぶ創価カツドウカそのもの。

大作センセこそ「今法然」であり
創価こそ「今念仏」の団体だ。
そして、もう一度書くが
現代の「一凶」とは
大作センセと創価学会に他ならないのである。
大聖人の弟子としてありたいのであれば
まずは、創価の活動を止めることです。

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創価教学じゃない御書講義(29年度6月座談会御書弥三郎殿御返事)

但偏に思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ
若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、
此れこそ宇治川を渡せし所よ是こそ勢多を渡せし所よ名を揚るか名をくだすかなり
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の御書は「弥三郎殿御返事」
選挙になると度々引用される箇所ですな。
都議選真っ盛りの6月には持って来いの御書です。
本部も幹部が選挙の事を指導しやすいように考えているんだね~。
この前文に
◆所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みてあやぶむ事無かれ
とあるがここまで入れるとちょっとあざといと思ったのかね?
でも、ここまで入れてくれた方がやりやすいんだけどね。
「さぁいよいよ首都決戦の時。今こそ何も顧みず思い切り闘いきって
この法戦に勝利し我らが創価の名を満天下に轟かせようではないか!」
ってこんな感じですか?(笑)
よく聞くとバカみたいなんだけど
好きだからなぁこういう感じが。
体育会系の脳みそ筋肉君の男子部は大喜びですね。
また普段世間では名を上げるどころか
うだつも上がらない壮年部もちょっとやる気が出るかも?

この御書は「法論」に望む信徒へのご指導です。
「法論」とは「法の正邪」を決するまさに「法戦」
まぁ今どきの学会員は「法論」のルールすら守れないので「戦い」にならないが
大聖人の弟子として「法論」こそが「法戦」です。
創価は勝手に拡大解釈して
選挙を法戦なんて勝手にぶっこいているが
公明党支援活動に法の正邪なんて関係ないでしょ(笑)
そもそも公明党が勝ったからと言って名があがるわけでもなく
公明党が負けたらといって汚名を着るわけでもない。
なのに、大袈裟にこの御文を選挙の度に引用するのは滑稽過ぎる。

さて、「名を上げる」とはどういうことなのだろうか?

◆法華宗の四条金吾四条金吾と鎌倉中の上下万人乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ、あしき名さへ流す況やよき名をや何に況や法華経ゆへの名をや(四条金吾殿御返事)

とあるように法華経故の名を上げるということだろう。
言い換えれば大聖人の弟子としての名である。
大作センセの弟子とて・・・というのでは
少なくても法華経故の名を上げたことにならない。
もちろん、大作センセがしてきた戸田先生の弟子として・・というのも違う。
そもそも今世娑婆世界での名声のことなど大聖人はなんとも思っていなだろう。

◆名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり(持妙法華問答抄)

もちろん、今世で勝利の現証を示すことも大切である。
それは、そのことによって大聖人の仏法の正義を証明できるからだ。
それもまた「大聖人の弟子」とて名を上げることに通じる。
そして、我らが「大聖人の弟子」として名を上げたことが活かされるのは
今世ではなく死後・来世のときだ

◆中有の道にいかなる事もいできたり候はば日蓮がでしなりとなのらせ給へ、わずかの日本国なれどもさがみ殿のうちのものと申すをばさうなくおそるる事候、日蓮は日本第一のふたうの法師ただし法華経を信じ候事は一閻浮提第一の聖人なり、其の名は十方の浄土にきこえぬ、定めて天地もしりぬらん日蓮が弟子となのらせ給はばいかなる悪鬼なりともよもしらぬよしは申さじとおぼすべし(妙心尼御前御返事)

との御文の通り、大聖人の名前は十法界にとどろいている。
その弟子である。と言えば、悪鬼は恐れ諸仏は讃嘆する。
知らない土地でヤンキーに絡まれた時に
その地元で名の通った先輩の名前を出して
「〇〇さんの後輩です」というと
急にヤンキーがやさしくしてくれる
といった具合だ。
ただし、肝心の〇〇先輩に
「オマエなんて知らないよ」と言われてしまうと
もう、ボコられてオシマイある。
大聖人仏法も同じで、「いくら弟子だ」と名乗っても
それが「ウソ」ならば通用しない。

◆日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず(一谷入道御書)
◆二心ましまし人の聞にはばかりなんどだにも候はばよも日蓮が弟子と申すとも御用ゐ候はじ後にうらみさせ給うな(南条兵衛七郎殿御書)

日蓮が判を持っていない。というのは大御本尊を捨ててしまう事である。
二心というのは、大御本尊も他の御本尊も全く同じと思う事である。
つまり創価の信心を続けることは
「大聖人の弟子」と名乗っても通用しない。というだ。
地獄の悪鬼に見破れボコボコにされるのは必定である。

「大聖人の弟子」として名を上げるには
今世で正しく大御本尊を信じ
大聖人の弟子として生ききる以外にない。
謗法と化した創価の片棒を担いでいる活動家諸氏にとって
まさに今が、宇治川の戦いの最中である。
いまここで創価の謗法に反旗を翻し大聖人の弟子としての名を上げるか?
創価の謗法に味方し、仏敵として名を下すか?
ここで魔に誑かされ敗北し死後に後悔しても遅い。
「後にうらみさせ給うな」と大聖人も言われている。
大聖人の弟子であろうとするならば
今日から、創価の邪義を捨て大御本尊の元に戻る以外に道はない。
よくよく思案すべきだと思う。
また、大御本尊を信じる我々は
今世のうちに大いに名を上げ
悪鬼も恐れて近寄らないような境涯にしていきたいものだ。

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Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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