聖僧について

日興遺誡置文の

◆先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の妖犯有りと雖も衆徒に 差置く可き事

この御文に聖僧について書いてみる。
以前この御文については【或いは】という読み方は
貫首または習学の仁と読むのではなく
貫首は「もしも習学の仁が」と読むのだという内容の記事を書いたが
今回は「聖僧」の定義とは何か?について書いてみる。
この「聖僧」を「妻帯をしない」という定義にして
法主を始めとする僧侶は聖僧ではない。とか
妻帯・肉食を許されてから僧侶が堕落した。
などと創価のカツドウカは正宗僧侶を批判するが
俺はその批判は全く的を射ていないと思っている。
その理由はいたってシンプルで
大聖人が「妻帯・肉食しない僧侶」を「聖僧」であると
言われている文証がひとつもないからだ。
また大聖人が「妻帯・肉食」を禁じた文証もない。
また「妻帯・肉食」を禁じること自体が大聖人仏法の教えから外れている。
そもそも、いわゆるこのような戒律は末法には全く意味をなさない。
末法の今は、だた大御本尊を信受することのみが唯一無二の戒律であり
「妻帯・肉食をしない」ことが聖僧の定義であるわけがない。
大聖人ご自身や日興上人は「妻帯」されてはいないが
それが「聖僧」の証ではない。
そもそもご謙遜ではあるが大聖人がご自身を
「私は妻帯も肉食もしない持戒の聖僧である」などと御書のどこにも書いてない。
四恩抄で大聖人は

◆世末になりて候へば妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず

と言われているがそれをもって聖僧であるとは言われていない。
むしろ同じ四恩抄でご自身を

◆日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども

と謙遜されてはいるがこういっている。
つまりは「妻帯・肉食しない」とことが「聖僧」という意味ではないということだ。
それを僧侶の「妻帯」=「堕落」
「妻帯」=「邪淫」のように捉えるのは大聖人仏法の本義ではない。
再び四恩抄を引けば

◆故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり

と大聖人は言われている。
よくよくこの御文を咀嚼してほしい。

そもそもこの遺誡置文の御文の「聖僧」の部分を「妻帯」などと解釈するのは
日亨上人の「富士日興上人詳伝」の中の記述

◇「この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風とみて、その内自然に振粛して、宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである(中略)それを無作と名づけてみても、けっして放縦不羈なものでない」

に基づいている。(広宣部時代に学んだから間違いない)
この日亨上人の記述から、現在の宗門の妻帯は異常自体であり
大聖人・日興上人の時代のように「非妻帯」が正常であるのだから
「妻帯」は「聖僧」ではない。という半ば強引に持っていくのが創価カツドウカのロジックだ。
そして「僧侶」=「出家」=「非妻帯」という
釈迦仏法の一般的な戒律が正しいと思っている人をだまくらかすのである。
日亨上人のご指南を「是」とするならば
日亨上人の書いた「魚鳥食開訓」には次のとおり書いてある

◇宗祖の化儀は聖僧であって、御開山の化儀も、また御門下の化儀も聖僧であった事は、史実として見るべきであるが、もちろん小乗戒でも大乗戒でもない。有作数目にして係(かか)はる戒ではない。本門無作の大戒であるから、戒目を挙げて、或は此れを遮し、此れを開する底の窮屈な事例はあるべきではない。然れども鎌倉時代に横溢する破壊無慙の妖僧等に簡異する為に、仮に断肉禁淫の聖僧を標せられたものであろう。(中略)また妻孥に慰められねば夜の明けぬと云ふ人も仕方があるまい。夫唱婦随、同心戮力して、一家平和の好模範を壇信徒に示し、宗門のためにも、住寺のためにも、国家のためにも、郷里のためにも、努力の効が顕著であったなら、帯妻の譏嫌は償はるるであろう。(中略)菜肉妻に著せずして信仰に生くべきである。弘法のためには死しても悔いなく、憾なきを所期とするのが宗徒の信念の第一義であらねばならぬ。(中略)もっとも、禁欲斎戒を標榜にする宗門の坊さんなら、何と言われても、身から出た錆で、致し方もあるまいが、六百有余年の昔に末法無戒を喝破した日蓮大聖の門下には、迷惑千万の至りじゃ。

これが日亨上人のご指南である。
宗内の「妻帯」を「聖僧の化義ではない」などと一言も言われてないのだ。
大聖人仏法における「聖僧」とは、そうした戒律を守ることでなく
法体を守ることであり、法門を守る事であり
「信仰に生き抜く」ことに他ならない。
そのような僧侶を日興上人は「聖僧」と呼んだのである。

そもそもカツドウカはいつも自分達の都合のいい日興上人の遺誡だけ取り上げる。
僧侶の妻帯が日興上人の遺誡に背く。というならば

◆檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けん や、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。

この御文はどうなんだ?
檀那。つまり在家の信者の社参物詣を禁じているが?
一見もダメなんだからどんな理由でもダメってことだぞ?
え?自分たちは在家だからOKだって?
ははは(笑)
だったら僧俗に「差別」はあるじゃん。

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三沢抄(蘭房さんのコメントへの感想)

蘭房さんから三沢抄を引用したコメントをいただきましたので
2記事連続で御書ってのもちょっと堅苦しくなっちゃいますが
その三沢抄について少し書きます。
蘭房さんが引用してくれたのは

◆仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧はか しこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなをしくならひうる事かたし、たとひ明師並に 実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時にはかならず影の身にそうがごとく雨 に雲のあるがごとく三障四魔と申して七の大事出現す

この部分です。ここを引用し
大作センセは結局「正信の師」でなかった。
と蘭房さんは言われています。
まったくその通りです。
そもそも在家同士の間に「師弟」なんて持ち込む時点でオカシイのです。
在家同士は善知識の集まりであり
善知識とは、一向に師匠でもなければ一向に弟子でもない。
と以前このブログに書いた通りです。
なのに、師匠と弟子という関係を在家同士に持ち込んで利用した
大作センセは最初から大聖人の弟子という自覚がなかったわけです。
大聖人よりも戸田先生。
一見美しく聞こえますが、
これは単に戸田先生を利用しただけであり、
そのような大作センセを戸田先生が喜ぶ道理もないでしょう。
大作センセやバリカツさんは「師匠・大作センセと異体同心の戦いを」なんていいますが
在家信者同志の異体同心とはそういことではありません。
日因上人が金沢法難の時に信者に書かれた手紙の中に

◇一結講中異体同心に未来までも相離れ申すまじく候、中に於て一人地獄に落入り候はば講中寄合いて救取るべし、一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし

という一文があります。(法華講員さんには有名だと思いますが)
このご指南が、大聖人門下の在家の信徒の規範になるご指南です。
在家同士の師弟義など邪道もいいところです。

では、そこで上記の三沢抄の御文を拝すると

◆明師並に 実経に値い奉りて

この「明師」とは大作センセではなく、人本尊である日連大聖人です。
「実経」とは、法本尊である南無妙法蓮華経です。
ですから「明師並に 実経」といいうのは
人法一箇の「戒壇大御本尊」ということです。
そこを踏まえて解説すると、
「たとえ大聖人の色心二法の当体である大御本尊にめぐりあえて
正しい信心に巡り合えてもいよいよ成仏するころになると
三障四魔が必ず現れて成仏を妨げる」といことになります。

◆たとひ智慧はか しこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず

まさに、旧日蓮正宗創価学会系の幹部・バリカツさんがこの状態です。
そう、大作センセという邪智謗法のモノを「師」にしてしまったばかりに
「信心」が曲がってしまった。
そしてそれを気づくこともできない。
在家同士の師弟義なんて御書のどこにもないのに
大聖人と日興上人の師弟義と創価のそれは全く異次元の話なのに
早く「明師並に 実経」に再び値い奉って欲しいものです。

てなわけで、今日はこの辺で。
次回は、もう少しライトな記事書きますね。

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創価教学じゃない御書講義(29年度3月座談会御書・経王殿御返事)

但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、
日蓮がたましひをすみにそめながし てかきて候ぞ信じさせ給へ、
仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「経王殿御返事」
短い御書なんだけど、大聖人仏法の重要な教えが詰まっていて
とてもいいテキストになる御書だね。
創価の活動家は、何度もこの御書を読んだり
講義をしたり聞いたりしていることかと思う。
その中でも今回の部分は、有名かつ重要な御文だね。

しかし、この御書のしかもこの部分を
座談会御書として選ぶかね~?
何かの冗談?
それとも自虐ネタ?
或いは自爆テロ?
どっちにしても、今の創価幹部活動家が
もっとも、「やりたくない」部分でしょ?コレは?

いうまでもなくこの部分で最重要なのが
◆日蓮がたましひをすみにそめながし てかきて候ぞ信じさせ給へ
◆日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
のこの部分。
この部分を説明しないと講義になんない。
「法華経の剣」とは、ご本尊のことで、
その「御本尊」とはなにか?
大聖人仏法の「本尊義」を述べている部分が上記の二つ。
簡単にいうと大聖人の本尊義とは人法一箇ということなんだよね。
いつもブログで書いているように、
「本尊」とは大聖人の色心二法のことであり、大聖人そのものを指し
大聖人の色心二法とは、南無妙法蓮華経(法)に他ならない。
つまり、大聖人の色心二法を離れて南無妙法蓮華経はなく
南無妙法蓮華経を最初から所持するゆえに大聖人をご本仏というわけだ。
この御文の前に、
◆日蓮守護たる 処の御本尊
と書かれいるとおりである。
そしてその大聖人の色心二法を顕したのが
大聖人の出世の本懐たる
一大秘法の本門戒壇大御本尊である。
それがここでいうところの「法華経の剣」であり
それに対して信をとれば「鬼に金棒」になるのである。
そして大御本尊に信をとる信心を「けなげ」な信心という。
御信心による。というこはそういうことだ。

で?どうすんの?創価の本尊をどう説明すんの?
創価の本尊は言わずと知れた
日寛上人が大御本尊を書写した本尊を
創価が画像処理を加え、勝手にコピーをして配っているモノである。
この創価本尊に、大御本尊を捨てた創価が
どうやって大聖人の魂を入れているのか?
それを説明できるのか?
てかそこを説明しないと今月の御書講義にならない。
これは、今月は結構面白い座談会になりそうだ。
外部新来者として誰か俺を座談会に連れて行ってくれないだろか(笑)

macskaさん、今月ですよ。
御書講義の担当を願い出てください。
まさか、ここを座談会御書に選ぶなんて完全に敵失です。
千載一遇のチャンス到来です。
この御書なら思いっきり大御本尊を宣揚し
創価の本尊義を破折できます。
そんな御書を選ぶとは、
マジで自爆テロとしか思えない。
じゃなけりゃ勝負にでたか?
いずれにせよmacskaさん、出番です!

macskaさん以外の活動家さんもそうですよ。
本当に大御本尊を捨てていない。と言うならば
今月の座談会では講義をするなり
質問するなりしてくださいね。
「大御本尊を捨てた創価がどうやって大聖人の魂を創価本尊に入れているのか?」って。
本文には
◆法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ
と書いてあるでしょ?
「けなげ」とは「勇気」ということです。
今の創価の組織の中で
大御本尊を宣揚することはもちろん
そうした質問することすら勇気の要ることです。
その勇気がなければ、
◆つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし
とあるように、創価の本尊など無用の長物です。
今月の座談会は本当にチャンスです。
いままで聞けなかった大御本尊のことを聞けるチャンスなのです。
なんてたって、いままで大御本尊の件からが逃げ回っていた創価が
自らその舞台を作ってくれたのですから。
また反面、「大御本尊を棄ててない」といってる会員さんにとって
それが本心かどうか試されているとも言えます。
どうぞ「勇気」をもって「前進」し
単なるコピーの掛け軸を、法華経の剣に変えていってくださいね。

◆秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり(報恩抄)

最後に「大御本尊を捨てても平気な顔している」幹部・バリ活さんは
今月の御書講義はしない方が身のためです(笑)
いままでは、ウヤムヤにごまかして逃げ延びてきただろうけど
今回はさすがに「本尊義」を話さないとシャレにならない御文ですよ。
まさか、「相貌」が同じなら「自動的」に大聖人の魂が入っている。
そんな講義はしないよね?(それしか言い逃れができないのだろうけど)
なんなら、「今月は期末で仕事が忙しい」とかいって座談会不参加にしましょう。
仕事をしてないバリ活さんは当日「具合が悪くなる」ってのもアリです。
どうしても御書担当になってしまったら
なるべく後半部分には触れずに
サクッと大白読んで質問なしで終えてください。
まぁ「言い逃げ」「やり逃げ」はバリカツさんの十八番でしょうから(笑)
え?うちの組織にはそんな事質問しくるような部員さんはいない?って
そうですか、ではその組織は既に謗法の地と化してるわけですね。
それはご愁傷様です(笑)

しかし、何度も書くけど
創価が、ここをやるかなぁ・・・(笑)

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創価教学じゃない御書講義(29年度2月座談会御書・妙一尼御前御消息)

法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、
いまだ昔よりきかずみず冬の秋とかへれる事を、
いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、
経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月は、「妙一尼御前御消息」ですね。
2月だから季節感を出した感じ?
まぁ、この御文は創価活動家の約87%(当社調べ)が
一度は読み聞きそして念じたと思われる有名な一節だね。
「冬」がイロイロと解釈することができるので
幹部も使いまわししやすい一節でもあるね。
法華経を信じる人は何で「冬」なの?って素朴な疑問もあるが
「法華経を信じる人」は必ず難があるから。というのは基本線。
あ、でもこれを下手に使いうと、「そんなんじゃ信心やらない」って言われる場合ありだよ。
または、人は苦悩があるから信心をするから。
つまり「冬」になって初めて真剣に信心するってことだね。
本文に即して言うと、「冬」とは「凡夫」という事で
「春」とは成仏と言う事になるね。

俺も親父の借金背負って、この信心を初めて
何度この御文を心に浮かべながら唱題したことやら。
「もう冬、長すぎ。北極か!」とか思いながら唱題してたなぁあの頃は。

さて、今回の御文のポイントはもちろん
「法華経を信じる人は」
ここ。ここに尽きる。
法華経。つまり大御本尊を信じる人。
その信心がある人は必ず成仏する。ってことだね。
今が北極圏並みの寒き冬であっても
大御本尊を信じる人には必ず「春」の功徳がやってくる。
そして一度、一生成仏したのなら(春になったら)
大御本尊を信じている限り再び苦しみの凡夫の境涯には戻らない。
そのように大聖人が太鼓判を押してくださっているのが今回拝読の御文です。

さて、今の創価のカツドウカさんはどうですかね?
破門後入会のカツドウカさんは
最初から「創価を信じる人」であって
「法華経を信じる人」ではないので、
「冬」か「春」かは、その人の福運次第ですが
「創価を信じた」時点でいつか必ず「冬」となり
「冬はおそらく冬のまま」でしょう。

次に破門前に大御本尊を信じていたのに
創価の邪義により大御本尊を捨ててしまい
剰えそんな邪義を正当化している
創価幹部・バリ活諸氏においては
折角の成仏の境涯から、あえなく凡夫に逆戻り決定!
冬は秋に戻らないかもしれないが
春夏秋と駆け抜けて、また冬に逆戻り状態ってことだ。
そして「冬はいつまでたっても冬のまま」っていう事になるな。

大聖人は

◆法華経の行者を捨て給わば諸仏還つて凡夫と成り給うべし恩を知らざる故なり(法華真言勝劣事)

と言われている。(どうせ法華真言勝劣事なんて読んだ事ないでしょうねぇ)
毎回書いているけど
法華経の行者とは日蓮大聖人のことであり
日蓮大聖人とは一大秘法の「本門戒壇大御本尊」のこと。
いいですかぁ。大作センセの事じゃありませんよ。
この「法華経の行者」って部分を
「大作センセ」とか「創価学会」なんて解釈しないように。
その解釈だと、諸仏は大作センセのお陰で成仏した。
ってことになっちゃいますからね。おかしいでしょ?
そんな解釈するのは「創価切文我見教学」ですからね。

その大御本尊を捨てた創価のバリカツ・幹部は、
残念ながら苦悩の淵を彷徨う凡夫状態。つまり冬に逆戻りしてんのよ。
「諸仏」ですら「法華経の行者」を捨てれば凡夫に戻っちゃうんだぜ。
もともと凡夫のオマエさん達が戻らないわけなかろう。

そんなわけで、バリカツさん以外の会員の皆様は
一日も早く大御本尊に信を取る信心をしましょう。
やめられる人は、早く創価をやめましょう。
それと毎月の座談会での「とんでも御書講義」に騙されないように。
今月の御書は、上記の「法華真言勝劣事」の御文とセットで考えてくださいね。
なにせ創価教学はご都合主義ですから
自分でイロイロ学ばないと
「いつまでたっても冬のまま」
「いつまでたっても一闡提」ってことになってしまうので用心してくださいね。
(バリ活さんは、このまま一度無間に行ってから改心してくださいね)

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偽書論について

このブログにも数人の方がコメントしてくれた「偽書論」について書いてみる。
昨年中に書くといいながら年越ししてしまったことをまずはお詫びします。
「偽書論」については身延系信者達と、もううんざりするくらいやりあったので
「偽書論」に出会うとまたこの話かぁっていうのが正直なところなところなんだけど
日興門下としてこの「偽書論」に惑わせててもいけないし
「御書」を学ぶときの基本的な部分の問題でもある。
なので話せば長くなっちゃうのだけど、なるべくコンパクトに書いてみる。

まず「偽書論」は「真筆がない」という所から必ずはじまる。
「真筆」がなければ「ニセモノ」であり、「ニセモノ」だから「用いない」
で、そこから大御本尊や日蓮本仏や血脈相承を否定していくのが
身延系信者のワンパーンなのだが
「真筆」がなければ用いなのら釈迦の経典全てを否定せざる得ないし
科学的根拠がなければ信じない。のであれば
大乗仏典に書かれているような摩訶不思議な現象は科学的に有り得ないので
大乗経典など信じるに足らないおとぎ話ということになる。
そのへんの自己矛盾を説明しないまま話を進めようとするのが身延信者だが
この件については昨年シャリホツさんが以下のようにリコメをくれた。

【管理人さんは「法華経の優位性」というものをどのようにお考えなのでしょうか。まさか「正直捨方便」と書かれているから法華経が優位なんだ、なんて思っていませんよね。法華経が優れているのは、「一仏乗」「諸法実相」「久遠実成」など、説かれている内容です。それは法華経が例え「おとぎ話」だったとしても、揺らぐものではありません。「おとぎ話」だったら無価値だと考えるのは「依義不依語」が分かっていないと思います】

実はこのリコメこそ全てなんです。
法華経が何故最上位なのかというと、その内容ゆえなんですね。
つまり釈迦の真筆があろうとなからろうと、
書かれていることが科学的に立証されようとされまいと
そんなことは何の関係もない。ということです。

◆法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり(三大秘法禀承事)

とあるように、法華経を諸仏の出世の本懐とするのは
釈迦の直説・直筆だからでなく、あくまでも「三大秘法を含めたる経」だからなのです。
これを言いかえると、釈迦仏法において法華経は経典ではなく「法体」である。ということです。
「法体」であるからこそ「諸仏出世の一大事」と大聖人は言われいるわけです。
ではこの法華経と他の教典の関係性は?というと

◆法華経一部八巻二十八品進んでは前四味退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括るに但一経なり始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり無量義経法華経普賢経の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり(観心本尊抄)

つまり法体である法華経は正宗分、爾前は序分、涅槃経は流通分という関係です。
ですが、一度法体が顕れれば序文・流通分ともに流通分になるわけです。

◆所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり(観心本尊得意抄)

大聖人が爾前に固執することを破折したのは、「流通分」である、法門を法体と捉える間違いを指摘しているわけです。

さて、ここまで書けば懸命な読者の皆様にはもうお分かりかと思いますが、
大聖人の御書とは釈迦の各経典と同じに捉えなければいけません。
つまり「御書」は「法体」でなく「法門」であるといことです。
私が男子部時代、観心本尊抄の五重三段を講義するときに必ずもう一重加えました。
それは大聖人仏法における三段です。
釈迦の経典、龍樹・天台・伝教等の論釈、大聖人の佐前の御書は「序文」
大聖人の佐後の御書は「流通分」です。
そして大聖人仏法の「正宗分」とはもうわかりますね。
大聖人の「出世の一大事」(出世の本懐)であり、法体である
一大秘法の戒壇大御本尊です。
そして、法体(大御本尊)を顕して後は
序文も全て流通分になるわけです。
これが私がいつも言う「御書は法体でなく法門である」ということです。

では「法体」と「法門」はどう違うかといえば、全く乖離しているわけではありません。

◆経の中の法門は其の経の題目の中にあり(曾谷入道殿御返事)

とあるように、上記の「其の経の題目」とは
大聖人仏法では「一大秘法戒壇大御本尊」です。
そして「法門」(御書)とは、この法体(大御本尊)の中にある。
逆に言うと大御本尊の外にはない。ということであり
大御本尊に帰結しない教えは「法門」とは言えないということです。
さらに言えば「法門」とはあくまでも「法体」(大御本尊)説明であり
「法体」を教え広めていく(流通する)為にあるものです。
ですからシャリホツさんが法華経について述べたように
誰が書いたか?とか真筆があるか?とか科学的に証明できるか?
というような次元の話は全く無価値であり無意味なのです。
重要なのは「法門」として正しいか?正しくないか?という内容なのです。
結論を言えば、学術的な考察で御書の真偽を問い
それをもって大御本尊を否定する身延の主張は
私からすれば全くもって「御書」を語る資格などないと思うわけです。
(御書とはなんであるか理解できていない)
「御書」の真偽を言う前に、まず「大乗仏説」を学術的見地から証明しろよ。って話です。
では「法門」としての正当性はどこで決めるのか?って話になりますが
そこが仏法が相伝(口伝)である所以であり
仏法の相伝は経巻相承ではなく法体相承である所以です。
この話も長くなるので本日は割愛します。
言えることは釈迦仏法も法華経という「経典」を信じるのでなく
法華経という「法体」を信じることなのです。

以上、簡単に「偽書論」についての考えを書きましたが
私の考える「偽書」とは「御書」そのものの真偽ではなく
読み手の信心の真偽の問題だと思ってます。
上記しましたが「法門」とは必ず「法体」に帰結することをもって「法門」と呼びます。
身延をはじめとする「偽書論者」の方々は「法体」に帰結しません。
というか既に眼前に法体は明らかであるのに
「法門」からまた「法体」を知ろうと無駄な努力しているわけです。
凡夫が知ろうとして知れると思っているならば

●諸仏智慧。 甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。

の法華経の文を否定することになります。
それはさて置き、「法体」に帰結しない御書は「法門」ではありませんので
真筆だろうとその人の読む御書はずべて「偽書」です。
とはいえ身延信者の方々にとっては「法体」は法華経ですからそこは仕方ないし
また仏教学を純粋に学ばれている方も、
大聖人の御書をどう受け止めようと自由ですので批判をする気もありません。
問題は、大聖人を末法のご本仏とか言っておきながら
大聖人の御書の一部を「偽書」扱いしたりする学会員です。
これこそ邪智・謗法の輩であると断言します。
また、そのような学会員の読む御書は全て「偽書」であり
そのような「偽書読み」をしている学会員の言うところの先に「法体」はありません。
どうか、純真たる会員の皆様には
正しく「御書」を拝してもらいたいと願うわけです。
「御書」を正しく拝する。とは決して難しいことではありません。
「大御本尊に対する信心」が「強く」「深く」なるように読むってことです。
そのように拝読することができれば
皆さんの「御書」はだれがなんと言おうと
ご本仏の「ご金言」なのです。
ざっくりと手短に書いたので、(しかも少し眠気もあり~の)
よくわからない部分はあると思いますがご容赦ください。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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