創価教学じゃない御書講義(29年度10月座談会御書・阿仏房尼御前御返事)

弥信心をはげみ給うべし、
仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、
よしにくまばにくめ法華経釈迦仏天台妙楽伝教章安等の金言に身をまかすべし
如説修行の人とは是れなり
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「阿仏房尼御前御返事」
別名「畷堅固御書」です。
「畷(なはて)」とは、田んぼの畦・土手のことで
本文の
◆なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、
謗法不信のあかをとり信心のなはてをかたむべきなり

から「畷堅固御書」という別名がついてます。

さて今回の御文で重要となるキーワド・ポイントは
「如説修行」でしょうね。
創価バリ活風に講義をするとしたら
この信心をすれば嫌われたりすることもあるだろうけど
相手に嫌われても憎まれても学会の正義を語ることこそ如説修行なんだ!
って感じになるのでしょうが
この御文をどう読んでみても
創価バリ活の言うような結論には至らないですなぁ。

◆仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし

この部分は、仏法(正法)を語れば三類の強敵は出現する。ということです。
そしてこれは「如説修行」自体の説明ではなく
「如説修行」をすることによって
起こること(三類の強敵が現れる)をご教示されているところです。
創価バリ活がいうような人様に憎まれることが「如説修行」ではない。
ということです。

では、如説修行とはどのような修行かというのは次下の

◆法華経釈迦仏天台妙楽伝教章安等の金言に身をまかすべし

この部分です。これが「如説修行」をご教示されている御文です。
この御文と同じことが「如説修行抄」にも書かれています。曰く

◆問うて云く如説修行の行者と申さんは何様に信ずるを申し候べきや(中略)
所詮仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり(如説修行抄 )

如説修行とは、人師・論師の説を用いるのでなく
あくまでも「仏の金言」即ち「如説」を用いることをいうわけです。
そして「仏の金言」のまま修行すると
男女僧尼に必ず憎まれる・・・三類の強敵が現れるわけです。

では「如説」とは具体的には何を指すのか?
「御書」・・それも正解なんだけど、
もっと根本的な「如説」があります。

◆法華経釈迦仏天台妙楽伝教章安等の金言

この部分が「如説」です。
「法華経」とは「法」で
「釈迦仏天台妙楽伝教章安等」とは「人」になっているのがわかりますよね?
この「法」と「人」の二つはこの御文では一体として書かれています。
つまり仏の金言とは「人法一体の体」なのです。
「如説」の文字も見ればわかると思いますが
「如」は「如来」ですから「人」です。
「説」は「説法」ですから「法」です。
このように「如説」とは「人法一体の体」を言うわけです。
また「如来」は「人」ですから「色法」
「説法」は「法」ですから「心法」ということになり
「如説」とは仏の「色心二法」ともいえます。
さぁ、ここまで書けば余程の謗法不信のものでない限り
大聖人のいう、仏の金言(如説)は何か?わかりますよね?
そう、人法一箇・ご本仏の色心二法の当体
「弘安二年ご建立の本門戒壇大御本尊」が
大聖人仏法の文底真実の「仏の金言」「如説」なんですね。
ちなみに創価コピー本尊は見た目はコピーですから大聖人の本尊風ですが
肝心な「心法」がありません。
ご本仏の「心」はコピーできませんからね。
ですから「如説」でないというわけです。

そして

◆身をまかすべし

この部分が「修行」です。
具体的には自行化他の本門の題目です。
「修」とは自行・「行」とは化他行です。
まとめると「如説修行」とは
「戒壇大御本尊」に信をとり唱題し
「戒壇大御本尊」を語ることです。
たとえそれで憎まれてもいい。と覚悟を決める人が如説修行の人である
その人を法華経の行者と呼ぶのです。
ただ、言っておきますが「憎まれるような言動をしていい」
というこではないので勘違いしないでくださいね。

では、今の創価バリ活は如説修行の人ですか?
大御本尊を信受していないなのだから
如説修行の人ではありませんね。
つまり法華経の行者ではない。ということです。
彼らは「仏の金言」を捨てて、大作センセや創価上層部の
「人(凡夫)」の言葉だけを用いている人たちです。
そんな彼らが人々から疎まれ嫌われ憎まれるのは
全く日蓮大聖人とか関係ありません。
創価と彼らバリ活自身の言動が嫌われているだけの話ですね。
そりゃ嫌われますよ。
なにせ、彼らは自分達の都合や要求ばかりしかしないのですから。
ワンウェイコミュニケーションでは他人と仲良くなれるはずがありません。
それに彼らは学会活動をして「嫌な思い」をすると
「嫌な思い」をさせた側を三類の強敵のようにいいますが
むしろ「嫌な思い」をしているのは創価バリ活の周囲の人々の方です。
悪いのはむしろ創価バリ活の方です。
選挙だの新聞だの用もないのに勝手に頼んできて
そんなもの(創価のやっていること)に興味ない人間が
どれほど迷惑で嫌な思いをしているのか考えたことありますか?
あ!バリ活は自分は嫌な思いなんてしないか。
一方的に周囲の人達に嫌な思いをさせているだけでしたね(笑)
しかも仏法の道理すら知らないから「騙り」はできても「語れない」ですもんね。

信心ある学会員さん!
そして自身の人生を本当に変えたいと願っている悩める学会員さん!
一日も早く大御本尊への信を取り戻してください。
訳があり創価を退会できない人でも
大御本尊への信を取り戻せば必ずいい方向に進みます。
今回の御書の最初の方に

◆謗法の者にも浅深軽重の異あり、法華経を持ち信ずれども誠に色心相応の信者能持此経の行者はまれなり、此等の人は介爾ばかりの謗法はあれども深重の罪を受くる事はなし、信心はつよく謗法はよはき故なり

とあります。創価にいるのは謗法ですが大御本尊への信を取り戻し
創価の謗法の手助けしなければ深い罰を受けることはありません
小さな謗法よりも信心の方が強いからです。
今日からは「弥信心をはげみ給うべし」となられる事を願いっています。


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創価教学じゃない御書講義(29年度9月座談会御書・持妙法華問答抄)

寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、
願くは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞後世の弄引なるべけれ
須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき、
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「持妙法華問答抄」の
一番最後の結論部分の御文ですね。
いくつかポイントがあるのだけれど、
今回は「現世安穏後生善処」を中心に書きますね。
法華経・薬草喩品の中の言葉で
「現世安穏にして後に善処に生じ」と読みます。
現世安穏というのは、信心していれば苦悩はない。ということではなくて、
苦悩があったとしてもこの信心で
必ず乗り越えられる故に「安穏」であるという事です。
その理由は、全ての仏菩薩が法華経の行者を守護するからです。
これがご本仏(大御本尊)の仏力・法力の正体です。

◆然る間釈迦多宝等の十方無量の仏上行地涌等の菩薩も普賢文殊等の迹化の大士も舎利弗等の諸大声聞も大梵天王日月等の明主諸天も八部王も十羅刹女等も日本国中の大小の諸神も総じて此の法華経を強く信じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり、相構て相構て心を翻へさず一筋に信じ給ふならば現世安穏後生善処なるべし(上野殿御消息)

ここで大切なのは「心を翻さないで一筋に信じる」という事です。
昔は、大御本尊を唯一無二と言っていた創価は
いまではものの見事に心を翻し、
大御本尊を捨てるという手のひら返しをしたのですから
当然そのような人を仏菩薩が守護する道理はないわけです。

で、大御本尊を一筋に信じた人は「現世安穏」なわけですが
その因によって、「後生善処」という果報を受けるわけです。
後生善処とは、「在在諸仏土常与師倶生」の事です

◆過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか釈迦多宝こそ御存知候らめ、
「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ(生死一大事血脈抄)

簡単に言えば、何度生まれ変わっても
師匠(大聖人様)の元(共に)生まれる。という意味です。
常にご本仏の元に生まれるわけですから
常に現世安穏である。ということになります。
これが三世永遠の幸福の境涯であり成仏ということです。

この御書の本文中には

◆只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。

と書かれています。
「名聞名利~後生のほだしなり」の部分は
「妙法を持つのみこそ只今生の名聞後世の弄引なるべけれ」と対比されています。
また
「偏に一乗に帰すべし」と
「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみ」は
同じ事を言われています。
前記の上野殿御消息の「心を翻へさず一筋に信じ給ふ」
これも同じことで、
要するに、一大秘法たる戒壇大御本尊を
「唯一無二」のご本仏である。と信じて題目を唱える。という事です。
大御本尊も他の本尊も創価のコピー本尊も全て同じ。というのは
大聖人も釈迦も阿弥陀も大日如来もすべて同じである。
と言っているのと何ら変わりがないわけです。
こっちの「本門の本尊」は受持するけど
あっちの「本門の本尊」は受持しない。
(そもそも本門の本尊とは一大秘法の大御本尊です)
そのような信心ではどんなに題目をあげても
公明党を応援しても聖教新聞啓蒙しても
何の祈りも願いも叶わないのです。

◆一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし(異体同心事)

「現世安穏後生善処」こそ、この御文の冒頭の
「寂光の都」であり「本覚の栖」です。
題号の「持妙法華」の意味とは
「持」とは「受持」であり、「妙法華」とは大御本尊という事です。
大御本尊を受持することが「持妙法華」です。
今の創価幹部・罵詈活諸氏は
「離妙法華」であり、「捨妙法華」ですから
いかに創価が楽しかろうと、
結局最後は「皆苦」であり真実の楽しみではありません。
「嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし」ですね。

◆法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏後生善処とは是なり、ただ世間の留難来るともとりあへ給うべからず、賢人聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ(四条金吾殿御返事)

苦しい時は苦しいと
楽しい時は楽しいと
包み隠さず大御本尊へ自行化他の題目をあげる。
これこそ「持妙法華」の実践に他なりません。
信心ある創価のみなさん
本気で悩みのある創価のみなさん
はやく「持妙法華」の信心を実践し
「寂光の都」「本覚の栖」に戻ってきてくださいな。
そして、今生人界の思い出をたくさん作り
「堕地獄」でなく、「後生善処」になりましょう!


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教学とは信心だよ

最近の創価活動家の教学離れには目を覆うものがある。
教学離れというレベルをはるかに超えて
最早、教学軽視といっていいレベルである。
昔から創価幹部・活動家にはその傾向はあった。
男子部活動家時代に幹部のわけわからない指導に
「そうことは御書に書いていないでしょ?」と反論すると
「教学あればいいってものじゃない。教学ばかりやると退転する」
な~んてよく言われた。
原島嵩氏を引き合いに出すのも常套句だ。
このブログを批判する多くの創価系ブログの管理人たちが
まったく同じロジックを書いているらしいが
いかにもダメ創価活動家(自称)らしい
相変わらずの金太郎飴のステレオタイプばかりで
本当に創価脳ってのはあるんだなぁってつくづく思う。
教学の重要性については何度も書いているが
何度書いても理解できないのが創価脳なんだろうね。

教学っていうのは「頭がいい」「頭が悪い」というカテゴリーの話ではない。
このブログでも「学術的」に大聖人仏法の教学について疑義を挟む人達がいたが
俺は決まって「信心がなければ」大聖人の法門法義は理解できない。
と言い続けた来た。
つまり学力と教学力は全く関係ないということだ。
求道心。つまり信心があるか?ないか?
その1点が教学力に差を生むのさ。

諸法実相抄に曰く

◆行学は信心よりをこるべく候、

教学は信心によって学ぶのである。
信心のない人は題目をあげない。のと同じように
信心のない人は教学を学ばない。のである。
故に「教学がない」ことを正当化するような人間は
信心がない。ということになる。
それを否定するのは上記の大聖人のお言葉を否定するということだ。
それとも、「題目なんてあげなくても信心があればいい」とか
「題目をあげすぎると退転する」とでも言うつもりか(笑)
「教学がなくても信心があればいい」などというのは
「題目をあげなくていい」と言っている事と同じである。

このようなことをいうヤツは
自分の信心のなさを正当化し隠蔽しているに過ぎない。
また、教学を単に頭のよしあしと捉えるのも
学術的に富士門流の教義に非難を加えようとする
無信心の僧俗のような発想で
仮にも「日蓮仏法」を語っているという自負があれば
そのような門外漢の人々と同レベルの
発想・発言をするとは何とも情けないではないか。

上記の諸法実相抄の御文の前後には

◆行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず
◆我もいたし人をも教化候へ
◆力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし

とのご教示を述べられている。
行学の二つはどちらが欠けても正しい仏法にならない。
人を教化し一文一句を語る為には正しい教学がなければ不可能だ。
ましてや、他者を破折するつもりであるならば尚更である。
御書の「一文」のあげることもできずに
一体何をもって邪宗を破折するのか?
ただ「日顕宗が悪い。日顕宗撲滅」
と書いたり言ったりしているのは
ヘイトスピーチを繰り返しているだけの
破折でもなんでもない印象操作に過ぎない。
まさ今の創価活動家のやっていることがソレだ。
それは折伏でも広宣流布でもなく、
単なる創価活動家達の名聞名利以外の何物でもない。

◇学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事
◇論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事

と日興遺誡置文のご指南の通り
いまの多くの創価活動家は、
「予が末流に叶う可からざる」輩である。
日興門流でないのだから日蓮大聖人の門流でもない。
もっとも日興門流であるなら

◇日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御本尊(日興跡条条事)

を受持の対象から外すことなど絶対に有り得ないけどな。

ともあれ、「教学があっても信心が云々」という
幹部・活動家には気をつけたほうがよい。
このセリフの中には「教学なんかなくても私のほうが信心は上」という
憍慢・傲慢な生命がある。
そんな生命であるから真摯に教学を求めることができないのだ。

例えば一生懸命勉強をして東大に合格した人を
遊び呆けいた人間が
「あいつは頭がいいけど俺の方が人間としては偉い」
そう言ってるようなものである。
そう言う人は俺には偉いとは思えない。
単なる僻み嫉妬の類だろう。それは。
教学軽視の活動家も同じである。
自分が学ばないくせに、教学を学んだ人を見下すのは
単なる、僻み・嫉妬・愚痴
自分のそういう本性を知られたくないから
教学と信心を懸命に「分別」しようとする。
教学と信心は別物としようとするわけだ。
でもそうした考えは大聖人の教えに反しているのある。
教学とは信心なのだ

賢明な学会員のみなさんに教えます。
創価幹部・活動家の信心の程度を知る
一番早く確実な方法は「教学」の質問をすることです。
それにきちんと答えられるかどうか。
きちんと答えようとするどうか。
それでその人の信心を知ることができます。
大聖人の御書も引用せず
学会指導で誤魔化そうとする幹部・活動家を信じてはいけません。
そういう幹部・活動家は無信心でロクなもんじゃありません。
まずは根本の御本尊について聞いてみるのがいいでしょう。
本門本尊とは何か・
そして本門の本尊を受持しなくていい。という理由をね。
ここのブログにコメントしてきた創価の面々は
全員無回答で遁走劇を繰り広げたロクデナシばかりですが
さてあなたの地元の幹部はどうでしょうね。
ちゃんと信心のある幹部が組織に残っているといいですね。

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創価教学じゃない御書講義(29年度8月座談会御書・法華初心成仏抄)

我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて
我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり
譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まる が如し、
空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し
口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必 ず顕れ給ふ
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は、「法華初心成仏抄」
現在の創価教学のデタラメさを象徴する部分ですね。
本文に入る前に、題号の部分を少し書きます。
「法華初心」というのは、このまま読むと
「法華信心の初心者」ということになるでしょうか。
「初めて法華の信心をする人」が「成仏」をする方途をご教授してくださっている御書です。
この「初めて信心をする人」というのは、「信心を初めて日が浅い」というような意味でなく。
過去世に下種を受けなかった衆生。という事だと思ってます。
「本未有善」の衆生ですから、末法の凡夫の我々の事です。
つまり「法華初心成仏抄」とは、末法凡夫の我々の成仏の方途を明かされた御書です。
その結論部分が今回の座談会御書の御文になります。

さて、今回のポイントは
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて」の部分です。
創価教学では、この部分をもって自分自身の中に本尊がある。
自分自身が妙法の当体である。なんて言い出す。
それこそ創価の凡夫本仏論。自分本尊論。の邪義なんですね。
大聖人仏法には、「総別」「理事」「能所」「文上文底」等あるわけです。
仏教学とか学術だとと言ってる方々に
大聖人仏法の法門法義を言っても理解できない。といつも言っているのは
彼等には御書を法門・法義の上から読めないから。
何故そう読めないかと言えば、一言で言うならば「不相伝」だからです。

◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)

いまの創価もまた、不相伝家の門外漢なので
上記の一文を読んで、「自分の中に本尊がある」などという身延ごときの解釈をする。
妙法の当体についてついては「当体義抄」に詳しいのでそちらを学んでほしいが
この妙法の当体については「両重の総別」の義がある。
日寛上人は、取要抄文段で

◇今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり。

とご指南されている。
一応総じては一切衆生妙法の当体だが、別しては大聖人の弟子旦那が妙法の当体である(第1の総別)
次に、総じていえば大聖人の弟子旦那は妙法の当体だが、別しては大聖人お一人が妙法の当体である(第2の総別)
この二つの総別をあわせて【両重(二重)の総別】という。
つまり、創価のいう「己心本尊」というのは
総じてのはなしであり「理」の上の話。
六即に配すれば、創価学会員は「理即」なわけ。
「理即」の凡夫である以上「事」の成仏はない。

◇若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり(取要抄文段)
◆又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん(曾谷殿御返事)

その両重の総別を弁えたうえで上記の御文を解説すると
「我が己心の本尊」とは、凡夫である自分の己心でなく
ご本仏たる大聖人の己心の本尊。ということだ。
大聖人の己心の本尊を崇め奉り(信じる)
南無妙法蓮華経の唱題行をすることによってのみ
「法華初心」である末法凡夫の我らは成仏可能であるということが
今回の御文のポイントだね。
日寛上人の観心本尊抄文段には

◇我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり

とのご指南があるが、この指南と今回拝読の御文とは同じことを言われている。
そこで日寛上人が「この本尊」と言っているのは、同じく本尊抄文段に

◇本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり
◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の 本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり

とのご指南で明らかな通り、「弘安二年の本門戒壇大御本尊」なの。
大御本尊こそが、大聖人の己心の本尊であるということだね。
この御本尊に題目をあげるのが「本門題目」であり
「本門題目」とは言い換えれば「大御本尊を受持する」ということになる。
この「本門題目」によって、我が己心の妙法を顕し
また他の仏性も引き出すことができるということである。
それを「成仏」というわけだね。
大作センセは

▼私たちがひとたび、妙法蓮華経と唱えれば、その一切の仏性を呼び現す力が題目にはあるからです

などとフザケタ講義をしているが
「唱題」に力があるのでなく、「本門題目」に力があるのだよ。
そしてさっき書いてけど「本門題目」とは「大御本尊受持」の事。
大御本尊を受持しない創価幹部・活動家が
どれほど「南無妙法蓮華経」とうわ言のように叫んでも
「事」として仏性を顕現することはできない。
自身の仏性を顕現できないのだから他者のもまた然り。
一体、どこの誰が大御本尊を受持せずに成仏可能などいってのか。
大作センセだろ。そう言っているのは。
今回の「法華初心成仏抄」に、

◆宗宗各別に我が経こそすぐれたれ余経は劣れりと云いて我が宗吉と云う事は唯
是れ人師の言にて仏説にあらず

と書かれている。
創価の正義?それは「仏説」ですか?
先日の創価活動家のコメント読めば「仏説」かどうか一目瞭然だ。
むしろ、今回の御書(法華初心成仏抄)は次の御文を心に刻んで欲しい。

◆菩薩人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ

大作センセのいうことも
創価幹部のいうことも
創価活動家のいうことも
すべて「人師」の言葉であり
「仏説」は皆無なのだ。
創価学会仏の「仏説」というなら話は分か・・・・
・・・らないな。
だって、創価学会仏だとそんな「仏」自体が
最初からイカサマだもんな。

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創価教学じゃない御書講義(29年度7月座談会御書・乙御前御消息)

いよいよ強盛の御志あるべし、冰は水より出でたれども水よりもすさまじ
青き事は藍より出でたれどもかさぬれば藍よりも色まさる、
同じ法華経にてはをはすれども志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「乙御前御消息」
この御書はそんなに長くなく、御消息文で読みやすい
だけど結構といろいろ大聖人仏法のについて書かれていて
日々の生活中でも役にたつ御書なので
ぜひ、全文通しで読むことをおススメします。

さて、座談会で取り上げるのは上記の御文。
いわるゆる「従藍而青」ってヤツです。
「青は藍より出でて藍より青し」ってヤツです。
荀子の言葉を天台が引用したものを大聖人が引用しました。
本来の意味は、弟子が師匠を超えることの例えですが
ここでは、「同じ御本尊でも志(信心)を重ねれば他の人より功徳が出る」
という意味で使われています。
ひとつには、「他人と同じ御本尊」という意味で
もうひとつには、「いままで同じご本尊」という意味で使ったりします。
「他人より功徳ある」とか
「いままで以上の功徳がある」とか
そんな感じですね。

ではここでいう志(信心)とは具体的にはどういうことかというと

◆天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりもなをそむればいよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきはいよいよあをきがごとし(上野殿後家尼御返事)

とあるように、志(信心)とは修行の事を指します。
大乗仏法の修行と言えば、六波羅蜜(または五波羅蜜)なのだけど
大聖人仏法においては「受持」だけです。
(聖教啓蒙とか選挙活動は不要です)

◆未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

とあるように、大御本尊には「六波羅蜜自然在前」といい
最初から六波羅蜜が備わっているので「受持」するだけでいいわけです。

◆法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり(日女御前御返事)
◆五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可し(御義口伝巻下)

とのご教示は、「受持」の一行(一つの修行)に他の修行が備わる。という意味です。
因みにこれを「総体の受持」といい大聖人仏法の修行はこれだけ。
末法の荒凡夫の私には大変喜ばしい限りです。

この総体の受持については、日有上人は「化義抄」で

◇法花経を修するに五の様あり、夫れとは受持、読誦、解説、書写等と云云、広して修するは像法読誦多聞堅固の時節なり、今末法は根機極鈍の故に受持の一行計りなり、此の証人には不軽菩薩の皆当作仏の一行なり、不軽も助行には二十四字を修したまふなり、日蓮聖人は方便寿量の両品を助行に用ひ給ふなり、文を見て両品をよむは読、さてそらに自我偈を誦し今此三界の文を誦し、塔婆などに題目を書写するは受持の分の五種の修行と心得べきなり云云。

とご指南されています。

さて、次に「受持の修業」とは具体的には「何をするのか」というと
日寛上人が、文底秘沈抄で

◇夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり
◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり
◇信行具足して方に本門の題目と名づくるなり、何んぞ但唱題と云わんや

とご指南されているように、「本門の題目」の唱題行のこと。
「本門の題目」とは「本門の本尊」を信じて題目を唱えること。
「本門の本尊」を信じる。という「信」と
「題目を上げる」という「行」の両方揃って
「本門の題目」になり
「本門の題目」をあげることが
「総体の受持」になるわけです。
「信」がなければ「ただの題目」ということですね。

では、ここで創価の主張を見てみると

▼「本門の本尊」 としては、「弘安2年(1279年)の御本尊」 も含まれる

といって、大御本尊を「本門の本尊である」と認めているのに
「受持の対象としない」と主張しているわけである。
つまり「本門の本尊を受持しない」と言ってるわけ
これで大聖人仏法を、信仰し行じている団体だ。というわけですよ。
ね?イカレテませんか?
「すべて等しく本門の本尊」ならば
等しく受持しなければいけません。
大御本尊はもとより、身延の真筆本尊も全部受持しなければ謗法だよね。
「受持しなくていい本門の本尊」なんて存在するのですか?
逆に言えば「受持しなくていい本尊は本門本尊とはいえない」でしょう。
一体御書のどこに「受持しなくていい本門本尊があります」と書いてある?
ないよ。そんな本門の本尊なんて。
「創価のコピー本尊」は受持しなくていいけど
アレは「本門の本尊」じゃないから受持する必要はないというだけの話。
もちろん身延の本尊も、顕正会の本尊も
本門の本尊じゃない。
だから受持しなくていい。
むしろ受持しないほうがいい。というレベルの話だ。

創価の会員さん、いいですか?
「本門の本尊」を受持しないで題目をいくらあげても
それは、ただの題目であって本門題目じゃぁありません。
本門題目ではないのだから「大聖人仏法の修行」でもありません。
大聖人仏法の修行ではないのだから、利生(功徳)も出ません。
「青」は「藍」からでますが
貴方たちは「藍」ではないもので「青」を出そうとしてるわけです。
もしそれで「青くなった」というならば
それはインチキかもしくは魔の通力なんですよ。
まづは、大御本尊への信を取り戻しましょう。
方便自我偈でもいいから五座三座の勤行をできるだけ実践しましょう。
ご観念文は大切ですよ。創価の御祈念文なんて読んではいけません。
ちゃんと本尊供養・三師供養のご観念をすること。
それが最低限の修行であり
最低限の大御本尊への信です。
その信心をすれば、必ず今まで以上の功徳が出ます。
そういうことが書いてあるのが、今月の御文です。

追伸:大作センセのなし得なかった大御本尊にを捨てるという行動に出た
現在の原田クン以下の学会首脳部のみなさんは
謗法という意味では大作センセを超えました。
まさに従藍而青の弟子ですね。
大作センセもさぞやお喜びのことでしょう。

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創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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