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創価教学じゃない御書講義(2020年8月座談会御書・転重軽受法門)

涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天三乗一乗の益をうる事の候

今月の座談会御書は「転重軽受法門」です。創価幹部が大好きなのが「転重軽受法門」とか「変毒為薬」です。悩みがある会員を創価の活動家にするためにの指導に利用されます。「転重軽受法門」とは「重きを転じて軽く受く」と読み下します。例えば指を一本切断してしまい悲しんでいる人の所にやってきて「本当なら腕が1本なくなっていたのに指1本で済んだのは功徳だよ」とか言って利用します。私はこの言葉聞いた時から創価を嫌いになりましたが創価の幹部はこのように「転重軽受法門」を使います。さて本文で「地獄の苦みぱつときへて」とありますがこれは現在の悩みがパッと消え去るわけではありません。パッと消えるのは未来に受けなければならない多くの苦しみが消えるという事です。なぜなら今世での苦悩の原因は過去の謗法にあるので逆に今世で正法を持てば未来永劫に受ける予定だった苦しみは全てなくなるということです。
◆我等過去に正法を行じける者にあだをなしてありけるが今かへりて信受すれば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳強盛なれば未来の大苦をまねぎこして少苦に値うなり(兄弟抄)
本当は今ある悩みを「パッと解決」して欲しいと切実に思うのですが、こればかりは過去世の謗法が顕れた状態なのでそうはいきません。過去世の謗法という借金を返済している状態ですから個々の借金の多寡と現在の信行の状況によって返済期間はマチマチです。しかし最長でも今世一杯で、しかもそこまで長期間返済する人は少ないので安心してください。正法を受持している人は謗法という名の借金は過去の分しかないので減る一方で増えることはありません。逆に創価民は日々謗法という名の借金が増え続け自己破産する時が来るわけです。
◆善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし(開目抄下)
とのご聖訓にあるように「いかなる理由があろうとうも」大御本尊をすてるのは地獄の業を積む行為なのです。さてこのように未来の苦しみを一気に今世のうちに消すことができるのは、
◆種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり(開目抄下)
とあるように「護法の功徳力」によるものです。つまりは戒壇大御本尊(仏法)を護る功徳によるものです。護法には内護と外護があります。この護法を個人の信心に約すと、内護とは日々の勤行・唱題であり外護とは登山や参詣、ご供養ということになります。これらの信行の実践が護法でありその功徳によって「転重軽受」の功徳を受けるわけです。創価民はよく「題目は貯金」なんていいますがアレはウソです。創価の題目は護るべき法である戒壇大御本尊を捨てた題目ですから貯金どころが謗法の借金を増やしているだけです。創価で功徳らしきものが出るというのは、あたかも闇金で金を借りて贅沢しているようなものです。功徳でもなんでもありません。創価民さん達は早くこのことに気づいて謗法の借金をするのを止めて一日も早く返済に回るべきだと思います。この「転重軽受」は『涅槃経』に■「有智の人は智慧の力を以て能く地獄極重の業をして現世に軽く受けしめ、愚癡の人は現世に軽業を地獄に重く受く」と書かれています。有智とは大御本尊への信心です。愚痴の人とは色々な理由をつけては大御本尊から離れる創価民です。創価の信心では「転重軽受」どころか更に長く重い苦しみが未来に待っています。ですからいま苦しい状況で創価の信心をしている人はこの先更なる苦しみが待っているのですよ。一日も早く創価の謗法信心を止めて大御本尊様の元に戻るのが肝心です。他にも色々と書きたいこともあるのですが長くなったので今月の「創価教学じゃない御書講義」はこれで終了です。ホントに創価の信心はやめた方がいいですよ。


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題号だけの御書講義③(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

題号だけの御書講義の3回目は【如来滅後五五百歳始観心本尊抄 (観心本尊抄)】この「観心本尊抄」は題号だけで軽く1時間くらいは講義ができてします。逆にいうと題号の義と意をしっかり学べば本文を読まなくてもなんとかなります(笑)そんな題号なのですから今日は一番重要な点だけ書きます。【如来滅後五五百歳始観心本尊抄】は古来から他門流においては色々な読む下しをしていましたが日興門流では【如来滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄】なぜこう読むのかいうとこの題号に四義が具足されているからです。四義とは「時・応・機・法」の事で、仏は「時」「衆生の機根(機)」に「応じて」「法」を説きます。題号のうち【如来滅後後五百歳】は時、【始】は応、【観心】は機、【本尊】が法となりその四義の上から読み下すと【如来滅後後五百歳に上行菩薩始めて弘む観心の本尊抄】となります。さてここで重要なのは【観心の本尊抄】の【の】という字です(戸田会長も言ってます)この【の】という一事には「教相の本尊」を簡んで「観心の本尊」と取るという意味があります。教相と観心はどの宗派にもありますが、ここでいう所の「教相の本尊」とは釈迦仏法の本尊であり「観心の本尊」とは大聖人の仏法の本尊です。なぜならば「如来滅後後五百歳にめて弘める」本尊ですから、正法・像法時代にはなかった本尊が「観心の本尊」だからです。正像の二時になかったという事は釈迦仏法ではないという事です。釈迦仏法ではなかった本尊を末法に広めたのが日蓮大聖人ですから「観心の本尊」とは大聖人の本尊です。仏(人)に即していれば【観心の本尊】とは釈迦仏を簡んで末法のご本仏日蓮大聖人を取るということです。つまり【如来滅後五五百歳始観心本尊抄】とは釈迦仏、釈迦仏法の流れを汲む本尊ではなく御本仏・日蓮大聖人の本尊だということです。この立て分けができれば「観心本尊抄」の八割方理解できたといっていいでしょう。これが理解できれば身延が釈迦仏像等を本尊にしているのは日蓮大聖人の仏法を全く理解できていないということが分かります。【観心】=修行=本門の題目、【本尊】=修行の対境=本門の本尊、そして二つの揃う場所が本門の戒壇ですから【観心の本尊】とは三大秘法のことであり合すれば一大秘法の南無妙法蓮華経です。大聖人ご真筆のご本尊は全て大聖人の出世の本懐ですが、なかでも戒壇大御本尊が根本中の根本の【観心の本尊】です(理由は割愛します)
◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊文段上)
つまり末法の我々にとっては大聖人がご本仏であり、戒壇大御本尊が観心の本尊であるというのがこの題号の意です。最後に題号の「如来」について考察すると「如来滅後後五百歳」と附文の辺で読めば如来(=釈迦仏)の滅後の後の五百歳となり「如来」とは釈迦仏になりますが、文意で読めば「滅後後五百歳如来」となりこの場合の「如来」は「末法の如来」=日蓮大聖人となります。さらに如来を大聖人として再び「如来滅後後五百歳」と読むときは大聖人のご入滅後ということになりこの場合の「滅後後五百歳如来」とは戒壇大御本尊様ということになると思います。いずれにせよ大切なのは【観心の本尊】の【の】という文字であるということです。因みに創価や顕正会の本尊は、見た目が日蓮正宗【の】本尊に似ていますが「観心の本尊」でも「本門の本尊」でもなく、あくまでも「顕正会【の】」本尊、創価【の】本尊です。


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御講拝読御書研鑽(20207月・曾谷殿御返事)

謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本心故は是なり

今月の御講での拝読御書は【総別の二義】が書かれている有名な「曾谷殿御返事」です。早速拝読箇所を研鑽します。謗法を責めるというのは具体的にはこの御文の次上の「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」の涅槃経の文に書いてあるように、「呵責」(謗法を厳しく咎める)し駈遣(謗法を追い出す)し挙処(具体的な謗法を指摘する)ことです。謗法者を見ながらこうした破折をしなければ多くの漆に蟹の足を1本入れたら漆の効果がなくなってしまうように折角の信心修行も無駄になってしまうと大聖人様は言われています。では「謗法(者)」の定義とうと「顕謗法抄」には、
◆謗法とは法に背くという事なり ◆不信とは謗法の者なり
と書かれています。「法」に背くだけが謗法ではなく「法」を信じない人もまた「謗法者」になってしまうわけです。また、
◆凡そ謗法とは謗仏謗僧なり三宝一体なる故なり(真言諸宗違目)
と言われているように、謗法とは単に「法」に背き不信をいだくのではなく「仏」「僧」に背き不信を抱くことも謗法になります。なによりも【三法一体】の【本体】である戒壇大御本尊に対する違背・不信は一番の謗法です。更に「顕謗法抄」には、
◆正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり
と自身の謗法以外に他人に正法を捨てさせることもまた謗法であると書かれており、日有上人は化儀抄で、
◇門徒の僧俗の中に人を教えて仏法の義理を背せらるる事は謗法の義なり、五戒の中には破和合僧の失なり、自身の謗法より堅く誡むべきなり。
とご指南され自分自身が犯す謗法よりも、他人に謗法を犯させる謗法の方がより重大な謗法であると言われています。創価は正宗や日顕上人を「謗法」などと言っていますが正宗の僧俗も日顕上人もただの一瞬も三法一体の体である戒壇大御本尊に違背し不信を抱いたことなどありません。むしろ戒壇大御本尊を捨てた創価の方が「謗法」であることは明白であり、多くの日蓮正宗の信徒だった学会員を扇動し大聖人仏法の義理に違背させた創価及び池田大作が破門を受けるのは全く当然のことです。そして今もなお創価及び創価活動家は自身が戒壇大御本尊を捨てるだけではなく、多くの会員さんに戒壇大御本尊を捨てさせるために戒壇大御本尊を誹謗し御書を悪用し正宗の僧俗を中傷しています。こうした創価民などの異流義の謗法者を知っていながら破折を加えないのは「仏法中怨」なのです。謗法放置は謗法与同と変わらないのです。法華講員に対する大聖人からのご遺命は折伏です。
◆邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり(聖愚問答抄)
実は折伏とは「謗法を責める」ことなのです。いつも書きますが破邪顕正が折伏ですが、あくまでも「破邪が先」であり「破邪が根本」なのです。誰に対してでも「破邪」のない「顕正」はありません。ましてや謗法者であることが明白な創価・顕正・正信会・身延に対して駈遣し呵責し挙処しなければ成仏はおぼつきません。「御講聞書」には

◆日蓮が弟子臆病にては叶う可からざる事 仰に云く此の意は問答対論の時は爾前迹門の釈尊をも用う可からざるなり、此れは臆病にては釈尊を用いまじきかなんど思うべき故なり、釈尊をさえ用う可からず何に況や其の以下の等覚の菩薩をやまして謗法の人人に於ておや、所謂南無妙法蓮華経の大音声を出だして諸経諸宗を対治すべし、巧於難問答其心無所畏とは是なり云云。

とのご指南があります。今月は立正安国論上程の月です。大聖人様の弟子たる者は創価等の異流義の謗法者などに恐れてはいけません。臆病では祈りは叶いません。大聖人仏法の正法正義を堂々と語り謗法を責めていきましょう。


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創価教学じゃない御書講義(2020年2027月座談会御書・上野殿後家尼御返事)

法華経の法門をきくにつけてなをなを信心をはげむをまことの道心者とは申すなり、天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりもなをそむればいよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきはいよいよあをきがごとし。

7月の座談会御書は「上野殿後家尼御返事」です。創価の好きな「いよいよ」の文字が書かれていますね。「もっと新聞啓蒙しろ」「もっと財務をしろ」いうようなことを言いたいときに「いよいよの信心」などとほざくのが創価指導の「いよいよの信心」というこです。さて御文の最初に「法華経の法門」を聞いて信心に励むのが道心者。即ち求道心ある信徒(弟子)である。大聖人様は言われています。「法華経の法門」というのは言うまでもなく「南無妙法蓮華経の法門」ということになります。この南無妙法蓮華経の「体」とはいつも言いますが、日蓮大聖人の色心の二法である戒壇大御本尊のことです。ですから「法華経の法門」とは「戒壇大御本尊の法門」ということになります。創価民が毎月座談会で呼んでいる御書というのは「戒壇大御本尊の法門」が書かれている書です。従って戒壇大御本尊を捨ててしまった創価民は御書を読んで学んだところで何も得ることも理解することもできないのです。戒壇大御本尊の事が御書に書いていないという創価民がいますが「書いていない」のではなく理解できないだけです。また戒壇大御本尊を否定するために御書を引き合いに出すこと自体が既に御書がなんたるかを全く理解できていない謗法・不信の者だといえます。「法華経の法門をきくにつけてなをなを信心をはげむ」というのは教学を学んで更に戒壇大御本尊への信心が強くなるということで、そのような人が本当の大聖人仏法の行者だということです。ところが今の創価は前述の通り法体である戒壇大御本尊を捨てていますので創価に「法華経の法門(南無妙法蓮華経の法門)」など何一つないわけです。例え御書を読もうとも創価の場合は「南無妙法蓮華経の法門」ではありません。法体を捨てた創価民が法門など説けるわけないし理解できるわけありません。それが証拠に毎月御書を学んでいても戒壇大御本尊への信が全くわいてこないでしょう?一体貴方たちは何のために御書を学習しているのですか。創価にいたら正しい「南無妙法蓮華経の法門」は学べないんですよ。
◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)
◆当門流に於ては御書を心肝に染め極理を師伝して若し間有らば台家を聞く可き事。(日興遺誡置文)
とのご指南にあるように「法華経の法門」は「法体相承」した御当代を始めとする御歴代上人のご指南の元に学ばなければ理解できないし邪義・己義になってしまう。池田センセを筆頭に創価の凡夫ごとぎが「南無妙法蓮華経の法門」など説法できる道理がない。自分が持っていないものをどうやって説明するのか?彼らがまき散らかしてるのは邪義・己義であって「法華経の法門」ではありません。歴代上人のご指南を受けた戸田会長の指導と、破門後の池田・創価幹部の指導を聴き比べればその差は明らかです。
次に天台の「従藍而青」についてですが、「従藍而青」とは「青は藍より出でて藍より青し」という読み下しで青色は「藍」で染めるけど何度も染めていると元々の「藍」よりも青くなるという意味です。様々な解釈・使い方がある言葉ですが本抄では、「藍」を「御本尊(法華経の法門)」に譬え「青」を修行に譬えています。御本尊には「仏力」「法力」が最初から備わっていますが、「信力」「行力」の修行が加われば、御本尊の「仏力」「法力」もその力をさらに増し功徳もより深大になっていくということです。さて、最初に求道心の話をしましたが、「法華経の法門(南無妙法蓮華経の法門)」」は勝手に耳に入ってくるわけではありません。私達の側から求めなければ「法華経の法門」を聞くことはできないのです。自分で御書や歴代上人のご指南を学ぶ。お寺に参詣して法話を聞いたりご住職に質問したり、或いは日蓮正宗の法門・法義を語る人の話を聞いたりと「法華経の法門」を聞くことは全てこちら側の求道心にかかっているのです。そのような機会がありながらそれを避けて創価のインチキ話ばかりを聞いて創価のインチキ修行なんてやったところで意味がないどころかむしろマイナスです。信心とは何か?といえばこの求道心が全てといって過言ではありません。仏を求め法を求める。それが修行であり信心なのです。諸法実相抄に「行学は信心よりをこるべく候」とありますが、この心が今月の座談会御書の心です。学会員さんは先ずは「法華経の法門(南無妙法蓮華経の法門)」を聞くことです。「法華経の法門」を聞くためには戒壇大御本尊に信を取り戻すことです。戒壇大御本尊を離れて「南無妙法蓮華経の法門」なんてひとつもないのですから。どうぞ創価のインチキ幹部・インチキ活動家に騙されないよう一人ひとりが求道心を持って勇気をもって「南無妙法蓮華経の法門」を聞かれることを希望します。


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題号だけの御書講義②(立正安国論)

題号だけの御書講義の2回目は今月の御講御書の「立正安国論」です。読み下すと「「正を立て国を安んずる」となります。「国」というのは一応は大聖人ご在世の鎌倉時代の日本ですが再往は「三世に亘る全世界」ということです。この三世に亘る全世界を安んじるためには「正を立てよ」というのが「立正安国」です。そこで「正」とは何かというと、日寛上人は「正とは三大秘法である」とご指南されています。
◇立正の両字は三箇の秘法を含むなり。初めに本門の本尊に約せば、正とは妙なり、妙とは正なり。故に什師は妙法華経と名づけ、法護は正法華経と名づくるなり。況や天台は三千を以て妙境と名づけ、妙楽は妙境を以てまた正境と名づけんをや。故に正は即ち妙なり。妙とは妙法蓮華経なり。妙法蓮華経とは即ち本門の本尊なり(安国論愚記)
最初に、「正」とは「妙」と同意であり、妙とは「妙法蓮華経」であることから「正とは本門の本尊である」とのご指南があり、その後「正は正境であるのでそれに向かい唱える題目は「正しい信行」であるから「正とは本門の題目である」とされ、更に「正」の文字は「一」を「止める」と書くので「一(本門の本尊)」を「止める」義は「本門の戒壇である」と言われています。このように「正」の一文字には「三大秘法」が含まれているというわけです。そして「正を立てる」という「立てる」というのが一番のポインになります。この「立てる」というのは「折伏するいうことです。「立正」というのは「破邪」に対して「立正」といいますので、「立正」の二文字には「破邪・顕正(立正)」の両義が含まれています。「破邪」とは「折伏中の折伏」であり「顕正」とは「折伏中の摂受」といえます。ですから「立正」というのは「正を立てる」のがメインではなく「邪を破す」のがメインになります。本編も「破邪」がメインになっています。何故「破邪」がメインになるのかというと「顕正(立正)」というのは「邪を破すために正を立てる」からです。「邪」が無く全て「正」に帰しているのであれば敢えて「正を立てる」必要はありません。「正を立てる」のはあくまでも「邪を破す」のが目的です。「正」である三大秘法を立てて「邪を破す」のが「立正」であり「安国」なのです。また「立正安国」とは如説修行でもあります。
◆法華折伏破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし天下万民諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん(如説修行抄)
との御文は「立正安国」と全く同意です。「法華折伏破権門理」即ち「破邪」こそが「如説修行」であると大聖人は言われています。そしてまた破邪顕正による安国が大聖人の大願であり御遺命でありその為の三大秘法就中一大秘法の戒壇大御本尊のご建立です。よって正統たる大聖人門下は、一大秘法(三大秘法)の義によって創価のごとき「邪」を破すことが如説修行であり立正安国の大聖人の御遺命の実践となるのです。創価がいくら能書きを垂れた所で彼らは「正中の正」である戒壇大御本尊を捨てた人々で彼らには立てるべき「正」はありません、創価の正義?池田先生の正義?そんなものを立てて安国になるわけない。ましてやそのようなマヤカシの正義で一大秘法を誹謗し一大秘法を守護する正宗の僧俗を中傷するなどと言語道断の邪師・邪教の者どもです。まさに今の創価は一大秘法を誹謗していない顕正会や正信会にも劣る「邪教中の邪教」「邪師の中の邪師」です。この「一凶」である創価に対して「正を立てて破折していく」ことが重要です。それが「立正安国論」の精神です。まだまだ他にも書きたいこともありましたが長くなるので今回はここまでとします。


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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
【旧】日蓮正宗創価学会員(現日蓮正宗法華講)戒壇大御本尊を捨てた謗法団体でありながら日蓮大聖人の名を騙り世間や会員をだまし続ける創価本部・幹部・活動家の欺瞞・詭弁とインチキ創価教学
を徹底的に破折し正しい日蓮大聖人の仏法を宣揚します。

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