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創価教学じゃない御書講義(30年度10月座談会御書・日女御前御返事)

穴賢南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、
信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


今月の座談会御書は、「日女御前御返事」ですね。
「日女御前御返事」はこの別名「御本尊相貌抄」と「品々供養事」の2編あります。
今回の「御本尊相貌抄」は創価活動家が大好きな「胸中の肉団」云々の一節が書かれている御書です。
この御文を文証にして学会員は本尊は自分の胸中にある。なんていう間違った認識と指導をするわけです。
今回はその御文ではありませんけど、本御書の結論的な一節です。
さて今回は先月同様に「本門の題目」についてのご指南です。
この短い御文の中に「本門の題目」とは?ということが凝縮されています。
「本門の題目」には、必ず「信」と「行」が備わっていいます。
逆に言うと「信・行」が備わっていないのは「本門の題目」ではありません。

◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて
南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり(日寛上人・文底秘沈抄)
◇当に知るべし、行に始終あり。謂く、信心はこれ唱題の始めなり。唱題はこれ信心の終りなり。
これ則ち刹那の始終、一念の因果なり。 (日寛上人・取要抄文段 )

今回の拝読箇所の【南無妙法蓮華経とばかり唱へて】というのが「行」です。つまり「唱題」そのものが「行の題目」です。
そして【仏法の根本は信を以て源とす】とうのが「信の題目」となります。
これは創価が大好きな同書の

◆此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり

と全く同じことを言われているわけです。
この御文も【法華経を持ちて】というのが「信の題目」で【南無妙法蓮華経と唱うる】が「行の題目」
つまりこれらの御文は「本門の題目」言い換えると「勧心」についてのご指南であって「本尊」のご指南ではないわけです。

◇但本門の本尊を受持し、信心無二に南無妙法蓮華経と唱え奉る、
これを文底事行の一念三千の観心と名づくるなり。(日寛上人・観心本尊文段)

それを「本尊」のご指南だと読み違えあまつさえ自分自身がご本尊である。
などという解釈・指導する創価バリカツは「発狂中の肉団子」であると申し上げておきましょう。

さて、「信の題目」というのは、上記のご指南に明確にさているように「本門の本尊を受持」することです。
「本門の本尊を受持する」のが「信の題目」であり「根本」であり「本門の題目を本門の題目たらしめている」ことになるわけです。

本御書の御文に

◆日蓮が弟子檀那等正直捨方便不受余経一偈と無二に信ずる故によつて此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなりたのもしたのもし十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり

この部分の【御本尊の宝塔の中へ入るべきなり】とは、「仏界即九界」の本因妙です。
創価の好きな【胸中の肉団におはしますなり】とは「九界即仏界」の本果妙です。
本因妙は、「本門の本尊」即ち一大秘法の大御本尊を受持する「信」により
本果妙は、「本門の本尊」を信じて唱題する「行」によって成立します。

◇我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。
我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。故に九界即仏界なり。(日寛上人・観心本尊文段)

この本因本果が「本門の題目」により自身の色心に顕れる。それが当体蓮華です。
当体蓮華を別のいい方で「成仏」というわけです。
その成仏の根本は「本門の本尊」への「信」であり、さらいえば「本門の本尊」の根本は
一大秘法の戒壇大御本尊であるというのが大聖人仏法なのであります。
故に、その根本中の根本である、戒壇大御本尊を受持しない。すなわち不信の学会員が唱える題目は
「本門の題目」などとは到底呼べる代物ではないわけです。
結果「南無妙法蓮華経」と唱えても成仏もしなければ、肉団子の中に本尊が顕れることなどあり得ません。
謗法者の胸中になぜに御本尊が顕れるというのでしょうか。

大作センセの有名なスピーチで私もリアルタイムで聞いていましたが
▼「宗祖日蓮大聖人がこの御本尊も、ただ信心の二字におさまれりと言われたのであります。信心の二字の中にしか本尊はないんです。本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人の御書だ。」 (平成五年九月七日・本部幹部会)
というのがあります。完全に頭のイカレタ爺さんの譫言です。
信心の中しか御本尊はない。というのは本門戒壇大御本尊を信じる(受持する)心の中にしか
「観心の本尊」は顕れない。ということなんですよ。
さて、この大作センセのご指導通りで言えば
いまの創価がご本尊と呼んでいるモノですが
そんなものは「ただのモノ」です。一応の機械です。金蔓製造機だもの。センセの指導だ(笑)
とまぁこうなります。大作センセは「ただのモノ」を3000円で売りつけたわけですね。
これぞ「金蔓製造機」の真骨頂ですね。
なんでも今度は特別御形木なんていう正宗をまねた「金蔓製造機」を販売なさるとか?
5000円ですかね。今度の「モノ」は(笑)

今日は奇しくも本門戒壇の大御本尊御建立の10月12日。
いつまでも創価の金蔓製造機の「パチモンの本尊もどき」に「ニセモンの題目」なんてあげていないで
「本門の題目」に立ち返った方がいいんじゃないですか?
え?板曼荼羅の日なんて俺たちには関係ない?
いやいや、そんなバリカツさんなんかに言っていませんよ。
「信心」が残っている学会員さんに言っているんですよ。


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創価教学じゃない御書講義(30年度9月座談会御書・四条金吾殿御返事)

苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて
南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、こ
れあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談御書は「四条金吾殿御返事」。別名「衆生所遊楽御書」です。
非常に短い御書ですが、今回の御文は有名な一節ですね。
この御書の一番最後の結論の部分です。
この御書の冒頭は

◆一切衆生南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり経に云く「衆生所遊楽」云云、此の文あに自受法楽にあらずや

と書かれています。「衆生所遊楽」と「自受法楽」は同じというか
南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって「自受法楽」することができる故に、
衆生つまりこの信心をする我らのいる場所は「遊楽」する場所となるということです。
同じく今回の御書に

◆現世安穏後生善処とは是なり

と書かれているように常に我らのいる場所は「遊楽」の場所となるということです。
「遊楽」=「自受法楽」ということになります。
この「自受法楽」とは「自分自身の力で法楽を受ける」という意味です。
教学的に言うと、「自受」とは「信力」「行力」であり「法楽」とは「仏力」「法力」です。
つまり「自受法楽」とは「四力」ということですね。
一般的に宗教は「他力本願的」にイメージされますし実際そのような宗教も多くあります。
逆に無宗教の人々は「自力本願的」な生き方を潔しとしてるようにも見受けられますが
実際の人生においては、自分自身の力だけで幸福になる事も運だけで幸福になる事もないでしょう。
自分の努力の上で運を味方につける人が成功したり幸福になっていると思います。
「絶対自力」でも「絶対他力」でもダメだと感じます。
そこでこの日蓮仏法の登場なわけです。
「信力・行力」という「自力」と「仏力・法力」という「他力」を冥合させた姿が「自受法楽」です。
この姿を戸田会長は「絶対的幸福境涯」と呼んだのでしょう。
「自力本願」でも「他力本願」でもなく、「四力本願」が日蓮仏法なわけです。

そしてこの「四力本願」が成立するのは
正しい「仏力・法力」=正しい本尊と
正しい「信力・行力」=正しい本尊を信じての題目が必要となるわけです。
この御文に書かれている【南無妙法蓮華経とうちとなへ】というのは言うまでもなく【本門の題目】です。
ただ「南無妙法蓮華経」と唱えていればいいということではありません。
【本門の題目】とはこれまた言うまでもないけど、一大秘法の大御本尊に備わっている題目です。
言いかえるといつも言っている「大御本尊を信受して唱える題目」です。
そしてこれもまたまた言うまでもなく「大御本尊を捨てた学会員の唱える題目」
は「本門の題目」ではありません。
つまりいくら「信力」と「行力」が強くても、「仏力」と「法力」が備わっていないので、
「自受法楽」=戸田会長のいうところの絶対的幸福境涯になることはありません。
この御書には次のようにも書いてあります。

◆遊楽とは我等が色心依正ともに一念三千自受用身の仏にあらずや

これはですね。創価のいうよな「自分が仏だ」っていうような意味ではありません。
日寛上人が観心本尊抄文段のなかで

◇我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。

と言われているように、大御本尊を信受して本門の題目を唱え奉れば
わが身にご本仏の「仏力」「法力」が湧現する。わけです。
この日寛上人のご指南がまさしく「自受法楽」という事です。

また、創価は「誓願の題目」といいますが、やりたいひとは「誓願の題目」もいいですけど
本当に「苦しい」「辛い」「悲しい」時に、無理に「誓願」は必要ありません。
また、無理に「誓願の題目」をあげされるような指導もいただけませんね。
この御文に書かれている通り「苦しいから助けてください」でいいのです。
「広宣流布に○○しますから××してください」なんて祈るのはナンセンスです。
そもそも、こんな祈りはご本仏と取引しているみたいじゃないですか。
「苦しい時は苦しい」「悲しい時は悲しい」
助けて欲しい。守って欲しい。それでいいんです。
「仏力」とは何ぞや?と聞かれれば、それは「主師親」の三徳です。
子供が病気の時に「いうこと聞くから病院に連れて行って」といわれる親がいたとしたら
苦しんでいる子供になんてこと言わせてるんだよ。一体どんな親だよ。と思いませんか?
苦しい時には余計なことを言わずに苦しいといえば、ご本仏は救ってくれ守ってくれ
悩んで迷っているときには「迷ってます」「悩んでます」といえば導いてくれます。
それがご本仏のもつ「仏力」であり「法力」です。
「広宣流布頑張ります」というのは、「楽を楽と開いたとき」に感謝の気持ちで祈ればいいのです。

こんな素晴らしいご本仏を捨てた学会員さんは可哀想ですね。
しかもある日突然、自分の意思と関係なく捨ててしまったのだから哀れとしかいいようがありません。
どんなに泣こうと喚こうと祈ろうと、創価のコピー掛け軸相手ではどうにもなりせん。
ましてや、選挙のことだとか新聞啓蒙のことだかご本仏と関係ない誓願したり
仏敵の大謗法者・大作センセにお応えするなんて祈ったりした日には衆生所遊楽どころじゃありません。
てか、創価の組織で活動している時点で「衆生所遊楽」じゃないでしょ(笑)
あんな訳のわからない連中と日々顔を突き合わせているだけで疲労困憊です。
それが楽しくて仕方ない患部・罵詈活さんは

◆「常に地獄に処すること園観に遊ぶが如く余の悪道に在ること己が舎宅の如し」(兄弟抄)

という人達でしょう(笑)

大聖人は、【いよいよ強盛の信力をいたし給へ】と言われています。また

◆汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ(立正安国論)

とも。

いま創価で間違った信心をしてしまっている皆さん。
大切なのは「いよいよ」つまり今からです。
創価信仰をスッパリやめてご本仏の元にお戻りください。
それが「自受法楽」の
「絶対的幸福境涯」への
絶対的な条件です。


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創価教学じゃない御書講義(30年度308月座談会御書・松野殿後家尼御前御返事)

未だ見参にも入らず候人のかやうに度度御をとづれのはんべるは
いかなる事にやあやしくこそ候へ、
法華経の第四の巻には釈迦仏凡夫の身にいりかはらせ給いて
法華経の行者をば供養すべきよしを説かれて候、
釈迦仏の御身に入らせ給い候か又過去の善根のもよをしか
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今月の座談会御書は「松野殿後家尼御前御返事」です。
これまた随分とマイナーなところをもってきましたなぁ。
この御書は別名「盲亀浮木抄」といって、有名な一眼の亀さんのお話が書いてありますが
そこではなく最後の方の一文を座談会御書として採用です。
まぁ何かしらの意図があるからこの一文を選んだのでしょう。
さしずめ「池田先生にお会いしたことがなくともまたお会いできなくても弟子として師匠に尽くしていく」
ってな感じな講義をすれば、患部や罵詈活に受けること間違いなしです。
今となっては、大作センセを知らない世代も増えたでしょう。
そして大作センセも姿を現さない。
まさにそうした状況に置かれている学会員さん達を働かせるのに持って来いの一文です。
そして、これはひょっとしたら、いよいよ大作センセの涅槃も近づいたという
メッセージではないかと秘かに勘ぐっています。
創価の事だから大聖人の御入滅に合わせて大作センセの生命維持装置を外す。
なんていうストーリーを練っていつかもしれませんね。
オウムの麻原彰晃のように「死」を伝説にすり替えるのもまたよくある手口ですからね。
しかしまぁ創価ってやつはなんとしても大聖人と大作センセを同等にしたくて必死ですな。

さて、「松野殿女房御返事」には

◆されば女人の御身としてかかる濁世末代に法華経を供養しましませば、
梵王も天眼を以て御覧じ帝釈は掌を合わせてをがませ給ひ地神は御足をいただきて喜び
釈迦仏は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給うらん

と、ご供養に対して述べられています。
「松野殿後家尼御前御返事」では、【法華経の行者を】供養すべきよし。と言われ
「松野殿女房御返事」では、【法華経を】供養しましませば。と言われています。
前者は「人」の約して「法華経の行者」。後者は「法」に約して「法華経」。
これは何を意味しているかというと「人法一体」ということです。
ご供養の相手は当然日蓮大聖人ですから、大聖人が「人法一体」の体。と言うことです。
そして、この大聖人の人法一体の体とは大御本尊なのです。

◆戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、
日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、
本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝巻下)

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。
既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり。(観心本尊抄文段)

つまり、大作センセや創価に尽くす(供養)しても、諸仏・諸天は何一つ喜ぶことはありません。
いやむしろ、大聖人の色心二法の大御本尊を捨てた捨てた創価は謗法なのです。

◆有る人此れを分つて云く「先きに悪因を列ね次ぎに悪果を列ぬ悪の因に十四あり一に・慢二に懈怠三に計我四に浅識五に著欲六に不解七に不信八に顰蹙九に疑惑十に誹謗十一に軽善十二に憎善十三に嫉善十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し(松野殿御返事)

大御本尊を捨てた大作・創価はこの十四誹謗の全てが見事に当てハマってるでしょう。
創価の患部・罵詈活の身に入り込んでいるのは釈迦仏じゃぁありません。悪鬼ですよ。
悪鬼入其身の凡夫を諸天・諸仏が守護する道理はありません。
故に創価の祈りなど叶う道理もありませんね。
魔の通力を「功徳」と勘違いしてる姿が悲しいほど滑稽です。
(しかも功徳の現証とかいってブログに書いちゃうイタい子もいます)

まだ見ぬ戒壇大御本尊に恋慕の思いを抱き
一心に大御本尊への信を貫くその心こそが釈迦仏が我が身に入った心と言うのです。
もちろん、法華講員になれば大御本尊に会えますけど
大御本尊への信がなければ見参しても全くではないが意味がないし
各自の事情でその立場に無い人でも
大御本尊への信をもって唱題することはそのまま法施・理供養になるでしょう。
さぁさぁ、大聖人への思いがまだ貴方に少しでも残っているならば
大聖人を捨てた、創価・大作への供養はすぐに止め
その身から「悪鬼」を追い出してください。
そして大聖人(大御本尊)への信を取り戻してください。
法華講になろうとなるまいとどっちでも構いません。
貴方が大御本尊への信を取り戻すことが大切です。
毎月、御書を学ぶのは「創価教」を学ぶためではないでしょう?
違いますか?


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創価に御書は必要ないから。

通りすがりの学会員と思われる方から「創価は御書根本」などというコメントかあった。
聖教新聞にも9月に青年教学試験があるみたいで「御書根本」という文字が躍っているようだ。
「御書根本」という意味を知らないで使っているのか
それとも相変わらづ大聖人を利用しているのかは分からんけど
一応教えておくと、「御書根本」というのは「学」に即せば。ということだ。
以前も書いたが、「学」に約せば「御書根本」であり
「行」に約せば「題目根本」ということだ。
この行学の二道とは、

◆行学は信心よりをこるべく候(諸法実相抄)

と御書にあるように「信」から起こるものであり、行学の根本はあくまでも「信」である。
その「信」に即して言えば「大御本尊根本」なのである。
つまり、「御書」といい「題目」といっても、大聖人の色心二法である
戒壇大御本尊を離れては無意味なのである。
その証拠に、身延学者や無信心の僧俗の姿を見てみろ。
「御書」を「日蓮の遺文」と呼び、偽書などと勝手に決めつけ、薄っぺらな解釈しかできないだろう。
彼らのやっていることは「御書」を利用し大御本尊を否定するという作業である。
こんな人々にとっては「御書」は不要なのである。
そもそも、御書には何が書いてあるのかといえば「大御本尊について書いてあるのだ。
「御書」とは、いうなれば「大御本尊」の説明である。
不相伝の輩、無信心の輩には、単なる「遺文」「手紙」にしか思えないわけだ。
かの五老僧とまったく同じ思考なのである。
だから、「御書に書いてない」といって日興門流を否定したかと思えば
こんどは「御書に書いてない」ことを堂々と主張したりする。
なぜそうなるかと言えば、根本は「本尊」に迷っているからである。
こんなに「遺文」の研究をしているのに、
身延や無信心の僧俗は本尊を確定できないでいるわけだから
何のために「研究」をしているのか?時間の無駄としか思えない。
今の創価も「然り」だ。
戒壇大御本尊を捨てた創価が「御書を根本」としたら身延同様の結果となる。
まぁ、本尊に迷いまくった挙句に創価学会仏なんて言いだしている時点で
身延と何ら変わらない。。いや身延以下になったということだ。
つまり、今の創価に「御書」は不要なのである。
いや、大御本尊を捨てた創価と「御書」は無関係なのである。
自分達で「宗門とは関係ない」と言ってるのであるから
「宗門」の聖典である「御書」を根本とするのはおかしな話だろう。
そもそも「御書」と呼ぶのは日興門流だけであり、
創価ごときが気軽に「御書」などと呼ばないで欲しいもんだ。
チミ達の「御書」は大作センセの「人間革命」で十分だろう。
「御書」と呼ばれると紛らわしいので「大作遺文」とでも呼んでくれ。

独立した世界宗教団体なのだから、いつまでも正宗の真似をしてないで独自路線を行きなさい。
チミ達に関係のない大聖人の「御書」を学ぶ必要はサラサラない。
「大作遺文」を一生懸命学び、教学試験も「大作遺文」から出題し給え。
「日顕宗を破す」なんて一体御書のどこにあるのかね?
日顕宗という言葉すら「御書にはない」
その言葉があるのは「大作遺文」のなかだろう(笑)
「御書にない」ことを学んでおいて「御書根本」とは聞いてあきれるではないか。
そもそも、創価活動家連中で御書を使って「日顕宗」を破してる奴なんていね~だろ。
むしろ、破されているのは「創価臭」「大作狂」の方じゃね~か(大笑)

ともかく、「御書」は今の創価には全くの無関係な読み物であり
創価には全く必要のない「書」である。
座談会にすら持って行かないのだから必要ないだろ。
とっととメルカリにでも出品したらよろし。
「大作遺文」よりは相当高く売れると思うぞ(笑)
しかし、アレだな。
「御書根本」の活動家は絶滅したよな。


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創価教学じゃない御書講義(30年度7月座談会御書・種種御振舞御書)

わたうども二陣三陣つづきて迦葉阿難にも勝ぐれ天台伝教にもこへよかし、
わづかの小島のぬしらがをどさんををぢては閻魔王のせめをばいかんがすべき、
仏の御使となのりながらをくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


今月は「種種御振舞御書」の最初の方の御文ですね。
大作センセが昔、「日本なんて言う島国からどう評価されようが眼中にない」
みたいなことをこの御文を引いてスピーチしていたのをふと思い出しました。
その割には、韓国に評価されている自慢をしていますがまぁそれはそれとして
創価の座談会なら、大作センセに続くんだぁ~それが仏法の師弟の道だぁ~とか
言い出しそうな御文ですな。
なんでそうなっちゃうかというと、変なところで区切るからでしょ。
この前文には、

◆仏滅後二千二百二十余年が間迦葉阿難等馬鳴竜樹等南岳天台寺妙楽伝教等だにもいまだひろめ給わぬ法華経の
肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり

と書かれています。
ここをやらないと、一体誰に「続く」の分からないじゃないですかぁ。
どこにも「大作」なんて書いてませんね。
日蓮大聖人に続きなさい。と明確に書いてあります。
え?大作センセが日蓮大聖人に続いてるから、大作センセに続くのは間違っていない?
はぁ~(溜息)ちゃんと「種種御振舞御書」を全文読んでますか?
この御書は、大聖人様の発迹顕本とご本仏としてのお振舞が書かれているのですよ。
大難を一身に受け法体の折伏をされた大聖人様の生涯。
そのお姿は涙失くしては読めませんよ。
そのご本仏と大作センセが同じ?
頭逝かれてませんか?

大作センセが妙法弘通で大難を受けたことなんてただの一度もないでしょう?
高給メロンを食し、ベンツでお出かけ、海外旅行して、勲章もらって悦に入る。
唯一の自慢は投獄されたことだけどそれだって選挙絡み。
せめて弘教絡みならまだしも、選挙違反容疑ですよ。
しかも本人は「無罪」だけど、実行した学会員は有罪。
そんな大作センセと大聖人様が同じだと思っているなら相当のイカレポンチと言うしかありません。
そして何よりも大聖人が大難にあわれながら、一切衆生の為に残された
戒壇大御本尊を捨てたのが今の創価です。

◆法華経の肝心諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり

とは、他でもない一大秘法の戒壇大御本尊なのです。わかりますか?
自分達を地涌の菩薩といいながら、
僅か小島の末法の荒凡夫の大作ごとぎに騙されて
大御本尊を捨てるような人間を「無下」の人々というのです。
大聖人の色心二法の当体である大御本尊を捨てるのは

◆日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし

大聖人を悪しく敬ってることに他ならないんだよ。
いまの創価は亡国の団体であることに早く気づくべきでしょう。
いまの創価幹部・活動家は

◆近くは依経に背き遠くは仏意に違う者なり(当世念仏者無間地獄事)

なのです。
御書に背き、仏意に違える。
まさしく念仏者同様、いやそれ以上の謗法者であり無間地獄へ直行です。
そんな人たちに惑わされてはいけませんよ。

もう一度書きますよ。
この「種種御振舞御書」に書かれている大聖人のお振舞と
大作センセやダーハラ会長以下の創価首脳と比べて
どこに共通点がありますか?
本抄には四条金吾が竜の口へ大聖人のお供をする下りがありますが、
大聖人と共に死を覚悟した四条金吾と
謗法の地にあるから大御本尊は受持しません。という創価
どっちが真実の弟子の姿だと思いますか?
よくこの御書を読んでみてくださいね。
それが「御書の研鑽」というものです。
創価の切文教学に騙されてはいけません。自分が不幸になりますよ。


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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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