創価教学じゃない御書講義(29年度2月座談会御書・妙一尼御前御消息)

法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、
いまだ昔よりきかずみず冬の秋とかへれる事を、
いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、
経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候。
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今月は、「妙一尼御前御消息」ですね。
2月だから季節感を出した感じ?
まぁ、この御文は創価活動家の約87%(当社調べ)が
一度は読み聞きそして念じたと思われる有名な一節だね。
「冬」がイロイロと解釈することができるので
幹部も使いまわししやすい一節でもあるね。
法華経を信じる人は何で「冬」なの?って素朴な疑問もあるが
「法華経を信じる人」は必ず難があるから。というのは基本線。
あ、でもこれを下手に使いうと、「そんなんじゃ信心やらない」って言われる場合ありだよ。
または、人は苦悩があるから信心をするから。
つまり「冬」になって初めて真剣に信心するってことだね。
本文に即して言うと、「冬」とは「凡夫」という事で
「春」とは成仏と言う事になるね。

俺も親父の借金背負って、この信心を初めて
何度この御文を心に浮かべながら唱題したことやら。
「もう冬、長すぎ。北極か!」とか思いながら唱題してたなぁあの頃は。

さて、今回の御文のポイントはもちろん
「法華経を信じる人は」
ここ。ここに尽きる。
法華経。つまり大御本尊を信じる人。
その信心がある人は必ず成仏する。ってことだね。
今が北極圏並みの寒き冬であっても
大御本尊を信じる人には必ず「春」の功徳がやってくる。
そして一度、一生成仏したのなら(春になったら)
大御本尊を信じている限り再び苦しみの凡夫の境涯には戻らない。
そのように大聖人が太鼓判を押してくださっているのが今回拝読の御文です。

さて、今の創価のカツドウカさんはどうですかね?
破門後入会のカツドウカさんは
最初から「創価を信じる人」であって
「法華経を信じる人」ではないので、
「冬」か「春」かは、その人の福運次第ですが
「創価を信じた」時点でいつか必ず「冬」となり
「冬はおそらく冬のまま」でしょう。

次に破門前に大御本尊を信じていたのに
創価の邪義により大御本尊を捨ててしまい
剰えそんな邪義を正当化している
創価幹部・バリ活諸氏においては
折角の成仏の境涯から、あえなく凡夫に逆戻り決定!
冬は秋に戻らないかもしれないが
春夏秋と駆け抜けて、また冬に逆戻り状態ってことだ。
そして「冬はいつまでたっても冬のまま」っていう事になるな。

大聖人は

◆法華経の行者を捨て給わば諸仏還つて凡夫と成り給うべし恩を知らざる故なり(法華真言勝劣事)

と言われている。(どうせ法華真言勝劣事なんて読んだ事ないでしょうねぇ)
毎回書いているけど
法華経の行者とは日蓮大聖人のことであり
日蓮大聖人とは一大秘法の「本門戒壇大御本尊」のこと。
いいですかぁ。大作センセの事じゃありませんよ。
この「法華経の行者」って部分を
「大作センセ」とか「創価学会」なんて解釈しないように。
その解釈だと、諸仏は大作センセのお陰で成仏した。
ってことになっちゃいますからね。おかしいでしょ?
そんな解釈するのは「創価切文我見教学」ですからね。

その大御本尊を捨てた創価のバリカツ・幹部は、
残念ながら苦悩の淵を彷徨う凡夫状態。つまり冬に逆戻りしてんのよ。
「諸仏」ですら「法華経の行者」を捨てれば凡夫に戻っちゃうんだぜ。
もともと凡夫のオマエさん達が戻らないわけなかろう。

そんなわけで、バリカツさん以外の会員の皆様は
一日も早く大御本尊に信を取る信心をしましょう。
やめられる人は、早く創価をやめましょう。
それと毎月の座談会での「とんでも御書講義」に騙されないように。
今月の御書は、上記の「法華真言勝劣事」の御文とセットで考えてくださいね。
なにせ創価教学はご都合主義ですから
自分でイロイロ学ばないと
「いつまでたっても冬のまま」
「いつまでたっても一闡提」ってことになってしまうので用心してくださいね。
(バリ活さんは、このまま一度無間に行ってから改心してくださいね)

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偽書論について

このブログにも数人の方がコメントしてくれた「偽書論」について書いてみる。
昨年中に書くといいながら年越ししてしまったことをまずはお詫びします。
「偽書論」については身延系信者達と、もううんざりするくらいやりあったので
「偽書論」に出会うとまたこの話かぁっていうのが正直なところなところなんだけど
日興門下としてこの「偽書論」に惑わせててもいけないし
「御書」を学ぶときの基本的な部分の問題でもある。
なので話せば長くなっちゃうのだけど、なるべくコンパクトに書いてみる。

まず「偽書論」は「真筆がない」という所から必ずはじまる。
「真筆」がなければ「ニセモノ」であり、「ニセモノ」だから「用いない」
で、そこから大御本尊や日蓮本仏や血脈相承を否定していくのが
身延系信者のワンパーンなのだが
「真筆」がなければ用いなのら釈迦の経典全てを否定せざる得ないし
科学的根拠がなければ信じない。のであれば
大乗仏典に書かれているような摩訶不思議な現象は科学的に有り得ないので
大乗経典など信じるに足らないおとぎ話ということになる。
そのへんの自己矛盾を説明しないまま話を進めようとするのが身延信者だが
この件については昨年シャリホツさんが以下のようにリコメをくれた。

【管理人さんは「法華経の優位性」というものをどのようにお考えなのでしょうか。まさか「正直捨方便」と書かれているから法華経が優位なんだ、なんて思っていませんよね。法華経が優れているのは、「一仏乗」「諸法実相」「久遠実成」など、説かれている内容です。それは法華経が例え「おとぎ話」だったとしても、揺らぐものではありません。「おとぎ話」だったら無価値だと考えるのは「依義不依語」が分かっていないと思います】

実はこのリコメこそ全てなんです。
法華経が何故最上位なのかというと、その内容ゆえなんですね。
つまり釈迦の真筆があろうとなからろうと、
書かれていることが科学的に立証されようとされまいと
そんなことは何の関係もない。ということです。

◆法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり(三大秘法禀承事)

とあるように、法華経を諸仏の出世の本懐とするのは
釈迦の直説・直筆だからでなく、あくまでも「三大秘法を含めたる経」だからなのです。
これを言いかえると、釈迦仏法において法華経は経典ではなく「法体」である。ということです。
「法体」であるからこそ「諸仏出世の一大事」と大聖人は言われいるわけです。
ではこの法華経と他の教典の関係性は?というと

◆法華経一部八巻二十八品進んでは前四味退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括るに但一経なり始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり無量義経法華経普賢経の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり(観心本尊抄)

つまり法体である法華経は正宗分、爾前は序分、涅槃経は流通分という関係です。
ですが、一度法体が顕れれば序文・流通分ともに流通分になるわけです。

◆所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり(観心本尊得意抄)

大聖人が爾前に固執することを破折したのは、「流通分」である、法門を法体と捉える間違いを指摘しているわけです。

さて、ここまで書けば懸命な読者の皆様にはもうお分かりかと思いますが、
大聖人の御書とは釈迦の各経典と同じに捉えなければいけません。
つまり「御書」は「法体」でなく「法門」であるといことです。
私が男子部時代、観心本尊抄の五重三段を講義するときに必ずもう一重加えました。
それは大聖人仏法における三段です。
釈迦の経典、龍樹・天台・伝教等の論釈、大聖人の佐前の御書は「序文」
大聖人の佐後の御書は「流通分」です。
そして大聖人仏法の「正宗分」とはもうわかりますね。
大聖人の「出世の一大事」(出世の本懐)であり、法体である
一大秘法の戒壇大御本尊です。
そして、法体(大御本尊)を顕して後は
序文も全て流通分になるわけです。
これが私がいつも言う「御書は法体でなく法門である」ということです。

では「法体」と「法門」はどう違うかといえば、全く乖離しているわけではありません。

◆経の中の法門は其の経の題目の中にあり(曾谷入道殿御返事)

とあるように、上記の「其の経の題目」とは
大聖人仏法では「一大秘法戒壇大御本尊」です。
そして「法門」(御書)とは、この法体(大御本尊)の中にある。
逆に言うと大御本尊の外にはない。ということであり
大御本尊に帰結しない教えは「法門」とは言えないということです。
さらに言えば「法門」とはあくまでも「法体」(大御本尊)説明であり
「法体」を教え広めていく(流通する)為にあるものです。
ですからシャリホツさんが法華経について述べたように
誰が書いたか?とか真筆があるか?とか科学的に証明できるか?
というような次元の話は全く無価値であり無意味なのです。
重要なのは「法門」として正しいか?正しくないか?という内容なのです。
結論を言えば、学術的な考察で御書の真偽を問い
それをもって大御本尊を否定する身延の主張は
私からすれば全くもって「御書」を語る資格などないと思うわけです。
(御書とはなんであるか理解できていない)
「御書」の真偽を言う前に、まず「大乗仏説」を学術的見地から証明しろよ。って話です。
では「法門」としての正当性はどこで決めるのか?って話になりますが
そこが仏法が相伝(口伝)である所以であり
仏法の相伝は経巻相承ではなく法体相承である所以です。
この話も長くなるので本日は割愛します。
言えることは釈迦仏法も法華経という「経典」を信じるのでなく
法華経という「法体」を信じることなのです。

以上、簡単に「偽書論」についての考えを書きましたが
私の考える「偽書」とは「御書」そのものの真偽ではなく
読み手の信心の真偽の問題だと思ってます。
上記しましたが「法門」とは必ず「法体」に帰結することをもって「法門」と呼びます。
身延をはじめとする「偽書論者」の方々は「法体」に帰結しません。
というか既に眼前に法体は明らかであるのに
「法門」からまた「法体」を知ろうと無駄な努力しているわけです。
凡夫が知ろうとして知れると思っているならば

●諸仏智慧。 甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。

の法華経の文を否定することになります。
それはさて置き、「法体」に帰結しない御書は「法門」ではありませんので
真筆だろうとその人の読む御書はずべて「偽書」です。
とはいえ身延信者の方々にとっては「法体」は法華経ですからそこは仕方ないし
また仏教学を純粋に学ばれている方も、
大聖人の御書をどう受け止めようと自由ですので批判をする気もありません。
問題は、大聖人を末法のご本仏とか言っておきながら
大聖人の御書の一部を「偽書」扱いしたりする学会員です。
これこそ邪智・謗法の輩であると断言します。
また、そのような学会員の読む御書は全て「偽書」であり
そのような「偽書読み」をしている学会員の言うところの先に「法体」はありません。
どうか、純真たる会員の皆様には
正しく「御書」を拝してもらいたいと願うわけです。
「御書」を正しく拝する。とは決して難しいことではありません。
「大御本尊に対する信心」が「強く」「深く」なるように読むってことです。
そのように拝読することができれば
皆さんの「御書」はだれがなんと言おうと
ご本仏の「ご金言」なのです。
ざっくりと手短に書いたので、(しかも少し眠気もあり~の)
よくわからない部分はあると思いますがご容赦ください。

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創価教学じゃない御書講義(29年度1月座談会御書・生死一大事血脈抄)

総じて日蓮が弟子檀那等自他彼此の心なく水魚の思を成して
異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
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改めまして新年おめでとうございます!
今年最初の記事は年頭ということで1月の座談会御書の講義をしてみるよ。
「生死一大事血脈抄」。バリ活さんの大好きな「信心の血脈なくんば・・」って御書ね。
「草木成仏口決」を偽書だ。とか言ってる創価活動家さんも
なぜかこの「生死一大事血脈抄」を偽書といわないのは
創価のいう「信心の血脈」の文証になっているからだね。(とんだご都合主義だな)
しかしこの「生死一大事血脈抄」は男子部バリ活時代に
「最もたくさん講義」した御書だよ。(リクエストが多かった御書でもある)
短い御文でなおかつ大聖人仏法の法門・法義が詰まっていて、
しかも読みやすい御書なので、部活で取り上げるるのにはいい御書なんだよね。
まぁ、こうして切文にしちゃうとわかりずらいんだけど座談会じゃ仕方ないか。

で、今回の拝読箇所もイロイロと言いたいことはあるんだけど2点だけポイントを書くよ。
まず1点目は最初の「総じて」という部分ね。
ここまでの前文を読めばわかると思うんだけど、
ここで、「総じて」と言っているのは当然「別して」に対応して「総じて」と言われている。
で、この「総じて」というのは2意あって、
一つはこの前文(3つある生死一大事血脈のうちの最初の2つ)
◆久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る①
◆過去の生死現在の生死未来の生死三世の生死に法華経を離れ切れざる②

この①・②は、「別して」自行(個人の信心)に約されていて、
これの対し本文は「総じて」化他に約されている。

二つ目は、本御書冒頭の
◆夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり

この「別して」の「法体の血脈」に対して、
本箇所は「総じて」の「信心の血脈」をご教示されているわけ。
因みに【過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈】
この部分が大聖人仏法の法体。つまり妙法五字ね。
この前文の【釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて】というのは
あくまでも大聖人の外用の辺に約して述べているもで、
本意はあくまでも【過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈】だよ。
【過去遠遠劫】とは久遠元初ということだよ。

なので、この部分の「総じて」というのは、あくまでも「別して」の血脈を念頭に置かないとダメなんだよね。
この総別の二義をしっかりと理解しないと創価教学になっちゃうので気をつけて。

◆日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず(曾谷殿御返事)

つまり一つは総じて広宣流布といっても別しては正しい自行の延長線にしかない。
もう一つは「総じて」信心の血脈というのは「別して法体の血脈」に信を取るのが前提となっている


この2点が第1ポイントね。「別しての血脈」を無視して「総じての血脈」なんてないんだからね。

ポイント2は勿論、「異体同心」って部分。
創価教学では、「同心」ってところを、
「師弟不二」とか「三大会長に流れる広宣流布の精神と行動」とか
わっけのわかんね~寝言を真顔で言っちゃうんだろうけど
大聖人仏法には残念ながら、大作センセなど登場する場面は全くない。
「同心」の「心」とは「信心の心」。
ここまではバリ活も分かっているいると思うが
じゃぁ?「同」は?
「大作センセ」・・ブー不正解。
この「同」というのは「大御本尊」ってことね。
決して末法の荒凡夫である、大作センセと心を同じくする。ってことじゃない。
一大秘法の戒壇大御本尊に対する「信心」ってのが「同心」ってことだね。

で、ここを説明するには冒頭からやらなきゃいけなんだけど上記で引用した
◆久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る。
この部分で説明しておくよ。
◆三つ全く差別無しと解りて
とあるけど、末法の凡夫はそれを「解れない」んだよね。
でその代わりに「信じる」んだけど、この「信じる」ってのも難しいでしょ?
三つ全く差別なしって信じるといってもねどうすりゃいいの?ってなっちゃう。
そこで我ら凡夫は、信じる変わりに「受持」するわけね。
そして「受時即観心」の法理により「解る」ことができる。こういうわけだね。

そこで一番重要になるのは何を受持するのか?って話になるんだけど
【久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別のない体】を受時するんだよ。
つまり「3つ差別のない体」を受持して妙法蓮華経と唱え奉るということですよ。
◆此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
というわけです。
この3つが差別のない体とは具体的に言うと、ご本仏日蓮大聖人のこと。
久遠実成の釈尊=久遠元初自受用身
皆成仏道の法華経=一念三千の法
我等衆生とは別して言えば鎌倉時代に現れた日蓮大聖人だから
大聖人の一身に、久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経が備わっているわけ。
つまり「三つ全く差別のない体」とはご本仏・大聖人の色心二法を指しているわけで
その色心二法をそのまま移したのが、出世の本懐である
一大秘法・本門戒壇の大御本尊。なわけです。
つまりそれを受持することが「別して」個人(異体)における生死一大事血脈の根本。
その各個々人の正しい信心があれば、自然と「同体」になるわけさ。
つまり、創価のいう「センセに呼吸を合わせる」とか
「長に呼吸を合わせる」ってのは
「異体同心」っていわない。言ったとしても世法の範疇。
本来の大聖人仏法では、そんなことをいちいち言わなくても
ご本仏を信じる。大本尊を信じる。という信心があれば
それはすでに「異体同心」の姿なわけだね。
そこをもって
◆今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か
と言われているわけだ。

そして結論はというと、
大御本尊を捨てた、大作センセと創価幹部活動家の皆さんには
「異体同心」も「広宣流布」もあり得ない。
むしろ、異体異心。

◆一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし(高橋入道殿御返事)

ってところだね。つまりは
「信心の血脈」なんて当然ありません。
なので、

◆法華経を持つとも無益なり
ってか「法華経を持っていない」のだから
端から「生死一大事血脈」なんてないわな(笑)

この御書は、本当に深いんだけど今日はザックリで勘弁してください。
最後に、私の御書の「生死一大事血脈抄」のページの画像を。
我ながらよく研鑽したなぁ・・・

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創価教学じゃない御書講義(28年12月度座談会御書・檀越某御返事)

御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」とは此れなり
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今月は「檀越某御返事」だね。一応四条金吾に宛てたお手紙という説が有力の御書。
とても短い御書で、前半は大聖人自身の不退の決意が述べられていて
今回の部分はそのあとのご教示の部分。
男子部は結構な頻度で使われる御文だね。
なにせ、男子部活動かといえば、
「信心は一人前・仕事は半人前」な~って言って
任務のために仕事を休む、SやG。
会合が夜中までで昼間の仕事がだるくて仕方ない。
会社では役立たずだけど創価の中では幹部。
そんな男子部さんは今でも多いのかな?
それとも、今では、活動の方もソコソコだから大丈夫なのかな?
「信心も仕事も半人前」ってところかね。
まぁ、仕事してるだけでもマシな方で
中には、定職も持たないで学会活動してたヤツも結構いたな。

さて、この部分は「信心即生活」「社会即仏法」の法理。
多くの日本人は宗教とは、修行や癒しであって
日常生活からかけ離れたものだと思っているのだろうが
そうではなく日常生活そのものが信心であり、日常生活から離れた仏法はないということ。
「一切世間の冶生産業は皆実相と相違背せず」とは玄義の文だと思ったけど
信心してる人にわかるように言うと「諸法実相」ということだね。

◆実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり(諸法実相抄)

とあるように、この世界の森羅万象は全て妙法蓮華経の現れということだね。
で、この妙蓮華経を単に法則と捉え法本尊のみ立てる方もいるだろうが

◆法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし(草木成仏口決)
◆十界の外に仏無し仏の外に十界無くして依正不二なり身土不二なり一仏の身体なるを以て寂光土と云う(三世諸仏総勘文教相廃立)

とあるように、法界とはご本仏の「御身」つまり色心二法のことであり
具体的には、大聖人の色心二法である大御本尊に法界を具しているわけ
つまり、仕事を含め森羅万象の全ては、
大御本尊の法力・仏力の力用ってこと。
だから、今回の御文は「仕事も信心修行と思って取り組みなさい」とい解釈は二次的なもので
むしろ「信心によって仕事も人生そのものも決まってしまう」というのが本筋だと思っている。

◆仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり(諸経と法華経と難易の事)

とあるように、ご本仏の仏力・法力を正しく用いるのは、自身の信力・行力である。
正しい信力・行力があれば幸福になれるといことであり
逆に、大御本尊を捨てた学会員が、
たとえ仕事でどれだけ努力しようと最終的には報われない。と結果になる。
法界はご本仏の色心二法といっても、ご本仏もまた十界互具だから
功徳ばかりだしてくれるわけじゃないんだよ。
だからこそ、大御本尊に信を取らなければいけないとつくづく思う。

また、社会即仏法を実際の行動に顕すと

◆智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり(減劫御書)

とあるように、国法はもとより
世間の一般的な常識や慣例を違えて仏法を行じない。といことだろう。
勿論、謗法に対しては断固と戦うべきだが、
それ以外のことに対しては世間の中で仏法を行じるべきだろう。
ここ数日「会館葬」について色々コメントもらったが
創価擁護の意見で多いのは「寺院とは本来葬儀の場所ではない」というものだ。
寺院の本理の姿はそうかもしれないが
現代における宗教施設とは世間一般においては
葬儀等の仏事を行う場所でもある。という認識だ。
であるならば、そうした世間一般の認識を無視し
「そもそも論」を主張するのは、世間の法の外で仏法を行じている愚者だと感じる。
他にも、「創価の常識は世間の非常識」と思われることは
書けばキリがないほどある。
「それでも別に構わない。俺たちはコレでいいんだ」と
活動家さんたち思っているのなら創価の発展はないだろう。
てか、もう日本国内では全く増えてないのだから
日本国内では既に広宣流布など不可能ということが数字でハッキリと現れている。
つまりは、創価は世間の法の外でやりたい放題しすぎたってこと。
それがご本仏が下した実相だろうということだ。

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気がついちゃった学会員さん

先日会社の車のタイヤを
何気なくみたらヤマがほとんどなかった。
こんなタイヤでビュンビュン高速道路とか走ってたと思うとゾッとした。
早速、新しいタイヤと交換した。
知らないときは全然平気だけど、気づいちゃうと急に怖くなる
そんなことって結構多いよね。
自分では今まで通り運転しているのだけど、
乗ってる車の方がいつも何やら知らないうちに故障している。
創価の謗法に気づいちゃった
学会んさんもそんな気分になると思う。
実際に親交ある会員さんの中には
「罰が出るのでは?」と心配している人も数人いる。
その人たちは、自分では気づいたけど家族が気づいていないので
それで「罰がでるのでは?」と心配になるらしい。

大御本尊を受持しない。これは明らかに謗法であるから
罰が出るか出ないかで言えば、「罰は出る」
それが大聖人の教えだ。
でも、家族で一人その謗法に気づけばそんな心配は無用だ。
気づいた一人が大御本尊に対する信心を貫けば
本人のみならず、その一族も守られていく。それも大聖人仏法である。
日寛上人は観心本尊抄文段で、

◇故に暫くもこの本尊を信じて 南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福 として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。

とご指南されている。
本門本尊に本門題目を唱えれば、滅しない罪はないのである。
そして、日寛上人が「この本尊」と言われている本尊とは
同じ観心本尊抄文段に

◇本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応にこれ別体の本尊なるべし。これ則ち面々各々の本尊なるが故なり。

と言われているように、一大秘法の本門戒壇の大御本尊に他ならない。
つまり、本門戒壇大御本尊を信受し題目を唱えれば、
滅しない罪はなく、叶わない祈りもない。
ゆえに謗法に気づかない創価の家族がいても
「罰が出ること」などないので安心して欲しい。
罰どころか、やがて家族も創価の謗法から救うこともできる。

といっても、すぐにはなかなか難しいとも思う。
なにせ気づかない人々は
自分は変わらず安全運転(純粋な信心)をしているつもりだろうし
事実、安全運転(純粋な信心)をしていると思う。
でも、乗っている車(創価学会)が
自分で知らないうちに、誰かに細工され
いつの間にか欠陥だらけの危険車両になっているのだ。
これに気づくのはなかなか困難で
事故を起こせば気づくのだろうが、
できれば事故る前に気づいて欲しいと願っているのだが
なにせ長年乗っている愛車なので、
他人に「危ないですよ」といわれても、なかなか聞く耳持たない。
それでも、焦らず祈っていけばいづれは分かってくれる日がくる。
俺の周りもそんな危険車両を安全運転で(時々暴走している奴もいるが)乗り回している人が多い。
気づいた側としては、なんとか「事故る前に気づいて欲しい」と祈るばかりだ。
気づくまでは、気づいた側の祈りで守っていくしかないからね。

ともあれ、気づいっちゃった学会員さん、
「罰など出ない」ので安心して
大御本尊を信受し題目を唱えましょうね。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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