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「大御本尊の事が御書に書いてません」ええ。それが何か?

戒壇大御本尊を捨てた邪教創価の活動家がいつもいうのセリフ。
それが「大御本尊につい御書にかいていない」である。
当時聖教での

▼大聖人御自身が、本抄(聖人御難事)において、直接、「弘安2年の御本尊」 について一言も言及されていない。

との説明を受けて創価活動家が「御書に書いていないだろう」なんて調子こいて言っている。
ええ。確かに御書には「弘安二年の大御本尊」について直接的な文言はない。
でもそれが何か?っていう話をしようと思う。
ぶっちゃけ大御本尊について御書に直接書いてないことなど当然の話で
創価活動家の主張なんて鼻嗤いのレベルの話だが、こうした莫迦ツドウカに騙されてる人もいないとも限らないしな。

さて、大御本尊について御書には直接的な文言はない。
同様に「大聖人が本仏である」という直接的な文言もない。
創価莫迦ツドウカはここで思考停止する。この先を考えないからいつまでたっても莫迦なままのなのである。
何故、大御本尊のことや大聖人がご本仏であるということが直接御書に書いていないのか?
こんなことは少し考えれば分かることで、御書に書いていないのはそれらは「法体」に関することだからである。

◆此の三大秘法は二千余年の当初地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。 (三大秘法禀承事)

◆教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり(南条殿御返事)

これらの御文をよく読んでみたまえ。法華経に「三大秘法」や「一大秘法」が直接的文言で書いてあるかね?
法華経には「本門本尊」のことも「本門題目」「本門戒壇」のことも一言も書いていない。
このように「法体」については法華経文上において一言も言及していないのである。
これらの「法体」は上記の御文に明らかなように【面受口決】により教主釈尊から上行・日蓮大聖人へ相伝されたのである。
つまり「法体」というのは、経巻で不特定多数の者に相伝するのではなく
仏法の混乱を守るために面受口決により唯授一人へ相承するものなのである。
今月の御書である「生死一大事血脈抄」講義でもしたが、相承には総別の二義があるのである。
御書というのは「法門」の相伝であり全ての僧俗への相伝ではあるが、

◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)

との御文にあるように「法門」の相伝というのは「法体」の相伝(唯受一人血脈)が大前提なのである。
そして前述のように「法体」の相伝(相承)というのは、面受口決・唯授一人が仏法における鉄則であるから
「大御本尊」のことや「大聖人がご本仏である」ことが、御書に書いていないのは当然の話なのである。
もちろん、大御本尊に関することを筆頭に「法体」については大聖人から日興上人へ唯授一人の付嘱がなされ、
その後日興上人以下のご歴代へと血脈相承されている。それが日興門流ひいては大聖人仏法なのである。
それを言うに事欠いて、御書に書いていないからといって大御本尊不受持の論拠にするとは
莫迦丸出しで無信心の恥かしい痴論であると断言しておこう。
そういえば一知半解の出来損ない創価民がブログで、

▼宗門の人に尋ねたい。一体「御本尊に対する開眼供養の具体的なやり方・その資格を有する条件」が御書の何処に書いてあるのか教えて欲しいものだ。

なんて書いていたが、これも同じ。開眼は「法体」に関する事項ゆえに御書にその詳細が書いてあるわけがないのである。
御書に書いてある開眼についての記述はあくまでも草木成仏等の法門・法理に関することだけだ。
御書に開眼の具体的方法など書いた日には「我こそは本仏である」と名乗る莫迦が必ず現れるだろうしな(嗤)
まぁその前にこの創価民も創価莫迦ツドウカ同様、「開眼」ということを全く理解できていないのだが。
なにが「宗門の人に尋ねたい」なんだか。それほど知りたければ、その中途半端な創価教学を捨てて教えを乞いなさい。と言っておこう。

さて、このような半端な創価狂学莫迦が「御書に書いていない」などという痴論を発するたびの思い出すのが、
顕本法華宗の開祖・日什である。日汁は、経巻相承・直授日蓮 (直受法水)などといって
大聖人仏法は御書を読めば全て分かる。御書に全て書いてあるからそれ以外の相伝は不要などと愚かな主張をした。
今の創価の莫迦ツドウカがいう、「御書に書いてないから大聖人の真意でない」とか「大聖人直結」などという発想は
まさしく「経巻相承」「直授日蓮」の顕本法華宗の教義そのものである。
邪教の発想というのはいつの時代も「同じ発想」なのである。
「法門」と「法体」の違いすら分からず、その相承方法の違いも分からず
小っ恥ずかしい痴論を知ったかぶりしてドヤ顔で喚く姿は見ているこっちが赤面するレベルである。
このような邪義・我見で無信心の半端者に騙されないように気を付けよう。
「御書」にかいてあるのは「法門」で「法体」については御書には書かれていない。
これは大聖人仏法を信仰する者の基礎教学である。
なので創価莫迦ツドウカ達に「大御本尊の事は御書に書かれていない」と言われたら、
「ええ。書いてないよ。そんなの当たり前でしょ。それが何か?」と
鼻でせせら笑いしながら言い返してあげましょう。
そして、創価活動家の莫迦さ加減を教えてあげましょうね。


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創価教学じゃない御書講義(2019年2月の座談会御書・生死一大事血脈抄)

相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提生死即涅槃とは是なり、信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり


今月の座談御書は、創価活動家が大好きな生死一大事血脈抄の最後の部分だね。
「信心の血脈」だけ切文して「唯授一人血脈」を否定しまくるのが創価流。
「信心の血脈」だけあればなんでもOKらしいのだが、そもそも「信心の血脈」の有無の判定は誰がするのかね?
ダーハラ怪鳥にその権限があるのかね?それともあくまでも自己申告なのか?
そんなあやふやな指導をする方も聞く方もどうかしてるって思うんだけでどね~。

さて、「血脈」について書くと、「血脈」には「総別」の二つがあること知っておかないとダメだね。
「信心の血脈」というのは「総じての血脈」であり、「別しての血脈」とは「唯授一人血脈」ということ。
創価教学は、本当にこうした立てわけができない切文教学だからいつまでたってもダメなんだよ。

是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん(曾谷殿御返事)

とのご聖訓にあるように、この立てわけが出来なければ「成仏」もできない。ということを知って欲しい。
今回のこの「生死一大血脈抄」の冒頭には、

夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり

生死一大事血脈とは南無妙法蓮華経でありその理由は釈迦多宝から上行菩薩が譲り受けた。と明確に書いてある。
もうこの一言が「生死一大事血脈」の結論だよ。どういうことかと言うと上行菩薩が譲り受けた南無妙法蓮華経とは何かといえば「法体」であって、この法体をどのように譲り受けたのか?というと御義口伝に

此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり

と仰せのように「面授口決」にて日蓮(上行)が釈迦多宝から譲り受けたわけで、
(二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いと日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなりは同意故に)
決して「信心の血脈」で譲り受けたわけではないだろう。
それ故に、「南無妙法蓮華経の法体」は日蓮大聖人以外に譲り受けた人はいない。
つまり「法体」は大聖人ただ一人に相承されたのである。
この「法体の相承」を指して「唯授一人血脈」といい、日興上人以来の御歴代への「別しての血脈」(別付)の事である。
そして総じての「信心の血脈」(総付)とは、「法門の相承」のことである。
日応上人の、『弁惑観心抄』には

◇「唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり、その別付とはすなわち法体相承にして総付は法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云うべし。また法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受けざるはなし。蓋し法門総付を受けたる者は、遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し、宗祖開山の正義に違背す。」 

とのご指南がある。「法門」については弟子旦那皆がこれを受けることはできるが「法体」については唯受一人へ附属すると。
そして、創価のように「信心の血脈」(総付)だけを重視する者は法体に迷い己義をねつ造すると言われている。
つい最近でも某創価支部長が、己義・邪見の三大秘法義や本尊観を書いていたが、
まさしく日応上人の指摘の通りの謗法ぶりだろう。
謗法者の思考回路と行きつく先は昔も今の変わらない所が凄い。
先にも書いたが本抄の冒頭で「生死一大事血脈」とは「南無妙法蓮華経」の法体であり、
その「法体」は「唯受一人相承」をもって伝えられることを示しているのであるから、
今回の御文で述べられるところの「信心の血脈」とは大前提として、「法体の血脈」への信の上に立脚したものである。
本抄中には再度、

◆只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ

と述べられているが、この御文は「法体」(南無妙法蓮華経)である大御本尊と大御本尊から流れる「法体の血脈」即ち「唯授一人血脈」(釈迦多宝上行菩薩血脈相承)を信じて題目をあげる(修行する)という意味である。それが正しき日興門流の「信心の血脈」なのである。
故に日有上人は化義抄で、

◇信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり

とご指南されている。「高祖以来の信心」とは、大御本尊への信心と大聖人から日興上人へ唯授一人血脈への信心であることは疑いのない所である。また大御本尊と唯授一人血脈の体は同じなのである。故にどちらひとつでも否定をすれば「高祖以来の信心」の筋目に違えるわけだ。日応上人のいう所の「宗祖開山の正義に違背す」 とはこの筋目を違えることをいう。
創価に至っては「そのどちらも否定している」のであるから、「信心の血脈」どころか「宗祖開山の正義に違背」しているのである。
今回の本文中に書かれている「強盛の大信力を致す」その「対象」は一体何なのか?何に対して「大信力を致す」のか?
「法華経を持つとも」の法華経とは一体何なのか?
そのどちらも「法体」であり具体的には一大秘法の大御本尊である。というのが日興門流なのである。
「法体の血脈」への信心をさして「信心の血脈」というのである。
「生死一大事の血脈」の体である大御本尊を捨て、それ以外に生死一大事血脈を求める莫迦が創価幹部・バリカツなのである。
もっとも、創価のカラコピ掛け軸のことを大聖人は「法華経」という表現はしていないので、
信心の血脈なんてあってもなくても、カラコピ掛け軸など無益ではあるが(笑)
「信心の血脈」とは一体「何に対して信心を持つことなのか?」
今月はそんなことを思索しながらこの御書を拝してもらいたいと思う。


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創価教学じゃない御書講義(2019年度1月座談会御書・大悪大善御書)

大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずともまいをもまいぬべし、舎利弗にあらねども立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしにはをどりてこそいで給いしか


2019年最初の座談会御書は「大悪大善御書」ですね。断簡の短い御書ですが創価的には結構使う御文です。
この御文を引いて「どんなに大変なことがあっても舞を舞う如く愉快に朗らかに喜び勇んで戦っていきましょう」
とかなんと言っちゃって、会員さんをだまくらかして学会活動をさせようとする御文です。
まぁ現実には愉快とは程多い疲れ切った表情で活動に追われている会員が大半ですけどね。
それもそのはず、学会活動は謗法側ですからね~。舎利弗でもなけりゃ迦葉尊者でもないのが創価カツドウカ諸氏です。
さてこの御文と同じ御文は、「減劫御書」にも書かれています。

大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ

瑞相というのは、「呵責謗法滅罪抄」に

瑞相と申す事は内典外典に付いて必ず有るべき事の先に現ずるを云うなり

ということで、分かりやすく言うと「前兆」ってことです。普通の感覚だと「いい事の前兆はいいこと」と思いますよね。
釈迦仏法においても「いい瑞相にはいい結果」が基本なのですが、
大聖人仏法では「大悪」が「大善」の瑞相となるわけです。これは何故かと言えば末法だからなんですね。
本文に書かれているように、「大悪」とは「大謗法」のことで、「大善」とは「大正法」のことです。
「大正法」とは「大謗法」にたいする薬ですから大謗法の症状がでないと人々は飲まないわけです。
そしてこの「大謗法」の病に先天的に侵されているのが末法の衆生なのです。
末法の衆生は本未有善といって、最初から「善根」がない人々なのです。
ここでいう善根とはいわゆるキリスト教的な「善・悪」というニュアンスではなく
成仏の種がない。という意味ですから「性悪論」のような解釈ではありません。佐渡御書にも

一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり。

と書かれている通りですから、「理」の上では私も含め全員悪人。まぁアウトレイジみたいなもんです。
「大謗法の病」をもっていても生まれ落ちてからなので誰も気が付かない。
誰も気が付かなければ「大正法」たる色香美味の大良薬・大御本尊を信受しない。
そうなると人々は不幸になる。人々が不幸になれば依正不二の原理で国土も不幸になるわけです。
私はこの御文で一番感じるのは「すでに大謗法国にあり」の部分です。
軽く読み流してしまうんですけど、さっきも言ったように普通にしていたら誰も自身の「大謗法」に気が付かないわけです。
誰かがこの大謗法を顕したから大謗法が国に存在することを知ったわけです。
その方こそご本仏・日蓮大聖人に他なりません。

此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり(瑞相御書)

大聖人は「理の大謗法」を「事の大謗法」にせしめ、病に気づかず蝕まれている衆生に大良薬を与えてくださったのです。
この大聖人ご在世の四箇の格言による謗法破折と大正法たる大御本尊の建立を「法体の折伏」というのです。
この「法体の折伏」がなければ大謗法は顕れることなくそうなれば大正法も広まらない。
結果、この娑婆世界で仏法はついに絶え一切衆生も非情も成仏せず娑婆世界は無間地獄と化すわけです。
それを救済したのがご本仏・日蓮大聖人の事としての「法体の折伏」です。
大作センセをはじめとする創価カツドウカが「俺たちが広宣流布をしてやった」などと偉ぶるのは
全くの傲慢であり、恥知らずであり、恩知らずの吐くセリフです。
オマエ達が折伏をしてこられたのは、大聖人が「法体の折伏」をして大謗法を顕してくれたからであり、
日興門流の僧俗が法主を中心に大良薬であり大聖人の色心二法である大御本尊を守護してきたかに他ならない。
なので、戒壇大御本尊から離れてしまえばそれは大正法とはいえない。
大正法でもないモノをいくら流布したところでそれは大謗法を世界中にまき散ららかしているにすぎないわけだ。

よくよく振り返れば、昭和時代には日達上人が顕正会・正信会という大謗法を顕し
平成時代には日顕上人が創価学会という大謗法を顕した。
血脈相承がなせる行動と思わざる得ない。不思議なものである。
ともあれ、創価・顕正と大謗法がここまで明らかに眼前に白日の下に晒された今、
正しき日興門流の折伏が決まらない訳はない。
「必ず広まるべし」とご本仏が太鼓判を押しているのである。
創価ではないが、喜び勇んで楽しく折伏をしていきましょう。
折伏は楽しいと思わないと絶対にできませんよ。
難しく考えないで、家族や友人・知人を大切に下心なくお付き合いする中で仏法の話を自然とすればいいだけです。
あとは大御本尊に祈ってお任せです(笑)
今年は大謗法の創価は「選挙」で忙しいでしょうから、その隙をついてやりましょ(笑)


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創価教学じゃない御書講義(30年度12月座談会御書・米穀御書)

同じ米穀なれども謗法の者をやしなうは仏種をたつ命をついで弥弥強盛の敵人となる、
又命をたすけて終に法華経を引き入るべき故か、
又法華の行者をやしなうは慈悲の中の大慈悲の米穀なるべし、一切衆生を利益するなればなり
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今年最後の座談会御書は、「米穀御書」です。学会版御書全集では「高橋殿御返事」となってますが
高橋六郎入道宛てではなく、南条時光に宛てた御書であることが有力ということで正宗版では「米穀御書」という題号です。
断簡(お手紙の一部)でとても短い御書ですが、
「其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」という有名な一節がある御書です。
今回の拝読箇所は財務を意識した12月らしい部分ですな。
聖教新聞の解説にも「御供養の精神 」なんてことが書いてあります。
いやいや、創価の財務は会費・寄付の類であって「ご供養」ではないのに
こうやって御書を利用して毎年会員を騙して金を巻き上げる。
振り込め詐欺とは創価の財務の事ですな。
そもそも、正宗に対して「こんなに供養してやった」「いままでして来た供養を返せ」
なんて言っている創価の連中が「御供養の精神」を騙るなんてちゃんちゃら可笑しい。
全く一体どの口が「御供養の精神」なんて言うのかとあきれ返ります。
だから創価の財務は、「会費」扱いで丁度いいのです。「ご供養」なんて言ってはいけません。
だいたいから「ご供養」で、一口(ひとくち)なんていう単位をきいたことがない。
一口という単位を使うのは「寄付」であって「供養」ではないと思いませんか?

さてそれはさておき、今回の御文のポイントとは「謗法の者」と「法華経の行者」ですね。
どちらもやると長くなるので「法華経の行者」についてをメインに書きます。
創価の財務で功徳が出る。という主張は財務は会費ではなく供養であるという考えに立脚しています。
そしてその思考をなさせているのは、自分達や創価が「法華経の行者である」という邪義です。
いつも書きますけど、こうした邪義は全く総別の立てわけができていない創価流の「糞味噌教学」です。

◆糞を集めて栴檀となせども焼く時は但糞の香なり(報恩抄)

コレが創価教学です。臭くてたまらんのですが、便所にずっといるカツドウカは麻痺していて
こんなにも「臭い」創価教学を「いいかほり」と思ってしまうのですね。
いいですか?「法華経の行者」とは日蓮大聖人ただお一人なのです。

◆日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり(別当御房御返事)
◆日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし、これをもつてすいせよ漢土月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。(撰時抄)

このように大聖人様お一人が「法華経の行者」なのです。
何人たりとも大聖人様に肩を並べることもできない故にご本仏なのです。
大作センセをいくら「栴檀」と言ってみてみても、「糞」は「糞」でしかありません。
いいですか?ここが大聖人仏法の基本中の基本ですよ。
そして、「法華経の行者」の実態とは何かというと、

◆されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、(御義口伝巻下)
◆本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。(御義口伝巻下)

との御文に明らかなように、妙法七字であり御本尊のことです。
そしてこの御本尊とは一大秘法の戒壇大御本尊なのです。
なぜなら今回の御文には

◆一切衆生を利益するなればなり

とあります。一切衆生を利益する御本尊とは「一閻浮提総与」の大御本尊以外にないからです。
つまり、いつも言うように戒壇大御本尊は日蓮大聖人であり法華経の行者なのです。
ここが根本なのです。その上で総じていうと(広げて解釈すると)

◆貴辺日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ(四条金吾殿御返事)

等の御文にあるように大御本尊を信じて信行に励む弟子旦那もまた「法華経の行者」となるわけです。
上記の御文で「日蓮にしたがひて」とは、大聖人様の色心二法である戒壇大御本尊に信を取る人のことです。
そして「謗法の人」とは、

◆不信とは謗法の者なり(顕謗法抄)
◆正法を人に捨てさせるが謗法にてあるなり(顕謗法抄)

などの御文にあるように、大御本尊に不信を抱き大御本尊を捨てるだけならず他人にも大御本尊への信を捨てさせる
創価学会執行部とその手先となっている、バリカツ・創価幹部のことです。
今回の御文と全く同じ内容が書いてあるの御文があります。

◆設いこうをいたせどもまことならぬ事を供養すれば大悪とはなれども善とならず、
設い心をろかにすこしきの物なれどもまことの人に供養すればこう大なり(衆生身心御書)

この御文で「まことならぬ事」とは、財務のみならず全ての学会活動、さらには創価の勤行・創価本尊への唱題です。
つまり創価での全ての活動は「まことならぬ事」=謗法への供養です。
ですから、やればやるほど善にはならず「大悪」となっていくわけです。
逆に創価でも大御本尊に信を取っているのならば、功徳はあります。
(とはいっても早めに創価から離れることに越したことはありません)

おさらいします。根本の唯一無二の法華経の行者である大聖人様の当体である戒壇大御本尊を捨てる人間を
「法華経の行者」などといわない。
このことが分かれば創価が謗法であることが分かる。
それが分かればいかなる名目のいかなる活動も謗法への供養だと知ることができる。
それを知れば創価の「大聖人仏法詐欺」には騙されなくなります。
財務がただの「会費」だとしても「謗法への供養」となるのでご注意ください。

そもそも、学会員が法華経の行者ならば供養を受ける側であって払う側なのはおかしいでしょ?
同じ法華経の行者なのに、払う人ともらう人が存在するなんて普通にオカシイですよね。



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創価教学じゃない御書講義(30年11月座談会御書・崇峻天皇御書)

中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも
世間の心ねもよかりけりよかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢穴賢、
蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月は財務もあるので「崇峻天皇御書」の有名な一節。今年はやけにド直球です(笑)
心の財が大切だよ。蔵の財なんて惜しんじゃいけない、さぁ財務を頑張って心の財を積みましょう。ですか(藁)
御書をつかって金集め。それだから「大聖人仏法詐欺」なんだよ。創価は。
それと気になったんだけど、コレさ区切るところおかしくね?
「穴賢穴賢」まではその前の文につなげた方が良くね?
で「第一なり」の下の「此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」で区切るんじゃね~の?普通は。
それだと、ど真ん中過ぎるのでちょっと区切り方を変えたのか?
切文教学の創価教学らしいっちゃらしいけど。
てなわけで区切り方が変だから今日は後半の部分だけやりますね。
男子部時代に何十回と講義したし、まぁ読んだ通りなんだけど
この部分の講義をするときによく話をした、「四人の妻」という仏法説話があります。
結構有名な説話なので聞いたこともあると思うけどザックリすると、

ある男に4人の妻がいました。一人目はいつも心にかけ大切にしてきた妻。
二人目は他人と戦ってまで手に入れた可愛い妻。
三人目はいつも一緒じゃないけど嬉しい時や悲しい時に寄り添ってくれた妻。
四人目はあまり気にも留めず大切に思ってこなかった妻。です。
時が過ぎ男がいよいよ死出の旅立ちが近くなったので自分と一緒に行ってくれるように妻に頼みました。
一番目の妻には「私は大切にしてもらいましたまたが貴方と一緒には行けません」と断られます。
二番目の妻にも「私も一緒には行けません。私は自分から望んで貴方の妻になったわけでありません」と言われました。
三番目の妻は「一緒には行けませんが最後の日まで側にいて貴方をお見送りします」と言いました。
最後に四番目の妻に話すと「私は親元からはなれてからすっと貴方と一緒にいますからあなたから離れることはしません。
いつまでもどこへでもついていきます」と言われました。
さて、この四人の妻ですが、一番目の妻は自分の肉体(身の財)のことです。
2番目は妻は財産や地位(蔵の財)です。3番目の妻は家族や友人のことです。
そして、ずっと離れずどこにでも付いてくる4番目の妻とは「心」のことです。
「心」だけが死んだあともずっと付いてくる。そういう話です。

さて、この四番目妻は何も良妻と限ったわけではありません。
良妻(善業)もいれば悪妻(悪業)もいます。
良妻になるか悪妻になるかは、夫(自分自身)次第です。
いつでもどこでもどこまでも付いてくる「心」という4番目の妻。
できれば良妻(善業)として付いてきて欲しいですよね。

そこで大聖人は、
◆此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし
と言われているのです。(やっぱりここで区切った方がいいでしょ)
心の財を積む・心に財に積んであげることこそ4番目の妻を良妻にする方法です。
気にも止めず放置プレーでは主人を大切に思うわけはないのです。

ではどのようにしたら「心の財」を積むことができるのか?といえば

◆釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(観心本尊抄)

とあるように、妙法五字即ち日蓮大聖人の色心二法である大御本尊を受持することです。
我々凡夫は戒壇大御本尊を信じ唱題することによって、
釈尊の善行(因行)とその功徳(果徳)の全てを心に積むことができると、大聖人様は言われています。
また、大御本尊(ご本仏)への強き信心が、蔵の財や身の財を守るのです。

◆されば妙楽大師のたまはく「必ず心の固きに仮りて神の守り則ち強し」等云云、人の心かたければ神のまほり必ずつよしとこそ候へ(乙御前御消息)

諸天善神が必ず守る。「セコムしてますか?」よりも心強いですね(笑)
そして

◆夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず果報つきぬれば所従もしたがはず(中略)ただ心こそ大切なれ(四条金吾殿御返事)

とあるように、蔵の財も身の財も全て心から生まれてくるのです。
これは、ある程度ちゃんと生きてきたオトナなら否定はしないと俺は思います。
「心の財」を積むというのは「福を運ぶ」ことです。
自分で運ぶのです。だから「福運」というのです。
運がいいとか悪いとかでなく、自分自身が福を運ぶ作業をしたかどうかです。
大聖人仏法とは以前も書きましたが、おすがり信心ではない。
それが分からない人は大聖人仏法が分かっていないだけです。

結論をいうと、「心の財」を積むということは、大御本尊(ご本仏)に対する信仰心です。
日寛上人は、「松任治兵衛殿御返事」で

◇かならず、かならず身のまづしきことをなげくべからず。ただ信心のまづしき事をなげくべけれ

とご指南されています。
大御本尊を捨てた創価の連中は、身は貧しくない(いやむしろ職員は裕福)が信心つまりは心が貧しい。
心の財(信心)を捨てたのだから、まさしく乞食同様です。

◆此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし

と大聖人が言われいるのです。
今月の座談会でこの御文を学んだのであれば、
すぐに大御本尊への信を取り戻すのが御書を読んだということになります。
さぁ、年末までには、蔵の財や身の財のみならず
心の財をも奪い取る創価学会から離れましょう。
さもないと、悪妻が死んだ後にもついてきますよ。
「貧しい信心」には「貧しい結果」しかないのです。


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創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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