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日興遺誡置文の研鑽④

日興遺誡置文の研鑽の第4回目です。今回は2項目です。では早速はじめます。

一、学問未練にして名聞名利の大衆は予が末流に叶う可からざる事。
まず「学問未練」とは一応は「教学がまだ完全ではない」という意味ですが、これは広く我等・末法の荒凡夫全員を指します。どんなに教学が有ると自負しようが所詮私達は凡夫ですから大聖人仏法の法門法義を完全に理解できることなど不可能です。よって私達は全員「学問未練」の者なのです。それにも関わらず、指導者ぶって自分が全てを知っているかのように法を説くのは実に傲慢なことであり、しかもそれが自分の人気取りや利益ため(名聞名利)の言動であればその人は日興上人の弟子でないと言われています。名聞名利で法を説く人物を仏法では「食法餓鬼」と呼びます。
◆食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて名聞名利の心を以て人にすぐれんと思うて今生をわたり衆生をたすけず父母をすくふべき心もなき人を食法がきとて法をくらふがきと申すなり(四条金吾殿御書)
上記に御書の御文には「出家」と書いてありますが、これは鎌倉時代においては出家の僧侶以外に仏法を説く人がいませんからこのような表現になっていますが現代においては在家でも仏法を説く人は大勢いますから食法餓鬼は出家に限定されません。まさしく、創価には池田大作を筆頭に末端の幹部に至るまで全員がこの食法餓鬼です。創価では日興上人を僧宝と呼んでますが、その日興上人から「予が末流ではない」と言われているのですから憐れなものです。ならば私達は「儲けたい」「異性にもてたい」とかいった自分の欲望を祈ってはいけないのかといえばそうではありません。日寛上人は立正安国論の文段で次のように御指南されています。
◇縦い名聞の為にもせよ、若しは利養の為にもせよ、身に妙法の行を立て、口に妙法の行を説け。或は身を仏前に運び、口に妙名を唱えよ。若し爾らば意業は自ら妙法の大善に入るべきなり云云。
要約すると、たとえ名聞利養を求めて信心を初めたしても、正しいご本尊に向かいご本尊を信じて本門の題目を唱えるという、身・口で正行を行えば自然と心(意)も名聞名利に囚われなくなっていくのです。つまり日々の勤行唱題を正しく行っていくことです。また、
◆後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし(新池御書)
との大聖人のご指南をしっかりと守っていく事が肝要です。登山や参詣そしてご供養をしていくことが名聞名利に陥らないための実践であり、日興門流としての在り方だと思います。

一、予が後代の徒衆等権実を弁えざる間は父母師匠の恩を振り捨て出離証道の為に本寺に詣で学文す可き事。
「徒衆」とはご僧侶方の事です。本条項においては「権実」と書かれていますが、これは日興上人の時代においては五老僧でさえ権実相対が理解できていなかったので一応「権実を弁えざる」と書かれただけで実際に弁えるべきは種脱相対です。またこの権実とは釈迦仏法では法華経(実)と爾前経(権)ですが、大聖人仏法においては、実教とは南無妙法蓮華経の大聖人仏法であり、釈迦仏法は法華経を含め全て権教となります。「出離証道」とは成仏という意味で、即身成仏の大聖人仏法を学ぶためには父母師匠の恩を振り捨て本山の詣でる。即ち出家しなさいということです。なぜ本山で学ぶのかといえば大聖人仏法は相伝仏法ですからただ学問を学べば出離証道が可能になるのでありません。血脈付法の法主上人に給仕して初めて本当に意味での「学び」になるわけです。その為には父母等の恩を捨てなければ修行ができないからです。一読すると両親の恩を捨てるというのは酷いように感じるかもしれませんが実は仏法の為に父母等を一時的に振り切る事こそが最高の報恩になります。
◆仏法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからずいとまあらんとをもはば父母師匠国主等に随いては叶うべからず是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは父母師匠等の心に随うべからず(報恩抄)
との大聖人のお言葉に通りです。本条項はご僧侶に対する遺誡ですが私達在家信徒にも通じる条項です。信心をするに当たり両親などの家族や友人に反対されることもあるでしょうけどそうした反対意見に従うことなく信心を貫く事が自身も父母等も成仏することになりそれが一番の報恩なのです。創価民が池田先生や両親に対しての恩を本当に感じているのであれば今すぐ創価を去って戒壇大御本尊の許に戻り父母や師匠のことを祈る事が真実の報恩であるということです。「学会のお陰」「池田先生のお陰」というのは世間的な恩でしかありません。モチロン世間的な恩義を大切にするのは悪い事ではありませんが、仏法者であるならば仏法での報恩を一番に考えるべきでしょう。


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六巻抄拝読の為の基礎知識⑨(依義判文抄①)

今月から「依義判文抄」です。六巻抄その名の通りは全部で6個の「抄」がありますが、前半の「三重秘伝抄」「文底秘沈抄」「依義判文抄」までは「化法」についての御指南になっており、後半の3抄は「化義」についての御指南になっています。この前半の3抄を一つの大きな「抄」と捉えるとこの「依義判文抄」は大聖人仏法の化法における根本・主題が書いてあるいわば【結論】が書かれている「抄」です。今日はキリがいいところまで書きたいので少し長めになりなると思います。

◇明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る、苟くも糟糠を執し橋を問う、何の益かある。而も亦謂えること有り、文証無くんば悉く是れ邪偽なり
最初に「文(証)」と「理(義理)」の関係です。「糟糠を執し橋を問う」とは『大方等陀羅尼経第三』に説かれる求道者の愚行のことで、その内容とはある僧侶が大施会に行く途中の橋について智者に色々と質問しているうちに大施会が終わってしまったという間抜けな話で。「橋」とは「文」の譬えです。「文」の枝葉末節に拘り「理」を得ることができない愚行を説いています。身延学者などのがこのタイプです。御書の真偽をあれこれ論議するばかりで肝心な大聖人仏法にたどり着かないタイプ。闇者です。一方で「文証」のない主張をする創価民もまた「邪偽」です。橋を渡ってもいないのに大施会へ行ったと嘘をいうのが文証無視の創価民です。文とは理を説明したものですから理を知ることができなければ文を読む意味はなく、また文を離れて理を説明することできない。では、正しく「文」を読むにはどうすればいいのかというと「依義判文」して読みなさいというのが日寛上人の御指南なのです。なぜそれが可能であるかというと既に三大秘法という義理が顕されているからです。

◇故に開山上人の口決に慣ならって謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏に広宣流布の為なり、必ず其の近きを以て之を忽せにすべからず云云。
そこで本抄で日寛上人が日興上人の「上行所伝三大秘法口決」に倣い法華経の文を「依義判文」するわけです。そしてこの「依義判文」に書かれていることを忽せにしてないけない。と言われています。これを蔑ろにしているのが今の創価です。

◇撰時抄上に曰く「仏の滅後、迦葉・阿難・馬鳴・龍樹・天台・伝教の未だ弘通したまわざる最大深秘の大法経文の面に顕然なり、此の深法今末法の始め後五百歳に一閻浮提に広宣流布す」等云云。問う、夫それ正像未弘の大法、末法流布の正体、本門の三大秘法とは一代諸経の中には但法華経、法華経の中には但本門寿量品、寿量品の中には但文底秘沈の大法なり、宗祖何ぞ「最大深秘の大法経文の面に顕然なり」と言たもうや。答う、一代聖教は浅きより深きに至り次第に之を判ぜば実に所問の如し。若し此の経の謂れを知って立ち還って之を見る則は爾前の諸経すら尚本地の本法を詮せざること莫し、何に況や今経の迹本二門をや。天台大師玄文の第九に「皆本地の実因実果、種々の本法を用いて諸の衆生の為に而も仏事を作す」と云うは是れなり。故に知んぬ、文底の義に依って今経の文を判ずるに三大秘法宛も日月の如し。故に「経文の面に顕然なり」と云うなり。
ここは、「開目抄」や先の「三重秘伝抄」などでは三大秘法は文底に秘沈されていると説明しているのに、大聖人は「撰時抄」で文の面(文上)に顕然としていると言われているのは何故か?という質問があり、それに対し浅いところから順次判断すれば文底秘沈となるが、文底の義を知りそこから立ち返って法華経を読めばその文上に三大秘法が説かれていると回答します。この「浅いところから順次読む」のは「依文判義」の読み方で相待妙で、「文底の義から読む」のが「依義判文」で絶待妙です。その後、日興上人が神力品の文を依義判文した「上行所伝三大秘法口決」の御文を挙げます。すると問者は、神力品以外にも文上に三大秘法が説かれている法華経の文はあるか?と聞いてきます。そこで日寛上人は「それが聞きたければまずは三大秘法の開合を知らないとわからない」と回答し、そこから三大秘法の開合についての御指南に入ります。

◇問う、若し爾らば三大秘法開合の相如何。答う、実には是れ一大秘法なり。一大秘法とは即ち本門の本尊なり、此の本尊所住の処を名づけて本門の戒壇と為し、此の本尊を信じて妙法を唱うるを名づけて本門の題目と為すなり。故に分かちて三大秘法と為すなり。 又本尊に人有り法有り、戒壇に義有り事有り、題目に信有り行有り、故に開して六義を成す、此の六義散じて八万法蔵と成る。例せば高僧伝に「一心とは万法の総体分かって戒定慧と為り、開して六度と為り、散じて万行と為る」と云うが如し。当に知るべし、本尊は万法の総体なり、故に之を合する則は八万法蔵但六義と成り、亦此の六義を合する則は但三大秘法と成る。亦三大秘法を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故に本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり。若し此の開合の意を得ば亦所引の文意を得ん云云。

この三大秘法開合の御指南が、本抄のみならず六巻抄全体を通しても一番大切な部分であり大聖人仏法における根本的な教義です。この御指南の中の「一大秘法」の部分だけを戒壇大御本尊を捨てた自分たちに都合が悪いからと言って勝手に不採用にしたのが今の創価教学です。【若し之を了せずんば経文を引くと雖も恐らくは解し易からじ】と日寛上人が言わるているように、三大秘法開合の義を不採用にしてしまえば御書を読んだところで理解できないのです。いまの創価教学が全く大聖人仏法になっていないのは三大秘法の開合、就中一大秘法の義を用いないからです。そもそも、三大秘法の開合のうち「合」の義とは大聖人の御書に説かれている「南無妙法蓮華経」を会通するための法義なのです。大聖人の諸御書には「南無妙法蓮華経の題目」について「口唱題目」のことであったり「本尊」のことであったりその時や相手によって様々な角度から判じています。これらの諸御書を過ちなく判断するための会通を加えたのが「三大秘法の開合の法義」です。簡単に説明すると、「南無妙法蓮華経」には、「体・用・相」の3種の立てわけがあります。「本尊」は「体」であり「題目」は「用」であり戒壇は「相」です。この南無妙法蓮華経の「体・用・相」が三大秘法なのです。そして題目は「体である本尊の用」であり、戒壇は「体である本尊の相」なのです。よって「題目」と「戒壇」は「体である本尊」に付随しているのです。体を離れて「用」「相」が単独で存在する訳がありません。よって「一大秘法」とは「本門の本尊」であり、そこから三大秘法が開かれるのです。ゆえに日寛上人は【本門戒壇の本尊を亦は三大秘法総在の本尊と名づくるなり】と一大秘法の本門戒壇のご本尊に三大秘法が総て存在すると御指南しているのです。この誰でも分かる道理を無視して屁理屈をつけて一大秘法義を否定しているのが今の創価なんですね。だから「題目をあげれば功徳がある」などという間違った創価教学を信じてしまうわけです。更にお笑いなのが彼らは「本尊を信じて唱えるのが本門題目でその場所が本門戒壇である」といいます。そんなことは御書のどこにも書いていない。また彼らはある御書に書いてある「法華経の題目」という文を「ご本尊」と変換したりします。彼らがそのような解釈をすることができるのは、すべてこの日寛上人の三大秘法の開合の義を採用しているかに他なりません。それにも関わらず彼らは日寛上人の三大秘法の開合の義を「不採用」にしているのです。これほどの自語相違のインチキ教学はありません。日寛上人のご本尊を改竄して利用するだけでなく、日寛上人の御指南まで改竄して利用する。これがいまの創価なのです。話はそれましたが、この三大秘法の開合の義は非常に大切な法義です。ですから私達が御書や経典を読むときは一大秘法から立ち返って読むことが大切になります。私が「御書は全て戒壇大御本尊の説明です」というはこのような意味です。私達はすでに一大秘法の戒壇大御本尊を知っているのですから「依義判文」して御書等を読んでいくことが大切です。これが分かると「御書」が本当に理解できるようになるんですよ。そうなると創価や顕正のインチキ教学もすぐに見抜けるようになります。私の体験談ですけど本当ですよ。

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日興遺誡置文の研鑽③

今日は、日興遺誡置文研鑽の第3回目です。今月は3ついってみたいと思います。

一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。
本条項は、十四誹謗の特に「著欲謗法」を戒めたご遺誡になります。「遊戲雑談の化儀」とは仏法の関係のない世間話などをすることです。(ここでいう化義とは態度と同意です)「外書」とは大聖人の仏法と関係ない書物を読むこと。雑誌や漫画、人間革命とかですね(笑)歌道とは大きく言うと趣味や習い事という事です。「謗法呵責」とは、自行化他の題目のことです。折伏もしない(化他)勤行唱題もしない(自行)で、こうした趣味や雑談に没頭するのは「煩悩魔」に信心を破られた「著欲謗法」の姿です。そうした謗法を犯さないようにという日興上人のご指南です。では、趣味や娯楽を楽しんではいけないのかといえばそうではありません。勤行・唱題をしっかりと申し上げ、心に折伏を忘れなければ趣味や娯楽を楽しむことはむしろ「いいこと」なのです。「折伏」というのは広く世間に向けて大聖人の仏法を弘めていく事ですから、自分自身が世間や社会に飛び込んでいけなければできません。創価活動家のように会内で内部に向かって声を上げても「謗法呵責」になりません。大聖人が◆権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや(如説修行抄)と言われているに社会に出ない創価活動家は「物怪」でしかありません。趣味や娯楽を持てばそこで世間の人々と交流できますし、新聞雑誌や漫画なども世間を知るためには必要な要素です。また世間話の雑談も相手とコミュニケーションを取るには必要な会話です。むしろこれらの事を積極的にしていく事が、在家信者として広宣流布をしていくのに必要なことです。ですから、まずはしっかりと勤行唱題をし、一天四海本因妙広宣流布を祈ったうえで趣味や娯楽を持って積極的に世間へ飛び込んでいくことが大切です。

一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。
本条項は神社等への参詣を禁止ている条項です。この理由は「神天上の法門」に由来しています。神天上法門とは立正安国論に説かれる◆世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。のことです。ここで多くの世間の人が勘違いしているのは正宗が「神」を否定していると思っているとこです。大聖人は「諸天善神」を否定しているのではなく謗法が蔓延しているので今の神社には諸天善神が住んでいなくて悪鬼が住んでいるといってるわけですから「諸天善神」そのものを否定しているではありません。◆此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く(新池御書)そのような神社への参詣を禁止しているのが本条項なのですが、日有上人の化義抄には【但し見物遊山なんどには神社へ参らせん事禁ずべからず】と書かれていて、物見遊山つまり観光とか仕事とかで神社に行くこと自体を禁止していません。これは日興上人の時代は信徒が法門をまだ深く弁えていないからそのような人が神社に参詣するとそちらに引きずられる可能性が大きいから神社に行くという行為そのものを禁じましたが日有上人時代になると信徒に神天上法門が浸透してきたので神社へ行くこと自体を禁止することはなくなったという事です。もちろん、神社に行って賽銭をしたり礼をして祈念をしたりするのは今でも不可です。おみくじ引いたりいまだと「御朱印」とかもありますがこれも不可です。境内等のお店で飲食するくらいは物見遊山のうちですからOKでしょう。とはいえ旅行や仕事で他宗の神社仏閣を訪れる前は勤行唱題を念入りにしてから訪れたいものです。「別に信じているわけじゃないから大丈夫」などと高を括っていると我々は凡夫ですからいつ魔に取りつかれるか分かりませんからね。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。
この条項はご僧侶方の人材育成についての条項になります。本来仏法というものは弟子は「師匠の諸事」を通して学ぶものです。奈良時代の僧侶である行基が詠んだとされる和歌にも【法華経を 我が得しことは 薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞ得し】とあるように、仏法の極理は師匠に対する常随給仕を通して伝わるものなのです(この件についてはいずれ別記事に書きます)しかし、教学の才能がある弟子(器用の弟子)に対しては師匠への給仕を多少免除して御書等の教学の勉強をさせない。という日興上人の御慈愛のご遺誡です。確かに師匠への常随給仕の中に仏法の極理が存在するのですが、広宣流布を進めていくためには教学も必要不可欠です。そのための人材育成は欠かせません。今でいえば、青年僧侶邪義破折班のご僧侶方が「器用の弟子」にあたるのでしょう。こうした宗門ご僧侶の教学研鑽のお陰て我々信徒は異流儀を恐れることなく折伏・弘教に歩けるわけです。ここで勘違いしてはいけないのは本条項はご僧侶方に対するご遺誡だということです。私は御書や教学を研鑽しているのだから勤行は毎日やらなくていい唱題も少なくていいお寺の行事にも参加しなくていい。というのは不可ですし、逆に自分は器用の弟子ではないから教学は学ばなくていいというのも可ならず。です。我々在家信徒は御本尊様やお寺への給仕を第一としながらも出来る限り教学も学んでいくという姿勢が大切だと思います。また私の菩提寺の講頭さんもいつも「育成」ということを言っていますが、この条項は法華講員さんの育成のヒントになると思います。


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六巻抄拝読の為の基礎知識⑧(文底秘沈抄③)

今回は「文底秘沈抄」の第3回目です。今回で「文底秘沈抄」を終わりにする予定なので少し長くなるかもしれませんが、なるべくコンパクトにまとめてみたいと思います。では早速いきます。

【第二に本門戒壇篇】
◇夫れ本門の戒壇に事有り、義有り、所謂義の戒壇とは即ち是れ本門の本尊所住の処、義の戒壇に当たる故なり(中略)正しく事の戒壇とは一閻浮提の人、懴悔滅罪の処なり、但然るのみに非ず、梵天・帝釈も来下して踏みたもうべき戒壇なり
まず「本門の戒壇」には「義」と「事」がある事を明かします。「義」とは「義理」という意で天台の「理の戒壇」と混同しないように「理」ではなく「義」と書かれています。本門の本尊のある場所が「義の戒壇」であり我々法華講員の自宅や末寺などのことです。次に「事の戒壇」ですがこれには「事の法体の戒壇」と「事相の戒壇」との立てわけがあり、ここを理解していないのが顕正会です。そしてここで引用している三秘抄の部分は「事相の戒壇」のことです。ですから本抄は「法体の戒壇」ではなく「事相の戒壇」について明かされているわけです。ここで問者は三秘抄の【霊山浄土に似たらん最勝の地】とはどこか?と質問しそれに対し日寛上人は富士山=大石寺であると、道理・文証・遮難(反論に対する回答)を持って答えます。まづ最初に富士最勝の道理として、①日本第一の名山なるが故に②正しく王城の鬼門に當たるが故に③大日蓮華山と名づくるが故に。と3つの理由を挙げ、更にその後に「身延相承書」「富士一跡存知の事」等の文証を挙げます。②の「王城の鬼門」というのは仏法の中心地は政治の中心地(王城)の鬼門(東北)の方向に位置することから京都から見て富士は鬼門の方角にあるということを言われているのです。さて、文証を挙げた後、問者は「身延山」が最勝の地ではないか?と疑難を問いかけてきますが、それに対して日寛上人は遮難します。最初の疑難は身延は大聖人の草創の地で御書にも身延は霊鷲山にも劣らないと書いてあるから「最勝の地」ではないか?と言います。対して日寛上人は「最勝の地」にも義と事があり、身延は義で富士山は事であると答えます。次に問者は南条殿御返事の【教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し~】ろ引用し大聖人のいた身延が最勝の地であると主張します。それに対し◇答う、教主釈尊の一大事の秘法とは結要付属の正体、蓮祖出世の本懐、三大秘法の随一、本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫より来このかた心中深秘の大法の故に一大事の秘法と云うなり。然るに三大秘法の随一の本門戒壇の本尊は今富士の山下に在り、故に富士山は即ち法身の四処なり、是れ則ち法妙なるが故に人尊く、人尊きが故に処尊しとは是れなり。と日寛上人は言われます。ここは非常に大切なところで、これは大聖人の所持する一大秘法とは大聖人の出世の本懐である本門戒壇大御本尊であるとご指南されているところです。つまり戒壇大御本尊は大聖人の色心二法であり大聖人そのもののお姿であるということなのです。戒壇大御本尊と他の本尊が全く同じなどいう創価の本尊義は全くのイカサマということです。この創価理論だと「本門の戒壇」は義=事になり一番最初の【夫れ本門の戒壇に事有り、義有り】というご指南とは違ってしまいます。であれば「事相の戒壇」など建立する必要はないというこなります。更に問者は墓所に寄せて身延最勝を主張しますが、日寛上人は身延の地頭の謗法により日興上人が離山した時点で大聖人の魂は唯受一人血脈相承を受けた日興上人と富士に移りさらに【而して後、法を日目に付し、日目亦日道に付す、今に至って四百余年の間一器の水を一器に移すが如し、清浄の法水断絶せしむること無し】と日寛上人まで大聖人の魂である一大秘法の法体は断絶していないと破折します。創価が難癖をつけてきた日精上人も当然この中のお一人です。その後も問者の創価活動家並みの疑難に対し日寛上人が遮難していきます。そのあとで要法寺30世・日饒の邪義を挙げて破折していきますが、日饒もまた創価活動家同様に「我見」だけを述べていることがわかります。そして最後に日饒の【何ぞ必ずしも富士山を以て体と為し、本山と為さんや】に対しての答えを5つ挙げます①富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり(これが一番重要な部分です)②迹門を以て本門に例するが故に③本門大戒壇の霊場なるが故に④末法万年の総貫首の所栖なるが故に⑤一閻浮提の座主の所住なる故に。という内容を書き【学者応に知るべし、独尊の金言偽り無く三師の相承虚しからず。富士山の下に戒壇を建立して本門寺と名く。一閻浮提の諸寺・諸山、本山と仰ぐべきなり。天台の所謂「流れを挹くんで源を尋ね、香を聞かいで根を討たずぬ」とは是れなり】と締めくくれています。いまだ広宣流布途上ですから事相の戒壇は建立されていませんが我々法華講員が登山する大石寺は広宣流布の根源の地であり末法衆生の霊鷲山なのです。

【第三に本門題目篇】
◇夫それ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり
次に「本門の題目」ですが上記ご指南のように「本門の題目」とは修行です。創価民は「題目」に功徳があると思っているようですがそうではありません。「唱題」とはあくまでも修行なのです。しかしこの修行も法体を離れては存在しないのです。【本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり】と本文に書かれている通り、【本門の本尊】(法体)を信じて唱題をする。この「信」と「行」が揃って【本門の題目】となるわけです。題目に信行具足すれば、修行即法体・法体即修行となります。これを【本門の題目】というのです。従って、根源である戒壇大御本尊を捨てた創価の題目は【本門の題目】とはいいません。だたの呪文にすぎず功徳が出る道理が全くありませんから「題目あがれば功徳が出る」という創価指導もまたイカサマ指導です。本文に【仮令信心有りと雖いえども若し修行無くんば未だ可ならず】【仮令修行有りと雖も若し信心無くんば不可なり】とのご指南があります。「例え大御本尊を信じていても修行が無ければまだ可ならず」ですが、逆に「たとえ修行していても大御本尊への信が無ければ不可なり」なのです。「可ならず」と「不可」この違いをしっかりと心に止めることが大切です。つまり法華講員となり大御本尊を信じていても「本門の題目」即自行化他の修行をしなければ、まだそれだけでは十分ではないのですね。しっかりと日々の勤行唱題はもとより折伏弘教の修行をして「可」の信心を心がけ大きな功徳を得、一生成仏を成し遂げたいと思います。対する学会員はいくら唱題しようと弘教をしようと、例え選挙や新聞啓蒙が広宣流布の戦いだとしても、戒壇大本尊を捨てているのですから【不可】なのです。このことをよく思索して大御本尊への信を取って欲しいと思います。この章はこのあと妙法五字が一切経の肝心であることを明かし、本門の題目についての大聖人の御妙判をいくつか挙げて結ばれています。

以上が文底秘沈抄でご指南されている三大秘法のあらましです。次回からの「依義判文抄」ではこの三大秘法を更に詳しく開合し「依義判文抄」したところの法華経の文を解説します。


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日興遺誡置文の研鑽②

「日興遺誡置文の研鑽」の第2回目です。今日は以下の2箇条について研鑽したいと思います。

一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。
一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。


この2箇条は御書の取り扱いについてのご遺誡です。このご遺誡読むと日興上人のご存命の時からすでに五老僧一派は御書を偽書と言ったり、自分達が勝手に書いた書物を御書だと主張したりしていたのだなぁといつも思います。そしてそれが700年も続いるわけです。もっとも身延などは「御書」とは言わず「日蓮遺文」といいますから御書を蔑ろにした五老僧の末裔らしいですね。
一、御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事。
これは身延お得意の「都合の悪い御書は全部偽書」理論ですね。彼らから言わせると相承書はほとんど偽書扱いです。いやそれが確実に「偽書」であるなら問題ないしそれに従いましょう。でも彼らの主張はまったく希望的推測にすぎません。例えは大聖人の出家時のお名前が「是生(聖)房蓮長」であるということが書かれている唯一の書である「産湯相承事」はずっと偽書扱いしてきたので彼らは長らく「是生(聖)房蓮長」という言葉を使いませんでしたが、『授決円多羅義集唐決』の大聖人の自筆写本の奥書に「是聖房」と書いてあり真筆であることが分かりました。それにも関わらず「生」と「聖」の字が違うなどといって未だに偽書であると主張しているのですから身延学者のレベルが知れるというものです。そして最近では正宗攻撃をしたいがばかりにこうした身延学者の受け売りをして、大聖人の御書の一部を「偽書」扱いする創価民も増殖しています。自分達の御書全集に掲載されているのにですよ。実に情けない話です。日興上人はこうした親近してはいけないと遺誡されています。さて、御書とは大聖人の書き残された書物ですが我等日興門流においては広く歴代上人の書き置かれた御文・ご指南も「御書」として拝することが大切です。なぜなら唯受一人血脈相承のご歴代上人は三宝一体義のおける僧宝だからです。それが日興門流の信心であり教学です。創価民は相伝書における後加文を否定しますがそれを否定することは僧宝否定となりひいては三宝否定となるのです。こうした後加文を否定する創価民の姿勢は【御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者】に該当するのです。

一、偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得可き事。
これも五老僧系がお得意のパターンです。有名のは「日朗御譲状」ですね。大聖人が臨終に当たりご自身の墓所に置くよう遺言された随身仏を日郎が身延の墓所から持ち去った(盗んだ)ことを正当化するために偽作したのが「日朗御譲状」です。そして現代の「偽書」の代表作といえば池田大作の「小説人間革命」でしょう。池田創価は単なる池田大作の私小説を「現代の御書」などと位置づけ会員たちも「小説」が正で「御書」が傍のように扱っています。そして選挙や新聞拡販の活動をしているのですから、まさに今の池田創価は【偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者】であり、大聖人仏法を名乗る師子身中の虫に他なりません。ある時は「御書に書いていない」と言って否定しながらある時には御書に書いていないことを主張する。また自分の都合に合わせた御書の解釈なども広義でいえば「偽書を作って御書と号す」行為です。こうした「御書」に対する冒涜は日興門流から外れた五老僧・異流儀の発想・行為であると言えます。そんな創価が今年は池田大作監修の元で新しい御書全集を発刊するそうです。どんな「出来損ないの欠陥品」が出来上がるのか今から楽しみです。


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自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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