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現証にはすぎずとは(元創価班20期さんの質問への回答)

今日は、元創価班20期さんからの以下の質問に答えたみたいと思います。
●『三三藏祈雨事』(874p)日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず。
の御書で反論してくると思いますが管理人さんならどのように破折されますか。

この御文は昔は文理ガン無視の顕正会員が良く使ってましたが今では創価も顕正会並みのレベルになったようで元広宣部の私としては情けない限りです。この御文は「文証」「理証」「現証」の三証を示されている御文ですね。この三証とは当該御文に【日蓮仏法をこゝろみるに】と書かれているように大聖人が定めた仏法勝劣の基準です。三証が全て揃っている仏法が「勝」であり「正」であるという事です。さてこの御文の創価の通解は【日蓮が仏法の勝劣を判断するのに、道理と証文とに過ぎるものはない。さらに道理・証文よりも現証に勝れるものはない】こうです。この通解だけ読んでもこの御文が「文理を無視した現証が重要である」なんて言われていません。そして本抄のこの後の御文を読んでみてください。三人の三蔵は祈雨の祈祷をしましたが全員「雨を降らすことに成功」しているんですよ。つまり「雨を降らす」という現証がでている。ただその後暴風雨になった。対して天台・伝教は完璧に祈雨のが成功しています。同じ「雨を降らす」という現証がでいているのにこの差は何かといえば、三三蔵の祈りは仏法の道理(理証)に反した祈りだったのに対し天台・伝教は仏法の道理に即した祈りだったということです。仏法の道理に即すというのは仏典(文証)に即しているといことです。ですから理証・文証のない現証とは三三蔵が降らせた雨のように後に災いとなって帰ってるのです。文理が揃わない「創価の功徳」とは三三蔵が降らせた雨のようなものなのです。その場は雨が降ったと大喜びしていますがその後には必ず災いが降りかかってきます。文理のない功徳は功徳ではなく通力であり必ず後に災いになると創価民にはそう言ってあげてください。では、大聖人は何故「現証が一番重要である」とご指南されたのかというとまずは化法に則していえば末法においては大聖人仏法以外に本当の現証が出ないからです。
◆されば正法には教行証の三つ倶に兼備せり、像法には教行のみ有って証無し、今末法に入りては教のみ有つて行証無く在世結縁の者一人も無し(教行証御書)
と書かれているように末法において釈迦仏法は「教」(文証)だけあって行(理証)と証(現証)はありません。「教行証」が揃わなければ衆生を成仏させることはできないわけです。末法で「教行証」とは三大秘法即一大秘法の戒壇大御本尊であり大聖人仏法です。その証明としての現証の重要性を説いているわけです。そして「教」(文証)も「行」(理証)もすべては成仏という現証へ導くための手段ですから成仏すること(現証)が一番大切であると言われているわけです。もちろん成仏の条件は「教・行」ですから文理から離れた成仏(功徳)などはないのです。次に化義の面から言うと、
◆現在に眼前の証拠あらんずる人此の経を説かん時は信ずる人もありやせん(法蓮抄)
と御書に書かれていますが、「文証」「理証」というのはある程度の仏法的知識がなければ理解できないものです。特に鎌倉時代の庶民であれば今の時代と違って読み書きもできない人も多かったでしょうし仏法の法義を聞く機会も少なく理解できる人も少なかったと思われるます。(現代でも仏法の法門法義に疎い人はたくさんいますが)そうした人々を折伏していく時には難しい「文証」「理証」を説明するよりも見てすぐ分かる「現証」が一番効果的なのです。そして鎌倉時代においては「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることは即ご本仏日蓮大聖人を信仰することであり、それ自体が「文理」に即した信仰なのです。このように化法・化義の面から大聖人は「現証には過ぎず」と仰せになったわけです。この御文を引用してくる学会員には何故大聖人が「文証に過ぎず」とご指南されたのか質問するとともに、創価本尊に題目をあげると何故功徳が出るのか?を質問するのがいいでしょう。「トンデモ回答」が帰ってきて笑えます。私の経験上だと「自分の中の仏界を湧現するから」という答えが一番多かったですね。で、私は「そういうことを聞いているのでなく自分の中の仏界を湧現するというそのプロセスを聞いているんですよ。」と聞き直します。するとあら不思議。創価民は何一つ答えたれないんですよ(笑)そして最初に戻って「全ては現証です」と無限ループに突入します。創価民対策としては全般的に言えるのは「無限ループ話法」と「論点スリカエ話法」そして「答えたフリ話法」に誤魔化されないことです。彼等にはそれしかできませんからね。いくらでも破折なんてできるので安心して破折してください。ただし油断はしてはダメですよ。
◆師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり(経王殿御返事)


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梵我一如さんが創価民から受けた質問。

梵我一如さんが創価民のサカイから受けた質問について書きたいと思います。サカイさんからの質問とは、

▼寬師以前直近の少年、スカウトされた法主は100数十年間一切大御本尊に関してのご指南はなかった。
ところが、突然に大御本尊の件をご指南されたました。それは何故か?


これだそうです。梵我一如さんとの対話?は終わっているらしいですがこの内容は創価民の数少ない正宗攻撃のパターンですから一応答えておきます。この質問の意図するところは「戒壇大御本尊根本の教義は日寛上人が作った教義であって最初からの教義ではない」と創価民は言いたいわけです。つまり身延と同じことを言っているわけです。正宗憎しのあまり身延の教義まで取り入れそれを発言してしまう創価民の無知と無恥。いまに始まったことではないけどなんとも情けないですね。そんな無信心の創価民には大御本尊の事など話す必要などないわけです。話して聞かせた所でどうせ理解することもできずに益々大御本尊を誹謗するだけですから。はい。分かりましたか?今書いた内容が大御本尊の話をおおっぴらにしなかった理由のひとつです。そもそも御本尊に関することは無信心の人間に話すことではないのです。

◆あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。(阿仏房御書)
話をするどころか信心が強盛の人でなければ見せてもダメと大聖人は言われています。さらに
◆此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開祏せらる可きか、此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目を驚動す可きか、設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ、仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず(観心本尊抄送状)
「観心本尊抄」は無二の信心がなければ読むことも禁止され
◆一見の後秘して他見有る可からず口外も詮無し(三大秘法禀承事)
「三大秘法抄」は一度読んだ後は秘密にして他言無用とまで言われています。つまり「大御本尊」については広くご指南がなくて当然なのです。その理由は前述の通り無信心の者に読み聞きさせれば必ず悪用し益々大御本尊を誹謗するからかえって罪業を積ませる結果になるからです。読むのであれば「正しく読む」大御本尊の法門を聞くのであれば「正しい法門を聞く」ことが出来ないかぎり秘すべき話です。そして「正しく聞く」ためには聞く側の信心は当然の事、話す側が「正しい話」をしないといけません。ここが唯授一人血脈相承の重要たる所以なのです。創価は「信心の血脈」なんていいますが創価幹部の指導のバラバラさをみればよくわかるでしょう。大作センセの指導ですら各人が勝手に解釈して誰が言っていることが正しいのか誰にも分からない。そうならないための唯授一人血脈相承です。また「大御本尊のご指南がなかった」というけど一体何をもって「無かった」といっているのでしょう。文献がないから「無かった」と断定するなら話になりません。そもそも法門というのは「聞く」ものであって本を読んで勉強するものではないのです。昨今は様々なツールで大御本尊の話を知ることができますが基本はご指南というのは聞くものであって読むものではありません。また今日は戒壇大御本尊を誹謗する異流義が増えたので破折の為に大御本尊の話を聞かせますが、日寛上人以前は戒壇大御本尊に対する今日のような疑難はほとんどありません。つまりそれは戒壇大御本尊の存在は周知の事実だったことを物語っています。戒壇大御本尊への疑難がないのに無信心の人間に向けて戒壇大御本尊のご指南をする必要はないのです。当然、法華講衆に対するご指南はあったでしょう。そうでなければ当時の法華講衆が戒壇大御本尊を求めるはずはありません。宗教への規制が厳しかった江戸時代に我が身の命も顧みず大石寺へ参詣し大御本尊にお目通りする信徒が居たという事は法主上人やそのお弟子さんのご僧侶方から「戒壇大御本尊についてのご指南があった」からだという事が簡単に想像できます。さて日寛上人は六巻抄を著しましたが六巻抄もまた基本的には弟子檀那の内部向けのご指南です。六巻抄には、
◇この書、六巻の獅子王あるときは、国中の諸宗諸門の狐兎一党して当山に集来すといへども、あえて驚怖するに足らず、もっとも秘蔵すべし
と書かれていてもしも異流義が日興門流に対して疑難を吹っかけてきても六巻抄の内容を熟知していれば恐れることは何もない。といわれていますが、そのような有事の時でなけば「秘蔵しなさい」と言われています。だから戒壇大御本尊への誹謗が本格的に始まる明治中期頃までは大御本尊を外に向かって説なかったわけです。創価民さんお分かりかな?寛師以前に大御本尊に関してのご指南が一切なかったというのは一体何を根拠にそう言っているのか?自分の浅識・思い込みだけで適当なことを言ってるだけでこういうのを詭弁と言いデマというのですよ。因みに日寛上人はそれまでの興門流の教義を整足されただけで寛師が勝手に教義を作ったわけではないことは寛師以前の歴代上人のご指南を拝すれば分かる。勝手な己義を大聖人仏法であるなどと吹聴しているのはむしろ創価だろう。いずれにせよ最初に書いたように戒壇大御本尊のご指南は無信心の人間には「いたしません」というのが日興門流の基本方針です。それは今もって同じです。法主上人のご指南は全て正宗の僧俗に向けたもので創価や顕正ごときの邪教の徒に向けてご指南されているわけではない。我々法華講が戒壇大本尊の法門法義を聞かせているのは創価や顕正の活動家達の邪義を破折するためであってキミ達に教えてあげる為ではないのです。そんなに大御本尊のご指南が聞きたければ創価を止めて大御本尊への純粋な信心を取り戻す事です。


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非公開さんへの質問への回答。

昨日、非公開コメントにて質問いただきましたので今日はそれについて回答します。
質問の内容は以下の通りです。(太字がコメントの内容)

ます、例の創価インチキ教学を学んいる婦人部のラン氏のブログより以下の内容を引用。
悪には対しては根に持っていかなければならない

広宣流布においては、日蓮大聖人を裏切り、同志を裏切った悪人を、徹底的に追及しなければならない。日本的な「水に流す」とか「みそぎ」とかいう慣習は、一見、寛容のようであって、じつは「悪への怒りがなく、けじめがない」だけである。「もう、この辺でいいだろう」は精神の敗北である。日蓮大聖人も、日興上人も、どんな小さな悪も許されなかった。仏法は、「人情論」ではない。「正義の大闘争」である。日興上人も、「五老僧」とその一味を、最後まで許しておられない。「五人所破抄」を弟子に書かせたのは、身延離山から数えて、なんと四十年後である。ご入滅の直前の「日興遺誡置文」でも、厳しく「五老僧たちの立てた宗義は、ひとつひとつ、すべて師匠である日蓮大聖人のご化導と違っている」と破折しておられる。最後の最後まで、追撃の手をゆるめておられない。

まぁこれは別にラン氏の意見ではなく、大作センセイの「輝きの人間世紀へ御書とその心より」からの抜粋のようだが、このラン氏の記事を引用してから次の質問がありました(青字)

「日蓮大聖人の教えをベースにした創価の教え」であり、
日蓮正宗の教義とは全く違うものであると認識しておりますが
上記のように、「根にもつ」と言うことが日蓮正宗の教義にあるのでしょうか。


さて結論から先に書きますが日蓮正宗において「根に持つ」などという教義はありません。
日蓮大聖人のご聖訓には、

◆但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり摂受折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず(富木殿御返事)

との教えがあります。日蓮大聖人はご自身を迫害した人々に対して「遺恨はない」と言われたうえで、むしろ自分を迫害した人々こそ自分を成仏に導いてくれる人達であると言われています。日蓮大聖人の仏法の弘教方法は「折伏」といって相手の間違った「宗教観」を正す方法ですから時には相手の宗教観を否定することはありますが、上記のご聖訓にあるように「私曲」つまり自分の勝手な意見ではなくあくまでも経典を基にした意見です。そうした教義ですから「根に持つ」などという私怨で相手を非難することなどありません。「折伏」は一見強引に思える弘教方法だと思いますがその根本は「慈悲」です。慈悲を根本としていれば「根に持たなければいけない」などという指導は出てきません。また仏法に敵対した人間にたしてジャッジするのは大聖人仏法においては「信徒」でも「僧侶」でもなく、ご本仏です。一在家の信徒が「許す」「許さない」などと烏滸がましく口にすること自体日蓮正宗の教義においてはあり得ない話です。創価では退会者を悪人の如く罵倒しますが、日蓮正宗信徒をやめた人を法華講員は別に罵倒したりしたりしません。最後にジャッジを下すのはご本仏ですから別に我々が宗旨変えをした人になんだかんだ言う必要もないのです。日蓮正宗に池田創価のような「根に持つ」という教義がないことは私のような一時日蓮正宗や法主を口汚く罵っていた人間であってもこうして日蓮正宗に戻れたことを見れば明らかですし、ネットの世界を見ても創価から正宗に戻った人達の発言は「創価に対する恨み辛み」を感じさせるような発言はあまり見当たりません。むしろ創価をやめて無宗教でアンチになった人達の方が「恨み辛み」を感じさせる発言が多い気がします。本人達は「覚醒」と自賛していますがあまり創価と変わらないなぁと思っています。

さて、非公開さんは「日蓮大聖人の教えをベースにした創価の教え」と言われていますが、正確に言うと「日蓮大聖人の教えを悪用している」のが「創価の教え」なのです。ラン氏が引用した池田氏の言葉は「輝きの人間世紀へ御書とその心より」とい書籍から抜粋のようですが、この池田氏の「根に持て」などという教えは「御書の心」すなわちご本仏・日蓮大聖人の心からかけ離れた単なる池田氏の自分勝手な意見にすぎません。それをあくまでも「日蓮大聖人」も同じであるがごとく見せる為に「御書の心」などと言って日蓮大聖人を悪用しているのです。角度を変えて論じれば池田氏はご本仏である日蓮大聖人を自分と同じ立場に引きずり降ろしているとも言えます。創価の会員達に「大聖人と自分達には差別がない」とか「自分の中に本尊が在る」とか教え込んでいるのはまさに「会員=日蓮大聖人」とそそのかしているわけです。そして、その会員達には自分(池田)が師匠であるとカマしているわけです。そう会員を仕向けることにより最終的には、池田>日蓮大聖人という図式とするのが池田の指導の目的です。「大聖人よりも俺の方が偉い」と会員を洗脳するわけです。事実、生身の大聖人である戒壇大御本尊を捨て池田氏を師匠などと言っている学会員にとって、池田>日蓮大聖人の思想がしっかり根付いています。そしてそれを否定したり非難したりする奴を「許すな」「根に持て」と言っているわけです。ある学会員がSNSで「創価の師弟を馬鹿にするやつは許さない」と言っていましたが、この思考が創価の教えといっていいでしょう。「創価の師弟」なんて日蓮大聖人になんの関係もありませんから。このように今の創価が言っていることは日蓮大聖人を本仏とする日蓮正宗の教義とは全く無関係な池田創価の教義でしかありません。
しかし非公開さんを始めとする多くの一般の人達や元創価の人までもいまだに「創価」と「正宗」の教義が同じであるとか「創価」が日蓮大聖人の仏法の教義を信仰しているかの如く誤解している方々が多くいます。これは日蓮正宗信徒としては非常に迷惑な話です。そして何よりも「日蓮大聖人」を悪用する、日蓮詐欺集団の創価に対して一人の大聖人仏法の信徒としてそれを見逃すことはできません。それ故に私はこのブログを書いているし、リアルでも学会員を破折したり折伏したりしているのです。それは全く「恨み辛み」などではありません。そもそも創価に対して何の「恨み辛み」もありませんし「根に持つ」ような出来事もありません。また、大聖人に詐欺の片棒を担がせるような創価は絶対に許しませんが、そうした学会員さんを「絶対に許さない」「追い詰める」なんて思っていません。もちろん私が「救ってあげる」などという事も思っていません。ただ早く気づいて欲しいと思っているだけです。そのことは本ブログの過去の記事を読んでいただければご理解いただけると思います。
長々となりましたが本稿をもちましてご質問の回答とさせていただきます。
また何かあればコメントしてください。教義的なご質問はできれば多くの読者さんにも分かるように公開でコメントいただけると幸いです。


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寝言丸さんのコメントを読んで。

寝言丸さんからコメントを読みました。無冠の友をずっと続けてきたお母様に対する創価組織の仕打ちに涙がでそうな気持ちになるのと同時に創価に対する怒りがフツフツと湧いてきましたね。以前書いたと思いますが私の嫁も昔「無冠の友」を5年くらいやってました。
なかなか集金できない人。配達が遅いと文句を言う人。変な啓蒙をして外部の人に新聞なんて取ってないと怒鳴られたりなどなど「無冠の友」(聖教新聞配達員)の苦労を間近で見てきた。クレームや嫌な思いは外部の人ではなく内部の会員が引き起こしているという現状を知った時には驚いた。集金できないのも配達遅いと文句をいうのも外部じゃなくて圧倒的に内部。それも支部内・地区内の内部ですからね。コイツの神経を疑ったもんです。

そんな嫁の「無冠の友」時代にはこうした精神的ストレス以外に外的な危険もありました。車に轢かれそうになったことは数知らずです。夏場は配達時間はもう周囲も明るいからいいげど、冬場なんて真っ暗な中にで配達してるからそれは危険と背中合わせです。そんな嫁が一度新聞配達の途中で自宅に帰った来たことがあります。寝ていた私をたたき起こしたので何があったのか?と聞いたところ所謂「変質者」らしき男に追いかけられで自宅に逃げ帰ってきたとのこと。心配なので残りの配達は私の車に嫁を乗せて二人で配達しました。その日の婦人部の会合で嫁が幹部に朝起きた事件を早速報告したところその幹部からの回答は「配達前に30分題目を上げてから配達するように」だったらしい。(勿論、私も無事故を祈るからと取って付けの言葉もあったらしいが)その話を嫁から聞いたときは流石に「配達やめたら?」と言ったけど結局誰も代わりがいなくてそこから2年やったけど、変質者事件から1週間ほどは車に嫁を乗せて一緒に配達しましたよ。その時思ったのがこういうことがあったのならしばらくは交代で嫁ともう一人つけて二人で配達するとか何か方策をとるんじゃないかと。いや何か考えてくれるだろうと思っていた。が帰ってきた答えが「警察に相談しろ」と「30分唱題してから配達にでろ」って・・ただでさえ配達のために5時起きの嫁は4時半に起きて唱題してたけどそんな話じゃないよね。いつもは「題目は魔法じゃない」とか言っておきながらね。そして何よりも驚いたのが嫁がそんな怖い目に遭っているのに組織的には大したことじゃないという扱い。たまたま事件にならなかっただけで家族としては大きな問題なんだけどね。

寝言丸さんのお母様だってご高齢の中配達していて自損事故に逢われたわけです。そうなる前に誰もそうなることを予想も心配もしてなかったわけでしょ。自分の母親が早朝の暗い夜道を自転車で新聞配達していたり、自分の嫁が配達中に変質者に追いかけられたらどう思うか?って話でしょ。創価罵活動家はこういう話を言われると「作り話」だとか「ウチの組織内では聞かない」とか抗弁するのだろうが、多分新聞配達中の事故や事件は全国でたくさんあるだろうし、「未遂」だったら毎朝日本のどこかで起こっている話だろう。
こんな危険な新聞配達を会員に無償と言っていい金額でやらすのかって話でしょ。しかも「無冠の友」の大多数は婦人部を中心とする女性なんですよ。こんな宗教団体なんてあるの?宗教以前に法人としても人としてもダメでしょ。創価だけじゃないよ。聖教新聞と一緒に公明新聞を配達させている公明党。政党の新聞を学会員に配達させてふざけんなよって話です。

寝言丸さんのコメントによれば配達中に怪我をしたお母様の創価からのお見舞いは大作センセの手紙(どうせ代筆)と5000円の見舞金。もう完全に舐めてるね。普通の新聞店の配達員なら労災ですよ。こんなの訴えられていいレベル。クソみたいな金額で会員に聖教新聞の配達させておいて万一の事故や事件の時の準備もしていない。配達中に不幸な事故や事件に遭遇しても自己責任ってもうやってることが非道でしょ。しかもだよ聖教新聞の配達なんて大聖人の仏法に無関係なに「信心」とか「功徳」とかの言葉で騙して配達員に仕立てるんだからどうしようもない。いづれにして創価は多少なりとも配達員に報酬を支払っているのだから「信心」云々以前に雇用関係なんだよ。雇用するかrには使用者責任ってもんがあるわけだ。つまり聖教新聞の配達中に事故や事件に遭遇したら創価・公明党に損害賠償を求めることも可能なわけ。もちろんそんなことをしない会員を人選して配達員にしているのだろうが、だったら尚更、配達員さんに万一のことがあったら十分な補償をする規定を作っておかなければならいだろう。もっとも前述したように「こんな危険な作業(配達)」を一会員に丸投げしている時点で創価という組織の本性が知れるというもんだろ。正規の料金を払って外部委託すればいい話なんだよ。一般紙の新聞店と提携すればいいだけ。新聞店も喜ぶだろうし、聖教新聞を配達するのは功徳が大きいならば未入会の新聞店の配達員さんに功徳を積ませることもできるってもんだろ。「無冠の友」もみなさんは配達以外の学会活動で功徳を積んでるんだから配達なんかしなくても大丈夫なんじゃないの?

ともあれこの「無冠の友」システムは一刻も早く中止すべき。継続するなら「無冠の友」の方たちが安心して配達できる体制を整備しなければいけない。。公明新聞も議員がテメーで届けろや。そして学会員さん、何があっても「無冠の友」だけはやってはいけないし、いま「無冠の友」をやっている人は一日も早く何か起こる前に配達員をやめるべき。いやいやその前にこんな非人道的な事を「信心」と称して会員に押し付けるような団体からは早く逃げ去ることです。冗談抜きで殺されても文句の言えない組織なんですよ。創価学会は。


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唱題オシの創価指導は間違い。

では、今日は蘭房さんのリクエストにお応えして「唱題」について書いてみる。
創価幹部の指導はなんだかんだ能書き垂れても最後は「お題目だよ」となる。
「お題目には力がある」なんて堂々と言っている幹部、ブログに書いている創価民は大勢いるが、
ハッキリ言おう。「唱題そのもには何の力もない」
題目あげると守られる。題目あげると力がわく。題目あげると智慧が出る。などと創価民は言いたいこと言っているが、
それが全て間違っているとはいわないが、「唱題そのものに力がある」と思っているならばそれは大きな間違いだ。
「本門の題目」について日寛上人は「文底秘沈抄」で次のようにご指南されている。

◇夫れ本門の題目とは即ち是れ妙法五字の修行なり
◇本門の題目には必ず信行を具す、所謂但本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うるを本門の題目と名づくるなり

と。つまり「題目をあげる」というのは、「信行具備の修行」だ。四力でいえば「唱題」とは信力・行力だ。実際に我々に功徳をもたらすのは仏力・法力であって、その体は上記ご指南の通り「本門本尊」でありその法体を受持するための「修行」が「本門題目」ということになる。

◆釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

この御文の意は、「釈尊の因行果徳の二法」である仏力・法力は、「妙法蓮華経の五字」である本門本尊(就中大御本尊)に備わっている力である。「五字を受持すれば」これを信じて題目をあげればその仏力・法力を与えられる。ということである。
このように仏力・法力とは「本尊」に備わっている「力」であり題目はそれを得るための手段(修行)なので「唱題」単体には何の力も有さないのである。「本尊」を無視して題目を上げたところでそれにはなんの「力」もないわけだ。「題目を上げれば力がわく」というのはあくまでも仏力・法力が沸くのであって、信力・行力が沸くのではない。さて全ての本門本尊を束ねているのが一大秘法たる戒壇の大御本尊で、その大御本尊を受持しないと言っているのが創価民である。創価の唱題は本門本尊を受持しないで上げている題目だ。「題目」とは本来は受持の修行であるにもかかわず、その対象を「受持しない」といって題目を上げているのだからこんなに矛盾した話はない。受持の対象を捨てておいて一体何を受持する修行をしているのか?そんな修行をしたりさせたりして一体どこからどんな「題目の力」とやらがわいてくるのか。さらに「そもそも論」をいえば、どこぞやの創価民は三大秘法がバラバラに存在しているかのごとき我見を吐いているがそうではなく「本門題目」とは「一大秘法の大御本尊」に備わっているものである。その大元を受持せずに「単体の題目」に一体何の価値があるというのだろうか。「文底秘沈抄」に曰く、

◇仮令修行有りと雖も若し信心無くんば不可なり

「唱題」(修行)をいくらやったところで「信心」がなければ「不可」なのである。
なぜならば、その修行(唱題)そのものには、「仏力・法力」が備わっていないからだ。
大御本尊を対境として、大御本尊に「信心」を取る時に初めてその「唱題」に力が備わるのである。
故に、創価幹部や創価民の言う所の「題目に力がある」なんていうは嘘八百である。
創価民のあげるお題目には何の力もない。真言の陀羅尼(呪文)と同じである。

とはいえ、大聖人は立宗宣言からこの方「題目」を流布していたのだから「題目こそ大聖人の正意である」という創価民にも一言付しておく。
立宗宣言された時に大聖人の唱えれらた題目とは、外用においては上行菩薩へ附属された結要附属を末法に説くためで、内証では当然ながらご本仏の御境涯の上から唱えられたいわば「能詮」の題目である。「能詮の題目」とは大聖人の色心二法に備わる題目であり、四力一体の題目である。それに対し我らが唱える題目は所詮の題目であり四力冥合のための題目なのだ。

◆日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、経に云く「我久遠より来かた是等の衆を教化す」とは是なり、末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり、日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや(諸法実相抄)

この御文に書いてあるように、「地涌の菩薩」でなければ唱えない題目を、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へし」まず一番最初に大聖人が唱えた。のであるから大聖人の最初の題目は「地涌の菩薩」の棟梁たる上行のお振舞なのである。そしてこの最初の題目から次第に増えていくのであるから、大聖人の最初の題目は「能詮」であり二人目以降は「所詮」なのである。(もちろん大聖人の題目は法体と一体であり我らの題目はその法体に対する修行という意味も踏まえての能所の違いだが)
最後に大聖人ご在世の人々は何故「題目だけ」でも成仏可能だったのか?だが、
これは言うまでもないが「南無妙法蓮華経」の題目を唱えることが即日蓮大聖人に「信心」を取っている事であり、
それは即「人法一体のご本仏」を受持する修行になっているからだ。
「大聖人は題目だけ唱えれば成仏すると御書に書いてある」などという創価民はそこが分かっていない。
現代だって大御本尊に信心を取っていれば究極は「題目だけ唱えれば一生成仏が可能」である。

色々とまとまりのない文章になってしまい、蘭房さんご期待に応えられなかったかなぁと思いつつ、
創価の皆さんには再度言っておく。
本門の本尊である大御本尊を受持しないで上げる題目は、
どんなに真剣に祈っても、強く祈っても、長時間祈っても、死ぬ気で祈っても、
力も智慧も出ない。功徳もなければ福運もつかない。仏界も涌現しないし、諸天にも聞こえない。
重要なのは「自分の祈り」の程度は無く、「正しい本尊(仏様)に祈る」ということだ。
大作センセやそこらのバ患部に呼吸なんて合わせてたら窒息死するぞ(笑)


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Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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