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保田妙本寺について(元創価班20期さんのコメントの件)

先日元創価班20期さんから保田妙本寺についてのコメントがありましたので今日は保田妙本寺について少し書きます。実は私は創価の組織を追放された時に創価を辞め保田妙本寺につこうかと思っていた時期がありその時に保田妙本寺について色々と勉強しました。保田を検討したのは保田は単立で身延ではなく一応は日興門流だったことと「万年救護本尊」があったからです。保田の信者に元創価・元法華講が多いのはおそらくそういう理由があるからでしょう。元創価からしたら学会は辞めても身延には行きたくない。かと言って正宗にも抵抗があるとなると、保田か西山ですが「万年救護本尊」があるという点で保田を選択する気持ちはよく分かります。元法華講としても正宗を去ったら保田に行くのが自然な流れでしょう。そういう意味では元創価・元法華講員でも保田に流れるの人たちは、まだ多少の救いというか望みがありそうにも思えます。私は検討の結果保田妙本寺にいくのはやめました。色々と理由があるのですが結局の所は「万年救護本尊」は大聖人の出世の本懐のご本尊ではないということと保田には血脈相承がないという理由からです。その辺については細かく書くとかなり長くなってしまうので今回は元創価班20期さんのコメントに即して簡単に保田妙本寺を破折します。まず、

▼本門戒壇の大御本尊は万年救護の御本尊のことだよと言われ何を言っているかと私の拙い教学で抵抗しましたが万年救護御本尊のことなど全く知らない私は、万年救護御本尊に書かれている讃文について言われ、何も知らないので分からないと時間言い返せなかったのが悔しくて。

ですが、本門戒壇大御本尊が万年救護の本尊であるというのは間違っています。ひとつは相貌が究竟された御本尊ではないということです。日寛上人の「観心本尊抄文段」に、

◇問う、弘安の御本尊応御本懐を究尽するや。答う、実に所問の如し。乃ちこれ終窮究竟の極説なり。

とあるように弘安期のご本尊が大聖人のご本尊の究竟の相貌なのです。文永11年の「万年救護本尊」は、1大聖人のお名前と花押が中央主題の真下になく名前と花押が離れて書かれているのでこの段階では人法一箇の義が顕されていない。中央主題の【南無妙法蓮華経・日蓮】の文字こそ人法一箇を顕しているのです。2釈迦仏有縁の善徳仏と十方分身諸仏が書かれているので未究尽なのです。これについも日寛上人は、

◇問う、文永・健治の御本尊を究尽するや。答う、文永・健治の御本尊、多く分身及び善徳仏を挙ぐ。此れに相伝有り。或は仍文上を帯するか云云

とご指南されています。文永の「万年救護本尊」はまだその体相に釈迦文上を帯しているということで、その上で「万年救護本尊」の賛文である

□大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢日三ヶ国之 間未有此大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父以仏智隠留之為末代残之 後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之

を読むと確かに「大本尊」という記述はありますが、これは「上行菩薩出現於世始弘宣之」とあるように、あくまでも文上釈迦の仏法を帯し大聖人が外用・上行のお立場で書かれた本尊であるということです。(相貌が文上を帯びていますから)よってここに書かれている「大本尊」とはいままでの文上の本尊に対して「大」ということであり大聖人のご本尊の中で一番であるという意味ではありません。3「万年救護本尊」には提婆達多が書かれていないので地獄界がなく十界互具・一念三千の義が備わりません。このように「万年救護本尊」の体相は「戒壇大御本尊」にはなりえないのです。また「万年救護本尊」には授与書きがありませんので「一閻浮提総与」の意味を持って認められていませんから「戒壇の大御本尊」にならないわけです。さらに言えば「万年救護本尊」を「大聖人の出世の本懐である」と言った妙本寺の歴代貫主は一人もいないのです。次に

▼血脈も日目上人から実はその妙本寺の日郷上人が本当だとかいろいろ言われましたが、知らないことばかりで、自分の教学の無さに情けなくなりました

これまたバカげた話で、保田は戦時中は身延に合流しその傘下に甘んじました。正宗は単立を死守しましたね。身延と合流する時点で日興門流からすれば謗法でありその謗法が正しい血脈相承ならば今や日興門流は謗法ということになります。さらに保田は戦後に創価の仲介により平成7年まで日蓮正宗に帰属していました。もしも保田が血脈相承の正統者ならば正宗と合流し正宗の配下になるというのはこれまた謗法でしょう。さらに日興上人書写のご本尊は全て中央主題に「南無妙法蓮華経日蓮」と書かれてて明らかに弘安期のご本尊を書写していて「万年救護本尊」を書写した本尊は知る限りでは皆無です。なのに「万年救護本尊」を戒壇大御本尊と立てるというのはオカシナ話です。そもそも論を言えば「万年救護本尊」だって日郷師が無断で持っていってしまった御本尊で、大聖人から日郷師に与えられた御本尊ではありません。言い方は悪いですが日郷師が盗み取った御本尊です。また保田は積極的に折伏・弘教をしてませんね。大聖人の大願や日目上人の天奏の行動から今の保田のあり方をみれば血脈相承のを主張するなんて厚顔無恥にもほどがありますね。

▼大石の板御本尊を日興上人がかついで持って歩いたなんてありえないなどとぬかすんです。

これについては「バカなのか?」と笑うしかありません。日興上人が担いで運んだと思っているとは・・(笑)馬で運んだに決まってるでしょう(笑)

まだまだ妙本寺ついては色々ありますが今回はこの辺で元創価班20期さんのコメントへの回答とさせていただきます。


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御書研鑽(元創価班20期さんへの回答として)

元創価班20期さんから御書研鑽のテキストについて質問があったのでソレについて書きます。元創価班20期さんが正宗版御書を購入とのこと。私も法華講に移籍してすぐに正宗版御書を買いましたが以前書いたように正宗版御書は編年体になっているのがいいですね。編年体だと佐前・佐後がすぐわかるし、何かの御書を読むときに同時期に認められた御書も読めるので研鑽対象の御書がより一層深く読めます。そしてなにより最初から読んでいくと大聖人の化導の次第がよくわかります。また正宗版は創価板には掲載されていない御書も数篇掲載されています。前置きはこの辺にして、

>そこで良ければお勧めの教学本などありましたら2〜3お教え下さい!

とのご質問の件ですが、1篇つづ細かく学ぶのであれば昔の創価が発刊した御書講義録でしょう。破門前の書籍で現在は新品は入手できませんが、メルカリやヤフオクで出品されていることが多々あるので古書になりますがテキストとして購入するのがいいと思います。まづは五大部の講義録から入手するといいと思います。まとめて出品されていることもありますが、1冊ずつならば一番最初は「立正安国論講義」がいいと思います。御書のどれから研鑽したらいいか?という問いに私はいつも「立正安国論」を最初に学ぶことを勧めています。大聖人の仏法は「立正安国論に始まって立正安国論に終わる」と言われているように、「立正安国論」には大聖人仏法の全てのエッセンスが詰まっています。立正安国論を研鑽し理解が深まればそれだけで折伏・弘教はもちろんのこと他宗の破折もできます。創価や顕正会程度であれば立正安国論だけあれば十分に破折可能でおつりがくるくらいですね。
それと大聖人仏法を学ぶために欠かせないのが日寛上人の「六巻抄」と「文段」です。昔は創価でも「六巻抄」の研鑽とかもしてましたが今では日寛上人の教学を創価は学びません。御書解釈等で日寛上人の解釈を多用していますが肝心な部分を採用しないので創価は己義・我見のデタラメ教学になるのです。「六巻抄」と「文段」は大日蓮出版から販売されていますので簡単に入手できますが先ずは「六巻抄」ですね。「文段」はどちらかといえば御書の解説・会通ですが、「六巻抄」はまさに大聖人仏法の基本中の基本であり最も重要なことが書かれている教学を学ぶのに重要な書物です。むしろ御書を研鑽する前に「六巻抄」を研鑽した方がいいと私は思っています。まづ最初に大聖人仏法の基本をしっかり学びその後に御書を研鑽する方がより御書に対しする深い理解を得られると思います。なので「六巻抄」そして「文段」はいずれ近いうちに入手して欲しいと思います。それと御書講義録で研鑽すると各章ごとの研鑽になるのでややもするとブツ切れ研鑽になりがちですから対象御書の全体的な流れも押さえつつ研鑽をすすめるといいです(これは私の体験による所感です)
さて、最後になりますが教学力というのは一朝一夕で身につくものではありません。日々の勤行・唱題と全く同じで毎日の積み重ねが5年・10年と経って身につくわけです。また教学に完成形はありません。どんなに学んでも「これでいい」「もう理解した」などということはありません。なので毎日一節でも一行でも一文一句でもいいので御書を開いて読むということを心がけてください。常に手に取れる場所に御書を置いておくといいと思います。私も仏壇の近くに御書を置いていて朝夕の勤行後にほぼ毎日開いて読んでいます。最初は理解なんてできなくていいというか理解できなくて当たり前です。でも読んでいるうちに分かるようになります。私もそうでした。ぜひ御書を読むことを日課とし行学備えた日興門下を代表する論客になれるようお互いに精進しましょう。


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ポリ銀さんのご質問への回答

先日書いた記事▼
ついでに経本などについて。

の内容についてポリ銀さんより下記の質問がありましたたので回答します。
○最近、創価学会から口語訳御書全集が出ていることを知りました。勉強のため購入しようかどうしようか迷っていたところ、丁度この記事を拝見しました。創価の御書全集は、日蓮正宗でも使用禁止されていないようですが、口語訳の方は、やはり謗法の書に該当してしまうのでしょうか?

私の記事中に化儀抄の以下の御文を引用しましたが
◇日蓮聖人の御書を披見申す事、他門となどの御書をも書写しこい取りつつなどして見るべからず、本寺の免許を蒙るべし、其の故は当宗は信の上の智解なるが故なり云云
少々私の説明不足だった点もあり補足します。結論からいうとポリ銀さんが勉強の為に創価発行の「語訳御書全集」を購入することは謗法ではありません。化儀抄の上記の御文で言わんとしているのは、他門流が書写した御書等はその宗派が自宗の都合に合わせ御文を削除したり加筆したりしている可能性も多分にあるのでそれによって大聖人仏法の法門法義を誤って習ってしまう恐れがあるからです。現在の創価の「御書講義」などの書籍はまさにその典型であり創価の都合に合わせて書かれているのでそのような書籍で学んではいけないということです。創価の「語訳御書全集」についてはどのような書籍か知りませんが御書の現代語訳というようなものだと思います。現代語訳であれば削除や加筆するできる部分はないでしょうし、仮にそういうことがあったとしてもすぐに間違いに気づきますから問題ありません。なによりもポリ銀さんにおいては大聖人仏法の法門法義をしっかり理解されていてその上で習学の補助として使用すのですから謗法にあたりません。さらに言えば、破折のために創価の御書講義や大作スピーチを学ぶことも謗法ではなくむしろ大切なことです。大聖人様は、
◆此の大法を弘通せしむるの法には必ず一代の聖教を安置し八宗の章疏を習学すべし(曾谷入道殿許御書)
とご指南されています。他宗(八宗)を破折するためには他宗の教義を知らなければ破折することはできません。むしろ他宗の教義を習学することは折伏・弘教をする上で重要なファクターです。ただし初信の人や浅信・弱信の人がそれをやるとミイラ取りがミイラになる恐れがありので初信の信者はまずは御書を正しく学び大聖人仏法の法門法義を理解する必要があります。そのことは日興上人の遺誡置文の次下の条項に書いてある通りです。
◆義道の落居無くして天台の学文す可からざる事
いずれにせよポリ銀さんが、創価の「語訳御書全集」を購入するのは謗法でないでしょう。モチロンその他の創価書籍も創価破折を目的に購入するのもアリですが、そんな本をお金出してまで買う必要はないですけど(笑)
それとここから先は私の個人的な意見ですが、御書の現代語訳の書籍をわざわざ創価から購入する必要はないと思います。私もそうですがポリ銀さんも現代訳が分からないのは御書のごく一部だと思います。ならば分からない箇所に出会ったらその都度調べれば十分ではないと思います。今の時代PCやスマホで簡単に調べられますから私もそうしています。なので創価版の現代語訳を購入するなら正宗の他の書籍を購入した方がいいとは思います。ポリ銀さんがどのような目的で創価版のその書籍の購入を検討しているか事情も知りませんのでこれはあくまでの個人的な見解です。どちらにせよ創価版の「語訳御書全集」を購入するのは化儀抄に違ったものではなく謗法とはなりません。あとはそれが「謗施」に当たりかどうかとなると私では判断しかねますのでご住職にお尋ねください。(個人的には謗施にはならなと考えますが)


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セカハジさんのご質問への返信。

先日、セカハジさんからいただいた質問への返事を今日は書こうと思います。
なるべく簡潔に私の思っていることを書きたいと思います。(以下太字はセカハジさんのコメントです)

・日蓮大聖人の仏法のいいところ、(またこれは失礼かもしれませんが)足りないなと思うところってなんでしょうか?
まずはこの質問の答えてとして逆説的になりますが、大聖人仏法のいいところは「足りない所がない」という事です。
大聖人仏法は純円の教えといい「欠けているとこがない」のが大きな特徴です。
様々な角度から言えるのですが、少しだけ書くとまず「法」の側面から言うと「教・行・証」といって
教=仏の教え・行=修行法・証=修行によって出る結果。のこの3つが全てそろっています。末法の現在では「教」のみあって「行」「証」が欠けている教え(法)ばかりですが唯一大聖人仏法はこの「教・行・証」が揃った法です。
そして「人(仏)」の側面から言うと「主・師・親」という3つの徳があるのですがこれは簡単に言うと衆生を救い・守り・導く力です。この3つの力が揃っているのがこれまた末法今時では日蓮大聖人だけです。
そして、この「法」と「人(仏)」は一体でその本体が大御本尊です。ですから大御本尊には全てが揃っているわけです。
そのことを念頭に大聖人仏法の信仰とはどのようなものかというと、念仏のような「絶対他力」ではなく、かといって禅宗のような「絶対自力」でもないとうところです。人生は自力だけでも他力だけでも切り開けない。自他力の双方が揃って初めて成功や幸福を得られるものだと私は感じてます。私はこんな大聖人仏法を「四力本願」の信心と言ってます。その話は過去に書きましたのでそちらを併せて読んでもらえると幸いです。
http://sokadamedasi.blog27.fc2.com/blog-entry-556.htmlhttp://
たゆまず努力する力とその努力が報われる運。この二つを得ることができるのが日蓮大聖人の仏法です。

・創価学会の教義の問題は何でしょうか?
(教学にはまだまだ無知でして、申し訳ないのですが、わかりやすく教えていただけると幸いです。正直なところ、大御本尊については記事を読んでもまったくわかりませんでした)

今の創価の教義は大聖人仏法ではないので創価が大聖人仏法だと言わなければ何の問題もありません。創価がどんな教義を言うと自由です。ただし「仏法」ではありません。誰かが言ってましたが「仏法をベースとした創価(凡夫)の教え」ですから果たしてそれで幸福になるかどうかはわかりません。さてところが創価が卑しくも「日蓮仏法」などと自称しているわけですが、大聖人仏法だというのならば創価の今の教義は全て間違いです。その根本は「戒壇大御本尊を捨てた」ということです。「日蓮仏法」とは、日蓮大聖人を「仏」として立てる仏法の事を言います。そして大聖人を「仏」と立てるのは、大聖人の弟子である日興上人の門流以外にありません。(日興門流とはいうまでもなく日蓮正宗だけなのですが)日興上人は大聖人仏法の一切をただ一人相承したお方ですが
その日興上人に大聖人から授けられた根本の御本尊こそが戒壇大御本尊なのです。ですからコレを捨てるという事は日蓮仏法を捨てるという事になります。また創価は唯授一人血脈も否定しているので日興上人も否定してることになります。大御本尊と血脈相承こそが「日蓮仏法」の根幹ですからそれらを捨てた創価の現在の教義はおよそ「日蓮仏法」などと呼べる代物ではないわけです。創価は自分達の教義変更を懸命に正当化していますが誰一人として創価の現在の教義が正しいという事を論証できまん。日蓮仏法といいながらそれを論証できないわけですから現在の創価の教義は全て自分勝手な教義だということです。自分達で教義を勝手に作りなおかつそれを「日蓮仏法」などいいしかも正当な日興門流の日蓮正宗を誹謗するということが大問題なわけです。

・創価学会に入るメリット、デメリット(信仰上、というより社会的なもの)はなんでしょうか
メリットとしてはとりあえず知り合いが増える、ということですが退会するとなるともう付き合いはほぼなくなります。「裏切りもの」「退転者」と罵られたり「地獄に落ちる」などと言われる場合もあります。また創価以外の人間関係が稀薄になって友達と疎遠になる人が多いです。
あとはヒマつぶしができる。とにかく創価はやることが多いので暇な時間が無くなります。暇つぶしくらいならまだしも貴重な時間も無くなる可能性が高いです。趣味や家庭サービスや仕事上のお付き合いなどは諦めたほうがいいでしょう。
それと少し活動するとすぐに幹部になれるので自分より役職が下の会員に指導をすることができます。ただ自分より上の幹部には逆に訳の分からない不条理な指導をされます。上席の言うこと聞かないと除名になるので気を付けてください。
デメリットは、今書いちゃいましたが「金」「時間」「友人」が減るくらいですかね。たいしたデメリットでもないかもしれません(笑)
ですから創価に入会して幸福感を味わえるのは、友達ができなくで淋しい。仕事や趣味や生き甲斐がなく毎日ヒマで充実できない。会社や社会ではうだつが上がらなくて一度でいいから何かの役職を手にしてみたい。というような人だと思います。実際に私が初めて男子部の会合に参加した時は自分の創価以外の周りの友人たちとは人種が違う人たちの集まりだと感じました。こういっちゃなんでけど友達とか彼女とかできないタイプ。もちろん私自身も友達にはなりたくないタイプが多かったです(全員ではないですがそういうタイプが多かったという感想です)ようするに世間や社会では「何者でもない」「何者にもなれない」「何者かになろうとも思わない」そんな方は、創価に入会するとあっという間に創価の中では「何か」になれる。婦人部さんなんていい例で創価内では「ナントカ部長」なんて呼ばれてる方は創価がなければただの友達がいない淋しいオバサンですからそれは創価の中は楽しくて仕方ないと思いますよ。そういう方ならばきっと創価学会が合っているし、創価で幸福感を感じると思います。
ただそれは「信仰」ではないですね。と言うか今の創価には信仰なんて実際には存在していませんからね。
だからいかなるメリットがあっても創価に入会してはいけないと思います。
信仰と人生・社会は表裏一体なんです。お金や健康みたいに自覚ができないから多くの人は信仰と人生を切り離してしまうのですが実は一体。というのが大聖人仏法です。ですから大聖人仏法に敵対する創価に入会しても百害あっても一利なしです。
友達作って余暇を楽しみたいなら、サークルに入って趣味をみつければいいわけです。
公明党の選挙活動を応援したいのなら創価に入会せずに公明党の党員になるだけで大丈夫です。つまり今の創価のメリットは他に何かで十分代用できる、というより他の何かの方が学会活動より絶対に楽しいと思います。

簡単にかきましたが、創価に入会するかどうかはセカハジさんの自由です。
ただひとつだけ覚えていて欲しいのは「創価学会は日蓮大聖人とは無関係」という事です。
そして大聖人仏法からみれば創価は大謗法の団体である。ということです。
ですから仏法でいう所の「功徳」はなくだた悪業だけを積むことになります。
そこだけ最初に理解していただければあとはご自身の判断ですから無理にとめたりしません。
先ほど書きましたが、人生は誰(何)と出会って誰(何)を選ぶかです。
出会うのは他力であり選ぶのは自力です。
創価と出会い本ブログと出会ったのも他力(運・縁)です。
あとはセカハジさんが自力で取捨選択してください。


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ディスミナシオンさんのご質問への回答

ディスミオンさんお待たせしました。
この記事で貴方への回答をさせていだきます。
本論に入る前に予め申しあげておきますが
これから日蓮仏法の本尊の根本義を書きます。
この「本尊義」とは「信じるか」「信じないか」の話です。
ですからディスミオンさんがこれから書く「本尊義」について
「納得しても」「納得しなくても」
「理解できても」「理解できなくても」
「学術的と思っても」「学術的ではないと思っても」
「肯定的であっても」「否定的であっても」
それは貴方の自由であり私が関知するべき領域ではありません。
貴方の頭に入れておいて欲しいのは
これから書く「本尊義」を信じる人が日蓮仏法の信仰者であり
信じない人は日蓮仏法の信仰者ではない。ということだけです。

では本題にうつります。
大聖人仏法の本尊義の根本中の根本は
「大御本尊」とはご本仏(大聖人)の色心二法である。
言い換えれば「大御本尊」とはご本仏そのものである。ということです。
ここが1丁目1番地です。
理由は多々ありますがそれを書けば長くなるし
書いたところでご理解をいただけるとも思いませんので割愛させていただきます。
この根本の本尊義を元にご質問にお答えします。
尚、貴方と私の間において、いわゆる御書は
コンセンサスを得るテキストにはなりえないので
今回の記事についての御書の引用は一切いたしませんで悪しからず。

①ネットでよく、御本尊のカラーコピーに祈っても功徳がないと仰る方がいます。管理人さまは確か以前の記事でそうしたお考えを退けておられましたが、その理由はなんでしょうか。

大前提としては創価本尊(コピー本尊)は、
本尊としてのテイをなしていません。
なぜならば色法はコピーできても心法はコピーできないからです。
そう言う意味では創価本尊には心法がありませんので
正確には「大聖人の本尊」ではありません。
しかし、どうしてもやむを得ず或いは
無知または騙されて創価の本尊を受けてしまい
だけど「大御本尊」信じている。信じたい。という人。
つまり「大御本尊」に、身口意で信をとる学会員さんならば
例え創価本尊でも功徳はあると考えます。
その理由は、そうしたやむを得ない理由により
謗法団体に所属している信徒などを
大聖人は切り捨てておらず
むしろその信心を褒めたたえています。
もちろん、本来は正しい御本尊を自宅にご安置するのが一番ですが
どうしてもそれをできない人を一律に切り捨てるとなると
大聖人の実際のお振舞との間に齟齬が生じてしまいます。
「理証」をもってするならば、上記のような理由で創価本尊を安置してる方は
大御本尊に対する「信」があれば仮ではありますが
創価本尊にもご本仏も心法が写り、御本仏に通じると考えます。
ただしもう一度言いますが、
本来は正しい本尊をご安置するのが最善です。

②スマホやタブレットに大御本尊を映して唱題するのは、功徳がありますか

ありません。
まず現実的に大御本尊をスマホ等に撮影するのは不可能ですが
仮に可能であっても功徳はでません。
なぜならば、「大御本尊」(ご本仏)を撮影するなどという発想自体が
すでに大御本尊をご本仏の当体であると思っていない行為です。
つまり「大御本尊」に対し「信無き姿」です。
故に罰が出ることはあっても功徳はありません。

③大御本尊は日蓮直筆ではなく、それを木に彫ったものだと認識していますが、それを3Dプリンタで再現したら、同等の力を持ち得ますか。

持ちません。
先にも書いたように「大御本尊」はご本仏の「色心二法」です。
見た目が全く同じだから同等の力があるわけではありません。
むしろより重要なのは「心法」なのです。
大聖人の書かれた御本尊もすべて同じでありません。
同じなのは「御本仏の心法」を映されているという部分です。
仏力・法力といっても御本仏の心法に存在するのです。

④大御本尊焼失、というと穏やかではないですが、あり得ないことではないと思います。その場合は、日蓮はこの世界から全く失われてしまうことを意味するのでしょうか。

意味しません。
ご本仏は無始無終の存在ですので失われることはありません。
大御本尊は無くなったら?という命題を持ち出す人は多いですが
そのような時が来たらどうするのか?など凡智では測れません。
唯受一人血脈相承を受けた時の法主が再建するのか
それとも再び大聖人がこの世に姿を見せるのか
それは私には分かりかねます。

以上がご質問への私の回答です。

さて、今回のディスミオンさんのご質問は
どれも過去に複数の創価カツドウカが疑難を吹っかけてきた設問です。
ディスミオンさんのような日蓮仏法の信者ない方ならまだしも
大聖人をご本仏といい、日蓮仏法を行じ信仰している
と言ったはばからない創価カツドウカがこのような質問や疑問を抱くのは
「本尊義」の根本を分かっていなし信じていないからです。
ですから、彼らは「日蓮仏法を信仰している」など言ってはならないのです。
それを言ったら「ウソ」になりますから。

ディスミオンさんにとって今回の回答は
納得できない事だらけでしょうが
冒頭に書いたように、これを信じて納得できるのが
日蓮仏法の信者なのです。
なぜか?という野暮な質問はやめてくださね(笑)
このことを「信じられない」方には永遠に理解できませんし
それは理解できなくて当然のことです。
私はそのような方に、説得をし納得してもらおうとは思っていませんし
ディスミオンさんのような考えを否定する気もなしし
「可哀そうな人」などと憐れむような失礼なことも言いません。
ディスミオンさんにしても同じだと思います。
私に信仰をやめさせよう。なんて思ってないでしょう。
ですから、納得いかなくても理解できなくても仕方ないのです。
私も同じような事柄について同じような質問をいただいても
答えは変わりません。
今回のご質問は、創価学会さんに対しても
いいメッセージになりそうでしたので
記事に書かせていただきました。
よいご質問ありがとうございました。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
自分が知らないうちに誰かに退会届を提出されていて「いつの間にか退会」になっていた(旧)創価学会員。麗しき創価の同志に勝手に創価を退会させていただき折角なので戒壇大御本尊を捨てた大謗法の池田創価から日蓮正宗に戻りました。本サイトは池田創価の風聞・風説を基にした批判ではなく、日蓮大聖人の法門・法義を中心に大謗法の池田創価を筆頭に異流儀を破折するとともに、日蓮大聖人の仏法の正法・正義を書き綴っています。

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