ついに大御本尊にお目通りしました。

今日は、先日勧戒を受けたU君と総本山に行ってきた。
恋焦がれた戒壇大御本尊様についにお目通りすることができた。
最前列の中央。大御本尊様のほぼ真正面。
「ああ、やっぱり大御本尊は大聖人様なんだ」と
改めて確信した。
書きたいことや言いたいことは山ほどあるけれど

◆書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(太田入道殿御返事)

の一節そのものの気持ちです。
何を書いても、何を話しても
大聖人様に初めてお会いした今の気持ちを表現することはできない。
そんな気分です。
一緒に行ってくれた講頭さん、婦人部のKさんにも感謝です。

IMG_3520.jpg

因みに、創価新報によると大石寺には
ペンペン草しか生えてなくて
野犬の群れがウロウロしているとのことらしいが
ペンペン草も野犬の群れも見つからず
写真を撮ることができませんでした(笑)

さぁ、また明日から信心根本に頑張るぞ!


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創価が法華講より自由なところを探してみた。

創価の連中は、宗門(法華講)がいかにも
僧侶に支配されて不自由な組織?のように言っているが
昨日のブログでも書いたが、正宗と創価を比べると
正宗(法華講)の方が、創価よりも圧倒的に自由であることがわかった。
お金は創価よりかからない。
お寺には非常識な時間でない限りいつでも誰でも入れる。
坊主が威張っている?いや、威張られるほどご僧侶と接触しない。
選挙も自分の好きな政党や候補に投票できる。
実際に正宗に戻ってみると、創価時代の方が支配されて不自由だったと思う。
おそらく多くの元創価の法華講さんはそう思ってのではないだろうか。
それでも、一度正宗にいき再度創価に戻ってくる人は
異口同音に「正宗は冷たい。つまらない」と言う。

そこで、創価が正宗(法華講)より自由なところを探しみた。
そんなところあるのかいな?と思ったが、ありました。
それは「在家が在家に指導をすることができる」というところだ。
昨日も書いたが法華講では講頭さんすら御書講義はしない。
御書を講義するのはご僧侶だけである。
しかし、創価は破門前から当然今に至るまで
幹部という在家が会員という在家に対して
御書を講義し信心の指導をするわけだから
この部分に関しては、正宗(法華講)よりは、かなり自由である。
おそらく、出戻り学会員さんは正宗のそのような部分が不満なのだろう。
自分で御書講義したり、皆の前で活動報告して賞賛されたり
他の学会員に指導してありがたがられたり
そういうことが正宗(法華講)ではできないから
「つまらない」「冷たい」「坊主が偉そう」とかいうのだろう。
在家同士が階級を設けて、在家同士が指導したりされたり
それが民衆仏法?
確かに在家は民衆だけど、それだと「仏法」ではないね。
幹部達は常に自分より役職が上の幹部に指導を受けて
「間違いない」ようにするものらしいが
それは結局最終的には大作センセが終点だ。
その大作センセとはいえ、相伝もなければ僧侶としての修行も積んでいない。
いや、大聖人自身が相伝もなく僧侶でもないと言うならばともかく
大聖人は相伝も受け僧侶としても修行もされている(外用面においては)
その大聖人の仏法をただの凡夫の在家である大作センセが正しく教えられる道理はない。
大作センセの信心が間違えばそれを正す人がいない。
それは結局創価の信心が間違えることになり
会員全員道連れになる。
今の創価が正しくそうなっているように。
魂の独立。なんて格好のいい言葉を使っても
ようするに大作センセは宗門にとやかく言われたくなかった
自由気ままに好き放題したかった。
それが本音だろう。
そうでなければ大御本尊を捨てることを選択しなかったはずだ。
信心で一番大切なところを、自由に勝手にできる。
だからネットでもリアルでも、創価活動家の言うことには整合性がない。
唯一、統一しているのは「池田先生は素晴しい」
これだけだ(笑)
それが創価が正宗(法華講)より自由なところである。
それを「自由」ととるか
「我見」ととるか
それは各人の考え方次第だが。


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創価と法華講の相違点

今日は、学会と法華講の違いを書いてみたいと思う。
もっとも、法華講員になったとはいえ
創価時代とは違ってバリバリの活動家になってわけじゃないので
法華講員さんの活動家さんが読むと「ちげ~よ」って思うかもしれないが
俺自身が感じたことを書いてみる。
創価を貶めたり法華講を持ち上げたりすることなく
素直な感想を書いてみるので、学会員の皆さんもよければ参考にして欲しい。

まず最初に下世話な話だが「お金」にまつわることだが
法華講には「講費」というのがあり毎月講費を収めるらしい。
金額は聖教新聞1ヶ月分の半分くらいが俺の講の講費だ。
といっても、特に強制的に徴収されるわけでもないし
聖教のように銀行引き落としでもないし
「講費を払ってください」と言われるわけでもないので払わない人もいると思う。
誰が払っていて誰が払っていないかは、上の人しか分からない。
因みに、俺は払っている。その理由は支部登山の折には
その講費から大御本尊へのご供養もされるということなので
むしろ喜んで払っている。
機関紙(新聞)は1部100円くらいらしい。月2回くらいなのか?
こちらは購読していないのでよくわからない。
おそらく法華講の活動家さんは複数購読してると思う
(いつも講頭さんがくれるので)
月2とすると10部とると聖教新聞の1ヶ月分計算だ。
あとはご供養は随時・各自ご自由にといった感じで
創価の言うような「むしり取られる感」というのは全くない。
最低一口、10、000円なんていう決まりもない。
自分の好きなときに好きなだけでいいので
納得感もあるし、ご供養のあとも心から清々しい気持ちにはなる。
因みに、塔婆供養のご供養は他宗に比べると非常に安い。
嫁の実家の曹洞宗の塔婆供養は正宗の2.5倍の金額である。
創価の場合は聖教が2000円×12ヶ月で24000円
財務を一口やったとして、年間最低で34000円かかるが
法華講は、講費と新聞それに年3回塔婆供養をしても
まだ創価の最低年間必要経費によりも安い。
寺は金ばかりかかる。という創価活動家の説明はウソなのは確かである。

次に会合等だが、月に1回の「お講」がメインのようだ。
創価で言うところの「座談会」みたいなものか。
内容は以前書いたが勤行してご住職の講話でおしまい。
時間は1時間から1時間半位(そのうち30分くらいは勤行)
当たり前のことだが、一講員の家に集まって会合したりしない。
何するにせよ必ずお寺でやる。
「お講」以外に班?ごとに「座談会」もやっているがそれもお寺でやる。
在家の家など寺院以外の場所で勝手に会合を開催させたから
在家信者の寺離れを促し
創価や顕正会など出現を許したという
反省を元にそうしているかな?と推測している。
そして講員さんが御書講義をすることはない。
御書は読むが講義されるのはご住職でこのあたりはキッチリしている。
また、お寺は朝から晩まで鍵は開いていて誰でもいつでも入れる。
創価の活動家が忍び込もうと思えばいつでも忍び込まる。
創価の会館みたいに何もないときは門が閉ざされていたり
入館時の手荷物検査もない。
そのへんは創価よりもかなり自由度は高い。
折伏も目標を立ててやってるが、
創価の選挙活動みたいに毎日報告とか
友人台帳の提出とかそんな感じのものはないようだ。
まぁゆるいといえばゆるい。
もちろん真剣にやってるのだろうし、
活動家さんはもっと厳しくやっているのかもしれないが
それほどプレッシャーがかかるわけではない。

人間関係のことを言うと創価ほど人間関係が濃くはない。
その理由は、創価ほどいつもいつも会合があるわけじゃないし
講員さんの家で会合があるわけでもないので
年がら年中顔を付き合わせていないからだと思う。
といっても、お寺で会えば普通に誰にでも挨拶するし
ご住職や執事さんも声を掛けてくれるし
同じ班の知った顔の人とは普通に談笑もするので
創価の濃い人間関係と比較すれば「冷たい」と感じる人もいると思うだろうが
俺は特に法華講員さんが冷たいとか思うことはない。
なんだろうね。これが普通。
またこれくらいの距離感の方がいいと感じる。
創価組織にいるとどうしてもその濃い関係が故に
自分と気がわない、最悪嫌いな人間とも付き合わざるを得ないが
法華講員の距離感ならば、気が合わない人とは挨拶程度で済むし
そもそも「嫌い」になるほど相手と深くならないので
余計な同志誹謗をしなくて済む(笑)

そして1番創価と法華講の違いを感じるのは
法華講は創価と比べると個人主義・・・
個人主義という言い方が適切かどうかは分からないが
創価程構ってくれない。どちらかというと放置プレイである。
あ、勿論完全放置といわけではなく
俺の母のところに来てくれたり班長さんとかいろいろやってくれるが
なんだろうね。創価みたいにひつこくないというか
頻繁にやってきたり連絡してきたりしない。
あくまでも自分自身が自分の意思でお寺に参詣する。
かっこいい言い方をすれば「自分自身の求道心」が全てだ。
誰かに言われたりするのでなく、一人一人が仏法を御本仏を求めていく。
お講もご供養も強制されないし、向かうから言ってこない。
創価が「組織」としての活動が基軸なのに対して
法華講はあくまでも個人の信心が基軸という印象だ。
多分だから法華講は創価みたいに急激に大きくならないだろう。
だけど、信心の軸みたいなものは創価よりは強固な気がする。
なんといっても、自分で決めていかないといつの間にか淘汰されてしまう。
それが「冷たい」とか「酷い」と思う人もいるだろうが
大聖人仏法とは一人の信仰者として、
一人の人間として自立することを目的としているのだから
そう言う意味では法華講というのは理にかなっていると思う。
また、俺的にはそうした信仰の方が性に合っている。
みんなでワイワイ仲良く同じことをするのも悪くないが
人は悩みや苦しみの度合いが全く違う。
宿業という言葉をあえて使うならば、その宿業の深さは違う。
そうであるならば、皆が同じことをするのは理にかなわない。
なんの悩みもない人と苦悩に沈んでいる人とでは
自ずとなすべきことは違ってくるのは当たり前の話である。
人より貧乏ならば人より働く。
金持ちと同じように金を使っていたら人生破綻する。
世法ですら当たり前のことである。
自分でやるべきことを決めて、決めたことを自分で行う。
信心もしかりだ。
そう言う意味では創価より法華講の方が
より自主性が求められる組織だと思う。


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U君、初御講へ参加する。

先週の日曜日にU君を誘って御講へ参加した。
U君にとっては勧誡を受けてから初めての御講。
俺も勧誡を受けた後は1回だけ参加できなかったが
それ以外は毎月御講に参加している。
御講とは正確には「御報恩御講」というらしい。
法華講員として活動家になる予定は皆無だが
大御本尊・大聖人に報恩感謝の気持ちで御講に行っている。
初めて参加したときは何をするんだろ?って思ったが
勤行唱題をしその後ご住職の法話を聞いておしまい。
至ってシンプルである。
時間にして1時間ほどだ。
今月はその後に「成人を祝う会」というのをやっていたが
時間の都合でそちらには参加せずに帰ってきた。

さて、U君の初御講の感想はというと
「普通」だそうだ。
これはいい意味での「普通」ということである。
U君が言うには、創価の会合は世間からずれている感覚だが
お寺の御講は普通に感じられた。とのこと。
つまり、創価は異常だがお寺は普通。ということらしい。
ああ、なんとなくわかる気がする。
俺が初めて学会の座談会に参加したときの
あの違和感。異常感が確かに御講にはない。
学会の座談会と言えば、勤行・唱題のあと
いきなり「学会歌」である。
軍歌調のうたを皆で手拍子しながら歌い
しかも代表者が立ち上がって扇子をもって踊ってる。
最初からコレなので、もういきなりついていけない。
その後に信仰とはあまり関係のなさそうな話を功徳だと言ったり
聖教新聞を啓蒙できました。とこれまた信仰とは関係なさげな話
そしてその発表の度に何故か大拍手。
そしてこちらからは何もお願いしていないのに
「○○さんが来てくれています」と紹介され
「何か一言お願します」と事前打ち合わせもないまま話を振られる。
「○○と申します。よろしくお願いします」と
当たり障りのないように自己紹介するしかない。
(なんでよろしくお願いしなければならないかわからんが)
そしてようやく大聖人の御書の話が始まったと思っら
みんなで大百蓮華を読んでオシマイ。
(え?他に解説とかないの?)
その後幹部の話と言えば、大作センセの話を延々と話しだす。
この間ざっと1時間半。いや~長かったぁ。
早く終われ~終われ~と思いながら
俯いて畳の目を数えたたっけ(笑)
多分、創価の座談会に初参加した人ならば
俺と同じように感じる人が多いと思う。

これって、U君の言うようにたしかに異常だよ。
今どき、カラオケボックスとかスナック以外で歌とか歌わないよ。
ましてやカラオケもないんだぜ。
(注:時々CDで学会歌流すときあり)
しかも扇子もって指揮とか、現在の日本でそんな人学会員以外に見たことない。
正直活動し始めた時に何人かの友人に座談会でてもらったけど
全員、2度目はなかった。
もちろん座談会に来た友人は全て入会しなかった。
(それでも聖教新聞とかは付き合ってくれていたが)
まぁ、俺も連れて行く前から薄々ヤバイとは思っていたが
当時は何も分からなったし
何よりも友達でも誘っていかないと一人じゃとても耐えきれない(笑)
せめて外部の友人が来ている時くらい
ワンパターンの式次第をやめて対話でもすればいいのに
融通がきかないというかアフォというか
いつもの通りに「濁悪のぉ~この世いくぅ~がぁかぁいの~」と始めるのから堪らない。
その時点で知らない人は「ヤバイ」と本能的に感じるんだな。
そりゃ折伏なんて決まりませんよ。
参加者は「変な集団の会合に連れていかれて囲まれた」って思って当然です。
そんな浮世離れした集まりが「楽しい」と思うのは
オツムのネジが何本か外れている人でしょう。
活動家になった後は、座談会には絶対に外部の友人は連れていなかったなぁ。
決まる折伏もダメになります。
座談会ってのは、活動家の活動家による活動家のための集まりですね。
まぁ創価の会合は全てそうなんだけど。

それに比べれば、御講は全く普通とU君が言うのも頷けます。
勤行唱題は普通の人には物珍しいかもしれないが
ご住職の法話は、普通の人が聞いても違和感はありません。
教学マニアには多少の物足りなさがありますが
それでも毎回の法話の中で得るものはありますね。
無理矢理何か一言話をさせられるこもないし、
扇子持って歌に合わせてご住職が躍ることもありません(笑)
今から思うと、創価の座談会ではなく
お寺の御講に友人を連れて行けば一人くらい入信したかも?とも思う。
(一人はその後別の宗教しているし)
話を聞く方も、寅さんにでてくるタコ社長みたいなおっさんが
興味のない爺さんの自慢話をするよりも
それなりに修行を積んだ、ご僧侶が
仏教の話をしてくれるほうが退屈しないんじゃないかな。
なんにせよ、「普通」が一番ですね。


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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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