法統相続

先日の13日の火曜日に、私の愚息がご受戒をうけました。
御多分にもれず、親の私が子供の頃に入会させてしまった息子であります。
「勧誡」かとばかり思っていたのですが、
創価破門後の入会なので「勧誡」ではなく「御受戒」とのこと。
確かに言われてみればそうだようなぁって思ったりして。
でも「勧誡」よりは「御受戒」の方が気分的に良いですね。
どっちにしても、私も無事「法統相続」を済ますことができてホッとしている次第です。

私の息子は0歳で親が勝手に入会させて(あ、親は私ですが)
3歳の頃には五座三座もできるようになり
少年部時代には「作文コンクール」で賞状をもらうという快挙を成し遂げ
将来を嘱望された少年部員でした(笑)
しかし、息子が低学年の時にお父さんが組織を追放され(あ、お父さんも私です)
そのころから、あんなに家庭訪問にきていた少年部の担当者である青年部がピタリとこなくなり
その後、中等部・高等部になっても、ついに誰一人未来部の担当者が来なかった未来部員でした。
最初の頃は、毎月の「少年部員会」のお誘いがなくなったことに多少寂し気にしていました。
学校で同級生の学会っ子に「○○君、最近部員会来ないね」といわれたのがショックだったようです。
当時は、子供まで追放するのか。学会っていう所は。と憤慨した記憶があります。
とはいってもだからといってどうという事もなく
中学生になるとスッカリ勤行もご無沙汰になり、
高校生になる頃には「学会って気持ち悪い」と分かるようになりました。
いまから思えば、未来部の担当者には、
「うちの子供の所に来なくなってくれて本当にありがとう」という感謝の気持ちでいっぱいです。
お陰で、親をバカにして、実の父より大作センセを尊敬する。
などという恩知らずな人間にならずに済みました。
余談ですが、私の息子と同年代の子供いる創価の未活の友人は
子供から「オヤジは信心がない。池田先生を見習え」と言われるそうで、
口癖は、「池田先生のお役に立てる人間になる」だそうです。
「親孝行するとかそんな話は全然しないんですよ~」と友人は悲しそうにいいますが
同じ子を持つ親として切ない気分になります。

さて、そんな愚息ですが今回はあっさりと「御受戒」を受けることに同意し
嫌がるそぶりもなく、一緒に菩提寺にいって無事「御受戒」を受けました。
私もオッサンになったので、最近では自分の死んだあとのことを考えますので
ここはひとつ我が愚息には「御受戒」を受けてもらわねばなりませんから。
日蓮正宗においては、子供を入信させるいわゆる「法統相続」が大切になります。

日有上人の「化義抄」に

◇縦ひ昨日まで法華宗の家なりとも孝子施主等無くんば仏事受くべからず、但し取骨までは訪ふべし云云。

とあるように、子供が入信していないと葬儀は執り行ってもらえますが
その後の法事はやってもらえません。
創価活動家ならば、「そんなのは非人道的だ」と難癖をつけるだろうし
世間の人も「お寺なんだから法事くらいやってくれてもいいのに」と思うでしょうが
そこが、日興門流の厳格なところでして
私は、そのような厳格なところが好きなわけです。
かといって、自分が死んだらせめて3回忌くらいまでは忘れないで欲しいし
命日かお盆の年に1回くらいは塔婆供養をしてもらってもバチはあたらないのではないかと考えています。
その時に我が子が入信していないと塔婆供養のひとつもしてもらえないわけで
それは死んだあととは言え少し悲しかったりします。
そこで、息子にそのような話をしたところ
最初は「入信しなくても塔婆供養くらいはするよ」というので
「謗法の塔婆供養など受けない。お前が入信するのが嫌ならば俺が死んだあとは何もしなくてよろしい」
「謗法で供養をするのは父を二度殺すのと同じだから何もするな」
と伝えたところ、
「わかった。だったら入信する」と言ってくれ、ホッとしたわけです。
それもこれも、返す返すも親子して組織を追放してくれた
地元の創価学会員たちのお陰です。
重ねて御礼申し上げます。

さて、学会2世3世でご両親や祖父母を亡くされているみなさん。
貴方のご両親・祖父母は、戒壇大御本尊を信仰していましたか?
もし、そうであるならば「戒壇大御本尊」を捨てた創価と言うのは
貴方の、ご両親や祖父母を捨てたのと同じなのです。
それでも、貴方は創価の信心でご両親や祖父母に回向できると思っているのでしょうか?
大御本尊を信仰していた時と今の創価は名前は一緒ですが中身は正反対なのです。
念仏や真言で、先祖に回向しているのと同じなのです。
自分が信じてきたものを捨てた子孫に対して喜んでいると思いますか?
貴方ならどうですか?
旧日蓮正宗創価学会員は、「創価学会」を信じていたのではないのです。
戒壇大御本尊・日蓮大聖人様を信じていたのです。
よくよく考えてみてくださいね。


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ついに大御本尊にお目通りしました。

今日は、先日勧戒を受けたU君と総本山に行ってきた。
恋焦がれた戒壇大御本尊様についにお目通りすることができた。
最前列の中央。大御本尊様のほぼ真正面。
「ああ、やっぱり大御本尊は大聖人様なんだ」と
改めて確信した。
書きたいことや言いたいことは山ほどあるけれど

◆書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん(太田入道殿御返事)

の一節そのものの気持ちです。
何を書いても、何を話しても
大聖人様に初めてお会いした今の気持ちを表現することはできない。
そんな気分です。
一緒に行ってくれた講頭さん、婦人部のKさんにも感謝です。

IMG_3520.jpg

因みに、創価新報によると大石寺には
ペンペン草しか生えてなくて
野犬の群れがウロウロしているとのことらしいが
ペンペン草も野犬の群れも見つからず
写真を撮ることができませんでした(笑)

さぁ、また明日から信心根本に頑張るぞ!


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S君。勧誡を受ける

昨日は夕方から創価時代からの仲間のS君が勧誡を受けた。
大聖人の誕生日にしたいという本人の希望で昨日にした。
これで、俺の創価時代の仲間は、N君・U君に続き3人目の勧誡だ。
N君は俺が副部長時代の部長でU君は地区リーダー
今回のS君は俺が地区リーダー時代の未活で
その後地区リーダー、そして俺の後任の副部長である。
あと二人当時の地区リーダーが勧誡を受けたら
それこそ当時の支部男子部の中心メンバー全員になっちゃう(笑)

さてS君とは年齢も近く、酒もよく飲むし遊びもよくいく仲。
活動家時代はお互いに父親の借金を被って貧乏のどん底だった。
同じような境遇だし、ベース似ているのでいつも一緒にいたな。
金が無いからビール1本買って二人で分けて公園でのんだり
毎晩会合の後にホットココアを飲みながら朝方まで語り合ったり
そうそう俺が創価の組織を追放された時には
彼も一緒に追放された。
何も悪いことしていないんだけど、
俺と一緒に「壮年部送り」されたのはS君一人だった。
今となってはいい思い出と笑えるのも全て大御本尊のお陰だ。
その大御本尊を創価は捨てた。
それがS君が創価を退会し勧誡を受ける大きな理由なのは言うまでもない。
勧誡の時に涙がこぼれたそうだ。わかるなぁ。
俺も創価時代から苦労を共にしてきた仲間と
こうしてまた一緒に信心ができると思うと嬉しい。
で、あまりの嬉しさに昨晩は勧誡の後の祝杯を少し飲みすぎた(笑)
S君はこれから家族・兄弟・そして自分の折伏した友人たちに
順次、勧誡を受けさせる予定だそうだ。
俺も少しづつ、一人づつ謗法創価から友人を連れだしたいと思う。
なにはともあれ、S君勧誡おめでとう。
俺も嬉しいぜ。


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創価が法華講より自由なところを探してみた。

創価の連中は、宗門(法華講)がいかにも
僧侶に支配されて不自由な組織?のように言っているが
昨日のブログでも書いたが、正宗と創価を比べると
正宗(法華講)の方が、創価よりも圧倒的に自由であることがわかった。
お金は創価よりかからない。
お寺には非常識な時間でない限りいつでも誰でも入れる。
坊主が威張っている?いや、威張られるほどご僧侶と接触しない。
選挙も自分の好きな政党や候補に投票できる。
実際に正宗に戻ってみると、創価時代の方が支配されて不自由だったと思う。
おそらく多くの元創価の法華講さんはそう思ってのではないだろうか。
それでも、一度正宗にいき再度創価に戻ってくる人は
異口同音に「正宗は冷たい。つまらない」と言う。

そこで、創価が正宗(法華講)より自由なところを探しみた。
そんなところあるのかいな?と思ったが、ありました。
それは「在家が在家に指導をすることができる」というところだ。
昨日も書いたが法華講では講頭さんすら御書講義はしない。
御書を講義するのはご僧侶だけである。
しかし、創価は破門前から当然今に至るまで
幹部という在家が会員という在家に対して
御書を講義し信心の指導をするわけだから
この部分に関しては、正宗(法華講)よりは、かなり自由である。
おそらく、出戻り学会員さんは正宗のそのような部分が不満なのだろう。
自分で御書講義したり、皆の前で活動報告して賞賛されたり
他の学会員に指導してありがたがられたり
そういうことが正宗(法華講)ではできないから
「つまらない」「冷たい」「坊主が偉そう」とかいうのだろう。
在家同士が階級を設けて、在家同士が指導したりされたり
それが民衆仏法?
確かに在家は民衆だけど、それだと「仏法」ではないね。
幹部達は常に自分より役職が上の幹部に指導を受けて
「間違いない」ようにするものらしいが
それは結局最終的には大作センセが終点だ。
その大作センセとはいえ、相伝もなければ僧侶としての修行も積んでいない。
いや、大聖人自身が相伝もなく僧侶でもないと言うならばともかく
大聖人は相伝も受け僧侶としても修行もされている(外用面においては)
その大聖人の仏法をただの凡夫の在家である大作センセが正しく教えられる道理はない。
大作センセの信心が間違えばそれを正す人がいない。
それは結局創価の信心が間違えることになり
会員全員道連れになる。
今の創価が正しくそうなっているように。
魂の独立。なんて格好のいい言葉を使っても
ようするに大作センセは宗門にとやかく言われたくなかった
自由気ままに好き放題したかった。
それが本音だろう。
そうでなければ大御本尊を捨てることを選択しなかったはずだ。
信心で一番大切なところを、自由に勝手にできる。
だからネットでもリアルでも、創価活動家の言うことには整合性がない。
唯一、統一しているのは「池田先生は素晴しい」
これだけだ(笑)
それが創価が正宗(法華講)より自由なところである。
それを「自由」ととるか
「我見」ととるか
それは各人の考え方次第だが。


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創価と法華講の相違点

今日は、学会と法華講の違いを書いてみたいと思う。
もっとも、法華講員になったとはいえ
創価時代とは違ってバリバリの活動家になってわけじゃないので
法華講員さんの活動家さんが読むと「ちげ~よ」って思うかもしれないが
俺自身が感じたことを書いてみる。
創価を貶めたり法華講を持ち上げたりすることなく
素直な感想を書いてみるので、学会員の皆さんもよければ参考にして欲しい。

まず最初に下世話な話だが「お金」にまつわることだが
法華講には「講費」というのがあり毎月講費を収めるらしい。
金額は聖教新聞1ヶ月分の半分くらいが俺の講の講費だ。
といっても、特に強制的に徴収されるわけでもないし
聖教のように銀行引き落としでもないし
「講費を払ってください」と言われるわけでもないので払わない人もいると思う。
誰が払っていて誰が払っていないかは、上の人しか分からない。
因みに、俺は払っている。その理由は支部登山の折には
その講費から大御本尊へのご供養もされるということなので
むしろ喜んで払っている。
機関紙(新聞)は1部100円くらいらしい。月2回くらいなのか?
こちらは購読していないのでよくわからない。
おそらく法華講の活動家さんは複数購読してると思う
(いつも講頭さんがくれるので)
月2とすると10部とると聖教新聞の1ヶ月分計算だ。
あとはご供養は随時・各自ご自由にといった感じで
創価の言うような「むしり取られる感」というのは全くない。
最低一口、10、000円なんていう決まりもない。
自分の好きなときに好きなだけでいいので
納得感もあるし、ご供養のあとも心から清々しい気持ちにはなる。
因みに、塔婆供養のご供養は他宗に比べると非常に安い。
嫁の実家の曹洞宗の塔婆供養は正宗の2.5倍の金額である。
創価の場合は聖教が2000円×12ヶ月で24000円
財務を一口やったとして、年間最低で34000円かかるが
法華講は、講費と新聞それに年3回塔婆供養をしても
まだ創価の最低年間必要経費によりも安い。
寺は金ばかりかかる。という創価活動家の説明はウソなのは確かである。

次に会合等だが、月に1回の「お講」がメインのようだ。
創価で言うところの「座談会」みたいなものか。
内容は以前書いたが勤行してご住職の講話でおしまい。
時間は1時間から1時間半位(そのうち30分くらいは勤行)
当たり前のことだが、一講員の家に集まって会合したりしない。
何するにせよ必ずお寺でやる。
「お講」以外に班?ごとに「座談会」もやっているがそれもお寺でやる。
在家の家など寺院以外の場所で勝手に会合を開催させたから
在家信者の寺離れを促し
創価や顕正会など出現を許したという
反省を元にそうしているかな?と推測している。
そして講員さんが御書講義をすることはない。
御書は読むが講義されるのはご住職でこのあたりはキッチリしている。
また、お寺は朝から晩まで鍵は開いていて誰でもいつでも入れる。
創価の活動家が忍び込もうと思えばいつでも忍び込まる。
創価の会館みたいに何もないときは門が閉ざされていたり
入館時の手荷物検査もない。
そのへんは創価よりもかなり自由度は高い。
折伏も目標を立ててやってるが、
創価の選挙活動みたいに毎日報告とか
友人台帳の提出とかそんな感じのものはないようだ。
まぁゆるいといえばゆるい。
もちろん真剣にやってるのだろうし、
活動家さんはもっと厳しくやっているのかもしれないが
それほどプレッシャーがかかるわけではない。

人間関係のことを言うと創価ほど人間関係が濃くはない。
その理由は、創価ほどいつもいつも会合があるわけじゃないし
講員さんの家で会合があるわけでもないので
年がら年中顔を付き合わせていないからだと思う。
といっても、お寺で会えば普通に誰にでも挨拶するし
ご住職や執事さんも声を掛けてくれるし
同じ班の知った顔の人とは普通に談笑もするので
創価の濃い人間関係と比較すれば「冷たい」と感じる人もいると思うだろうが
俺は特に法華講員さんが冷たいとか思うことはない。
なんだろうね。これが普通。
またこれくらいの距離感の方がいいと感じる。
創価組織にいるとどうしてもその濃い関係が故に
自分と気がわない、最悪嫌いな人間とも付き合わざるを得ないが
法華講員の距離感ならば、気が合わない人とは挨拶程度で済むし
そもそも「嫌い」になるほど相手と深くならないので
余計な同志誹謗をしなくて済む(笑)

そして1番創価と法華講の違いを感じるのは
法華講は創価と比べると個人主義・・・
個人主義という言い方が適切かどうかは分からないが
創価程構ってくれない。どちらかというと放置プレイである。
あ、勿論完全放置といわけではなく
俺の母のところに来てくれたり班長さんとかいろいろやってくれるが
なんだろうね。創価みたいにひつこくないというか
頻繁にやってきたり連絡してきたりしない。
あくまでも自分自身が自分の意思でお寺に参詣する。
かっこいい言い方をすれば「自分自身の求道心」が全てだ。
誰かに言われたりするのでなく、一人一人が仏法を御本仏を求めていく。
お講もご供養も強制されないし、向かうから言ってこない。
創価が「組織」としての活動が基軸なのに対して
法華講はあくまでも個人の信心が基軸という印象だ。
多分だから法華講は創価みたいに急激に大きくならないだろう。
だけど、信心の軸みたいなものは創価よりは強固な気がする。
なんといっても、自分で決めていかないといつの間にか淘汰されてしまう。
それが「冷たい」とか「酷い」と思う人もいるだろうが
大聖人仏法とは一人の信仰者として、
一人の人間として自立することを目的としているのだから
そう言う意味では法華講というのは理にかなっていると思う。
また、俺的にはそうした信仰の方が性に合っている。
みんなでワイワイ仲良く同じことをするのも悪くないが
人は悩みや苦しみの度合いが全く違う。
宿業という言葉をあえて使うならば、その宿業の深さは違う。
そうであるならば、皆が同じことをするのは理にかなわない。
なんの悩みもない人と苦悩に沈んでいる人とでは
自ずとなすべきことは違ってくるのは当たり前の話である。
人より貧乏ならば人より働く。
金持ちと同じように金を使っていたら人生破綻する。
世法ですら当たり前のことである。
自分でやるべきことを決めて、決めたことを自分で行う。
信心もしかりだ。
そう言う意味では創価より法華講の方が
より自主性が求められる組織だと思う。


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プロフィール

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創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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