今週の言葉 (2017年4月24日)より

最近、帰宅すると我が家のポストに
時々、聖教新聞が入っている。
自分たちで退会扱いした俺のもとに
なぜ聖教新聞を入れていくのか?
嫌がらせなのか?
まぁ新聞を入れていく人は大体察しがついているので
嫌がらせではないことはわかっているが
意図がよくわからん。
せっかくなので我が家の猫のトイレ掃除用に
ありがたく使わせてもらっているが
今週の言葉に

@@@@@@@@@@@
広布は「対話」で進む。
動けば境涯が開かれる。
語れば仏縁が広がる。
勇んで打って出て
「心の財」を共々に!
@@@@@@@@@@@

と書いてあった。
相変わらず進歩がない。
「対話」「境涯」「仏縁」「心の財」
同じようなことを年がら年中書いていて
書く方も読む方もよく飽きないもんだ。
毎回同じようなことを書かなければならないくらい
創価活動家が対話能力に欠けているということだろう。
昔から対話能力に欠ける、
いわゆるアスペルガー症候群系の活動家は多かったが
どんどんとその傾向が強くなっている気がする。
ご本人たちは対話をしているつもりなのだろうが
公明党への投票や聖教新聞の購読を依頼するのは
「対話」ではなく「懇願」という行動だし
創価や大作センセの話を一方的にするのは
「対話」ではなく「漫談」である。
そんな「懇願」「漫談」を「対話」だと思っちゃうから
いつまでたっても「対話」ができない
「対話」ができないから「折伏」も決まらない
そんな活動家が増えていて実に喜ばしい限りだ。
さらに「対話」以上にできないのが
「対論」とか「破折」
一応話を上の空でも聞いてくれる人ならなんとかなるが
「反論」されるともうアウト。
特に法門・法義の対論となると
これが可哀想なくらいできないときている。
「追撃の手を緩めるな」だの
「悪とは徹底的に戦う」だの
威勢のいいのは仲良し同士の集まる
会合やコミュニティのなかだけで
一歩外に出て一人になるとでんで意気地がない。
もっとも、いまの創価の教義・化義・行動
そのどれをとってみてもポンコツでまともな事は何もないのだから
そりゃ「対論」などできるわけもない。
それでも、昔の男子部は戦ったモンだ。
俺も部員さんに
「法論で99回負けても最後に勝てばいい。勝つまで戦え」
なんてよく言ってきた。
俺自身も広宣部になりたての頃は
顕正会あたりにコロッと言い負かされ悔しい思いして
そうやって教学を学んだもんだが
今の活動家はポーズだけ(笑)
まぁ200%勝てないのだから仕方ないんだけどね。
そんなんで広布なんて広がらね~し
心の財も積めるわけなって~の。
え?そんなことない?
じゃ、なんで俺の在宅のときに聖教新聞もって訪ねてこないのさ?
留守を狙ってポストに投函していくなんて
対話する気なんてないでしょ(笑)

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今週の言葉(2016年10月24日)への雑感

任用試験に挑む宝友へ
皆で真心のエールを!
仏法への入門は
幸福博士の大直道なり。
生命の最高峰へ共々に!
@@@@@@@@@@@@

また今年もやってきましたね~任用試験。
弘安二年の大御本尊が出世の本懐と教えたかと思えば
翌年には、全く別のことを教えたみたりと
受験した年によってご本仏の出世の本懐が違っちゃうという
とてもお粗末で適当な試験の季節がやってきましたぁ。
そんなクルクル言っていることが変わる創価教学のなかで
唯一、ず~っと変わらないのが
「日顕宗を破す」という項目。
これだけは、なにはなくても必須科目なようですね。
しかし、あれだな。
任用試験というのは、先日コメントをくれた
「はすこ」さんのような組織に出始めたばかりの会員さんや
会友さんと言われる、外部の人も受験する試験だよね。
その試験に「日顕宗を破す」なんて項目があっていいものなのかね?
そもそも「日顕宗」なんていう宗派はないのに
ご丁寧に「なぜ日顕宗というのか?」という講義までして試験するんだもんなぁ。
しかもだよ、日蓮正宗とは無関係な団体です。って言っておきながら。
日蓮正宗とは無関係だが、日顕宗という宗派とは関係あるってことかいな。

で、このようなことを「教えられる」
外部の人や、はすこさんのような会員さんは
一体どんなふうな気持ちで
「日顕宗を破す」なんていう必須科目を学んでいるのだろう。
それが仏法への入門であり、
幸福博士の直道であり
生命の最高峰であると思っているのだろうか?
だとしたらとんだ勘違いだよ。
そもそも仏法の初門とは、アニメのなかで一休さんがいう「ナムサン」だよ。
「ナムサン」とは「南無三」と書き、「南無三宝」のことで
「仏宝」「法宝」「僧宝」の「三宝」に南無する。
これが仏法の初門。これがなければ何を学んでも「入門」することはできない。
しかし、創価教学での「日顕宗を破す」では、
正宗が僧俗差別をするのは悪だと教える。
つまり、僧侶は不要というのが創価教学のいう民衆仏法とやらの思想なんだよな。
そもそも「民衆仏法」なんて言い方自体おかしな話で
民衆が好き勝手に決めるのは、民衆法であって仏法じゃないし。
まぁ、そんな「僧侶不要論」は「僧宝否定」につながる。
大聖人仏法においては「三宝一体」であるから
「僧宝否定」はそのまま「仏宝」「法宝」否定となる。
「三宝否定」は大聖人仏法のみならず、大乗仏教ですら否定していることになる。
仏法への入門どころか仏法からの破門だな、これじゃ。

「御本尊はすでに三宝一体だから御本尊を信じていれば僧宝否定にならない」
な~んていう活動家さんもいるが
一体なにゆえそうなるのか?全然わからない。
そもそも、三宝一体の体とは仏の体だ。
仏宝に法宝も僧宝も含まれるということは以前書いたと思うが
大聖人仏法における仏の体とは大御本尊に他ならない
それ以外の御本尊は分身の仏だ。
本仏がそう何万人にいるわけない。本仏は一人である。
ゆえにその体も一つである。
それが戒壇大御本尊である。というのが大聖人仏法の根本義だ。
その仏の本体を受持せずに、分身だけ受持することが正しい受持であるわけないだろう。
分身は本体が無ければ存在しないが、
本体は分身がなくても存在する。
いくら本体と同じ力があっても、分身は本体あってこそ存在できるのである。
その本体を捨てることは、分身も消えるといことだ。
テレビや漫画だって、
「分身の術」が破られるのは
「本体を見破られて本体を攻撃されるから」だ。
サスケもウルトラセブンも北斗の拳も男塾も・・etc・・
全てそうだろ?それ以外の方法でどうやって「分身の術」を破るんだ?
その本体を自分たちで捨てておいて、
「三宝否定はしてません」って・・
どの口がいう?この口か?この口なんか?
そんなわけで、戒壇大御本尊を書写した本尊以外に本尊がない創価が
その根本を捨ててしまえば、そこにある分身はもはやないに等しい。
そこにあるモノは、だたのモノ。
まさに、池田センセのいう「ただのモノ」であって
三宝一体の体などではない。
要するに、創価には「仏様はいない」のである。

仏様がいない以上、創価の教学試験などは「仏法への入門」などになりえない。
ただの創価の教えであって、大聖人の教えじゃない。
大聖人の御書を悪用し、
人々に仏法だと思わせ、
幸せになれると騙して、
創価の教えを普及しているに過ぎない。
任用試験を作る側が、仏法から(正宗からでなく)破門された人たちだ。
他人に試験をする前に、まずは自分がキチンと学べ。というわけだ。

まぁ、そんな任用試験を「幸福博士」への直道だ。
なんて思える活動家さんたちは
ある意味、オメダイくて幸せな方々だとは思うが
俺は、そんな「おめでた博士」
「お笑い博士」にはなりたくないな。
俺は、芸人じゃないからな。

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わが友に贈る(2016年10月16日)より

友の面倒を見た人
支え続けた人には
誰のかなわない。
その人こそ最極の人生を
飾りゆく勝利者なり!
@@@@@@@@@@@

「言葉と共に生きていく・聖教新聞」なのに
どうしてこう「言葉遣い」を知らないのかなぁ。って思う。
「面倒を見る」と「世話をする」
同じ意味には違いないが、
日本語的には「面倒を見る」というのは
「厄介である」とか「大変である」とかいう意味も含まれるので
自分の目上の人には使わない。
つまり、「友の面倒を見る」というと
友は自分より「下」であり、友の面倒をを見るのは「厄介」ってニュアンスになる。
それってなんだから上から目線じゃね?
「友のお世話をする」っていう方かいいんじゃね?
根本が上から目線の創価幹部らしい言い方っちゃ言い方だが。

まぁそれはさて置き、創価幹部活動家さんが
「友を面倒見る」のは無理でしょ。
そもそも外部に「友」がいないじゃん。
え?「俺は外部に友人かいっぱいいる」って?
だったら、なんで折伏して本流しないのさ?
いっぱいいるんでしょ?友人が(笑)
まぁまぁ、見栄はらなくていいから(笑)
友人ってのは自分がそう思ってるだけでしょ。
となると、君等が「面倒を見る友」ってのは内部の学会員さんのことだね。
で?どうやって面倒見るの?
お金のない人にはお金をあげる。
仕事のない人には仕事を与える。
嫁の欲しい人には女を紹介し
病気に人には付き添い。
寝たきりの人には介護する。
「面倒を見る」ってのはそういうことだよ。
口先で簡単に「面倒見る」「支え続ける」なんていうけど
本当にそういう覚悟あるの?
そもそも学会総体として会員さんの面倒なんてみてないじゃん。
創価の中にどれほど生活苦の人がいると思ってんの?
そんな人たちにお金とかあげてんの?
あげないよな。そりゃ。
あげるどころか、「経済苦のいまこそ財務を頑張るとき」
なんていって巻き上げてんじゃないの。
所詮、君達の「面倒を見る」ってのは
悩める会員さんを、学会活動すれば功徳があると
だまくらかしして活動家にする。って話じゃん。
え?騙してないって?
だったら、戒壇大御本尊を棄てた創価にどうして功徳が出るのか
ちゃんと答えてみてよ。
答えられないでしょ?
だって出ないもん。功徳は。
そこから先は自己責任でしょ
何かあれば「活動を頑張る」とか
「お題目を上げる」とか
愚にもつかない指導?して
「面倒見た」気分に浸っている患部をいっぱい見てきてよ。
これのどこが、最極の人生の勝利者なのさ。
むしろ最悪の人生の落伍者としか思えない。
「言葉とともに生きていく」ってのは
「言葉巧みに会員をだまくらかして生きていく」そういうことなんだね~。
まぁ、「聖教新聞社」というネーミングだって
いかにも一般法人のように思わせる詐欺に近いネーミングだもんな(笑)
ともあれ、創価活動家のみなさんには
「できもしないこと」を「やろう」なんて思わないで欲しいな。
一度拾った捨て猫を、今度は保健所に持っていく。
君らの「面倒見る」ってのはそれと同じなんだよ。
他人の面倒を見てる暇があったら
自分の親や子供
旦那や奥さんを
まずはキチンと面倒見れるようになってからにしなさいな。

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今週の言葉 (8月22日)より

「一文一句なりとも
かたらせ給うべし」
世界の地涌の友と
いざ大法弘通の出発だ。
喜び溢れる座談会から!
@@@@@@@@@@@

世界の地涌の友にお尋ねしたいのだが
「大法」って一体何よ?
いつもいつも大法弘通っていってるけど
「大法」ってのは何なの?
聖教新聞に書かれている「大法」と
世界の地涌の友の思っている「大法」って
同じなの?コンセンサスが取れてんの?
創価本営からの活動の打ち出しは
ほぼ、「選挙」と「新聞啓蒙」そして「財務」の
いわゆる、「創価の三大秘」でしょ
でもって、世界の地涌の友はわからんが
日本の地涌の友が語っているのも
「選挙」「新聞」「財務」・・・
あれ?ちゃんと創価本営とコンセンサスが取れるんだ。
いや~失敬、失敬。
てことは、「大法」じゃなく「財宝」の間違いだったのね。
だったらちゃんとそう書いてくれなきゃ勘違いしちゃうじゃん。
それに、「財宝弘通」っていう表現もおかしいよ。
「財宝」ならせめて「拡大」って書かなくちゃ。
「いざ財宝拡大の出発だ」
ね?こっちの方が意味が通じるでしょ。
それに好きでしょ?「拡大」。
どうでもいい時に拡大って使うくらいなら
こういう時に使わないと。
だけど、今回はともかく新聞なんだからちゃんと校生してね。
俺のブログじゃないんだから
誤字脱字に気をつけないと。
(読者の皆様いつも誤字脱字ばかりですみません。)
で、その「財宝拡大」の出発は
喜び溢れる座談会からね。
「選挙」で、「新聞啓蒙」で、「財務」で
こんなに功徳が出ましたァみたいな。
そんな与太話を語らせ給うわけだね。

え?違うの?
「大法弘通」で間違いないの?
じゃぁ一体なんなのさ「大法」って?
え?実はよくわからない?
それじゃ一文一句も語れないじゃない。
ああ、だから語ってないって?
ですよね~。
創価の活動家さんの口から
「大法」の話なんて聞いたことないもんなぁ。
聞くのはせいぜい「謗法」の話くらいかなぁ。
なるほど、だからいまから「出発」なのね。
ご苦労様です。せいぜい頑張ってください。

追伸:もしこの記事を創価活動家さんが読んでも
ムキになって「大法ってのはなぁ」って
コメントしてこなくていいですよ。
多分、創価幹部・活動家さんが
なんといってもそれは「大法」じゃないと思うので(笑)
それでも、いっちょコメント入れてやろう。
って思う活動家さんはお好きにどうぞ(笑)

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わが友に贈る(8月3日)より

「いかなる病
さはりをなすべきや」
強盛な題目こそ
病魔を打ち破る力だ!
変毒為薬の実証を!
@@@@@@@@@@@

男子部時代からの後輩の親父さんが入院した。
金のない時代に、自宅に呼ばれ
よく夕食などをご馳走してくれた
昔ながらの壮年部の親父さんで
1年ほど前から入退院を繰り返していたのだが
今回は救急車で運ばれたらしい。
一時は危険な状況だったらしいが
いまは容態は落ち着いているらしく
一応は安心した。
そんな後輩に少し前
この御文を引用して話をしたばかり。
親父さん本人は唱題できる状態じゃない。
だから代わりに題目を上げろ。と言った。
正確には、「正しい題目をあげるんだ」と言った。
「いかなる病を打ち破る」強盛な題目とは
本門の題目だ。
本門の題目とは、本尊の本尊を信じてあげる題目である。
本門の本尊とは一大秘法たる戒壇大御本尊だ。
それを「信じて」あげる題目だけが「本門の題目」である。
この、御文の前文には

◆日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり、又此の曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし

とある。
「日蓮守護たる処の御本尊」とは、
大聖人の色心二法であり、大聖人のご当体である。
その大聖人のご当体とは
現在では、大御本尊以外ない。
創価がなんと言おうと、それは紛れもない事実だ。
逆に大御本尊以外に大聖人のご当体が存在するならば
一体どこにあるのか?
経王殿にしたためられた守り本尊も
大聖人が存在すればこそ
大聖人に対する信があればこそ
本尊としての力用が発揮されるのであって
大聖人への「信」がなければ用はないのである。
「但し御信心によるべし」と言われている通りだ。
本気で親父さんを病魔から守って欲しいのなら
「正しい題目を上げること」
そう後輩には話をした。

その後、彼は方便・自我偈の勤行をやめ
五座三座の勤行をしている。と言っていた。
そう。それでいい。
今世の寿命は人それぞれだ。
題目あげて不老不死になるわけじゃない。
ただ、折角大聖人の信心をして
御本尊を自宅にご安置してるのならば
正しい題目を上げなければ後悔する。
変毒為薬も転重軽受も
正しい本尊に
正しい題目をあげる。という
正しい信心をすればこそ。
大御本尊を捨て、創価のいうがままの信心では
病魔を打ち破ることはできない。
創価の教学・指導とそれを推進する幹部・活動家は
病魔どころから第六天魔なのだから。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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