ラキーチンさんと東大君のやり取りの感想

ここ数日ラキーチンさんが友人の東大生とのやりとりをコメントしてくれた。
今日は、そのやりとりを読んだ感想を書いてみる。
といっても、ラキーチンさんのコメントを読んだ
オトナの読者の皆さんは多分同じような感想を抱いたと思う。
とくに、子を持つ親の年代の読者の皆さんは
そう多分「自分の子供をこんな風に育てなくないなぁ」って思っただろう
そして「折角東大に入ったのにこりゃ成功しないな」って感じたと思う。
まぁ、分からなくもない。
若い頃ってのはこんな感じ。
学力に限らず何か他人より自分が多少秀でているものがあると
それだけで、自分を過大評価して他人を蔑みたくなるもの。
「俺はお前たちとは違う」といいたいんだろう。
良くわかるなぁ。俺もかなり生意気な若造だったから。
そのうち自分で気づくのだが、今の東大君は「何者でもない」
他人を蔑みバカにして「何者」かになりたいのだろうけど
残念ながら「何者」でもない。
敢えて言うならパラサイト。
東大君がバカにしている人たちの税金で
彼は道路を歩き、水道から水を飲み、病気になったら保険証を使い・・
今は単なる世間のお荷物でしかない。
そこを自覚できるのならさすがは東大生ってなるのだが
東大生もピンキリだからなぁ。
「東大生なんだ。すごいね~」って大人は言うだろうけど
別に本気でそんな風には思っていない。
東大生なんて掃いて捨てるほどいるし
東大生だからって「何かができる」わけじゃない。
何もできない東大生より、
同じ年齢の水漏れを治せる水道屋さんの方が世間ではありがたられる。
しかも水道屋さんは納税もして世間に貢献している。
それが東大君のいうファクトというものであり人生である。

世間の人間を見下すのは構わないが
人生の成功は世間から支持されなければなし得ない。
人生は「何(誰)と出会い何(誰)を選ぶか」だ。
そして出会いとは「運」であることもまだ東大君には分からない。
なので宗教を必要ない。と突っ張る気持ちはよくわかる。
理解していて必要ないと言っているのではなく
理解できていないから突っ張ってるんだなぁって少し可愛らしい。
まぁ東大君は今は何者でもないので
「東大生」という事以外にアイデンティティをたもてないのだろう。
東大君に限らずこのようなタイプは多い。
まだ「何者」でもない人間の方が自己主張が大きい。
「何か」になった人間は自分で自分が何者なのかいう必要はない。
そして「何者」かになった時におそらく信仰の力を認めるだろう。

それはさて置き、ラキーチンさんと東大君の対話は
最初は「創価」VS「正宗」の「法論」かと思ったが
どうやらそういう訳でもなかった。
ラキーチンさんは大聖人仏法の正義を語っているが
肝心の東大君は、創価の主張をするわけでなく
むしろ創価や大作センセをディスっているわけだから
「法論」だとしたらラキーチンさんの完勝である。
(大作センセは思想家としてBクラスという東大君には大いに賛同するが)
これが「法論」であれば、俺ならば東大君に
「だったら何で創価に居るの?君が創価にいることは君自身が言っていることと整合性がとれないじゃいないか」
といってひとしきり攻めたのちに
「ね?人生ってのは理論通りに行かないんだよ。君の現状をみてるとやはり信仰が必要だと感じるよ」
或いは
「哲学をよく知ってる割には言動不一致だね~。口だけ番長か君は」
と言って大笑いするか。
まぁそんな感じかな(笑)
だたそれをやると相手はムキになるよ。
で、最初から破折でなく弘教しようと思っていたのなら
初っ端から「日蓮正宗は正しい」というアプローチは失敗かな。
流石に東大生を折伏したことはないが
この手のタイプはさっきも書いたが多い。
でも実はこの手のタイプが一番折伏しやすい。
なぜなら「理解力」があるから。
なのでいきなり「~が正しい」とやると反発する。
ゆっくり時間をかけてきちんと道理を説けば納得するのでラキーチンさんには頑張って欲しい。

さて、今回ラキーチンさんは東大君相手に随分と悔しい思いをしたようだが
それは、ひとえにラキーチンさんの「法論」への経験不足であって
何も悲観的になることはないと思う。
まぁ「法論」なんて滅多にやらないからなかなか経験はつめない。
なので今回の事はラキーチンさんにとっていい経験になったと思う。
「法論」と「折伏」は似て非なるものなんだけど心構えは同じだと思う。
それを少し書くと
まずは「相手を畏れない」こと。
今回も相手が東大生あることで
そこに多少の畏怖の心があったのではないか?
相手の方が知識があるとか頭がいいとか。
で、東大君の方はそこを巧みに利用している
いわゆる「権威的詭弁」というものである。
よく聞けば東大君の主張は何も目新しい事を言ってるわけでも
高尚な事を言っているわけでもない。
身延信者なら高卒の信者でも言うようなことであわてる必要などない。
しかも、彼自身のオリジナリティもどこにもない。
どこかで何度も聞いたことがあるようなことを繰り返しているだけ。
彼は彼の論評する大作センセとまったく同じで
思想家としては大作センセより経験値が少ない分「C」クラスか(笑)
仏法の話なのに「仏法」らしい事は何も言っていない。
カントやウィトゲンシュタインなんて
仏法には何も関係ない話を持ち出すところが
「D」クラスの創価活動家に近い。
要は彼は自分の土俵の上で戦いたいだけ。
逆を言うと相手の土俵で戦うだけの
能力を持ち合わせていない。と言う事である。
そしてまんまと東大君の土俵に乗せられてしまうのは
相手(東大君)に対し心理的な畏怖を抱いてしまうからではないか?
学力や地位の高い人間ほど「権威的詭弁」を弄する。
それを見抜けば本当に言っている内容は大したことがない

相手が誰であろうと大聖人仏法を語るときは恐れてはいけない。
これこそが「法論」に絶対的に必要な心構えである。
そしてその根本・源泉となるのは、
大聖人仏法への大御本尊への「確信」だ。

◆信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり(生死一大事血脈抄)

大御本尊への信がなければ、いくら教学を学んでも無益だ。
単なる知識や学力だけでは「法論」には勝てない。
今の創価活動家がまさにその状態。
大聖人仏法が凡夫の論説に破られることなど間違ってもあり得ない。
だから相手が誰であっても何も恐れることはない。
その上で御書を学び日寛上人をはじめとする御歴代のご指南を学び
とことん突き詰めて理論武装をするとともに
「法論」(ディペート)にはそれなりのテクがあるので学んでいけば
この東大君程度であれば何もビビる必要もないだろう。
ラキーチンさんには、大聖人仏法の正義を
大いに語る論客になっていただきたいと切に願う。

最後になるがラキーチンさんの
東大君への下種は成功しているので
もう折伏は完了している。しかも大成功だ。
東大君から悪口罵詈されているのがその証拠だ。
創価の活動家みたいに選挙活動で悪口を言われているのではなく
大聖人仏法を語って悪口罵詈されたのだから胸を張っていい。
二人の勝負は始まったばかり。
勝負はまだ先だ。
東大君のいい友人として
彼と長いお付き合いをしてほしい。

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学会員のnanaさんへ質問です

学会員(おそらくですが)のnanaさんという方からコメントをもらった。
久しぶりの学会活動家さんらしき人物からのコメントで
非常に嬉しく思う。
なにせ今どきの活動家の大半は
遠~くの方で泣き言・戯れ言ばかりで情けないの一言。
やはり、学会活動家たるもの正々堂々と言論戦を戦わなけば恥かしいからな。
さて、このnanaさんは「境涯が高い」学会員であると自認してるようなので
俺の方も真摯に質問をしてみたいと思う。
いままでの活動家連中が無回答を通した質問だが
このnanaさんであれば答えてくれるだろう思い
コメント欄でなくこうして記事に上げることにした。
この方が読者の皆さんもそして俺もnanaさんも分かりやすい。

さて、まず①として最初に聞きたいのは
大御本尊を受持の対象にしない。という創価の教義の正当性だ。
創価は大御本尊本門本尊である。と言っているが
では「本門本尊」を受持の対象にしない。という事が何故謗法ではないのか?
ここが一番のキモなので最初に説明してほしい。

以下はnanaさんのコメントに沿って質問したい。
>広宣流布にも世界平和にも責任を持たず
と言うが、創価のいう所の広宣流布とは一体何を流布する事なのか?
そしてその流布しているモノの正体が大聖人の言われている広宣流布にあたるのか?
これが②の質問だ。
「大聖人仏法を流布している」という答えはやめて欲しい。
もしそういうのなら大聖人仏法とは何か?をきちんと説明してもらいたい。

>御書を読めば、池田先生の正しさがわかりますからね。
俺が、大作センセを謗法と言っているのは
大御本尊を多くに会員に捨てさせたからだと言っている。
その大作センセの言動のどこが正しいというのかを説明してもらいたい。
これが③番目の質問だ。

>仏道修行に師匠がいなくてどうやって成仏するのです?
大聖人が在家同士で師弟関係を結ぶべき言われているか?
そして在家同士で師弟関係を築かなければ成仏できないと言っているか?
それを明確にしてほしい。
これが④番目の質問だ。

そして最後に⑤番目の質問として
そもそも師匠以前に創価にはご本仏がいない。
それでどうやって成仏するのか?
創価の言う「創価学会仏」の体を説明してほしい。

以上の①~⑤までが俺がnanaさんに対する質問。
全部一気に答えなくてもいいし
時間がかかってもいいから是非回答をいただきたい。
もちろん、創価の勝手な言い分を聞きたいわけじゃないので、
分かっていると思うけど、全て大聖人の文証を引用して説明してもらいたい。
nanaさんは御書も読んでいるみたいなので楽勝かと思う。
本文を引用するのが大変ならば
御書の題名とその趣意でもOK。(ページ数があればこちらも助かる)

まさかとは、思うが一応付け加えさせていただくが
「私は忙しいから、貴方に構ってる時間がない」とか言って
逃げるのは勘弁してほしい。
また、質問返しや論点のすりかえ、
大作センセの指導やスピーチの引用
印象付け発言もなしでお願いしたい。
また、既読スルーも勘弁してもらいたい。
過去にこのブログにコメントしてきた
数多の「境涯の低い学会員」さん達と
同じことはしないで欲しい。
境涯の高いnanaさんがまさか、
逃げたり誤魔化したり
罵詈雑言を吐くことはないと思うけど
一応念の為に。
どうしても回答できないのであれば
「私にはお答えできません」とコメントくれればOK。
その時は余計な言い訳は必要ありませんよ。

では、コメントを楽しみに待っています♪

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創価を批判しいるのでなく(miuさんのコメントへの所感)

今日は、miuさんからの以下のコメントについて
私なりの考えを書かせてもらいます。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
思ってる事を率直に書かせて頂きます
学会員は75歳前後の人が8割~9割で、
10年後や15年後はどうなってるかはおわかりでしょう。
脅威とは誰も思ってません。
批判しなくても、殆ど学会員はいなくなります。
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

まず、創価を「脅威」だなどとは思っていません。
また創価の活動家諸氏のいう「嫉妬」とかいう感情もないです。
おそらくそれは私に限らず創価の外の世間では誰も思っていないでしょう。
創価中の人間が思うほど
世間の人々は創価なんて何とも思っていないのが現実です。
だた「鬱陶しい」というだけの存在でしょう。
創価活動家の師匠もまたしかり
世間の人の大半は大作センセなんて無視です(笑)
ですからmiuさんの言うように批判などしなくてもいい存在です。
現に多くの世間の人々は創価の批判などしません。
それは創価の存在を認めているのではなく
創価の存在など無視してるからです。
世間法ならばそれで十分です。

では、私はなぜこうして創価批判のブログを書いているかと問われれば
それは世法ではなく仏法のためです。
私がここで書いているのは
「創価を批判している」のではなく
「創価を破折している」のです。
世法上の批判は、わざわざブログに書かなくても
世間様はみなわかってます。
創価活動家の、厚かましく恥知らずで非常識な言動を
みな知っているのです。
ですから無視するわけです。

しかし、仏法上はこれを無視することはできません。
なぜならば、私は日蓮大聖人の弟子として
日蓮大聖人の仏法を信仰する信仰者だからです。
大聖人は、立正安国論のなかで

◆涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」と
◆如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
◆但し仏道に入つて数ば愚案を廻すに謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。
◆早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし
◆唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。

等々、謗法破折を言われています。
立正安国論以外の御書においても
同様の御聖訓を残されています。

また、大聖人のお振る舞いも
邪教・邪宗が滅びるのは必然としながらも
最後まで破折の手を緩めることはありませんでした。

いま、まさに最大の邪教・邪宗となった
創価上層部と活動家そして大作センセ
こんなものはいつかは無くなるはわかっていますが
目の前に謗法者とその団体が存在するのに
それを見て見ぬふりして放置するのは
ご本仏・日蓮大聖人の御心に背くことであり
大聖人の弟子として失格であり恥ずべき行為です。
それ故に私は謗法破折の一環として
このブログを書いてます。

アンチブログの中には確かに単なる批判を書いているモノあれば
批判以前の風説や捏造を書いているモノもあります。
また、ひょっとしてら本当に創価に嫉妬を抱き
怨嫉の念で批判する人もいるかもしれません。
でも、私には嫉妬も脅威も何もありません。
だた大聖人の仏法を守るために創価を破折しています。
その中で、創価の謗法に気づき
創価への布施を止め創価から離れ
また、大御本尊への信を取り戻してくれる
学会員さんが現れくれれば
それはそれで大いに喜ばしいと思っています。

創価が大聖人仏法を騙るのやめ
自らを大聖人仏法ではない
「池田教」「創価教」と名乗り
大聖人仏法と一切の関係ないと認めれば
創価の批判はやめます。
そんな取るに足らない新興宗教団体ならば
そんなモノ後回しでいいと思うので。
創価と創価活動家が大聖人仏法だと詐称する限り
創価破折は続けていくつもりです。

学会員さんのmiuさんには
面白くない話でしょうが
そんなブログでよければ、
是非また読んで、そしていつでも好きな時に好きなコメントを書いてください。
もちろん、私やこのブログに対する批判や反論でも構いません。
今後もよろしくお願いします。

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スメルジャコフさんのご質問へ

先日、スルメジャコフさんより次のようなコメントをいただきました。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
私は創価学会が嫌いです。しかし、大御本尊も、信じられません。
その理由は、私の祖父が、創価学会の破門と同時に脱会し、
以後月一の登山を続け大御本尊への信仰を貫いたにもかかわらず、
晩年は、癌に罹患し、国の薬事関連の政策の転換期だったことから
一切の痛み止めを打つ事が出来ず、壮絶な苦しみの中で亡くなっていった事です。
祖父は、学会員、時には親族からの誹謗にも耐えながら自らの信仰を貫きました。
その祖父が激痛による煩悶に暴れ苦しみながら、修羅の相で亡くなっていった事ー
この事がどうしても消化できずにいます。
大御本尊への信仰は、この世の幸福をもたらすものではないのでしょうか?
単に死後の安泰を約束するだけのものなのでしょうか?
仮に私が大好きだった祖父の信仰を受け継ぐならば、
現世においては苦しみを甘受しながら、死後に賭けるべきなのでしょうか?
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今日はこのコメントへの私なりの考えを書きます。
まずはスルメジャコフさんの御尊祖父様のご冥福をお祈りいたします。

さて、このような体験を持っている創価や法華講員の方は多いと思います。
「あの人は、純粋に信心をしていたのにあんなに苦しむのだろう」と。
私も信心をする前は、学会員さんとかみて
そのように思ったことは何度もあります。
「信心なんてしたって幸福になってないじゃないか」と。
では信心をしない方が苦難に遭遇しないのか?
といえばそれもまた違いますね。
苦難に遭遇することと、信仰の有無は無関係です。
信心していても苦難に遭遇することもあるし
信心を否定しても苦難に遭遇しないこともある
また、苦難の種類もスルメジャコフさんの御尊祖父様のように
臨終に際しての苦しみもあれば
生きている中での苦しみもあります。
これらはどっちが苦しいという事はなく
どちらも同じ苦しみであると思います。
このようにこの世に生まれ生き死んでいく。
それはあるいみ苦難の連続だと思います。
「何事もない」人生などあり得ないし
「何事もない」人生を望んでもそれは手に入らない。
「何の苦難にも合わない人生を歩ませてください」
と祈ることは
「宝くじを当ててください」と祈ってるのと同じです。
この世には「何事もない幸福な一生」というものは存在しない。
そもそも何事もなければ幸福と感じることすらないでしょう。
幸福とは「何事もない」という事でなく
「何事があっても大丈夫」ということだと思います。
では、「何事があっても大丈夫」とはどのような状況かと考えると
苦難の原因が分かっていて、それを取り除く方法を知っている。
そういう状況だと考えます。
それが「現世安穏」であり「安穏」であることが利益です。

病気でも原因不明だと治療ができない。
治療ができなれば夜も眠れぬほど不安でしょう。
原因・病名が分かっていて、それに対する処方箋があれば不安は消えます。
「病気になる」というのは生きていれば避けられない
その時に治療方法を分かっていれば幸福であり、知らなければ不幸。
知っていれば安穏。知らなければ不安。
多くの世の中の不幸は「知らない」ことに起因していると私は思うし
この世の幸不幸とはそのようなものだと思っています。

そうしたこの世における苦しみや悩みの原因とその治療法
さらには治療後はどうなるのか?
それらは全て日蓮大聖人が教えてくれますし
説明をすることもできます。
でも、その説明はいたしません。
なぜなら、それによって誤解が生じ不信が生じるからです。
ですが、大御本尊への純粋な信心を貫かれた御尊祖父様には
それらは全て分かっていらっしゃったと思います。
そして分かっているからこそ覚悟もされていたと思われます。
確かに臨終に際して、痛くて苦しいことは辛すぎます。
できれば安らかに眠るように。と誰しも思いますが
御尊祖父様はそれすら分かっていて覚悟をしていたと思います。
それが信心です。
そして壮絶な最後を遂げたとしても成仏されていることは間違いないです。
(それも私が勝手に言っているわけじゃありません)
しかしその現実を周囲の人が消化できないという気持ちも分かります。
この現実を消化する方法は
大好きだった御尊祖父様の信仰を受け継ぐ以外にありません。
御尊祖父様と同じ立場に立たなければ
同じ景色は見ることはできません。
もちろん信仰を強制したり
信心をした方がいいですよ。などと勧誘する気もありません。
ましてや「大好きなおじいさんの為に・・」なんて
見え透いたことを言うつもりはありません。
ただハッキリと言えるのは
大御本尊を信じて見える景色は
今見えている景色とは明らかに違う。
御尊祖父様が見ていたのは、
周囲の方が見ていた景色と違う。
という事です。
その景色を見るも見ないも個人の自由です。
今の景色に満足されているのであれば
他の景色を無理に覗くこともないでしょう。
もしも今見ている景色が自分にとって気持ちよくない景色ならば
他にある景色を見てみようとするのも悪くありません。
どちらにしてもスルメジャコフさんが思うようにされるのが一番です。
ご質問の答えになっていないかもしれませんが
以上が私の所感です。

最後にコメントありがとうございました。
またいつでもお好きな時にコメントください。

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学会2世・3世の会員さんのこと(だしまきさんコメントへの回答)

だしまきさんから

>学会2世3世をバリ活時代と今ではどのように感じていましたか?
>幸運だね、みたいなことはよく言われていたのですがやはりそのようにお考えでしたか?

とのご質問をいただいたので
今日は、学会2世・3世の会員さんについて書いてみる。
俺の世代ではまだ3世というひとは少なく2世がほとんど。
いまではもう3世・4世といったところが青年部の主流かな?
俺が少年部の本責をしていたころの少年部たちの年代だろう。
学会員の家に生まれてくる子供たちを
「福子」なんて呼んで「生まれながら福運がある」
みたいな事をカツドウカさんたちは言うけど
「福子」というのは教学的に言うと
幸運(福運がある)という意味じゃない。
四条金吾女房御書の中に「安楽産福子」という言葉があるんだけど
これは法華経の法師功徳品の偈の中に書かれている言葉で
六根清浄の功徳の中の鼻根清浄について説かれている偈で
正宗の家に生まれてくる子供を「福子」といているわけではない。
なので正宗ではどうか知らないが
創価の中で使われている「福子」と言葉は
仏法的は使い方が間違っている。
ただし、師弟契約御書で引用されている、
◆経の文には「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」
という化城比喩品の説法を見ると
過去世に大聖人と縁をした(説法を聞いた)ことにより
今世でまた大聖人(大御本尊)の元に生まれてくるわけだから
福子として生まれてくるのは、
過去世の福運というのもまぁ頷ける(福子という言葉は適切じゃないが)
というわけで幸運といえば幸運なのかもしれないが
今の創価の家に生まれてしまうのは不運だ。
不運というよりも過去世に退転した者が今の創価の家に生まれてしまう。
仏法の道理から言えばそういうことになる。

さて教学的なことはさておいて、
俺の2世・3世の学会員さんに対する感想は
創価のカツドウカに限って言えば
「信心」を分かっていない人が多い。
というのが正直な感想だ。
これは別に今に始まったことじゃなく
俺自身が活動家時代から感じていた。
いわゆる「福子」の活動家の部員さんをたくさん見てきたし
いまでも付き合いのある学会2世・3世達もいるけど
確かに信心に対して純粋な人が多い。
御本尊を純粋に信じ
創価と学会員を純粋に信じ
そういった部分においては本当に純粋だ。
なんだけど、純粋な部分がどこかズレている。
その一番の部分は信心の基本というかなんというか
そういうところがズレている。
例えば「祈る」という行為があまりにも身近過ぎて
「祈る」というよりも「題目をあげる」
という行為になってしまっている人が多い。
「題目をあげることと祈ることは違う」
2世の部員さんによく話した。
また、学会2世の男子部時代の後輩にいわれたのは
俺が男子部時代に彼に言った言葉で一番衝撃的だったのが
「学会活動は信心じゃない」
という言葉だったそうだ。
彼の中では幼少の頃から
「学会活動こそ信心の基本」だという思いがあったらしく
俺に「そんなもの(ガッカイカツドウ)は信心の枝葉でしかない」
と言われたことを20年経った今でも覚えているらしい。
そういう意味で「信心が分かっていない」と感じる。
決してバカにしているわけじゃなくて
なんだろう。純粋過ぎて全てが受動的な印象だ。
だから、少し指導(って言葉は嫌いだが使わせてもらう)を変えると
みるみる変わっていく。
男子部時代にそれまで本流を決めたことない2世の部員さんが
ことごとく本流を決めたことがある。
それは純粋だったからだと今でも思う。
「祈ること」「大聖人仏法を語ること」
この二つを御書を通して話していくと
「内部以外に友人がいません」と言っていた部員さんが
あら不思議。次々と本流が決まる。のだ。

そこなんだよな。
2世とか3世とかの学会員さんと
初代(笑)の学会員の違いは。
福子として生まれてきた会員さんは
小さな時から「池田センセ」「創価学会」って言われてきて
創価や池田センセが言っていることが信心だと思っちゃっている。
それが信心の本質であり基本だと勘違いしちゃっている
勘違いというよりもそういう教育を受けてしまっている。
だから学会活動をやることが「信心」だと思い
池田センセを「師匠」と思うことが「信心」だと信じている。
そこが大きな間違い。
大聖人の御書のどこを見ても
選挙や聖教啓蒙を信心とは書いてないし
在家の一信者を師匠にせよ。とも書かれていない。
大聖人仏法の基本は、大御本尊を信じて勤行・唱題をすること。
この一言に尽きる。
それ以外のことは枝葉に過ぎない。
ましてやガッカイカツドウなんてものは御書に書いていない。
「ガッカイカツドウ」ではダメなんだ。
「大聖人の仏法の布教活動」でなくては意味はない。
「ガッカイカツドウ」というのは「広宣流布」のためにすることであって
それ自体は全くイミのない活動だ。
選挙も新聞啓蒙も部員さんまわりも、
最終的には広宣流布へつなげていくための準備でしかない。
そこに繋げないで忙しくガッカイカツドウをしていても
そんなカツドウは信心でもなんでもない。
よって功徳なんてない。
そこが理解できる2世・3世の人達は
折伏でも世間でも立派に結果を出す。
理解できない方々は創価の中でしか大きな顔をできない
ヘタレ幹部・バリカツの道へと進んでいく。
ましてや、いまの創価は大御本尊を捨ててしまっているのだから
ガッカイカツドウなんて百害あって一利なし。である。
因みに俺が活動家時代の2世3世の部員さんで
折伏を決めた部員さんは、今でもカツドウカやっているのは二人しかいない。
当時、折伏が決まらなかった2・3世の部員さんが
今やゾーン長・本部長をはじめ壮年部の要職についている。
不思議なモノだ。

話を戻すが、破門前に2世3世として生まれた来た人達は
最初に書いたように、過去世で大聖人の仏法を聞いた人たちである
生まれる前から大聖人に縁をしていた人たちである。
その功徳は正直俺のような今世で縁した人間とは比べ物にならないほど大きい。
俺はそう思っているし、そう感じている。
なのに、なぜ自らその功徳を捨てするのか?
創価に誑かされてなで三世の師匠である大聖人(大御本尊)を捨てるのか?
悪しきモノを師匠にしてなぜ善なる師匠を捨てるのか?
創価の家に生まれてきて、幸運か不幸かは本人次第だ。
創価という仏敵に打ち勝ち大聖人に信を貫けば
末法の法華経の行者として過去世の福運の何倍もの福運が積める。
そんなおいしい所(家)に生まれてこれるは幸運としかいいようがない。
でも逆に仏敵創価に負けて、大聖人を捨ててしまえば
いままでの修行の功徳は一切消え去り無間に落ちる
まさに乞眼の婆羅門でる。
そうした状況になってしまえば不幸だ。
野球で言えば9回裏2死満塁で打席が回ってきた。
そんなイメージだ。
仏敵の中(家)に一人生まれて来たこと。
これは大ピンチでもあり大チャンスでもあると思う。
一族郎党を成仏させるか、その逆か。
まさにその使命の大きさに耐えられるのは
過去世より大聖人の弟子である福子だけだ。
ってちょっと大げさか(笑)
でも、俺の周囲の2世・3世の学会員さんには
「いまこそ大聖人の弟子として仏敵に打ち勝て」
「いまこそ三世永遠の成仏の最後の戦いだ」
そう言いたいかな。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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