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現代科学と内外相対(ポリ銀さんの質問から)

先日、SNSの方にポリ銀さんから内外相対についての質問がありました。ポリ銀さんが内外相対を理解してないということはないでしょうから質問の核心は【現代科学も内道から見れば外道の一種ってことなんでしょうか?】という話だと思うので(違っていたらゴメンナサイ)今日はそのことについて回答します。まず「内外相対」のおさらいですが、「内外相対」とは大聖人の立てた教判の五重の相対の一番最初の相対です。余談ですがこの大聖人の五重の相対に全然教判に関係のないくっだらない三重の相対をくっつけて八重の相対とかいって得意顔しているのが波田地氏です。そんなデタラメ教学に感心している波田地グループの学会んさんに私は夏だというのに寒心しきりです(笑)さて「内外相対」というのは自分の内面に因果等を求める内道即ち仏法と自分の外にそれを求める外道即ち仏法以外の教えや宗教を比べて外道より内道(仏法)の方が優れてているという事です。詳しい説明は省きますが内道と外道の違いは内道は三世(現在・過去・未来)の因果を解き明かしているのに対し外道にはそれがないので外道に対すれば内道の教えの方が勝っているということです。ですから「現代科学」もまた内道である仏法から見れば「外道の一種」になります。さて、しかしながら大聖人は、
◆天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか。(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
◆まことのみちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからずやがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。(白米一俵御書)
とご指南されています。つまり「内外相対」で世法や化学を含めた外道は劣るといいながらそれらも仏法であると言っているわけでなんだか自語相違っぽく聞こえますよね?これは「相待妙」と「絶待妙」の違いなんです。五重の相対は教判ですから「相待妙」の立場なんですね。内外相対だったら、内道と外道を比較して内道の妙を立てるというロジックなんです。これを「大小相対」「権実相対」「本迹相対」と進めていって一番最後の「種脱相対」で「種妙」である南無妙法蓮華経になります。この「種妙」はもうこれ以上比較するものがありませので「絶待妙」になります。このように何かと比較するのが相対妙ですからその目線で見れば「現代科学は外道の一種」ですが、いちど「絶待妙」を知り逆のその立場からみると(開会すると)相待妙で切り捨ててきた全ての事は全て絶待妙である南無妙法蓮華経の部分論であることが分かります。「相待妙」でが外道の一種である現代科学も「絶待妙」で開会すれば妙法の一分を説明していることになり外道ではなくなります。例えば大聖人がご在世の時に門下の釈迦像造立を称賛したりご自身でも仏像を所持していましたがご本仏の御境涯でみればそれらもまた不要のモノではなく妙法の一分と映るわけです。もちろんだからといって「絶待妙」たる南無妙法蓮華経(戒壇大御本尊)を蔑ろにしたり或いは二つ並べて信仰することは謗法であり「絶待妙」での開会の意味がなくなります。ですから仏像だろうとキリスト教だろうと現代科学だろうと「絶待妙」で開会して俯瞰すればそれは決して否定すべきものはありません。ただし、それらの世法を含む外道の法を根本とするのは間違いであるということです。折伏の時には、この「相待妙・絶待妙」の両方を使います。主に破折の時は「相待妙」弘教の時は「絶待妙」がメインですね。相手が現代科学を持って妙法を否定してくれば内外相対等の相待妙をつかい絶待妙を立て、そうでない時には絶待妙の立場で開会して妙法を教えていく。これらの使い分けが折伏には大切だと思います。創価や顕正相手に絶待妙で開会しても理解できませんからら彼らには徹底していかに彼らの信心が劣っているのかを分からせないといけません(笑)以上で一応質問の回答とさせていただきますが至らない点がありましたらご指摘ください。


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梵我一如さんが創価民から受けた質問。

梵我一如さんが創価民のサカイから受けた質問について書きたいと思います。サカイさんからの質問とは、

▼寬師以前直近の少年、スカウトされた法主は100数十年間一切大御本尊に関してのご指南はなかった。
ところが、突然に大御本尊の件をご指南されたました。それは何故か?


これだそうです。梵我一如さんとの対話?は終わっているらしいですがこの内容は創価民の数少ない正宗攻撃のパターンですから一応答えておきます。この質問の意図するところは「戒壇大御本尊根本の教義は日寛上人が作った教義であって最初からの教義ではない」と創価民は言いたいわけです。つまり身延と同じことを言っているわけです。正宗憎しのあまり身延の教義まで取り入れそれを発言してしまう創価民の無知と無恥。いまに始まったことではないけどなんとも情けないですね。そんな無信心の創価民には大御本尊の事など話す必要などないわけです。話して聞かせた所でどうせ理解することもできずに益々大御本尊を誹謗するだけですから。はい。分かりましたか?今書いた内容が大御本尊の話をおおっぴらにしなかった理由のひとつです。そもそも御本尊に関することは無信心の人間に話すことではないのです。

◆あまりにありがたく候へば宝塔をかきあらはしまいらせ候ぞ、子にあらずんばゆづる事なかれ信心強盛の者に非ずんば見する事なかれ、出世の本懐とはこれなり。(阿仏房御書)
話をするどころか信心が強盛の人でなければ見せてもダメと大聖人は言われています。さらに
◆此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開祏せらる可きか、此の書は難多く答少し未聞の事なれば人耳目を驚動す可きか、設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ、仏滅後二千二百二十余年未だ此の書の心有らず(観心本尊抄送状)
「観心本尊抄」は無二の信心がなければ読むことも禁止され
◆一見の後秘して他見有る可からず口外も詮無し(三大秘法禀承事)
「三大秘法抄」は一度読んだ後は秘密にして他言無用とまで言われています。つまり「大御本尊」については広くご指南がなくて当然なのです。その理由は前述の通り無信心の者に読み聞きさせれば必ず悪用し益々大御本尊を誹謗するからかえって罪業を積ませる結果になるからです。読むのであれば「正しく読む」大御本尊の法門を聞くのであれば「正しい法門を聞く」ことが出来ないかぎり秘すべき話です。そして「正しく聞く」ためには聞く側の信心は当然の事、話す側が「正しい話」をしないといけません。ここが唯授一人血脈相承の重要たる所以なのです。創価は「信心の血脈」なんていいますが創価幹部の指導のバラバラさをみればよくわかるでしょう。大作センセの指導ですら各人が勝手に解釈して誰が言っていることが正しいのか誰にも分からない。そうならないための唯授一人血脈相承です。また「大御本尊のご指南がなかった」というけど一体何をもって「無かった」といっているのでしょう。文献がないから「無かった」と断定するなら話になりません。そもそも法門というのは「聞く」ものであって本を読んで勉強するものではないのです。昨今は様々なツールで大御本尊の話を知ることができますが基本はご指南というのは聞くものであって読むものではありません。また今日は戒壇大御本尊を誹謗する異流義が増えたので破折の為に大御本尊の話を聞かせますが、日寛上人以前は戒壇大御本尊に対する今日のような疑難はほとんどありません。つまりそれは戒壇大御本尊の存在は周知の事実だったことを物語っています。戒壇大御本尊への疑難がないのに無信心の人間に向けて戒壇大御本尊のご指南をする必要はないのです。当然、法華講衆に対するご指南はあったでしょう。そうでなければ当時の法華講衆が戒壇大御本尊を求めるはずはありません。宗教への規制が厳しかった江戸時代に我が身の命も顧みず大石寺へ参詣し大御本尊にお目通りする信徒が居たという事は法主上人やそのお弟子さんのご僧侶方から「戒壇大御本尊についてのご指南があった」からだという事が簡単に想像できます。さて日寛上人は六巻抄を著しましたが六巻抄もまた基本的には弟子檀那の内部向けのご指南です。六巻抄には、
◇この書、六巻の獅子王あるときは、国中の諸宗諸門の狐兎一党して当山に集来すといへども、あえて驚怖するに足らず、もっとも秘蔵すべし
と書かれていてもしも異流義が日興門流に対して疑難を吹っかけてきても六巻抄の内容を熟知していれば恐れることは何もない。といわれていますが、そのような有事の時でなけば「秘蔵しなさい」と言われています。だから戒壇大御本尊への誹謗が本格的に始まる明治中期頃までは大御本尊を外に向かって説なかったわけです。創価民さんお分かりかな?寛師以前に大御本尊に関してのご指南が一切なかったというのは一体何を根拠にそう言っているのか?自分の浅識・思い込みだけで適当なことを言ってるだけでこういうのを詭弁と言いデマというのですよ。因みに日寛上人はそれまでの興門流の教義を整足されただけで寛師が勝手に教義を作ったわけではないことは寛師以前の歴代上人のご指南を拝すれば分かる。勝手な己義を大聖人仏法であるなどと吹聴しているのはむしろ創価だろう。いずれにせよ最初に書いたように戒壇大御本尊のご指南は無信心の人間には「いたしません」というのが日興門流の基本方針です。それは今もって同じです。法主上人のご指南は全て正宗の僧俗に向けたもので創価や顕正ごときの邪教の徒に向けてご指南されているわけではない。我々法華講が戒壇大本尊の法門法義を聞かせているのは創価や顕正の活動家達の邪義を破折するためであってキミ達に教えてあげる為ではないのです。そんなに大御本尊のご指南が聞きたければ創価を止めて大御本尊への純粋な信心を取り戻す事です。


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大聖人と釈迦如来(PPPさんの質問への回答)

PPPさんから大聖人と釈迦如来の関係についてのご質問がありましたまので今日はその件について書きます。大聖人と釈迦如来の関係というのは大聖人仏法の根幹部分です。遠くは五老僧がそして近くは創価がこれに迷い邪教化していったわけです。さて、PPPさんがの質問は、
★大聖人と釈迦如来との関係性がよくわかりません。両者は本仏と迹仏の関係なのか、三変土田の分身仏は迹仏の分身なのか、それとも「下種の法主」と「熟脱の教主」という役割の違う本仏が違う時代に存在するのか、そうすると久遠実成と矛盾するのではないか、といった具合にさっぱりわかりません。
とのことですが、結論からいうと釈迦如来はご本仏大聖人(久遠元初自受用身)の迹仏です。この釈迦如来には蔵・通・別・迹・本・底の6種の教主釈尊がありますが、底の釈尊とは南無妙法蓮華経即大聖人ですからPPPさんの言う所の釈迦如来は「底の釈尊」を除きます。残りの5種の釈迦如来のうち根本となるのは久遠実成の法華本門の釈尊です。この久遠実成の釈迦から以下の仏は久遠実成の釈尊の垂迹の仏です。よって分身仏もまた全て迹仏の分身になります。この久成(久遠実成)の釈尊が迹仏の理由は、久成の仏は「本果仏」だからです。寿量文上には久成の釈迦が成仏した理由は「我本行菩薩道」とだけ書かれていますがこの菩薩道の修行内容は書かれていません。また「我本菩薩道」の修行をしていたということは既に五百塵点劫の釈尊は「菩薩の位」だったわけですから、では五百塵点劫に釈尊が菩薩の位まで昇った根本的な修行は何だったのか?のが重要でそれが「本因」(成仏の根本の因)というわけです。
◇師の曰わく、本因初住の文底に久遠名字の妙法事の一念三千を秘沈し給えり云云。応に知るべし、後々の位に登ることは前々の行に由ることを云云。(三重秘伝鈔)
この本因については三世諸仏総勘文抄・当体義抄に書かれていますが結論だけ書くと「南無妙法蓮華経」です。法に約せば「一念三千」で人に訳せば「久遠元初自受用身」ですがこの人と法は一体でありそれが大聖人の本地ですので「本因妙の仏」つまり本仏です。対して釈迦如来の本地である五百塵点劫の釈尊はこの本因の仏の垂迹仏です。
◆凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり(諸法実相抄)
の御文のあるように「凡夫仏」=「無作三身如来」である日蓮大聖人が「本仏」であり、色相荘厳の仏である久成釈迦仏は「本仏」の働きを示した迹仏です。久成釈迦仏以下の仏は全て久成釈迦仏の「用」ですから「用の用」となります。
◆本果妙は然我実成仏已来猶迹門なり、迹の本は本に非ざるなり、本因妙は我本行菩薩道真実の本門なり、本の迹は迹に非ず(百六箇抄)
の御文を「人(仏)」に約すと、釈迦如来の「本(地)」である久遠実成の釈迦は既に「迹仏」であるから「本仏」ではない。ただし本仏である大聖人を根本と見れば久遠実成の釈迦も「本仏の迹」であるから単なる「迹仏」ではなく「本仏の迹」ということになります。なんだかややこしいとは思いますがまとめますと、大聖人は「本」釈迦如来は「迹」、大聖人は「体」釈迦如来は「用」、大聖人は「因」釈迦如来は「果」、大聖人は「能」釈迦如来は「所」といった関係でしょうか。ですから決して大聖人と釈迦如来が全く別な存在ではないのでが対等でもありません。何故なら迹仏は本仏が存在がなければ存在できないからです。なので釈迦仏を本仏に立てることは実体のない仏を本仏に立てることになり、仏に実体がないのでその働きにも実体がない。つまり事実で上での成仏はない。ということです。いまの創価の本尊義も「人(仏)」という視点で観れば、本仏の体である戒壇大御本尊を捨てれば戒壇大御本尊を誰が書写しようと、「迹の本が迹」なので実体がありません。誤解を招くかもしれませんがPPPさんの言に即せ、「人」の視点で観れば、戒壇大御本尊は「本仏」自余の大聖人のご真筆は「迹仏」書写の本尊は「分身仏」という関係です。もっとも今の創価にとって本尊は仏でなく、単なる「宇宙の法則」ですから御本尊を「仏」として見られないのですね。また破門後の創価教学はそのように会員さんを洗脳してきたわけです。戒壇大御本尊も自余の本尊もみな同じというロジックは、大聖人も釈迦も大日も阿弥陀も「みな同じ仏様で差別はない」と言っているのと同じです。そんな中で「仏」という観点をもって思索をするPPPさんの姿勢は素晴らしいと思います。「仏法」とは「仏の法」であって「宇宙の法」ではありませんから。


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観心本尊文段の解説(サカイさんから質問への回答)

サカイさんとの対話の中で、日寛上人の観心本尊抄文段の下記のご指南について解釈の質問がありましたので今日はそれについて書きたいと思います。質問があった御文は、

我等この本尊を信受し南無妙法蓮華経と唱え奉れば我が身即ち一念三千の本尊連祖聖人なり

の御文です。この御文は観心本尊抄文段の一番最後部分で結論の部分になります。この少し前に
◇問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり。一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。
とのご指南がありそれを受けての上記のご指南がサカイさんの引用した部分です。さてこのご指南ですが、観心本尊抄文段の上巻に、
◇我等一心に本尊を信じ奉れば、本尊の全体即ち我が己心なり。故に仏界即九界なり。我等一向に南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身の全体即ちこれ本尊なり。
とのご指南があります。通釈すると我々が「この御本尊」を信じた時にはご本尊全体が自分の己心になる。信じて唱題すれば我らの一身全体が「本尊」になるということで、サカイさんの引用したご指南はこれと同じことを言っています。「ご本尊」はいうまでもなく「仏界」ですから「この御本尊」を信じる時には仏界に我々凡夫(九界)が冥合してご本尊は仏界即九界となりご本尊を信じて唱題すれば我が身に仏界が顕れ我が身が九界即仏界となるということです。この二つが揃って真の十界互具が顕れる故に真の一念三千(事の一念三千)が成立するということです。創価民は唱題に力があると勘違いしますが、唱題だけでは仏界即九界がないので一念三千となりません。また創価民の己心本尊論ですがこれは九界即仏界だけを説明しているだけでありこれまた仏界即九界が欠けているので、一念三千でなく一念2700になります。ここに本尊の重要性があるのです。ご本尊は己心を映す鏡ではありません。ご本尊は「仏界」の当体なのです。そのことを【一念三千の本尊、その体何物ぞや。謂く、蓮祖聖人これなり。】とご指南されてます。これは一念三千即自受用身ということで、ご本尊が人法一箇であることを示すとともに、ご本尊というのは宇宙の法則を具現化したのではなく日蓮大聖人そのものだという事です。冒頭のご指南はこのことを述べています。さて、問題はここからです。冒頭のご指南の「この本尊」とは「どの本尊なのか」というのが重要なポイントでそれついて同じ観心本尊抄文段で日寛上人は、

◇就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり

明確に戒壇大御本尊が「この本尊」であることを示されています。つまり冒頭のご指南は「我らがこの戒壇大御本尊を信受して南無妙法蓮華経ととなえれば大御本尊全体に我が己心が冥合し、また我が己心に真実の一念三千即ご本仏日蓮大聖人の仏界が顕れる」ということなのです。創価民は仏界は自分の中から湧現するといいますが大御本尊がと境智冥合しなければ仏界など湧現しないのです。創価は大御本尊を捨てたのだけはなく受持しないだけと屁理屈を言いますが、「受持」とは「信受」のことですから「この御本尊」を信受せずに南無妙法蓮華経とただ唱えているだけですから事の一念三千は成り立たず結果己心の仏界など湧現しないのです。つまり大御本尊を捨てた創価の本尊・題目では不成仏が確定なのです。今の創価は同じ文段で日寛上人が、
◇本尊に迷う故に、また我が色心に迷うなり。我が色心に迷う故に生死を離れず
とご指摘している「本尊に迷った衆生」なのです。かつて池田センセは
▼本門戒壇の板御本尊、なんだ寛尊、信心の中にしか本尊はないんです、ただのモノです。一応の。機械です。幸福製造機だもの。大聖人がおっしゃっているんだ。
などといって日寛上人を愚弄した発言をしていますが。日蓮大聖人がいつご本尊を「一応のただのモノ」と言ったのか?いつ大聖人がご本尊を「幸福製造機」などと言ったのか?センセ、適当な事をいって会員を騙してはいけません。大聖人は
◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ(経王殿御返事)
といっているのにかかわらずこのような指導をする人を師匠を仰ぐ創価民は考え直した方がいいと思います。何が「日蓮直結」「御書根本」ですか。ましてや現在の創価本尊は日寛上人のお筆のご本尊をコピーしたものではないですか。日寛上人のご指南・お心に反した気持ちで日寛上人のご本尊に題目あげて一体何の功徳があるというのでしょう。「偽本尊」云々の前に「ニゼ題目」なんです。日寛上人の正しいご本尊というならば、正しく日寛上人のご指南を受けてこそ正しい題目になり功徳が出るのです。

◆だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし(四条金吾殿御返事)


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本弟子六人を選定した理由(寝言丸さんコメントの件)

まず本弟子六人とはいわゆる日興上人と他五老僧で、日興上人が「宗祖御遷化記録」に書き残されています。上から入門が新しい順に6人の名前が書かれているのですが、その前に最初に「弟子六人の事 不次第」と書かれてます。「不次第」とは簡単にいうと平等ということです。この言葉をもって身延などは六老僧に差別はないとし日興上人への血脈相承を否定するのだけど、その解釈は全く逆で6人全員が全く平等であるならあえて「不次第」と記す必要がありません。これについては日淳上人が次のようにご指南されています。

◇六弟子を定めて法臘の順に記録なされたが、それは自ら順位を示すものである。然るに大聖人の思召しは平等にあらせられた故に、わざわざ「不次第」と御書入れがあつたと拝するが妥当であらう。しかし、もう1歩進んで考へると、「不次第」と仰せられしは上を抑えて下を上げてをると解釈できる。さすれば、次第不順で相違を法臘以外に御認めなされたからといふべきである。

つまり入門の順番(法臘)は早い遅いはあるけれど入門の順番は関係ないという事を示すために「不次第」と書かているわけです。「遷化記録」の前にすでに日興上人への血脈相承は完了しています。日興上人は入門順でいうと3番目にあたります。その日興上人への血脈相承を否定することのないように「不次第」という言葉をあえて書いてるとうことです。つまり入門の順番は全く関係なく日興上人に血脈相承をしたんだぞ。ということです、日寛上人も「当流行事鈔」の中で、

◇問う、有る人難じて云わく、日興上人は上足の第三なり、何んぞ是れ結要付嘱の上首ならんや云云。此の難如何。 答う、六老の次第は受戒の前後に由り、伝法の有無は智徳の浅深に依る、故に孔子は道を曽子に伝うるなり、玄弉は法を慈恩に付す、並びに嫡弟に非ず、誰人か之れを難ぜん云云。

と言われています。では何故五老僧まで本弟子と定めたのか?「遷化記録」の末尾に「右六人者本弟子也、仍て向後の為定むる所件の如し」とあるように「今後のため」です。今後のためとは教団の維持と発展のためです。もっと簡単に言えば「法体の折伏」はすでに完了しているのだから「化義の広宣流布」のためです。つまり弘教のために本弟子を6人定めたわけです。これは「化義」の相承であり総じて信心の血脈なのです。対して日興上人への血脈相承は「法体」の相承であり別しての法体の血脈です。この立て分けが非常に重要です。そしてこの本弟子6人を選定したことこそ大聖人仏法においてもっとも重要な「化義」だということです。日興上人の「佐渡国法華講衆等御返事」に

◇うちこしうちこし直の御弟子と申す輩が、聖人の御ときも候しあひだ、本弟子六人を定めをかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候

と書かれています。これは手続の師の大事を言われているのです。手続の師として本弟子六人を選定したのだと思います。この手続きの師を選定しておかないと上記の御文のように「自分は大聖人の直接の弟子だ」と言い出す信者が溢れるます。古くは日円(波木井実長)は日興上人に宛てた手紙に【日円は、故聖人の御弟子にて候なり、申せば老僧達も同じ同胞にてこそわたらせ給い候】と書いて自分も日興上人たち老僧もみんな大聖人の弟子だから平等だと書いてますし、現在では創価大作達創価民が【日蓮直結】などとほざいていますがそれは大聖人仏法の化義ではなくむしろ【直結信心】を制止し戒めているのです。大聖人仏法の化義の広宣流布根幹・大聖人門下の教団の在り方とは、

◇この法門は師弟子をただして仏になり候。師弟子だに違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。乃至案のごとく聖人の御のちも、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人は、謗法にて候也。(佐渡国法華講衆等御返事)

との日興上人のご指南にあるのです。大聖人(師匠)直結が何故ダメかといえば弟子側の機根が異なるからでありそれによって己義・邪義が教団内に生まれ尚且つそれを捌く人がいない。そうなれば広宣流布どころか大聖人仏法が隠匿されてしまいます。今の創価を見れば一目瞭然ですね。同じ「池田先生」の弟子を名乗りながらその解釈はバラバラで全員が「我こそは真の弟子」と名乗って好き勝手にやっている。大聖人は自身の教団が将来こんな創価のような状態にならないように本弟子六人を選定したのだと思ってます。もちろん五老僧は退転しそれに従って退転した信者もいたでしょうがそれも大聖人も分かっていたとは思いますが、未来の事を見据えて「師弟相対」という大聖人仏法における根幹の化義のありかたを示すことにより将来の退転者を防ぐとともに退転者を見破る方途も示されるという意味で「本弟子六人」を選定したのだと思います。この話は書くとすごく長くなってしまうので後は各人の研鑽と思索にお任せしますが、一番重要な事は「本弟子の選定」とは化義のための相承・弘教のための相承でいわば「横」の広がりで、日興上人に対する法体相承は「令法久住」のための相承であり「縦」の永遠性だということ。そして中心は「法体」であり「「令法久住」です。化義・弘教といっても「法体」が無ければ成り立ちませんからね。法体の血脈が根本にあって初めて信心の血脈が成立するわけです。甚だ簡単ですがこれを今回の私の回答とさせていただきます。


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【旧】日蓮正宗創価学会員(現日蓮正宗法華講)戒壇大御本尊を捨てた謗法団体でありながら日蓮大聖人の名を騙り世間や会員をだまし続ける創価本部・幹部・活動家の欺瞞・詭弁とインチキ創価教学
を徹底的に破折し正しい日蓮大聖人の仏法を宣揚します。

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