ばばさんのコメントへの返事

まずはコメントありがとうございます。
少し長くなりそうなので本文記事にてお返事いたします。

ばばさんのコメントを読んで一番最初に感じたのは「怒り」です。
もちろん、ばばさんに対する怒りではなく
創価に対する怒りです。
何にたして腹が立ったかというと

>以前学会の方が見えて今までのご本尊をもっているとほうぼうになるからという事で交換しました

ここです。
創価が交換していったというご本尊は
おそらく日顕師書写のご本尊だと思います。
(日達師の御本尊ならばおそらく交換しませんので)
日顕師書写のご本尊は「謗法」でもなんでもありません。
そもそも、何の根拠もなくご本尊を「謗法」というとは。
一体、何様のつもりでしょうか?その学会員は。
ご本尊とはご本仏・日蓮大聖人の色心二法です。
そのご本尊に謗法というのは、
大聖人を謗法と言っているのと同じです。
それに創価自体も現在の教義で
「大聖人直筆と書写のご本尊は等しく本門の本尊である」と定めています。
(ちなみにこの教義も創価が勝手に作った教義です)
当然、日顕師書写のご本尊も「本門本尊」であるという事です。
それは創価自身が教義として定めているわけです。
その本尊を「謗法」だといって交換するのは
ばばさんを「騙して」創価本尊を「売りつける」という詐欺行為に他なりません。
おそらく、3000円程度創価に支払ったはずです。
ご本尊のことを言うならば、
今の創価の本尊の方こそ大聖人仏法の本尊として成立しないものです。
つまり、ばばさんは創価に騙されて
正しい本尊を、本尊をコピーしただけの紙切れにすり替えられてしまったのです。
そこに強い怒りを覚えます。

次に

>父の葬儀の際 学会の方にお経を読んでいただいたのですがすごく短く あっという間に終わりました
一年に一度供養の為に学会の納骨堂に行くのですがそこでも短いこれで供養になっているのかと思ってしまうくらい短い
>お経が短くなったのは単に学会のご都合でこうなったのでしょうか

の件ですが、
創価の読経が短いのは、数年前に勤行の方式を変えて
寿量品の長行部分を「不読」にしたからです。
その理由はばばさんのご質問の通り
「創価の勝手な都合」であり大聖人仏法に則った理由ではありません。
創価活動家はいかにも大聖人仏法に合致しているかのようにいいますが全くのウソです。
そもそも寿量品を読誦するのは「所破・所用」といって
釈迦文上を破して、文底の妙法を「所用」(用いる)ためです。
その文底の妙法は寿量品のどの文の底に秘沈されているかというと
【我本行菩薩道】の文の下に隠されているです。
古い経本をお持ちなら確認できるでしょうが
この【我本行菩薩道】は寿量品の長行にある文です。
その部分を読まないのであれば文底の妙法を所有することができません。
つまり自我偈だけ読んでも意味がないのです。
それが今の創価の「短いお経」の正体です。

また、創価は勝手に教義や化義(仏法上の作法)を決めていますが
およそ「仏法」と呼ばれる教えにおいて
在家の信者が「勝手に教義や化義を決定していい」などという教えが存在するでしょうか?
答えは「NO」です。
在家の凡夫である信者が勝手に決めた教えというのは
「凡夫の法」です。
「凡夫の教え」を「仏教」とはいいません。

その他、創価のイカサマは数多くありますが
結論をいいますと、お気を悪くさせて申し訳ありませんが
創価の供養では亡き御父上様を供養することはできません。

大聖人の御書の中に、鳥竜(父)と遺竜(子)という親子の故事があります。
この親子は有名な「書道家」です。
父は仏教を信じていないの生涯仏典の文字を書かず
息子の遺竜にも仏教の経典だけは書かないように遺言を残して亡くなります。
しかし遺竜は時の王からの命令で仕方なく遺言を破り「法華経」を書写してしまいます。
父の遺言を破った遺竜は父の墓前で嘆き悲しみ自分の命も危険な状況になります。
その時空に無量の眷属を引き連れた天人が現れ
遺竜は「あなたは誰ですか?」と聞くと他でもない、父・鳥竜なのです。
鳥竜がいうには生前の仏教不信の罪で無間地獄で苦しんでいたが
息子・遺竜が遺言を破り法華経を書写してくれた功徳で成仏することができた。
と大体このような話です。

ここで言わんとしているのは先祖供養とは法華経に限るということです。
文底で言えば「法華経」とは「大御本尊」ですから
「大御本尊」への追善の題目こそが真の先祖供養であるという事です。
大御本尊を信仰の対象から外した今の創価幹部・活動家が、
例え長行を読経しても先祖供養にはなりません。
もちろん大御本尊を受持しなければ創価本尊など紙切れ同然
いや、そんな創価本尊こそ「謗法」そのものです。
ばばさんは御父上様の事を思い、
学会員のいう事をきき、
創価のすることに反対しないできたのだと思いますが
今の創価は御父上様の信仰していた創価学会ではありません。
御父上様がご存命であれば、
大御本尊(ご本仏)を捨てた創価を認めるわけがありません。
仮に今の創価を御父上様が認めていたいたとしても
鳥竜のように後悔されていて、
我が子に一日も早く正しい供養をしてくれ。
と思っていられることでしょう。
どうぞ、御父上様の為に「遺竜」に倣ってくださることを願います。

創価活動家はばばさんを誑かそうと
様々な事を言ってくるでしょうが騙されないでください。
そして可能であれば今の創価の本尊は
近くの正宗寺院に返納されるのをおススメします
また、創価学会も退会したほうがいいと思います。
正宗の信仰をするかしないかはばばさんの自由です。
私の方から日蓮正宗になった方がいいですよ。とはいいません。
正宗寺院では入信していなくても
いつでもお題目をあげることができます。
正しいご本尊に年に1度でもお題目をあげるだけでも
御父上様をはじめとする先祖供養になると思います。
ただ、正宗に入信しないまでも創価はやめた方がいいでしょう。
創価をやめても納骨堂を追い出されることはないでしょうし
創価の納骨堂に行けなくなることもないと思います。
御父上様の為にも正しい仏法で先祖供養をいていただきたいと思います。

また、創価活動家に何か言われたら
いつでもお気軽にコメントください。
今後もよろしくお願いいたします。


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臨終の相について(絵里子さんのコメントの件)

早いもので、もう今日から9月ですね。
我社は8月が決算月なので、
9月というとまた新しい1年の始まり。といった気分です。
先月、絵里子さんから臨終の相(成仏の相)
についてのご質問をいただいていたのですが
回答が遅れてしまって申し訳ない次第です。
今日は、絵里子さんからのご質問の返信を書きます。
といっても、「半眼半口」が「成仏の相」というのが
いつから言われだしたのか?
すみません。知りません。m(__)m
「半眼半口」という言葉は滅多に聞きませんよね?
私がこの言葉を初めて聞いたのは創価で活動を始めてからです。
それまでは「半眼半口」という言葉聞いたことありませんでした。
もちろん御書にも書いてありません。
私が聞いたところによれば
「半眼半口」は多くの仏像の顔に見られる表情だそうです。
確かにそういわれてみると巷で見る
仏像は「半眼半口」で優しい穏やかな顔をしています。
仏と同じような表情なのだから
「成仏の相」と思っても不思議ではありませんが
なんだか「邪宗チック」な気もします(笑)

では、臨終の相について大聖人様はなんと言われているか?

◆臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し
善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる
又軽き事鵞毛の如し・なる事兜羅緜の如し。(千日尼御前御返事)

との御文が有名です。(他にも同じような内容が書かれている御書もあります)
ここで言われているのは、「重い」「黒い」のは地獄の相で
「軽い」「白い」のが成仏の相という事になります。
とくに「顔の表情」がどうであったか?という事は言われてません。
それを踏まえて私見を言わせていただくならば
私は「臨終の相」と「成・不成」は関係ないと思っています。
全く関係ない。ということではないかもしれませんが
個人的には、ほぼ関係ないだろうと思います。
臨終の相がそれほどまで重要な法門であるのならば
大聖人様の御書にも、数多く書かれているはずだし
正宗の御歴代もそこに言及いてるはず。
でもそういう感じでもないのでそれほど重要事項ではないと思います。
また、日寛上人の「臨終用心抄」には、

◇一、他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事。
◇一、法華本門の行者は不善相なれども成仏疑ひ無き事。

とのご指南があります。
謗法の者は「半眼半口」であっても堕地獄であり
大御本尊様を信じる者は、臨終の相が悪くても成仏する。
ということです。
ですから上記の「千日尼御前御返事」の御文の
「黒い・白い」「重い・軽い」というのは、単に表面上の事を言われたのでなく
その時の生命の状態を言われているのだと思います。
「暗く重い気持ち」で臨終を迎えるのか
「明るく軽い気持ち」で臨終を迎えるのか
それが「成・不成」という事なのだと思います。
また、三世の因果からみても
死んだときだけ「半眼半口」だから成仏した。といのも理にかないません。

◆いきてをはしき時は生の仏今は死の仏生死ともに仏なり(上野殿後家尼御返事)

と言われているように、「死んで成仏」するためには
「生きている時に成仏」していることが前提です。
では、「生きている時の成仏」とはどう言事かというと
同じく「臨終用心抄」には、多念の臨終と刹那の臨終というご指南があります。

◇一、多念の臨終、刹那の臨終の事。
愚案二八に云く多念の臨終と云ふは日は今日、時は唯今と
意に懸けて往生坐臥に題目を唱ふるを云ふ也。
次に刹那の臨終と云ふは最期臨終の時也、
是れ最も肝心心也。
臨終の一念は多年の行功を依ると申して不断の意懸けに依る也

多念の臨終とは、いわゆる「臨終正念」ということで
具体的に言うと、日々大御本尊に信を取り勤行・唱題に励むことです。
刹那の臨終(死としての臨終)は、多念の臨終の延長線にあるのです。
大御本尊に信を取り唱題に励むとき
私たちは常に臨終しているのです。
私たちにとって臨終とは成仏の異名です。
逆に大御本尊をすて誹謗中傷する創価の人達は
日々、堕地獄なのです。

◆我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し(顕立正意抄)

心ある学会員さんは一刻も早く
大御本尊への信を取り戻して欲しいですね。

最後になりますが、私は自分の死相には全く興味がありません。
どうせ、自分では見ることができないし
私の死に顔をみて誰が何と言っても聞こえません。
それよりも、死後に自分が見ることのできる景色の方が重要です。
大聖人様は

◆退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、
妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならばあら面白や
法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし金の繩を以つて八の道を界へり、
天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、
諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、
我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき(松野殿御返事)

と言われています。
いつか来る刹那の臨終の折には
このような景色をみたいものだと思ってます。
そのためには生涯大御本尊から離れることない
信心を貫きたいと思います。

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夏休みの宿題(死後の生命のこと)

今週から、休暇をとった途端に天気悪くほとんど雨。
明日から1泊で海に行くのだけど天気が悪そうでテンションも上がらない。
でもしっかり楽しんでくるけどね。
とその前に牡丹さんからの夏休みの宿題を済ませよう。
先日、牡丹さんから
【死後の生命は本当はどうなるのでしょう。】という
かなりヘヴィな出題をもらった。
しかも、書こうと思っていた「上野殿後家尼御返事」の一節を
先に古本屋店主さんに書かれてしまい途方にくれているわけで・・(笑)
とはいえ「死後も生命」という話は
折伏の時にもしばしば話題になるし

◆されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし(妙法尼御前御返事)

と大聖人も言われている。
自分自身も牡丹さん同様に「死んだらどうなる?」と
考えたことは何度もある。
結論だけ言ってしまえば「死んだことがないから分からない」のだが
さすがに仏法者として「死んでみなきゃ分からない」じゃぁちょっと無責任だよね。

ここから先はあくまでも、大聖人の御書等を読んでの
個人の考えを書くので、そのつもりで読んでもらいたのだけど
まず、創価活動家がよく言う
「死んだら宇宙に冥伏する」説があるが
あながち間違えとは思わないが、この「宇宙」の解釈が問題だ。
この「宇宙」というのをいわゆる誰もが想像する
天文学的な意味で使っているのならばそれは「間違い」だ。
「宇宙」という文言は御書にはないし
天文学的意味の「宇宙」というのは
「始まり」があるのだから当然「終わり」があることになる。
そうなるとそこに冥伏した生命もまた「有始有終」ということになり
生命は永遠。ということにならなくなってしまう。
故に大聖人仏法に即して言う場合の「宇宙」とは
天文学的な「宇宙」という意味ではなく
「宇宙法界」・・宇宙はいらないか。「法界」ということだろう。
「法界」をわかりやすく「宇宙」の言っているのであれば
「宇宙に冥伏」でもいいが、どうも創価活動家は
普通の意味で「宇宙」と言ってるフシがあるので
そうであれば創価の言ってることは間違っている。
死後の生命は「宇宙」に冥伏するのではなく
「法界」に冥伏する。それが正しいだろう。

では、「法界」とは何か?詳しい説明は省くとして、御書には

◆法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし(草木成仏口決)

とあるように、「法界」=「仏身」だ。
もちろんここでいう釈迦如来というのは文上の意で
文底の意でいうのであれば釈迦如来とは久遠元初自受用身である。
日寛上人は観心本尊抄文段で

◇自受用の身土は十法界の全体なり
◇「法界に遍あまねし」は自受用身なり

とご指南されている。
そしてこの自受用身とは御本仏大聖人のことであり
また戒壇大御本尊のことである。
「法界」=「仏身」=「大聖人(大御本尊)」という方程式であるから
死後の生命は御本仏の生命に冥伏する。
それがオレの結論である。
御本仏とは言え、当然一念三千の当体であるから
十界が存在する。
大御本尊を捨てれば死後その生命は「地獄界」に行くということだろう。
そして死後は自力ではそこから脱出できない。
ただし、「地獄界」とはいえ仏界(ご本仏の中の)所具の地獄界であるから
いつかは脱出できるがそれはいつだかわからない
大御本尊を捨てた謗法の者は、それまで無間地獄で苦しむことになる。
実に可哀想だと想うが、それが大聖人の仏法の法理だ。

とまぁ色々書いてきたが、
要約すれば全ての人は
「死後の生命は大御本尊の元に帰る」というのが俺の考えである。
大御本尊への信を貫いた者の臨終は千仏来迎であり、
謗法の者の臨終はその逆である。

◆我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず(顕立正意抄)

俺は大御本尊への信を貫き楽しい臨終を迎えたいと想う。
大聖人は信心を貫いた人の臨終は

◆退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、妙覚の山に走り登つて四方をきつと見るならばあら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし金の繩を以つて八の道を界へり、天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり(松野殿御返事)

と言われている。
友人葬で創価の導師も引用する一節だが
大御本尊を捨てたらこんな臨終は迎えられない。

そして、そのあとで大聖人と霊山でお会いする。

◆一流は未来え持せ給え霊山に於て日蓮日蓮と呼び給え、其の時御迎えに罷り出ず可く候。(遠藤左衛門尉御書)

なんと楽しい臨終ではないか。
そうなる事を信じ今世を退転なく生きていこうと思っている。
幸か不幸かその時には大御本尊を捨てた大作センセや創価活動家はそこにはいない。

◆信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず(松野殿御返事)

行き先は俺たちとは違う場所である。
この大聖人の言葉を信じるのあれば
早く「大御本尊」への信を取り戻すことだ。
人の一生なんて意外と短いからな。

以上で、牡丹さんからの「夏休みの宿題」は提出済。ということで。
明日は、雨だろうと何だろうと海で遊んでやる~

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ひごちゃんさんの質問への回答

今夜はひごちゃんさんからのコメントへの返信記事を。
大御本尊に信をとれば学会本尊でも功徳は出るのか?
学会員さんならば気になるところだろうと思う。
オレもすっと学会本尊で思索していた。
法華講さんから言わせれば「ニセ本尊」
なのに何故か功徳が出る。
オレの周囲の人間、
つまりオレと一緒に幹部達によって組織を追放された人間も
ことごとく創価本尊でも功徳が出ている。
創価幹部に言わせれば俺たちは「仏敵」という位置づけらしいが
ならば功徳でなくて魔の通力なのか?
でも祈念しているのは創価本尊でしょ?
ならば創価の本尊は法華講員さんの言うような「魔札」ってことになる。
これは一体どうしたものか?と
その不思議な現証を検討し思索した結果
オレのは、いつも言っている
「大御本尊に信を取れば創価本尊でも功徳が出る」
という結論に達したわけだ。

そこで、ひごちゃんさんからのご質問。

> 管理人様は、大御本尊に信があれば
> 学会の本尊にも功徳が現れると書いておられますが、これに対する文証を
> 示して頂けませんか?

まずこの件にして、そのような直接的文言のある御書はない。
しかし、大聖人のお振る舞いから考えると
大御本尊に信があれば創価本尊でも功徳が出る。
ということは充分納得ができる。
具体的な大聖人の振る舞いを御書を通してみてみると
まづ、大聖人は清澄寺に在籍している
法兄である義浄房・浄顕房や円浄房らに対し
「善無畏三蔵抄」「佐渡御勘気抄」「義浄房御書」
などを送られてその信心を励ましている。
清澄寺といえば邪宗の寺である。
その清澄寺に所属しているということは
これは現代で言えば、謗法・邪教の創価に所属している事と同じ。
なので大聖人は謗法教団に所属をしているからという理由で
直ちにその人間を排除していない。
また、四条金吾の奥さんである日眼女が
釈迦仏を供養してもそれを許し賛嘆されている
(日眼女造立釈迦仏供養事)
現代で言えば「ニセ本尊」を供養したからといって
これまた直ちに排除していない。
これらの大聖人のお振る舞いから考えれば
「創価本尊だから直ちに謗法」というのでは
理屈が通らない。
こうした大聖人のお振る舞いから「理証」として考えられるのは
謗法行為とは単なる形式的なことでなく
根本の信心の姿勢であると大聖人は考えられていた。
とするのが間尺が合う
では、義浄房や日眼女の共通点とは何か?
それは「御本仏・日蓮大聖人」に対する信だ。
このことは現代置き換えて言えば
「大御本尊(御本仏)」に対する信。
ということなる。
当然、開眼した正しい御本尊を受ける。
ということが基本ではあるが
義浄房が清澄寺で念仏僧の師・道善房に仕つかえたことは
どうしてもそうせざるを得ない状況だったのであり
日眼女は釈迦仏供養したのは、
信心に対し深い理解がなかったから。
逆にそのような状況でも御本仏に対する純粋な信があれば
大聖人はその信心を賛嘆する。
御本仏が賛嘆するということは功徳が出る。ということになる。

では、どうして創価のコピー本尊が大御本尊につながるのかというと
このような純真な信心を貫く人には
御本仏の心法は分身として眼前に現れるからだ。
心法はイコール色法なので
たとえ目に見えなくても分身散体の御本仏がそこの存在する。
内得信仰でも功徳が出る理由はそこにあると思う。
大御本尊(御本仏)に信をとる。とは色々とあるが
大御本尊を求める。換言すれば大御本尊への恋慕の思いだろう。
その恋慕の思いがあれば御本仏は
どこにでもその分身散体の姿を見せるのである。

◆日蓮をこいしくをはしせば常に出ずる日ゆうべにいづる月ををがませ給え、いつとなく日月にかげをうかぶる身なり(国府尼御前御書)

大御本尊に対し恋慕の心があれば、太陽でも月でも創価のコピー本尊でも
そこに御本仏の分散体が浮かぶ。
それ故に創価本尊でも大御本尊につながる。
それが「大御本尊に信を取れば創価本尊でも功徳が出る」というオレの主張だ。

最後に
> 管理人様も常々三大秘法の本門の本尊に唱える御題目しか功徳がないと
> 言われてるのと矛盾を感じます。

とこことですが、私がいつも言っているのは
一大秘法の戒壇大御本尊に信をとる題目。ということで
三大秘法の本門の本尊ではありません。
三大秘法の本門本尊かどうかは
戒壇大御本尊に信を取るかどうかで決まると思っています。
一大秘法に信を取らなければ
真筆であっても三大秘法の本門本尊ではないと思っています。

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ディスミナシオンさんのご質問への回答

ディスミオンさんお待たせしました。
この記事で貴方への回答をさせていだきます。
本論に入る前に予め申しあげておきますが
これから日蓮仏法の本尊の根本義を書きます。
この「本尊義」とは「信じるか」「信じないか」の話です。
ですからディスミオンさんがこれから書く「本尊義」について
「納得しても」「納得しなくても」
「理解できても」「理解できなくても」
「学術的と思っても」「学術的ではないと思っても」
「肯定的であっても」「否定的であっても」
それは貴方の自由であり私が関知するべき領域ではありません。
貴方の頭に入れておいて欲しいのは
これから書く「本尊義」を信じる人が日蓮仏法の信仰者であり
信じない人は日蓮仏法の信仰者ではない。ということだけです。

では本題にうつります。
大聖人仏法の本尊義の根本中の根本は
「大御本尊」とはご本仏(大聖人)の色心二法である。
言い換えれば「大御本尊」とはご本仏そのものである。ということです。
ここが1丁目1番地です。
理由は多々ありますがそれを書けば長くなるし
書いたところでご理解をいただけるとも思いませんので割愛させていただきます。
この根本の本尊義を元にご質問にお答えします。
尚、貴方と私の間において、いわゆる御書は
コンセンサスを得るテキストにはなりえないので
今回の記事についての御書の引用は一切いたしませんで悪しからず。

①ネットでよく、御本尊のカラーコピーに祈っても功徳がないと仰る方がいます。管理人さまは確か以前の記事でそうしたお考えを退けておられましたが、その理由はなんでしょうか。

大前提としては創価本尊(コピー本尊)は、
本尊としてのテイをなしていません。
なぜならば色法はコピーできても心法はコピーできないからです。
そう言う意味では創価本尊には心法がありませんので
正確には「大聖人の本尊」ではありません。
しかし、どうしてもやむを得ず或いは
無知または騙されて創価の本尊を受けてしまい
だけど「大御本尊」信じている。信じたい。という人。
つまり「大御本尊」に、身口意で信をとる学会員さんならば
例え創価本尊でも功徳はあると考えます。
その理由は、そうしたやむを得ない理由により
謗法団体に所属している信徒などを
大聖人は切り捨てておらず
むしろその信心を褒めたたえています。
もちろん、本来は正しい御本尊を自宅にご安置するのが一番ですが
どうしてもそれをできない人を一律に切り捨てるとなると
大聖人の実際のお振舞との間に齟齬が生じてしまいます。
「理証」をもってするならば、上記のような理由で創価本尊を安置してる方は
大御本尊に対する「信」があれば仮ではありますが
創価本尊にもご本仏も心法が写り、御本仏に通じると考えます。
ただしもう一度言いますが、
本来は正しい本尊をご安置するのが最善です。

②スマホやタブレットに大御本尊を映して唱題するのは、功徳がありますか

ありません。
まず現実的に大御本尊をスマホ等に撮影するのは不可能ですが
仮に可能であっても功徳はでません。
なぜならば、「大御本尊」(ご本仏)を撮影するなどという発想自体が
すでに大御本尊をご本仏の当体であると思っていない行為です。
つまり「大御本尊」に対し「信無き姿」です。
故に罰が出ることはあっても功徳はありません。

③大御本尊は日蓮直筆ではなく、それを木に彫ったものだと認識していますが、それを3Dプリンタで再現したら、同等の力を持ち得ますか。

持ちません。
先にも書いたように「大御本尊」はご本仏の「色心二法」です。
見た目が全く同じだから同等の力があるわけではありません。
むしろより重要なのは「心法」なのです。
大聖人の書かれた御本尊もすべて同じでありません。
同じなのは「御本仏の心法」を映されているという部分です。
仏力・法力といっても御本仏の心法に存在するのです。

④大御本尊焼失、というと穏やかではないですが、あり得ないことではないと思います。その場合は、日蓮はこの世界から全く失われてしまうことを意味するのでしょうか。

意味しません。
ご本仏は無始無終の存在ですので失われることはありません。
大御本尊は無くなったら?という命題を持ち出す人は多いですが
そのような時が来たらどうするのか?など凡智では測れません。
唯受一人血脈相承を受けた時の法主が再建するのか
それとも再び大聖人がこの世に姿を見せるのか
それは私には分かりかねます。

以上がご質問への私の回答です。

さて、今回のディスミオンさんのご質問は
どれも過去に複数の創価カツドウカが疑難を吹っかけてきた設問です。
ディスミオンさんのような日蓮仏法の信者ない方ならまだしも
大聖人をご本仏といい、日蓮仏法を行じ信仰している
と言ったはばからない創価カツドウカがこのような質問や疑問を抱くのは
「本尊義」の根本を分かっていなし信じていないからです。
ですから、彼らは「日蓮仏法を信仰している」など言ってはならないのです。
それを言ったら「ウソ」になりますから。

ディスミオンさんにとって今回の回答は
納得できない事だらけでしょうが
冒頭に書いたように、これを信じて納得できるのが
日蓮仏法の信者なのです。
なぜか?という野暮な質問はやめてくださね(笑)
このことを「信じられない」方には永遠に理解できませんし
それは理解できなくて当然のことです。
私はそのような方に、説得をし納得してもらおうとは思っていませんし
ディスミオンさんのような考えを否定する気もなしし
「可哀そうな人」などと憐れむような失礼なことも言いません。
ディスミオンさんにしても同じだと思います。
私に信仰をやめさせよう。なんて思ってないでしょう。
ですから、納得いかなくても理解できなくても仕方ないのです。
私も同じような事柄について同じような質問をいただいても
答えは変わりません。
今回のご質問は、創価学会さんに対しても
いいメッセージになりそうでしたので
記事に書かせていただきました。
よいご質問ありがとうございました。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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