非意味的切断さんのコメントへ(三証について)

非意味的切断さんからの「三証」の関するコメントですが
「三証」に関しては少し書きたいこともあるので記事にします。
コメントの内容は、
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また、三証については、私も少し勉強しましたが、確か現証が一番大事というような話ですよね?
日蓮正宗=大御本尊と分離したあと、不幸になる創価学会員が増えたという現証はあるのでしょうか…?
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とのことです。

まづ
@「確か現証が一番大事というような話ですよね?」@
このご質問なのですが、
多くの学会や顕正会のカツドウカ さんたちが
文証・理証につまると口にするテッパンの主張です。
そのロジックとしては
「文証や理証よりも現証が一番で、私(或いは創価)は実際に結果(功徳)を出したてきた。
だから創価(或いは大作センセ)は正しい」といったものです。
で、この現証が一番大事。という論拠になっている文証が、

◆日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず(三三蔵祈雨事)

この御文です。この部分をもって「現証最上位」論を主張するのですがその主張は間違っています。
上記の御文において道理・証文・現証は「日蓮仏法をこころみる」にかかっている言葉です。
この「こころみる」を「仏法の正邪を決する」と通解しちゃう人もいますが
まづそうした通解は、通解からして間違ってます。
なぜなら大聖人はおおくの御書で仏法の正邪は文証によるようにと言われていますから
この「こころみる」というのは「正邪を決める」という風に通解するのは他の書との整合性がとれません。
で、「こころみる」というのはその言葉の通りに「試してみる」という意味です。
結論を言えば上記の御文は、個人の信心に約したご教示です。
ですから「文理より現証の方が重要だ」という意味ではありません。
例えば今現在、非意味的切断さんとこうして対話していますが
私が文証・理証を話しても非意味的切断さんには納得できないことが多いと思います。
つまりこの信心を試すなら、文理よりも現証の方が分かりやすい。と意味です。
ですから通解としては
「日蓮仏法を試してみるにあたっては文理を理解することも大切だけど、それよりも実際に自分でやってみてその結果を見たほうが早いし分かりやすいですよ」ということです。
このように個人の信心に約しているわけで、
決して「三証」の中で「現証が最上位」という意味ではありません。
これは自行の辺で、化他行の辺でも同じように

◆凡夫は此の経は信じがたし又修行しても何の詮かあるべき是を以て之を思うに現在に眼前の証拠あらんずる人此の経を説かん時は信ずる人もありやせん(法蓮抄)

とあるように、凡夫はなかなか文理ではこの御本尊を信じることができず
この信心をやっても意味はない。と思ってしまいますが
実際に現証を示している人が話せば信じる人もいるでしょう。
そうした意味で「現証」の大事を言われています。
自行化他いづれにしてもこれらはあくまでも「個人の修行」に訳せば
「現証」は文理より大切ですよ。言われているのです。

では、「法の正邪」を問うとき(対論・法論)においてはどうかというと

◆但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず(唱法華題目抄)

と言われているように「現証」よりも文証そして理証が優先になります。
そうした違いが理解できないのが
ご都合主義の切り文の創価教学・池田教学の悲しい部分で
カツドウカさんたちは対論で文理で詰まると
あたかも「現証一番」だと言わんばかりに
「現証論」を言い出すわけです。
その最たるものは「実際に信者を増やしてたのが学会だから宗門より偉い」
「創価の信心で功徳をいっぱいもらったから創価の信心は正しい」というロジックです。
しかしながら、魔の通力と言って魔にも力はあります。
実際に結果が出たからといって即その信心が正しい。とはなりません。

◆先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか(題目弥陀名号勝劣事)

と大聖人も言われています。
そして「魔の通力」か「仏力・法力」を判断する(正邪を判断する)のは
文証・理証であるということです。

これが「三証」の「三証」たる所以なのです。
「現証一番主義」ならば文理は必要なく
「現証」だけの「一証」で構わない。ということになります。

そこで、
@日蓮正宗=大御本尊と分離したあと、不幸になる創価学会員が増えたという現証はあるのでしょうか…? @
とのことですが正直言って「知りません」としか言えません。
アンチは「創価にいると不幸になる」といい
創価は「創価に敵対すると不幸になる」といいますが
現世における「幸不幸」は個人の心の範疇です。
また信心しなくても幸福な人生を送っている人も大勢いいるし
信心していても不幸な人生を過ごしている人も大勢います。
さらに他人が見れば不幸に見えても
本人は幸福だと感じているかもしれないし
その逆もあります。
ですから大御本尊を捨てた後に不幸な学会員が増えたかどうかは知る由もありません。
ただし、それが現世であれ死後であれ来世であれ
大御本尊を捨てた学会員が無間地獄に行く(不幸になる)のは
文証に照らせば間違いない。ということだけは言い切れます。
それは私が創価憎しで勝手にいてるのでなく
大聖人が御書にくり返し書いていることなので
私には疑う余地はありません。
また創価カツドウカが他人に創価の信心に功徳がある。
と説明するのはウソであり、
そのエサに釣られて入会してしまった人は「騙された」のであり
ウソをついた側はサギと呼んで差し支えないと思ってます。
ウソをいって勧誘した挙句、「騙されるのは自己責任」なんていうのは
居直り強盗としか思えません。
逆に「創価に敵対したり創価を退転したら不幸になる」
というのもありえません。
創価の言う「功徳」も「罰」も
どこにも文理がないからです。
文理がない現証論は信じるに値しません。
単なる与太話の類でしかありませんから。

「創価に会費(財務)を出したら功徳がでた」
「公明党を支援すると功徳が出る」
「創価を誹謗したら罰が出る」
こうしたことを個人的に思う分には自由ですから非難はしません。
しかし、他人に向かって言うならば個人的功徳という現証よりも
文理で「それが功徳である」ということを論証しなければいけません。
今の学会カツドウカでそれを文理で説明できる人はいません。
リアルでもそしてこうしたネットの世界でもです。
そうした現実(現証)を見れば
カツドウカさんがどんなに創価で功徳が出たと強がっても無駄です。
まさに「現証にはすぎず」ってところです。

質問の答えになっているかどうかわかりませんがもう一度書きます。
御本尊を捨てて不幸な学会員が増えたかどうかわかりません。
幸不幸は個人の決めることなで他人には決められません。
ただし、日蓮大聖人がご本仏であるのであれば
「大御本尊を捨てた学会員の最終的な行き先は無間地獄である」
というのが結論です。

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創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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