そんな簡単なもんじゃないだろ。

いろいろとコメントいただき、その中から感じた事を
「広宣流布は弘教・折伏だけじゃない」(コメ)
俺は、そうは思わない
御書のどこをどう読んでも「弘教・折伏」以外に広宣流布はない。
確かに、御書を拡大解釈をしていけば、
弘教・折伏以外の学会活動も広宣流布と解釈することはできるが、
それは、単なる拡大解釈以外の何物でもない。
そもそも、学会を理解してもらって一体何になるのか?
大聖人の仏法を理解してもらう?それで何になるのか?
学会を理解した友人は一生御本尊もなく題目も挙げないで一生成仏できるのか?
そもそも、理解するだけで一生成仏できるなら、御本尊はいらない。
また、弘教・折伏しないなら、学会活動だって必要ない。
52年路線の時に、日達上人は
「大聖人の仏法以外が流布しても広宣流布とは言わない」と指南された。
大聖人の仏法は三大秘法の大御本尊に尽きる。
それを、流布するから広宣流布というのである。
それ以上でもそれ以下でもない。

また、別の方からは
「広宣流布のポイントは「弘教を実らせた」という結果よりも
弘教をしようとする心じゃないのでしょうか。 (コメ)

コメントをいただいた。
一読すると「そうだ。そうだ」となりそうだが、
結果を出さない。或いは結果が出ない。
そんな信心ならする価値はあるのだろうか?
一生かけて信心をして、何も結果がです不幸なまま死んでいく。
大聖人の仏法はそんな仏法ではないのだ。
弘教をしようとする心が本当にあるなら、必ず結果はでるのである。

そもそも、俺たちは過去からの宿業を持って生まれてきた。
その長遠なる宿業を今世のわずか数十年で断ち切るのである。
学会活動をやったくらいで、
また、結果がでなくても心が大事ですよ。位の考えで
宿命転換ができる。と思う方がどうかしてる。
そんな、簡単なもんだったら大聖人もあれほど迫害うけないだろう。

幹部は、会員を幸福の方向に指導しなければならない責任がある。
その幹部が、
「弘教や折伏だけでなくてもいいんだよ」  とか
「結果が出なくても気持ちが有ればいいんだよ」
などと、言うのは無責任というものだ。

御書に照らしても、俺個人の体験からしても
「広宣流布とは、弘教・折伏以外にはない。」
「唱題と折伏以外に功徳は出ない」
簡単じゃないけど、歯を食いしばって結果を出す以外にないのだ。


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR