仏教学と教学②

「日蓮正宗の教義」を肯定している、世間の学者はいない。
と青蓮さんもブログで書いているが
本当に?って思う人もいるかもしれないので
ここで、ハッキリ言ってくが、それは「本当」だ。
俺も、青蓮さん同様に、「正宗教義」を肯定している
世間の学者は一人も知らない。
でも、それは別に嘆き悲しむことでも
驚くことでもなくむしろ当然のことだ。
ただ、世間の学者が否定しているから。といって
大御本尊に不信を抱くようなことが
あってはいけないので念の為に記事にしてみる。

世間の学者が正宗教義を認めないのはなぜか?
これは、いたって簡単な理由で
世間の学者と我等日興門流とは
【学んでいること】が全然違うからである。
具体的言うと、学者が学んでいるのは釈迦の仏法で
我々が学んでいるのは日蓮大聖人の仏法ということだ。
釈迦の思想なり哲学なり仏法なりを学ぶのが【仏教学】
大聖人の仏法を学ぶのが【教学】
仏教学と教学は似て非なるものなのである。

釈迦(本)仏を前提としている学者が
日蓮本仏を唱えるわけないし
当然日蓮本仏を唱える日寛教学を認めるわけない。
認めないというか、
彼らには日寛上人のご指南を理解することすらできない。
それは、釈迦本仏の場合と日蓮本仏の場合では
すでに学び方が違うからだ。
仏教学とはいうならば帰納法であり、
対して教学とは演繹法。
こう言うより依文判義と依義判文
と言ったほうが分かりやすいか。
「仏教学」とは依文判義で
「教学」は依義判文
御書にしても経論にしても読み方が全然違うのである。
なぜ、そうなってしまうかというと
釈尊は具体的な法体を顕していない。
故にその経文をもってその義を理解する以外にない。
俺から見れば相当無駄な努力にしか見えない。
一生そんな研究したところで答えは絶対見つからない。
釈迦自身が「其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。」
とかいているのだから分かるはずがない。
その証拠に過去に、釈尊の説く「法」とは「これだ」と
なんの疑義も異論もなく納得いく答えを示した
仏教学者・宗教学者は誰一人いないの。
対して大聖人の仏法は既に「法体」を
戒壇大御本尊として顕しているのである。
「仏教学」のように、「文献」や「歴史」などに基づいて
釈迦の説かなかった「法体」を
推論する必要など微塵もないわけだ。

他宗の僧俗、世間の学者は
日寛上人の教学を「文底読み」
といって邪道と批判するが
そもそも、御書には何が書いてあるのか?といえば
法体たる大御本尊とその修行に関することが書いてある。
それ以外には何も書いていない。
これは御書に限らず釈尊の経論だって一緒だ。
御書や経典に書かれているのは「法門」である。
「法門」とは「法体」の説明である。だからこそ「法門」と呼ぶ。
ところが、釈迦仏法では「法体」が解かれていない
故に「法門」を学んで「法体」を悟らなければならない。
「法体」がハッキリしない以上
経論の読みその義(法体)を判断する以外にないのである。
それが「仏教学」の学習方法であり、
釈迦仏法を学ぶにあたってはこの方法が正しい。
釈迦仏法だけを学んでいれば
「文上読み」しかできないのである。
「文底読み」を批判するのは
「文上読み」しかできないからに他ならない。

しかし、日寛上人もそして我々も
法体である大御本尊を知っている。
だから、依義判文で御書を読むのである。
依義判文とは文底読みである。
全ては法体である一大秘法の大御本尊の説明である。
これを知って御書を読むのが「文底読み」だ。
依文判義で御書を読む、いわゆる「身延読み」は
俺からしてみれば、大聖人仏法の法門を
全くわかっていないトーシローとしか思えない。

そもそも御書の文上で読んで何がわかるのか?
文から義を判断しよとするから
皆、我見をいうのである。
御書を切り文して、
日興門流の教義を
日寛上人の教学を
法体たる大御本尊を
否定しようとする。
大御本尊を否定した時点で
「法門」である「御書」を否定したことになる。
それでいて文証もクソもないのだ。
他宗の僧俗や学者さん
そして大御本尊不受の創価会員と池田センセ
全員同じ穴のムジナだ。

◆一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、
当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり(草木成仏口決)

■明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る(依義判文抄)

ともあれ、「仏教学」と「教学」は
このように全く別物だ。
故に、「仏教学」の視点では
「教学」を語ることはできないし
「仏教学」と同じ方法で「教学」を学ぶと
間違えるので注意したいものだ。
最後に「御書がいまひとつわからない」という人は
おそらく、依文判義をしようとしていると思う。
一度、依義判文 で読んでみることをオススメする。
いままでわからなかったことが
わかるようになると思う。

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興味深く読ませていただきました

興味深く読ませていただきました。これまで管理人様の主張の肝心の部分が、実はよくわかっておりませんでしたが、少しクリアになりました。

記事を拝見したところ、現代仏教学というよりも、学術研究の基本的手法をご存知ないのでは、と思ってしまいました(不遜なことをお書きしてしまい、申し訳ございません、私の理解に問題がございましたら、ご指摘ください)。

演繹法、帰納法という手法を挙げておられましたが(創価学会の中で驚く程誤解されている概念です)、仏教学はむしろ演繹法的でしょう。それは、仏典や文献、史料から演繹的・分析的に主張を導き出すことがメインの仕事となります。帰納法的というならば、宗教社会学などが挙げられると思います。

いわゆる「日蓮正宗教学」は、演繹法・帰納法の枠を超えた宗内にしか通用しない解釈方法を採用しています。

世間の仏教学者は、釈迦本仏論を前提としているわけではありません。それを日蓮遺文から演繹的・分析的・論理的に、「日蓮は久遠実成の釈尊を仏としていた」と導出しています。日蓮本仏論は、日蓮遺文からは到底導き出せないにもかかわらず「日蓮は自分を本仏と自覚していた」という事を根拠にしていることに問題があるのだと思います。また、日蓮正宗はこの問題に関して、偽書の疑いが強い文書を用いすぎです(真偽問題自体を退ける考え方もありますが、そういった方は文献学の基本的方法を知らず、その限界をしめすこともできない事がおおい)。
日蓮本仏論は唱えるならば、「イエスではなくパウロがキリスト教を創ったのだ」というようなキリスト教的解釈に学んで、宗史を再構築する必要があると思います。

さらに本門戒壇の大御本尊一大秘法説に関しては、果たしてこれをどのように日蓮遺文から導き出すのか?全く不明です。これらの日蓮正宗教義は、「日蓮大聖人がそう仰っているから信じる」ではなく、「大石寺僧侶がそう言っているから信じる」に帰結せざるをえないため、今日性を持ち得ないのだと私は考えています。

私は学術的文献考証を万能と考えておりません。しかしそれを否定するならば、少なくとも以下の手順を踏むべきだと考えています。
① 学術研究のメタ理論を認識する
② 学術研究の方法の限界を示す
③ その限界を超えたものとして本仏義・本尊義を構築する
日蓮正宗には、こうした知的緊張度の高い任務をする事は不可能でしょう。もう1度有力な在家集団が出て来ればいいですが、彼らはもう創価学会で懲り懲りでしょうね。

また、「文底読み」に関しては、私は否定していないし、日蓮正宗がそれに固執し続けるならばそれでいいと思います。
しかし、それを根拠に他の宗教批判をする事は、現代社会では不可能、というかかなり反社会的だろうと思います。学問という、今日の世界の共通基盤を全く無視して成立した解釈による教義を判断軸に、他宗教批判すると、恐らく伝統仏教団体でなければ、カルトと言われると思います。その主張は、「お前らのやっている事は、俺らが信じていることと違っているから間違っている!」というものにならざるを得ないからです。
まぁせいぜい創価学会の「自語相違」を攻めるというありふれた批判くらいしかできないでしょうか。すくなくとも公共性のある論証を欠いた独善的教義に基づいた、「邪宗」「謗法」などの批判は、社会性を持ち得ないと思っています(これは創価学会がかつて盛んに繰り広げたものですね)。

また、「文底読み」を許容するとなると、どのようなテキスト解釈も読者の自由に委ねられるという、究極の「読者絶対主義」「解釈相対主義」に陥ると思います。その中でも、日寛の解釈を採用する必然性が、私には理解しかねております。また、そのような「読者絶対主義」「解釈相対主義」を採用すると、日寛の読み方もまた難しくなります。

私は、日蓮正宗の教義も創価学会のそれも、世間から見れば「どっちもどっち」だと思っています。
前者は日有や日寛のアクロバティックな解釈に依存しており、後者は池田大作という生きた人間の人生・思想を日蓮仏法の体現と規定しています。
どちらが正しいなどは、信者が好き好きで決めればいいことで、さっさと創共協定のような協定を結んで、お互い干渉しないべきだと思っています(あと50年くらいかかるかもしれません)。

長文書き連ねてしまい、失礼いたしました。。。
とはいえ、私の理解が不十分な点も多いかと存じます。どうか誤りはご指摘くださいませ。。。修正させていただきます。

No title

おはようございます。
御書にはニセ書も入っていると、ネットでみたことがあります。
その判断はどのようにしてしていますか?

あと、お寺で貰う新聞でハアと思うことがあります。
お盆のお話で目蓮尊者のお母様が地獄に落ちたのはお寺にご供養をしなかったから。

私は違うと思っています。目蓮尊者には良いお母様だけれども、他の人に慈悲の心がなかった、他の人に施ししなかったから、地獄に落ちたと思います。
お寺に供養しないと地獄に落ちるとか、脅迫ではないでしょうか?




青蓮さん

こんにちは。
最初に断っておきますが。私は青蓮さんの主張に対して批判を加えているわけじゃありません。
大聖人仏法を学ぶ上での話を書いています。そこを御理解下さい。

> 演繹法、帰納法という手法を挙げておられましたが(創価学会の中で驚く程誤解されている概念です)、仏教学はむしろ演繹法的でしょう。それは、仏典や文献、史料から演繹的・分析的に主張を導き出すことがメインの仕事となります。帰納法的というならば、宗教社会学などが挙げられると思います。

なるほど。先日も書きましたが私は現代仏教学をさほど学習していませんで認識に誤解があったかと思います。
だた、依文判義であることは間違いないと思います。

> 世間の仏教学者は、釈迦本仏論を前提としているわけではありません。それを日蓮遺文から演繹的・分析的・論理的に、「日蓮は久遠実成の釈尊を仏としていた」と導出しています。日蓮本仏論は、日蓮遺文からは到底導き出せないにもかかわらず「日蓮は自分を本仏と自覚していた」という事を根拠にしていることに問題があるのだと思います。

「日蓮本仏論」に関しては、私は「導き出せない」と結論付けるには根拠が乏しい。モチロン「日蓮本仏」を否定するならばそれで良いとは思いますが、身延や創価がソレを否定するのは間違っていると思ってます。この件についてはいずれ記事でと考えています。

>また、日蓮正宗はこの問題に関して、偽書の疑いが強い文書を用いすぎです(真偽問題自体を退ける考え方もありますが、そういった方は文献学の基本的方法を知らず、その限界をしめすこともできない事がおおい)。

偽書問題に関しては、これまた色々と主張がありますが、それに対しても後日記事にします。

> さらに本門戒壇の大御本尊一大秘法説に関しては、果たしてこれをどのように日蓮遺文から導き出すのか?全く不明です。これらの日蓮正宗教義は、「日蓮大聖人がそう仰っているから信じる」ではなく、「大石寺僧侶がそう言っているから信じる」に帰結せざるをえないため、今日性を持ち得ないのだと私は考えています。

この辺りは、「僧宝」やら「唯受一人」との絡みもあります。

> 私は学術的文献考証を万能と考えておりません。しかしそれを否定するならば、少なくとも以下の手順を踏むべきだと考えています。
> ① 学術研究のメタ理論を認識する
> ② 学術研究の方法の限界を示す
> ③ その限界を超えたものとして本仏義・本尊義を構築する
> 日蓮正宗には、こうした知的緊張度の高い任務をする事は不可能でしょう。もう1度有力な在家集団が出て来ればいいですが、彼らはもう創価学会で懲り懲りでしょうね。


そうですね。不可能でしょう。
それは創価の様な在家集団でも無理です。
青蓮さんが主張している通り、学術的考察と宗教的考察は別物です。
ですから、学術的に考察する人に対して「それが悪い」とは私は思いませんし
学術的考察を軽視するつもりもありません。
だた、身延や一部創価に見られるような「学術的考察」をもって
「信仰的考察」(教学)を批判するのであれば
こちらもその反論をしますよ。というだけの話です。
もっとも、そんな議論は無駄なのですが。

> また、「文底読み」に関しては、私は否定していないし、日蓮正宗がそれに固執し続けるならばそれでいいと思います。
> しかし、それを根拠に他の宗教批判をする事は、現代社会では不可能、というかかなり反社会的だろうと思います。学問という、今日の世界の共通基盤を全く無視して成立した解釈による教義を判断軸に、他宗教批判すると、恐らく伝統仏教団体でなければ、カルトと言われると思います。その主張は、「お前らのやっている事は、俺らが信じていることと違っているから間違っている!」というものにならざるを得ないからです。

それも一理はあります。
しかし、正宗の広めているのはある意味でいえば「日蓮が本仏である」という教義です。
固執でなく根本義なので変えることができません。
そしてそのような事をすればご指摘の通りカルトと非難されるでしょう。
鎌倉時代の日蓮大聖人など世間的にはカルトそのものと思われた事でしょう。
カルトの教祖日蓮など殺してしまえ。そんな感じじゃないでしょうか。

> まぁせいぜい創価学会の「自語相違」を攻めるというありふれた批判くらいしかできないでしょうか。すくなくとも公共性のある論証を欠いた独善的教義に基づいた、「邪宗」「謗法」などの批判は、社会性を持ち得ないと思っています(これは創価学会がかつて盛んに繰り広げたものですね)。

仰るとおりですが、宗教と言うのはすべからく独善的教義を持ち合わせていると思います。
それは宗教も持つ「純粋性」です。
どの宗教も「自分の宗派が正しい」と主張する。
どの宗派でも正しいよ。というと宗教ではなくなるのではないでしょうか。
それを独善と思えば、その人は「無宗教」を選ぶでしょう。
この「独善性」と「純粋性」の線引きは無いと思います。
「独善」か「純粋」かどちらか判断するのは個々の心情であり
これを科学的手法で解決することはできないと思います。


> また、「文底読み」を許容するとなると、どのようなテキスト解釈も読者の自由に委ねられるという、究極の「読者絶対主義」「解釈相対主義」に陥ると思います。その中でも、日寛の解釈を採用する必然性が、私には理解しかねております。また、そのような「読者絶対主義」「解釈相対主義」を採用すると、日寛の読み方もまた難しくなります。

「文底読み」とは記事にも書いた通り「依義判文」の読み方です。
ですから「読者絶対主義」「解釈絶対主義」に陥らないのです。
なぜなら、どのように読んでも最後は大御本尊に帰結するからです。
むしろ、文上だけ読むと「読者絶対主義」になります。
創価活動家のほとんどが「文上読み」です
ですから指導もマチマチ、自語相違も甚だしくなるのだと思います。

> 私は、日蓮正宗の教義も創価学会のそれも、世間から見れば「どっちもどっち」だと思っています。
> 前者は日有や日寛のアクロバティックな解釈に依存しており、後者は池田大作という生きた人間の人生・思想を日蓮仏法の体現と規定しています。
> どちらが正しいなどは、信者が好き好きで決めればいいことで、さっさと創共協定のような協定を結んで、お互い干渉しないべきだと思っています(あと50年くらいかかるかもしれません)。

ああ。そう主張されていますね。
そう、どっちが正しいかなんて信者が決めればいいのです。それは同感です。

> 長文書き連ねてしまい、失礼いたしました。。。
> とはいえ、私の理解が不十分な点も多いかと存じます。どうか誤りはご指摘くださいませ。。。修正させていただきます。

いえ誤りなどありませんよ。コチラこそ色々ご教授いただき感謝しています。
再度重ねて申し上げますが
私は、青蓮さんや仏教学者達の批判を目的に記事を書いたのではありません。
私が、このような記事を書いたのは
「大聖人仏法」を「信仰している」方に向けて
「大聖人仏法」を「信仰している」信者としての立場で書いています。
どうぞ、くれぐれも誤解なされないようにお願い申し上げます。

こんにちは。

> おはようございます。
> 御書にはニセ書も入っていると、ネットでみたことがあります。
> その判断はどのようにしてしていますか?

まず、偽書説は「説」であって真実ではないということです。
あとは、記事にも書きましたが「義」があるかどうかです。
真筆のあるなし。ではありません。
また御書は法体でもありません。
基本的には個人的には御書全集に掲載されている御書を一遍たりとも偽書とは思っていません。
別に盲信しているのでなく、
全ての御書に「義」があると思うからです。
(モチロン全篇読破は数回した上でそう思っています)

> あと、お寺で貰う新聞でハアと思うことがあります。
> お盆のお話で目蓮尊者のお母様が地獄に落ちたのはお寺にご供養をしなかったから。
> 私は違うと思っています。目蓮尊者には良いお母様だけれども、他の人に慈悲の心がなかった、他の人に施ししなかったから、地獄に落ちたと思います。
> お寺に供養しないと地獄に落ちるとか、脅迫ではないでしょうか?

ですね。目連の母は「慳貪の罪」で餓鬼界に落ちたので
かりんとうさんの解釈が正しいですね。
ただ救うには、「三宝」に供養するわけですから
「三宝一体の体」である大御本尊を御供養する。ということなりますね。
どっちにしても「寺」に供養するわけではいかと思います。

雑感

これまた難しい論議になってますね。  私は研究者の立場ではないから、思考研究の在り方にはあまり興味は抱きません。  
 青蓮さんのおっしゃる『仏教学はむしろ演繹法的でしょう』のところについては、科学的態度のことを仰ってるのかなと思いましたが。 あるいは要するに「まず釈迦ありき」ということかな・・

 だから、仮定・仮説を立てて肉迫し、そのとおりに導き出すというようなものではないと。。 おっちゃんには判りません(笑)

 いずれにせよ、教学は答えから入るものだとして習ってきましたので、
従前の手法とは異なるものか、と考えます。

 創価の場合、さらに「理は信を深め。。。」とあったように、身読、色読を奨励してきましたし、ただの哲学的な態度を否定しておりました。

 しかもそれは宗教一般に通じて言えることでしょう。

 そもそも日蓮教団の異端として、針金のように今日に至った宗派(宗門)は、思わる出会いから(あるいは企みから)、創価という組織によって世間に引きずり出されてしまいました。

 もとより、仏教教団中にあって、誰にも相手にされてはいなかったんですね。 卑近な言い方ですれば、「食うにも困る」状態だったと。

 「以信代慧」であっても腹は減る。  (これは余計でした)

 ともかく創価の参加でやっていけるようになった。 望外の蓄えも出来た。  創価はその宗教的権威でもって、新興宗教の汚名恥辱を免れ、一定の信者数を確保し、永続的に財源が担保されて、双方に恩恵はあったのでしょう。 歴史としてこれがひとつ。

 俗な面はそうとして、教学がまさに対立してしまった以上、これからは
「脱・大御本尊」そしてやがては「脱・日蓮」の方向に行くわけでしょうから、これからも創価も言いたいことが言える。  そこで問題は、取り残された信者はどうすればいいかのか、です。  大前提として 宗教の真実はその宗教者が証明するし、余人をもって代えがたいのではないか? 
 
 学ぶことは大切です。 でもなんのために学ぶか、といえば生きるためです。  良く生きたいというネイティブな感情でしょう。  人をしてモチベートさせるのは所詮そこです。

 私なぞがここに来させてもらう理由は、「そこ」にしかありません。

 創価教学の残影かもしれないけれども、管理人さんのおっしゃった
「依義判文」の立場をこの試練の中でも貫けるかどうか。。

 というか、それしかないわけです。  ここにきて御書の真贋だの、日寛師の検証だの、まして、大御本尊の真偽だのはたしかに切所ではあっても、もうスルーするしかありません。  そう、まず信じる己を信じるのみです。

 「御書を心肝に染め。。」しかないんですよね。

 創価流民の生き方は、そんなに小奇麗なものじゃない。 たとえ独りになろうと、御本尊様の元にしか、活路はない。

 どんなに滑稽に思われようが、これが信仰者的態度であるし、それ以外にない。 まさかここにきて、再度『種脱相対』を突きつけられるとは思いもしませんでしたが・

 そんなことを思いました。

 

RAMBOさん

こんばんは。

> これまた難しい論議になってますね。  私は研究者の立場ではないから、思考研究の在り方にはあまり興味は抱きません。

信仰者と研究者で立場が違いますからね。
  
>  青蓮さんのおっしゃる『仏教学はむしろ演繹法的でしょう』のところについては、科学的態度のことを仰ってるのかなと思いましたが。 あるいは要するに「まず釈迦ありき」ということかな・・
>  だから、仮定・仮説を立てて肉迫し、そのとおりに導き出すというようなものではないと。。 おっちゃんには判りません(笑)

個人的には帰納法かな?と思ったのですが私も仏教学は詳しくないので。

>  いずれにせよ、教学は答えから入るものだとして習ってきましたので、
> 従前の手法とは異なるものか、と考えます。

そうですね。答えは最初からあるのが教学だと思ってます。

>  創価流民の生き方は、そんなに小奇麗なものじゃない。 たとえ独りになろうと、御本尊様の元にしか、活路はない。
>  どんなに滑稽に思われようが、これが信仰者的態度であるし、それ以外にない。 まさかここにきて、再度『種脱相対』を突きつけられるとは思いもしませんでしたが・

そうですね。教義に関する論争など戯論にすぎません。
大御本尊のことを誰がなんといってみても、「現実存在してる」ことは否定できない。
ソレを信じるのが日興門流の信者だすから。

管理人様

小生も皆様と同じく研究者ではなく信仰者ですので、コメントに窮する内容ですが、松本佐一郎氏の「富士門徒の沿革と教義」がヒントになるのではと愚考しております。
この本は御住職からお借りして、只今、時間を見つけては拝読しております。
日興門流を中心とした曼陀羅本尊の学術研究に挑んだ書籍です。
読み進めていくうちに、大石寺に行きたくなる衝動に駆られます。
不思議なチカラを持った一冊です。

大変失礼いたしました

管理人さま

コメントいただきまして、ありがとうございます。
私の書き方がマズかったと反省しております。私は、管理人さまより批判を受けたという認識もございませんし、管理人さまを批判しようというつもりも毛頭ございません。
ただ、論題の性質上(宗教という人間の心の深奥に関するものの正当性に関係する問題)、どうしても立場の違いが言語に先鋭的に現れてしまいますね。。。

大変失礼いたしました。私は管理人さまを尊敬しており、様々有意な対話ができればという以上の思いはございません。

文底読みの件、理解いたしました。
私の理解では、「大御本尊は一大秘法である」「日蓮は末法の御本仏である」というテキスト外の命題を、日蓮遺文というテキストを読む際の絶対前提とするということかなと思います。その前提を共有する限りでは、多様な解釈を認めるという、ものかと理解しました。管理人さまが以前に書かれた日蓮遺文解釈も拝見しましたが、恐らく近世以前の聖書学的な解釈方法だと理解しました。
それは今日においても、私,プライベートな領域の信仰活動においては非常に重要だと思います。私も、日蓮曼荼羅こそが本門の本尊という事を必ずしもテキストからではなくて、宗教的信念から前提し、日蓮遺文を読むことにしています(これは学術的関心を括弧に入れ、宗教的関心に基づいてテキストを読むという、管理人さまとも共通したものだと思っています)

ただ、日蓮正宗が言うような、「それらの命題が日蓮遺文というテキスト内から演繹的に導出される」という根拠には、疑問を持っております。これは、一大秘法説や日蓮本仏論を否定するものではなく、それの根拠づけに問題があるということですね。それらはテキスト外の命題と言わざるを得ないからです(日蓮本仏論については私も長年信じていたので辛いものがありますが)。

また私は他宗派や教団への批判は、社会的に了解された地盤(学術的成果や社会的通念、政教分離などの現代社会の成立基盤となっている思想)に基づいてされるべきだと思っています。もしくは、自分の信奉する教団と、批判の矛先を向ける集団が共通の聖典・経典を採用している場合は、それを基に批判するのも正当だと思います。日蓮もこのような批判を行っていますね。

しかし、日蓮宗系教団や創価学会などを批判する「謗法」と批判する際に、日寛や個人的信仰心に依拠せざるを得ない大御本尊信仰や日蓮本仏論などを持ち出す事は、果たして正当なのかという点に疑問があります。
できるとしたら、「創価学会の自語相違」を攻めるくらいだと思っています。
「信教の自由」と「政教分離」が大前提となっている現代社会において、他宗教批判が社会という「公」の領域で行われる以上、それにある程度の公共性が求められるのは当然かと思っています。折伏的な活動においては、自身の立場を相対化するという手続きは踏み、批判受けた際に自らの社会的行為の正当性は説明できるようにすべきだと考えています。

またしても色々と書いてしまい、申し訳ございません。
引き続き何卒宜しくお願い致します。

古刹信徒さん

こんにちは。

> 小生も皆様と同じく研究者ではなく信仰者ですので、コメントに窮する内容ですが、松本佐一郎氏の「富士門徒の沿革と教義」がヒントになるのではと愚考しております。
> この本は御住職からお借りして、只今、時間を見つけては拝読しております。
> 日興門流を中心とした曼陀羅本尊の学術研究に挑んだ書籍です。
> 読み進めていくうちに、大石寺に行きたくなる衝動に駆られます。
> 不思議なチカラを持った一冊です。

そうですか!今でも販売してるのですか?今度調べてみます。

青蓮さん

こんにちは。

> > 私の書き方がマズかったと反省しております。私は、管理人さまより批判を受けたという認識もございませんし

そうですか。それなら良かったです。安心しました。

> 大変失礼いたしました。私は管理人さまを尊敬しており、様々有意な対話ができればという以上の思いはございません。

私も同じ思いです。
私は青蓮さんが仏教学を学んでいるのは、決して日蓮仏法を否定するためではない。と感じています。
寧ろ逆に大聖人仏法を世間一般の人々に広めるための研鑽であるとみています。
仏教は釈迦の教え。釈迦は仏様。それが世間一般の認識です。
その世間の人々との間にコンセンセスを得る為には、いわゆる日寛教学や創価教学ではなく
一般的な仏教学の見地から論証する必要がある。
これはかなり理論的に難しい方法論ですが
それに敢えて挑戦されている。と思っています。
ですから、以前記事に書きましたが、青蓮さんは「ニュータイプ」だと思うのです。
そして、今後の青蓮さんの研鑽の結果も楽しみでもあります。
私の様な、コテコテ日寛教学の者には気づけない部分を気づくのだろうと楽しみなのです。
理論の完成は一朝一夕ではできませんよね。
というか仏法に関しては完成は無いですよね。
知れば知るほど答えが遠くなっていく。そんな気がします。

その上で、私が仏教学見地における正宗教義を否定する論に反論を書いているのは
身延や最近一部学会員の中にも「仏教学」を振り回し
大御本尊をはじめとする大聖人仏法の根幹を否定する方々が増えてきた事です。
いずれは、そのような批判に対する反論を書こうと思っていましたが
青蓮さんのブログを読み、いい機会と思い書かせてもらっています。
もちろん、私の個人的見解ですからもし青蓮さんが読んで何か感じる事が有れば
否定でも肯定でも構いませんのでコメントしてください。
そこでまたお互いに何か発見できればいいな、と思います。
今後もよろしくお願いします。
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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