理証による日蓮本仏論

日蓮大聖人を御本仏とする日興門流と
それを否定する身延をはじめとする他宗派。
日蓮は自分を本仏だと言っていない。とか
こちらが文証出せば今度は「それは偽書」だ。とか
まぁ話が噛み合わない。(まぁ相手もそう思ってるが)
正直、「日蓮本仏論」の話になると
「文証」での論証の応酬は難しい
(てか、身延系は自分達に都合が悪い御書は全部偽書にするからね)
じゃぁどうすんの?って話になるのだが
「文証」がダメとなると、次は「理証」と言う事になる。
なので今回は、「文証」でなく「理証」で
「日蓮本仏論」を語ってみようと思う。

まず、釈迦本仏を主張する身延などの他宗派には
彼等が主張することと同じことを質問したい。
釈迦自身が自分を仏である。という「文証」はあるのか?と。
これは、もう答えは決まっていて
そんな「文証」はない。のである。
なぜか?
それは釈迦は「無記」だから。
つまり釈迦自身が文字に残した経典は
ただの一つも存在しない。
(釈迦在世当時は文字で残す文化・習慣はなかったらしい)
これは仏教学上の常識だと思う。
釈迦の経典は後世の弟子が編集したものである。
それを採用すならば、大聖人の弟子である
日寛上人などの文証も採用して良い事になる。
逆に、「日寛教学」は後世の人間が書いたものだから
間違えている。というならば、
釈迦の経典は全て後世の人間が書いたものだから
全て間違っている。という解釈になる。要するに
日蓮本仏論を否定する材料と同じ数だけ
釈迦本仏論を否定する材料もあるって事だ。
にも関わらず、古今東西「日蓮本仏論」に
異論をはさみ、批判を加える人達が後を絶たない。

次に、どちらが本仏なのか?誰が本仏なのか?と
道理に照らして考察すると
釈迦ではなく大聖人が御本仏である。
と言う方が道理として適っていると思う訳だ。
理由は釈尊は「法体」を示していないから。だ。
釈尊の「教え」は数多くあっただろうが
その「教え」の元になる「法体」は全く示していない。
釈迦の教えの根本は、
「四諦」である事はほとんどの人が認識している思う。
そして、その修行は「八正道」である。
色んな事を言ってはいるが、結局「八正道」の修行に帰結する。
それは分かったが「四諦」は法門・法理だし、「八正道」は修行法。
肝心要の「法体」つまり「本尊」はなんなのさ?
全く教えていない。
教えないどろか、質問したら
「どうせ言ってもオマエ等には理解できね~よ」で終わりだ(笑)
これでいて、釈迦を仏として立てている多くの宗派は
自分達の本尊や修行が釈迦の本意であると
「確実」に証明することができるのか?
答えは「NO」である。
釈迦は法体(本尊)について、何一つ言及してないし
その修行方法はマチマチだ。
他宗派では「お釈迦様の教え」なんていうが
仏教学で判断すれば「お釈迦様の教え」なんて
ただの一言もない。のである。
「お釈迦様の教え」って結局「どれ」なのか?
全く分からないのである。
「お釈迦様の教え」なんてあるようなないようなモノだ。
それでも、正・像の衆生が成仏できたのは
いわゆる「本已有善」の衆生だからであり
だからこそ釈尊は「法体」を説かなかった。
「法体」を説かずとも、法門と修行だけ教えれば事済んだわけだ。
なので、正・像の衆生においては本仏でいいっちゃいい。
(まぁ、根本的は違うけど)
が、我等は「本未有善」の衆生である。
そんな我々が「法体」を説いていない
釈尊を「本仏」と言う立場に置くのは、納得感がないと思わないか?
俺には「法体」を分かっていない爺さんを
永遠の指導者と呼ぶくらいに納得感が無い。

それはさておき、他宗の中で更に納得のいかないのは
身延を筆頭に「南無妙法蓮華経」の題目を唱える教団が
日蓮本仏を否定することである。
当たり前の事を書くようで恐縮だが
「南無妙法蓮華経」なんて、釈迦は一言も言ってないし
ましてや、口唱唱題の修行をするように言うはずもない。
唱題は、日蓮大聖人の教えである。
この、日蓮大聖人がもし身延の言うように菩薩であるならば
この修行は、仏(釈迦)が言わない事(釈迦の経典に書いていない事)を
菩薩が勝手に推奨したことになるのだから用いるのはおかしい。

◆等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用ゆべからず(開目抄下)

また、大聖人が鎌倉時代に生まれた一人の人間であるのなら尚更である。
にもかからず、日蓮宗やその他宗派で唱題行をしているくせに
釈迦仏を本仏と言って、
更には自分達を「仏教」であると宣揚しているのは
どう考えてみても道理に合わないのである。
釈迦本仏というならば
釈迦の木画二像を本尊として、
「南無釈迦仏」と唱えるべきだろ
(それでも釈迦仏自身はそんなこと言っていないから「仏教」じゃないが)
大聖人の顕わされた曼荼羅を本尊とし
大聖人の教えである「南無妙法蓮華経」を唱題し
それを「仏教」「仏法」と言うならば
大聖人が御本仏である。というのは当然の事だし
それでこそ「道理」も通ると言うもんじゃないか。
三大秘法を顕わされ残されたのは、紛れもなく大聖人。
これは「仏教学上」においても否定することはできない。
ならば、「南無妙法蓮華経」の題目をあげる宗派は
「日蓮本仏」でなければならない。
それを否定するのならば、自身を「仏教」「仏法」と言うのはやめるべきだ。

仏とは、「法体」を顕わし、修行を教えるから「仏」なのである。
これを「開示悟入」といい、仏の出世の本懐という。
大聖人は、法体である大御本尊をを顕わし
修行である本門の題目を教えた
それを信じて実践する者にとって大聖人以外に御本仏はいない。
逆にいえば、法体であり大聖人の色心二法の大御本尊を捨ててしまえば
それは「日蓮仏法」ではない。
いくら、会則に「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぐ」なんて書いてあっても
大御本尊を受持の対象から外したら
そんな会則は有名無実なのである。
大聖人を御本仏と仰げないから
大御本尊を受持しない。と言えるのだよ。

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末法の御本尊仏=?

いつも大変お世話になります。
勉強になります。

南無妙法蓮華経と唱える以上、
日蓮大聖人様および大御本尊様を
信仰の対象にしない事は、
イコール邪宗邪義だと思います

管理人さん

お疲れ様でした。

 「本未有善」 懐かしい用語です。  五百塵点劫の当初から我々は
全く釈尊には縁もゆかりもなかった。  下種も熟益も受けず、末法今時に
放り出された第三類でした。

 法体と修行を顕された日蓮大聖人にお仕えするしか、他に道はないわけです。

 そこんとこが創価についてきた最大の理由だったはず。 またそれを教えた(ことになっている)池田氏だからこそ、信じてきた(人師として)。

 ここにきて、梯子の外し方があんまり非道いですね。

 今回も特に胸にストンとおちる教授(講義)をありがとうございました。

 でも、創価の婦人は特に度し難く、ご苦労が多かろうとお察しします。
 この稿を読んでも何が何だか、、、でしょうね、、

 お互い、ここらで勝負ですね。

退転壮年部おじさん さん

こんにちは。

> 南無妙法蓮華経と唱える以上、
> 日蓮大聖人様および大御本尊様を
> 信仰の対象にしない事は、
> イコール邪宗邪義だと思います

その通りです。
本来は「日蓮本仏論」なんて当然の事で
そんなことをいちいち論証する必要もないと思ってます。
大聖人の御本尊に題目を上げる事
それは大聖人を御本仏と信じているからですし
そうでないなら他の本尊、他の修行をすればいいと思ってます。

RAMBOさん

こんにちは。

>  「本未有善」 懐かしい用語です。  五百塵点劫の当初から我々は
> 全く釈尊には縁もゆかりもなかった。  下種も熟益も受けず、末法今時に
> 放り出された第三類でした。
>  法体と修行を顕された日蓮大聖人にお仕えするしか、他に道はないわけです。
>  そこんとこが創価についてきた最大の理由だったはず。 またそれを教えた(ことになっている)池田氏だからこそ、信じてきた(人師として)。
>  ここにきて、梯子の外し方があんまり非道いですね。

本当にそう思います。「大聖人を末法の御本仏」としているなんて、よくも言えたもんだと思います。

>  でも、創価の婦人は特に度し難く、ご苦労が多かろうとお察しします。
>  この稿を読んでも何が何だか、、、でしょうね、、
>  お互い、ここらで勝負ですね。

ですね。
9日に、婦人部の幹部?さんに会う事になりました。
まぁ、どうなる事やら。です。

創価は何処へ行く?

管理人さん、こんにちは。
SOKA2015のmacskaです。
多く納得のいく内容で、スッキリ読ませていただきました。

身延などが偽書とするのは相承が無いために見たことも無い御書を出されて、御真筆が無いとか上古の写本が無いとか難癖をつけて、持論に有利な方向へ持っていこうとしているだけですね。文献学的見地からすればもっともらしく聞こえますが、私らは信仰者であって文献学者ではありません。よって立つ立場が違うのですから議論になりませんでしょう。

御書の凡例で「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」と堀上人が申されています。学問をしている人は文献学的見地でものを云えばいいでしょう。しかし信仰者として大御本尊を信じ修行するものは、「信行に資する」御書が載っている御書全集はすべて大聖人の御金言ととらえて修行すべきと考えます。

創価は宗門をボロカスに云いますが、宗門に頼っている部分が多くあることをどう考えているのでしょう。学会員が受持する御本尊は創立から現在に至るまで、すべて宗門の法主が書写した御本尊です。御真筆を書写したものがすべて「本門の本尊」であるなら、池上へでも行って土産曼荼羅を購入して配ればいいんです。

大聖人を末法の御本仏と仰げない輩や、首題の下に「日蓮」ではなく自身の日号を躊躇いもなく書く輩が書写した本尊まで「本門の本尊」とする神経が知れません。しかしそれを何の疑問も抱かずに受け入れている会員の神経も同様です。創価が無謬とでも考えているのでしょうか。自らの思考を放棄したものたちの集団になってしまったようです。

平成生まれの大御本尊を知らない世代が増えてきました。創価が教えないのですから知らなくて当たり前です。久遠元初自受用報身如来の御當体が宗門の手にあることが我慢ならないのでしょう。そんなつまらない感情と、たかだか二十数年の年月の流れをもって、久遠から尽未来歳までの大御本尊と訣別するなど、愚の骨頂としか思えません。

現在の会長も事務総長も東大卒です。頭はいいのかもしれませんが日蓮仏法には疎いと思わざるを得ません。目先のことにとらわれて、コンサルティング会社にいいようにあしらわれて、自らの無能と力の無さを露呈しているだけに見えて仕方ありません。要するに頭はいいかもしれませんが、愚痴の者なのですね。

長々とうっ憤晴らしのような話になってしまい申し訳ありません。このように書きましたが、私に創価を発迹顕本させるだけの力はありません。しかしもし、その時が来たなら、微力なりとも出せるものは出そうと考えています。

macska

macska さん

こんばんは。

> SOKA2015のmacskaです。

はい。ブログ読ませていただいています。

> 身延などが偽書とするのは相承が無いために見たことも無い御書を出されて、御真筆が無いとか上古の写本が無いとか難癖をつけて、持論に有利な方向へ持っていこうとしているだけですね。文献学的見地からすればもっともらしく聞こえますが、私らは信仰者であって文献学者ではありません。よって立つ立場が違うのですから議論になりませんでしょう。

身延信者と対論を何度もしましたが、文証でコンセンサスを得ることはできません。彼らは、自分達の都合のいい御書は引用しますが、都合が悪いと「偽書」というので。
ですから、身延との対論は「理証」で行うわけです。すると彼らの論はすぐに破綻します。

> 御書の凡例で「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」と堀上人が申されています。学問をしている人は文献学的見地でものを云えばいいでしょう。しかし信仰者として大御本尊を信じ修行するものは、「信行に資する」御書が載っている御書全集はすべて大聖人の御金言ととらえて修行すべきと考えます。

その通りですが、最近じゃ学会活動家も身延ばりに「偽書論」が言ってきます(草木成仏口決とか)それと「後加文」ですね。
全く話になりせんよ(笑)

> 創価は宗門をボロカスに云いますが、宗門に頼っている部分が多くあることをどう考えているのでしょう。学会員が受持する御本尊は創立から現在に至るまで、すべて宗門の法主が書写した御本尊です。御真筆を書写したものがすべて「本門の本尊」であるなら、池上へでも行って土産曼荼羅を購入して配ればいいんです。

はい。そうです。ネットでも掛け軸買えますし。

> 大聖人を末法の御本仏と仰げない輩や、首題の下に「日蓮」ではなく自身の日号を躊躇いもなく書く輩が書写した本尊まで「本門の本尊」とする神経が知れません。しかしそれを何の疑問も抱かずに受け入れている会員の神経も同様です。創価が無謬とでも考えているのでしょうか。自らの思考を放棄したものたちの集団になってしまったようです。

全ては「教学」がないからです。自ら「学び」を放棄しているのですね。

> 平成生まれの大御本尊を知らない世代が増えてきました。創価が教えないのですから知らなくて当たり前です。久遠元初自受用報身如来の御當体が宗門の手にあることが我慢ならないのでしょう。そんなつまらない感情と、たかだか二十数年の年月の流れをもって、久遠から尽未来歳までの大御本尊と訣別するなど、愚の骨頂としか思えません。

愚の骨頂というよりも、謗法です。二十数年で謗法団体になったのです。

> 現在の会長も事務総長も東大卒です。頭はいいのかもしれませんが日蓮仏法には疎いと思わざるを得ません。目先のことにとらわれて、コンサルティング会社にいいようにあしらわれて、自らの無能と力の無さを露呈しているだけに見えて仕方ありません。要するに頭はいいかもしれませんが、愚痴の者なのですね。

東大出ても「仏の智慧」は分からない。そう大聖人も釈尊も言ってます。

◆寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり(中略)寿量品の仏をしらざる者は父統の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり(開目抄下)

彼等のような者を「才能のある畜生」という。そう大聖人がおおせです。

> 長々とうっ憤晴らしのような話になってしまい申し訳ありません。

お気になさらず、いくらでも鬱憤を晴らしてください。大歓迎です。

>このように書きましたが、私に創価を発迹顕本させるだけの力はありません。しかしもし、その時が来たなら、微力なりとも出せるものは出そうと考えています。

発迹顕本の前には動執生疑が必要です。macska さんのブログは十分その役目を果たしていると思います。(なので読ませてもらっています)今後もバンバン書いてください。
また、いつでもお好きなときに、お好きなコメント書き込んでくださいって結構です。
今後もよろしくお願いします。

長文失礼します。いつも勉強させていただいております・

本記事も興味深く読ませていただきました。

日蓮正宗のような「日蓮は自己自身を本仏と規定していた」という根拠に基づいた日蓮本仏論よりも、管理人さまがされたような「日蓮を本仏と信じる自分たちこそ正統」という論の方が、かなり説得的であると思います。

私の理解では、管理人さまの日蓮本仏論の根拠は、以下になるかと思います。
●釈迦本仏論の背理法的証明
➡もし日蓮本仏論をとらずに、釈迦本仏論を採用すると、①釈尊自身の説いた教説が不明瞭である、②釈尊は現代において広く実践可能な修行法を説いていないという問題が生じる。ゆえに、日蓮本仏論の方が理に適っている。

●日蓮非本仏論の内在的矛盾の指摘による証明
➡日蓮曼荼羅を信仰の対象としていながら、その曼荼羅を遺した日蓮を仏としない事は非合理である。また、日蓮を(上行菩薩などの)菩薩と規定するならば、それは「仏法(仏が説いた法)」というより、「菩薩法」というべきであり、概念的に矛盾する。

これらは道理に適っていると思います。大変勉強になりました。
私と管理人さまは立場が異なりますが、信仰心という点において大いに学ばせていただいております。
ありがとうございます。

以下、私が日蓮宗系の文献や、近代以降の仏教思想家の著作を読んだ限りでの、「釈尊本仏論」理解を記述させていただきます(現場の信者レベルでは知りませんが)。いつも申し訳ございません。

●背理法的証明について
➡管理人さまの証明は、「釈尊とはインドに生まれた一人の人物(史的釈尊)である」という事を、大前提としているのだろうと思います。

ただ、今日の釈迦本仏論は『法華経』に説かれる「久遠実成の釈尊」という、超越的な実在を本仏としているものが大半です。管理人さまご指摘の通り、釈尊の教えを史学的に確定する事は難しく、まぁかなり好き勝手に色んな仏典が後世につくられていますし、『法華経』もその例外ではないのでしょう。「インドに生まれた一人の人間・釈尊(史的釈尊)こそ本仏」という釈迦本仏論は、かなり教義構築が難しい、というか不可能なのはおっしゃる通りです。
日蓮自身も遺文を読む限り、日蓮自身も「史的釈尊本仏論」をとっています(彼は時代的制約から、『法華経』が釈尊直説と思っていた)。しかし今日的に見れば、それはかなり問題があり、「日蓮原理主義」的な立場をとらない限り、日蓮自身の信じていた本仏論をそのまま受容するのは難しいのが現状です。
そこで2つの立場が出来ますね。
1つは、管理人さまのような日蓮自身を本仏とするもの。そしてもう1つが、『法華経』に説かれる久遠実成の釈尊を本仏とするものです。
私は後者をとっています。理由として、日蓮自身が何を信じていたかという点に主眼を置くべきだと考えていること。また日蓮の理論化した唱題行は、彼の完全なる独創というより、当時の仏教学的蓄積の上に出ているものであり、あくまで日蓮の『法華経』身読に基づいていること。さらに、『法華経』を通じて、本仏・釈尊にアクセスできるというのが、日蓮思想の特筆点最大のものの1つだからです。また、「釈尊の説は力を失ったから日蓮本仏」的な、釈尊否定に基づいた日蓮本仏論は、論証に成功した人がいない。むしろ、日蓮が先駆け的に久遠釈尊を本仏とした宗教体系を構築した、という方が文献的に見て自然だからです。

●日蓮非本仏論の内在的矛盾について
恐らく、「仏教」というもの自体の考え方、「仏」の概念規定が、異なることから議論が生じているのでしょうね。
日蓮宗内にもかなり議論があるようですが、彼らは「特定人物を絶対的仏としない」という発想なのだと思います。

管理人さまの論証は、
・特定人物としての仏が説いた法こそ、仏法である
・ゆえに釈尊か日蓮どちらかが仏である(少なくとも日蓮系教団においてはどちらか)
・釈尊は法の肝心を説いていない、また日蓮曼荼羅を信仰の対象としている以上、日蓮を本仏とすべきである
というものかと思います。
ただ「特定人物が仏」という発想自体、多くの論者がとっていないようです。また、「日蓮曼荼羅を信仰の対象としているのだから、日蓮本仏論をとるべき」というのも、彼らのパラダイムの中では通用しません。また大御本尊云々の前に、曼荼羅を本尊とすべきか、という点も、日蓮遺文からは一義的に確定しづらいですからね。

私は、特定人物を「本仏」とする発想こそ、あまり「仏教的」ではないと考えています(これは私の考えであり、前述の通り、仏教は色んな思想が玉石混交です)。むしろ、あえて「仏」を概念化するならば、それは「実体」や「超越的実在」のような絶対的な真理や概念という方が、私や多くの仏教者の見解のようです。
そのような「超越的実体」が歴史的に生成したプロセスが仏教史であり(その意味では釈尊も日蓮も相対的な存在です)、「それへのアクセス方法・実践方法を日蓮は生涯の中で理論化した」と私は信じています。

池田氏もこのような世界観を説いていると、私は考えています。それはスピノザ『エティカ』やアインシュタイン的な汎神論的と、カントの批判哲学やその系譜に連なる牧口常三郎の価値哲学、キルケゴールやカール・バルトのような実存主義・危機神学、宗教多元主義などを止揚したものと解釈できると思っています(これは現在執筆中です)。
日蓮教学は時代的制約から問題があるため、ある程度現代化しなければならないことを考慮すると、それらの哲学が仏教的にあまりに矛盾しない限り、私は問題ないと思います(まぁ日蓮正宗や日蓮系新宗教系教団も含めて、日蓮系教団の教義構築は結構「何でもアリ」なので)。また日蓮正宗のように閉鎖的な教義保持は創価学会には無理そうなので、そちらの方が自然かなと思います。

ただ、これは難しいですね。。。。
「日蓮本仏論」と「釈尊本仏論」は、本仏をどちらにするかという一見単純な問題ではなく、前提としている仏教観やパラダイム自体が異なっています。それは究極的には、「日蓮は本仏だ」という個人的信念に基づかざるを得ないと思っています。

しかし、やや引っかかるのは、それを根拠に、他者(身延など)を「謗法」「不信心」などという批判をする事が正当なのか?という点です。日蓮本仏論は、文献学という今日の世界で公共性を持った地盤では説得力が皆無であり、まぁ客観的に見て「トンデモ」「カルト」と呼ばれても仕方がないものだと思います。これを個人の次元で信じるのは自由ですが、それを「私は信じる」という個人的な信仰観念や宗教的世界観に基づいて、他教団批判をする際には、どこに正当性を求めればいいのか、やや疑問です。

「理証」とは、個人的信仰観念や宗教的世界観という閉鎖的枠内で「自然」とされる教義を正当化する役割しか果たさないものだと思います。「特定の史的実在人物を本仏とすべきである」「法本尊信仰者も、それを図顕した人物を本仏と仰ぐべきである」などの個人的信念に基づいた命題は、根拠づける事が不可能であり、議論は平行線を辿らざるを得ません。

私は「日蓮本仏論」を採用することは個人的信仰の次元では全く問題ないと思いますが、日蓮正宗や創価学会がそれを他教団批判に用いていることに対して、懐疑的です。それは結局、「自分たちが信じているものの方が正しい」という、ドグマティックな論争にならざるを得ないからです。そのような論争をするならば、「実在人物を仏とすべきである」「日蓮自身が何を信じていたかよりも、彼を本仏と仰いだ後世の人間の説を優先すべきである」というような、議論の基本的枠組みを確定させる試みが必要だと思っています。
本点、管理人さまのお考えはいかがでしょうか?
ご多忙中申し訳ございません、スルーしていただいて構いません(汗)。

いつも長文失礼いたします。。。。

青蓮さんへ、横槍

管理人さん、横槍、失礼いたします。
青蓮さん、文献学的論考、興味深く読みました。

日蓮本仏論は百六箇抄や御義口伝を見れば一目瞭然ですが、文献学者はこれを偽書として、大聖人はご自身を本仏とは云っていないとしています。御書全集に載っているものの半数は真偽未決か偽書であるとしています。

先にも述べましたが御書の凡例に堀上人は、「新古各種の刊本中に真偽未決の問題となるものも信行に資するものは之を取る」と仰せです。御書発刊に際し戸田先生もこれに疑義を差し挟んでいません。そして百六箇抄も御義口伝も御書全集に載っています。

御義口伝の偽書疑惑には池田先生が講義の中で破折されています。このようにかつての創価及び宗門において、大聖人は末法の御本仏であり、出世の本懐は三秘総在の戒壇の大御本尊でありました。何処をどう間違えたか現在創価は迷走中ですが。

法報応の三身という概念をご存知でしょうか。仏の三種類の現れ方を示しています。日蓮仏法で云うところの仏を三身に振り分けますと、法:南無妙法蓮華経、報:戒壇の大御本尊、応:日蓮大聖人、ということになり、さらには人法一箇であり報中論三となります。

私が信仰しているのは日蓮仏法です。これは管理人さんも同じ立場と考えています。日蓮仏法においては日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、戒壇の大御本尊を報中論三の出世の本懐と信じて、一生成仏を目指して修行することが肝要です。

この日蓮仏法を私は創価の庭で学びました。その意味で創価には絶大な恩があると感じています。現在創価中枢が文献学的論考に重きを置き、大御本尊を受持の対象としないとしたことは、城者破城であり獅子身中の虫と断ぜざるを得ません。

それ故ご存知の通り、あれこれと思索を重ね物申しております。これは私の中では創価に対する恩返しなのです。傍目には造反者と映るかもしれませんが、日蓮仏法を曲解し会員を誤った道へ進めようとしている創価を正したいだけなのです。

「何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし」と曾谷殿御返事にあります。現在の創価中枢が進む道が謗法であるとしたら、会員が如何に御本尊をたもっていても、創価について行く限り地獄行きが確定してしまうのです。

報恩抄に「無間地獄の道をふさぎぬ」とありますが、身の程を弁えずに云えば、そのお手伝いができればと考えています。再来年、還暦を迎えるそう若くない身なので、たいしたことはできないと思いますが、気概だけはあるつもりです。

最後に他教団批判について一言。他教団批判は大聖人が率先して実践されたことです。大聖人はご自身が本仏だとして他教団を批判したことは一度もありません。誤った宗教が人を不幸にすることを嘆かれての行動でした。

日蓮本仏論を用いずとも他教団批判は可能でしょう。しかしそれはためにするものではなく、民衆救済の熱誠ほとばしる境涯から出たものでなければ意味が無いでしょう。日蓮大聖人がなされたように。

よこやり、失礼いたしました。

macska

mascaさま

Mascaさま

コメント、ありがとうございます。
(管理人さま、人さまのブログで色々と書き散らして申し訳ございません)

●偽書問題について(敢えて客観的な書き方をしています)
mascaさまのご意見の私なりの理解は、以下の通りです。

主張:「御義口伝」「百六箇抄」など、大石寺版・創価学会版に収録されている御書は、すべて日蓮の手によるものである
根拠:堀日淳、戸田会長、池田会長が偽書説を破折しているから

本件、私の考えは、偽書問題に関する判定は主観的になされるものではなく、客観的な「学問」「理性」によってなされるものです。ですので、大石寺僧侶や創価学会会長の意見に無条件に絶対的権威を与えるのではなく、その論証の方法を見るべきです。でなければ、宗派内部の偏狭な言説に終始してしまいます。

とはいえこれは、信仰者としてのの上述二抄に向き合うことを、否定するものではないという事を付言しておきます。

●「三身」概念について
存じ上げております。
それはあくまで、日蓮正宗が、「日蓮本仏論」を前提とした上で、「三身」を独自に解釈したものです。
ですので、議論の争点は「三身」ではなく、「日蓮本仏論」それ自体にあると考えています。

●「日蓮仏法」の定義について
そのような定義で信仰をされる事は、何の問題もないと思います。
しかしそれを基準に、「邪教」判定をすることに私は懐疑的です。

●他宗派批判における動機主義において
mascaさまは、他宗派批判の正当性の根拠を「衆生救済への慈悲」という行為者の「動機」に求められているように思われます。しかし私は、そうした見方に懐疑的です。すこし極端な話をします。例えば、顕正会の会員と話していると、彼らは相手の救済や日本の再興に熱烈たる意志を燃やしている事が伝わってきます。しかし、その「動機」を根拠に、その反社会的運動に正当性を持たせる事は困難でしょう。

少なくとも私は、他宗批判をする際には、「学術という社会における共通言語を用いた、自教団の理論構築」は不可欠であり考えます。その点、これまでの創価学会は、閉鎖的な教義に依拠してきたため、まともな議論が成立してきませんでした。その他宗批判も、社会性・公共性はほとんどありません。この改善は今後の課題であり、現在も取り組んでおられる方が大勢おられます。
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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