青連さんのコメントへ(理証による日蓮本仏論)

青連さんこんにちは。コメントありがとうございます。
コメント欄にリコメ書こうと思いましたが
少し長文になりそうなの記事にさせてもらいます。
(今回のコメントの枝葉部分いついては割愛しなるべく手短に書きます)

まず、私の意見に対する理解についていは青連さんが列挙した通りで間違いないです。

>管理人さまの証明は、「釈尊とはインドに生まれた一人の人物(史的釈尊)である」という事を、大前提としているのだろうと思います。
>ただ、今日の釈迦本仏論は『法華経』に説かれる「久遠実成の釈尊」という、超越的な実在を本仏としているものが大半です。

これについては、一応は史的釈尊に約していますがその意味するところは「久遠実の釈尊」です。
また、日蓮大聖人も同じです。史的大聖人に約していますが、
私が御本仏と表現しているのは「久遠元初自受用身の日蓮」という意味です。
(因みに史的日蓮を本仏という時には「末法の御本仏」と表現するようにしています)
ですので、「史的な特定人物を仏」という発想は持ち合わせいません。
釈尊・日蓮と史的人物に約していますが、その趣旨とするところは
「久遠実の仏」である釈尊と、「久遠初の仏」である日蓮の「本・迹」です。
その「本迹」についての議論は今回はしません。
(いずれ記事に書くかもしれませんが)
今回記事で一番言いたかったのは、「久遠実釈尊」は「本」だというなら
その「久遠実釈尊」が説いた教法を実戦するべきだろう。ということです。
仏の説いた教法と違う事を実践することは道理に合わない。ということです。
その上で、学問上の事を言えば、釈尊は何も説いていない。ではないかと。
何も説いていないのであれば誰も救えない。
誰も救えないのに「仏」と主張するには無理がある。
とまぁ、単純な話です。

さて、では釈迦無記説や大乗非仏説を捨てて「法華経」を「久遠実釈迦」の仏説である。
という本来の信仰者の立ち位置で考えるとどうでしょうか?
他宗派の否定する「文底読み」をせずに「法華経」を読むと
「久遠実釈迦」の教えとは、法体は「法華経」で修行は五種妙行ではなでしょうか。
であるなら「久遠実釈迦本仏」を主張する宗派は
「法華経(経典)」を本尊にし、五種の修行をすることが
自分達の「仏」の教えを守るということになります。
「久遠実釈迦仏」が明確に示した教法をせずに
日蓮菩薩が示した教法をすることは
むしろ「久遠実釈迦仏」を蔑ろにする行為と思われます。
このように、釈迦仏が教法を説いたと取っても
身延等の言い分はあまりにも苦し紛れで理屈に合わないと感じます。
(これは大御本尊を棄てた今の創価にも当てはまります)

>日蓮自身が何を信じていたかという点に主眼を置くべきだと考えていること。また日蓮の理論化した唱題行は、彼の完全なる独創というより、当時の仏教学的蓄積の上に出ているものであり、あくまで日蓮の『法華経』身読に基づいていること。さらに、『法華経』を通じて、本仏・釈尊にアクセスできるというのが、日蓮思想の特筆点最大のものの1つだからです。

これに関しては、少し違うと思います。
大聖人仏法の特徴のひとつは「人法一体」です。
ですから、「法華経」(法)を通して「仏」に通じる。
という思想はないかと思います。
(弟子たちへの教化の過程でそのような言い回しをした場合はあると思いますが)
また、「法華経」の身読に基づいて、三大秘法を顕した
というのは違うと思いますが今日は割愛します。

>むしろ、あえて「仏」を概念化するならば、それは「実体」や「超越的実在」のような絶対的な真理や概念という方が、私や多くの仏教者の見解のようです。

そのようですね。それが釈迦仏法ですからね。
要は釈迦仏法っていうのは、「何も分からない」のです。
「法」を説く。と言ってもそれが具体的に何なのか誰もわからない。
というか、釈迦仏法において「法」は
言葉にした時点で「法」でなくなるのです。
ですから、釈迦仏法においては
仏は「法を説かない」のが正解です。
また、絶対的真理を仏と概念。というのは真言密教に近い発想です。
大日如来=法身(宇宙の法則)=根本仏。みたいな。(今の創価のコレに近い)
結局、仏のことも、法のことも、何も知ることができない。
そこが釈迦仏法の限界であり
釈迦仏法が本果妙・脱益仏法といわれる所以です。

>「理証」とは、個人的信仰観念や宗教的世界観という閉鎖的枠内で「自然」とされる教義を正当化する役割しか果たさないものだと思います。「特定の史的実在人物を本仏とすべきである」「法本尊信仰者も、それを図顕した人物を本仏と仰ぐべきである」などの個人的信念に基づいた命題は、根拠づける事が不可能であり、議論は平行線を辿らざるを得ません。

その通りですね。
でも、それは「釈迦本仏論」者でも同じです。
そして命題を根拠付けることは永遠にできません。
できるくらいならとっくにできています。
そのうえで、繰り返しになりますが
自分達が仏と定めたのなら
その「仏」の教法を実戦するべきである。という道理です。
会社の社長が具体的な仕事を指示しているのに
別の人の指示する行動をするのは道理に合わない。
仏法とは道理ですから、道理にあわない主張は間違っていると思います。
もちろん、「釈迦本仏」を主張する方が、
別の「道理」によって、自説を説明するなり、他説を否定するなりしてくれれば
それはそれで「正しい」と判断しますが
今のところ、そのような説明は見当たりません。
(もちろん、ソレも私の個人的観念なのですが)

>私は「日蓮本仏論」を採用することは個人的信仰の次元では全く問題ないと思いますが、日蓮正宗や創価学会がそれを他教団批判に用いていることに対して、懐疑的です。それは結局、「自分たちが信じているものの方が正しい」という、ドグマティックな論争にならざるを得ないからです。そのような論争をするならば、「実在人物を仏とすべきである」「日蓮自身が何を信じていたかよりも、彼を本仏と仰いだ後世の人間の説を優先すべきである」というような、議論の基本的枠組みを確定させる試みが必要だと思っています。 本点、管理人さまのお考えはいかがでしょうか?

仏教学を学している学者諸氏は
持論により各宗派を否定することはなく
また、持論により不特定多数の人々を
特定の宗教に誘導することはありません。
要は、「法論」も「折伏」もしないので、
そのような学者諸氏が持論を展開しも問題ありません。
「ああ、そのようにこの人は考えているんだ」と思うだけです。
その、学説に共感する人もあれば、そうでない人もいる。それだけです。
富士門流の教義を否定するのは、
特定の宗派に所属している学者と言われている人や
特定の宗派に所属している信者が
そうした学説を使い富士門流の教義を否定するからそこに「論争」が生まれます。
つまり、「日蓮本仏論」等の富士門流の教義を否定するのは
学者であろう、一般人であろうと、富士門流に反対する側の「信者」です。
ですので、いわゆる「対論」「法論」とは「信者同志」でないと起こりません。
よって「法論」とは、その基底部分においては、
「学問」の範疇でなく、「信仰」の範疇です。
「信仰」における「学」とは「信」がその中心となります。
これは「法論」だけなく「折伏」も同じです。
そして「信」とは何かといえば
「自分の信じているものが正しい」と信じることです。
ですから、「法論」は平行線であることが大前提です。
また信仰とはドグマ(教条)そのものなのです。
よく、創価幹部・活動家は私のような人間を「教条主義」と言って批判します。
「教条主義」は「悪」かのような、または侮蔑的に見ていますが
「教条」「教義」が無ければ信仰は成り立ちません。
仏の決めた「教義」を「教条主義」と軽蔑し
「修正主義」を全て「是」としてしまうと、
「仏法」は滅んでしまいます。

話は逸れましたが、議論の枠組みを作ることが
できればいいと思いますが現実的には無理です。
元来は、日連系の中での「法論」においては
大聖人の「御書」を文証として、その正邪を判定してましたが
身延等は「偽書」説(正確には完全に偽書とは判定できない)を持ち出すので
唯一のコンセンサスを得られ手段はなくなりました。
ですから実際に「法論」の場合は、統一ルールを決める。という手段です。
「偽書」の定義を決めたり、「文底読みをしない」とか、「人師論師の説は用いない」とか
そうやってルールを決めて「法論」しますが
大抵は、身延側はルール破りします(笑)
何か、共通のルール・スキームができるといいと本当に思います。

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よりどころ

正法、像法、末法の時間軸が
本当にあるならば、
釈迦の教えは
無益な現在〈末法〉なのでしょう。と、
捉える私。

日蓮大聖人様ご自身が、
私こそが
神だの仏だの言っていたか?
そんな事に私は興味は無いのです。

大聖人様及び大御本尊様に
南無する事で、自分の身の回りに
何が起こったのかが、最重要なので。

横槍コメント誠に申し訳けないです。

【概念規定】日蓮本仏論

わざわざ記事化していただきまして、誠にありがとうございます。お手を煩わせてしまい、誠に申し訳ございません。

まず、石山教学における「日蓮本仏論」について、私の理解を書かせていただきます。もし、管理人さまの理解と相違がございましたら、ご指摘ください。(日蓮正宗の公式書籍に基づいているので、間違いはないと思います。)

日蓮本仏論:竜ノ口の頸の座において、「発迹顕本」した後の日蓮を、凡夫身に即して本仏とみる考え方。

〈久遠実成の釈尊との関係について〉
・久遠実成の教主釈尊よりも一重立ち入ったところに、「久遠元初の自受用報身」を立てる。すなわち、本仏の本地身そのものは、凡夫身の姿をとって日蓮として再誕した。

〈石山教学における日蓮本仏論の現実的意義〉
・日蓮を仏宝、妙法題目を法宝、日興を僧宝とする。
・前二者を止揚したものが人法一箇としての「本門戒壇の大御本尊」である。
・日興だけが本仏日蓮から法を付属されて、今日の法主に至っている。

論点整理

改めまして、ご多忙中にも関わらず、ご回答いただきありがとうございます。
本点、私見を述べさせていただく前に、私の基本的な心情を話させていただきます。

私は、これまでの創価学会、つまり上の世代の学会員における「学術」への態度に、かなりの不満を持っています。日蓮本仏論や大御本尊信仰が大事であるにも関わらず、それに関する学術的な批判への応酬を怠り、「学問と信仰は違う」「幸福になるために学問は必要ない」という浅薄な主張に逃げ込む。そもそもそうした言説の発話主体は、学術的研究をまともに勉強すらしていないのが大体の現状です。
その結果、日蓮正宗・創価学会の主要教義は、社会性を持ち得ず閉鎖的集団として、世間的に馬鹿にされている。創価学会に関するまともな研究すらほとんどないというのも、目を覆いたくなるような現状です。跋扈しているのは、これまた社会性の一切ない自画自賛的言説か、低レベルな憂さ晴らしやゴシップの域を超えない非難だけでしょう。結局、仏教学や実証史学などの学問が「信仰の敵」とみなされているのは、それを完全に無視・侮蔑してきたこれまでの教団の態度に帰せられるものだと考えています。そうした思想課題は今日まで先送りされ、我々世代の大きな宿題となっています。

今日の世界の共通言語は、学問です。それを所与の前提として受け止めて、その次元での議論を大切にするべきでしょう。教義は、学問と相互排他的なものではなく、むしろ前者は後者に包摂されるものです。ただ、方法論上の違いは、明確にしなければなりません(これについては後述します)。また、仏教学や文献学は、何も信仰の敵ではなく、「助け」にすらなるものです。
私も管理人さまも、創価学会に批判的なブログをやっていますが、「低レベルな批判はしない」というスタンスが共通していると考えてます。一定の視座を持ち、賞賛でも罵詈雑言でもない創価学会に関する言説を、ネットという自由空間に流布させる。その点で共鳴しているのだというのが私の考えです。
ただ、こうしたスタンスは、内外からの批判を覚悟の上でなされなければならないものだと自覚しています。「自画自賛」や「罵詈雑言」の発話主体は、批判に対して聞く耳を持ちません。しかし、その両者よりも高度な議論を希求するならば、批判を受けて自らを改める態度を持つべきだと思っています。
その上で、私の意見をお読みいただければと思います。また、私自身誤りがございましたら、自説にこだわる事なく、逐次自己意見の変更をさせていただきます。

まず、私なりに論点を整理させていただきます。

●釈迦本仏論と日蓮本仏論について
①「久遠実成の釈迦本仏論」が前提するパラダイムでは、凡夫身を本仏とみる思考自体を受け入れないこと。
②日蓮本仏論を受諾しなくても、御本尊信仰は可能であること。
③「本仏」の絶対的他者性と「人法一箇」概念について
④実践を説いたから本仏という導出について

●学術と信仰について
⑤日蓮本仏論に基づいた他宗批判は閉鎖的であり、社会性・公共性がほとんどないこと
⑥学問と信仰という範疇ならびに議論のスキームについて
⑦「信仰者として読む」という態度の言語化について
⑧大御本尊と日蓮本仏論信仰の課題について

この内、①〜③については、個人的信仰の次元に関わる問題であり、議論は平行線にならざるをえないと思います。そもそも私は、創価学会が日蓮正宗から借用していた「人法一箇」や「久遠元初の自受用報身」といった日蓮本仏論の理論的説明が、(私にとっては)思想的にあまりに杜撰で受け入れ難かったため、釈迦本仏論を勉強したという経緯があります。
ですので、一応釈迦本仏論が成立するパラダイムを記述させていただきますが、これは参考程度にお聞き流しいただければと思います。
④から⑧に関しましては、ある程度共通の地盤で意見を交換させていただけると思っています。

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論点①〜④(日蓮本仏論)

① 釈迦本仏論の成立する基本的パラダイムについて
管理人さまの文章を拝見しまして、釈迦本仏論における「本仏」の考え方について、共通見解ができていないと感じました。恐らく、史学や思想史における「史的」「久遠」などの概念をご存知ないのかな、と思います。

私が想定する「久遠実成の教主釈尊」とは、釈尊という言葉を使ってはいますが、そのような史的釈尊の「本地」のようなものを表現した概念ではありません。それは汎神論的に世界において展開されながらも、決して理性では到達する事が出来ない、信仰という自己企投的営為によってしか到達できないという「実体」「超越的実在」と呼ぶべきものです。概念化するならば、「超越しながらも世界に内在し、かつ絶対他者として存在する実体」となります。

「久遠元初自受用報身」という概念は、あくまで日蓮を釈尊が再誕した存在として、寿量品の釈尊よりも本源的な仏とするという日蓮本仏論を前提とした概念であり、そもそも「久遠実成の釈尊」とは、前提としている人間観・世界観が異なっています。

日蓮本仏論は、そうした超越的実在(本仏の本地)を凡夫である日蓮がその身において顕したとしていますが、私ならびに多くの日蓮宗系学者は「人が本仏」という契機は必要ないという立場です。勿論、御本尊は日蓮によって図顕されましたが、自分自身の境地を「久遠実成の釈尊」よりも本源的存在だとしたものではない、と考えています。
「久遠元初の自受用報身」「人法一箇」などの概念は、全て日蓮を本仏という前提に成立しているものですので、日蓮宗などとの議論でこれを持ち出しても、意味がないと思います。また、日蓮正宗的な「発迹顕本」解釈も、この前提の上に成立していると考えています。

ですので議論するとしたらそのような枝葉の概念ではなく、「日蓮本仏」という論議の分かれ目において議論すべきだと思います。またその際は、釈迦本仏論と日蓮本仏論が成立しているパラダイムがそもそも違うことに留意すべきだと思います。「久遠実成の釈尊」と「久遠元初の自受用報身」は、パラレルに見えて、全く異なる概念だということです。

② 日蓮本仏論を受諾しなくても御本尊信仰が可能なことについて
上述の釈迦本仏論と日蓮本仏論は、「個人の宗教的信念」に還元されるものであり、各信者が好き好きに自分好みのものを選ぶ、という性質のものだと思います(というかならざるをえない)。

しかし留意すべき点は、日蓮本仏論を受け入れていなくても、御本尊信仰は可能だということです。「人法一箇」や「日蓮本仏論」といった教義は、乱暴に言ってしまえば、日蓮系の弱小一宗派で生まれた異端的観念にすぎません(これは教義自体を馬鹿にしているのではありません、歴史的事実です)。日本全体という観点から見てもかなり珍しい、比較宗教学的には「一神教」に分類することも可能なものです。

「人法一箇としての御本尊に祈る」という信仰形態は、個人的な信仰的信念であり、それによって日蓮系諸宗派の「正邪」「浅深」を判定するというような性質のものではないという考えです。
日蓮を上行菩薩と信仰しながら、法本尊としての日蓮曼荼羅に祈るという信仰形態は一定の市民権を得ており、「釈迦本仏論」を前提とした御本尊信仰が成立してきた事実を直視すべきであると考えます。

③ 「本仏」の絶対他者性ならびに概念化について
これはやや哲学的解釈になりますが、上述の釈迦本仏論に関係する考え方です。
釈迦本仏論における「本仏」とは、「本仏の確定」という人間的作業以前にも存在する「絶対的実在」を指すものだと考えています。すなわち、肯定と否定という契機すらも超越した絶対的実体として規定されるべきものです。
「真言ぽい」という語感の問題より、曖昧な「本仏」定義をその意味を極力失わせないままに、それを概念化する試みは、教団活動が社会化する上で必要だと考えています。
「真理」などの表現で問題があれば、「否定神学的実在」「存在」「絶対他者」「原エクリチュール」「根源的実在」など、様々な概念からのアプローチ試みるべきだと考えます。

④「日蓮は実践の方法を説いた」というだけでは正統性主張は難しいこと。
日蓮の最大の功績は、本尊図顕と唱題行の理論化だと思います。しかし、それらが日蓮本仏論の根拠になるか、という点には、懐疑的です。上述の通り、釈迦本仏論でも御本尊信仰という実践は成立するからです(大御本尊信仰は成立しないと思いますが)。
また、社会において実践可能な「易行」的な実践方法は、他の仏教諸派でも展開していると認識しています。私は、「念仏で癌が治った」という浄土系信者に会ったことがあります。大乗仏教系教団では、何かしたらの実践方法を明確にしているというのが、私の理解です。

論点⑤〜⑧(信仰と学問)

⑤日蓮本仏論に基づいた他宗派批判について
これは私が疑問に思う一番の点なのですが、日蓮正宗や創価学会が日蓮本仏論に基づいて他宗を批判することの正当性です。

管理人さまのように、文献学や仏教学を「信仰者として用いない」という立場は、何の問題もないと思います。
しかし、他宗批判という個人的信仰の次元を超えて「社会」という場において活動をする際には、それは問題があると言わざるをえないというのが私の立場です。「社会」という場に出る以上、そこで通用している学問という共通言語を、完全に無視するのは、問題であると思います。
たとえば、「百六箇抄」「御義口伝」などは偽書説の方がかなり説得力があるのも事実ですし、「大石寺秘伝の書」などを他宗派に信じろというのは、無茶が過ぎると思います。
大石寺教学の根幹中の根幹である「板曼荼羅」信仰と、日興正統史観に基づいた「唯授一人血脈相承」は、日蓮正宗という閉鎖的空間内でしか通用しない教義です。
(これは、それを個人的に信仰することを批判するものでは、毛頭ございません。ただそれを根拠に、社会という場において批判活動を展開することに疑義があるということです)

日蓮も、当時の仏教界における共通言語やロジックから、他宗批判を展開していると理解しています。例えば、日蓮による念仏批判は、当時の仏教学における先端的な念仏批判ロジックに基づいており、さらにそれを発展させたものだと思います。(今日的な視点からすると問題ありですが、当時は正当性を持っていた)
私は創価学会と日蓮宗の対論を側から見ていたことが何度かありますが(やったことはありません)、日蓮宗の主張の方が常識的だと思いました。それは、創価学会が「日蓮本仏論」に基づいた大石寺教学に基づいていたからです(当時はまだ大御本尊を受時の対象から外していなかった)。今日の社会における共通言語としての文献学や仏教学を完全に無視して、社会活動を展開することに、私はかなり否定的です。

「法論」は信者同士が行う。それは理解できるのですが、だとしたら何を共通の地盤として議論すればいいのでしょう?私は、日蓮宗系と日蓮正宗の法論が成立していない理由は、私は社会的言説を完全に無視する日蓮正宗系教団の方にあると考えています(まぁこれは法論個々によって事なると思うので、管理人さまの参加されてきた法論がどうかはわかりません)。

また、仏教学や文献学は、単に学者集団が特殊な事をしているわけではありません。彼らの論文などは高校卒業レベルの読解力で十分理解可能ですし、そこで展開されている論理的思考は全く理解できないという人はいないでしょう。文献学や仏教学を用いた反論されたならば、「信仰」に閉じこもるのではなくて、同じ地平で議論をするべきだというのが私の意見です。

⑥教学と学問の関係について
「教学と学問は違う」ということは、教学を神秘化してその本来的意義を失わせると考えます。ですので、「教学は学問に包摂される関係にあるが、前者は近代以降の学問とは方法論・目的において大きく異なる」という言い方のほうがいいと思います。

教義の果たす役割は、
●信仰の体系化・理論化
●信者の信仰心の自己強化
●社会的コンテキストでの説明可能性の拡大
だと考えています。この内、「信者の信仰心の自己強化」ばかりが強調されているのが現状であり、もはや教「学」とはいえない浅薄な思想を流布させているのが、日蓮正宗と創価学会の問題でしょう。

「信仰において読む」というのでは、まだまだ言語化の作業が足りないと考えています。
恐らく、管理人さまの「教学」は、以下の三点が重要なのではないかと思います。
●「一大秘法説」というテキスト外部の教説を絶対の大前提として、日蓮のテキストを解釈する
●歴史主義的なコンテキストを重視する解釈ではなく、テキストの自律性を強調する
●客観主義的なテキスト解釈を否定し、実存的もしくは現象学的なテキスト読解を試みる

「一大秘法説」はともかく、下記2点は私も大切だと思っている立場です。
重要なことは、「なぜ学術的に疑わしい一大秘法説を主張するのか」「なぜ日蓮遺文を普遍的真理のように解釈するのか」「なぜ信仰者としてのテキストへのアプローチをとるのか」、こういった問いに対して、社会的に通用する言語で自分の立場を正当化できる事だと思っています。
そうした「自分自身の態度決定」の根拠づけにより、その姿勢が「教条主義」的であったとしても、その解釈や言説が社会的有用性を持ちうるのだと考えます。この当たりは、フッサール『現象学の理念』、カール・バルト『教会教義学』、クェンティン・スキナー『思想史とは何か』、ガダマー『真理と方法』などによって言語化可能だと考えます。

⑦学問と信仰の範疇ならびに議論のスキームについて
これについては、「学問」と「信仰」の範疇分けがかなり乱暴であると思います。

上述の通り私は、創価学会の上の世代に、疑問、というか怒りに近い感情を覚えている点があります。それは、「学問」の扱い方です。
これまでの日蓮正宗ならびに創価学会の活動において、教団の社会化に伴って、教義に不都合な学問的真実が暴露されてきました。その時の学会の反応のほとんどは、「信仰と学問は別」、「信仰に学問は必要ない」などの反知性主義・信仰プラグマティズム的なものでした。今日の創価学会にも跋扈するこの浅薄なイズムは、却って自らが大切にする教義の社会的価値を貶めるものであると認識しています(実際に日蓮正宗・創価学会の教義の根幹は、もはや社会的に見て笑いものレベルの思想でしょう)。

議論のスキームについて。管理人さまは、カント『純粋理性批判』やフッサール『イデーン』もしくは、ハーバマス『公共性の構造転換』などは、お読みになったことはございますでしょうか?
現代社会というものは宗教にとってかなり肩身がせまいものですが、これは受け入れるしかありません。その枠内でどういった議論が可能なのかという思索は、怠ってはいけないと思っています。実際にこうした制約下で「宗教的理念」を確立する試みや議論の枠組み確立の志向は、多くの先人によって成されています。そうしたキリスト教や他宗派の先人の功績を見るとき、「学問と信仰は別」という創価学会にかなりの嫌気がさしてしまいます。強い信仰心を持って、他人を啓発したいと思っているならば、その活動がどのようにしたら可能か、真剣に模索するのが筋だと思います。

また、文献学や仏教学を、私も万能と言っているわけではありません。私は、仏教学・文献学と自身の信仰体系の矛盾に悩んだ時期がありました。しかし、哲学や宗教現象学、知識社会学などによって、文献学的方法の限界を明らかにする事ができました。必要なことは、学問を完全無視するのではなくて、その「限界」を理性的言語で明らかにして、自らの信仰を社会に向けて正当化することだと思います。
それをしないのは私にとっては、立派な「教条主義」です(教条主義と強い信仰心は分けるべきだと思います)

また、身延などの学者を、創価学会員は馬鹿にしすぎです。彼らは創価学会や日蓮正宗よりも、よっぽど真剣に考えています。彼らの態度に、我々は学ぶべきだと考えています。

⑧大御本尊信仰並びに日蓮本仏論の課題
管理人さまの「信仰の核心を守る」という生き方、心より尊敬申し上げます。その中核が、大御本尊信仰と日蓮本仏論なのだと思います。

しかし、大御本尊信仰と日蓮本仏論について、それを信仰する必然性、「信仰の中核」たらしめる理由が、見えてきません。
管理人さまの定義によれば、上記2点を信じていない私も「謗法者」となるのでしょうが、「いやいや、根拠は?」と言いたくなってしまいます。他者への「謗法」批判は、このような帰結を招くのだと思っているため、私自身は他宗批判にはかなりの理論装備が必要だと思っています。
日蓮正宗にその力はないと私は見限っています。大御本尊信仰と日蓮本仏論については、その思想課題を明らかにして、理論構築すべきだと思いますし、それはむしろ在家信者ができる事だろうと思います。私が考える大御本尊信仰と日蓮本仏論の主な課題は、以下です。

—「法本尊」優位の根拠づけ
—「法本尊」の中でも「日蓮曼荼羅」優位の根拠づけ
—「大御本尊」絶対の理由の文献的説明ならびに外部からの批判に対する整合的反論の構築
—「人法一体」概念における矛盾する二契機の止揚のメカニズム、もしくは緊張関係の言語化
—「日蓮が自身を本仏と規定していた」ことを根拠にする日蓮本仏論の見直し
—日興らによって日蓮を本仏とした教団形成が行われたという歴史の見直し

色々と生意気に申し上げ、申し訳ございません。
これは決して管理人さまの「信仰者としての信仰」を批判しているわけではありません(以前記述させていただきました通り、その点においては尊敬させていただいております)。

退転壮年部おじさんさまへ

こちらもしかして私に頂いたコメント?と思いましたので、一応書かせていただきます。

そのようなお立場は、最大限に尊重されるべきだと思います。
ご存知の通り、2014年に創価学会会則が変更されました。しかし、私の周りの学会員の多くは「幸せになれればいい」と言って無関心でした。私などは宗教を考える上で教義は重要だと思うのですが、どうやらそれは少数意見のようです。
当時はそうした会員さんの態度に疑問を持ちましたが、今では尊重されるべきだと考えるようになりました。まぁ私は、いずれ学会本部が大御本尊を受時の対象から外すことは予想していましたので、想定内でした。

しかし問題は、「教義よりも生活が大事」という立場では、創価学会の会則変更などの教義を批判する事はできないでしょう。
これは管理人さまとも共鳴している点だと思いますが、素朴な生活実感に基づいた信仰功利主義だけでは、学会内部の批判・修正システムが十分に機能しなくなる事が考えられます。

青蓮さん

こんにちは。
青蓮さんの言われていることは十分分かっているつもりです。
それに対し、批判も制止を加えるつもりもありません。
また、学問的研究を軽く見てもいないしバカにもしてません。
ただ研究は研究としていい事ですが、現事の「仏教学」においてはそれは決定打となり得ないと思います。

例えば、信仰心を抜きにして考察すると
史実に基づけば大乗は非仏説なので「久遠実成仏」のまた非仏説となり本仏となり得ない。
仮に仏説と位置付けてもその書かれている内容は科学的・常識的に容認できるものではない
(地涌の菩薩やら宝塔やら、おとぎ話の世界であって現実的にそんなことは有り得ない)
大乗系教団の実践方法が仏説である。という文献はない。
特定の御書を偽書として扱うにしても
決定的証拠は無く(その偽書は、いつ・どこで・誰が書いたのかなど)
更に言えば真筆・写本ともに現存している御書は大聖人の遺文の「全て」ではない。
(「五老僧」がスキカエシした中に日蓮は本仏であるという記述があった可能性は否定できない)
など、青蓮さんが言われるように「日蓮本仏論」を否定する決定的証拠は皆無です。
つまり、信仰者という立場を排してみると
「釈迦」「日蓮」も仏じゃない。
つまり「仏法」なるものは「存在」しない。
故に「仏教学」なるものも無意味である。
と言う結論になってしまします。
ここが、「学問」としての限界ではないと思うのです。

そこから先が信心という事になります。
そしてどの説を選択するか(何を信じるか)は自由です。
そして違った見解をもった者同志が「対論」になれば「平行線」なのも必然です。

「教学」と「学問」は違う。というのは「学問」を見下しているわけでなくそのような意味です。
また、「日蓮本仏」を前提としている「教学」と「釈迦本仏」を前提としている「仏教学」は全く「別モノ」なのです。
「別モノ」である以上「仏教学」では「教学」は理解できない。と言う事であり
「仏教学」を駆使したアプローチで「教学」を判断することは不可能。と言う事です(その逆もしかりです)
ですから、「対論」等になった場合は、「仏教学」をベースにするのか?「教学」をベースにするのか?
を決めないと何一つ噛み合わないのです。身延派等の主張は、
ある時には「仏教学」ある時には「教学」と自身の都合のいいように使い分け、相手にはソレをさせない。
というパターンが非常に多くそれは「おかしく」「不公平」と批判しています。

世法に目を向ければ「仏様」=「お釈迦様」が多数派ですから「日蓮本仏」など受け入れられない。のは当然です。
しかし信仰の世界は「多数決」でも「最大公約数」でもないから困りものなのです。
日興門流は弱小で世間一般に受け入れらないのかも知れませんがだからと言って間違っている。と言う証拠にはなしません。
(青蓮さんが社会・世間に受け入れらる為に学問的アプローチを用いるべきだと言われている事は承知してます)
ですから、仏教学が更に進化をとげ「釈迦本仏」であっても「日蓮本仏」であっても完全に証明されればいいと私も思います。

とまぁ、簡単ですが縷々書かせていただきました。
他にも日蓮本仏を取らなくても本尊信仰は成立する。
本仏とは肯定と否定という契機すらも超越した絶対的実体として規定されるべきもの
など非情に興味深いコメントでしたが、
興味深いが故に、回答が長くなってしまいますので今日は割愛させていただきます。

青蓮さま

私の様な拙き者へのコメントを
頂き有難うございますm(_ _)m

創価思想が大嫌いになって
久しいのです。地に堕ちたなと
思っているおじさんです。

貴殿や管理人様の様に、
深い思索と結論を導き出せる尊き人が
創価にいれば、
などと、勝手に思っております。
このブログは本当に勉強になります。
有難うございますm(_ _)m

No title

駄文をお読みいただき、誠にありがとうございます。
仰りたいこと、理解させていただきました(つもりです)。

しかし、やや私の言いたいことが伝わっていない気がいたします。

① 「学問」と「信仰」という二項対立の問題
② 学問と教学の違いについて
③ 偽書問題について

① 「学問」と「信仰」
「学問を突き詰めると仏法は成立しないから、信仰が必要」という立場は、極端にすぎると思います(「学問」は「仏教学」、「信仰」は「教学」ともパラフレーズ可能です)。『法華経』をおとぎ話として唾棄したり、仏概念そのものを否定するような言説は、それこそ学術的・哲学的に反論可能であり、簡単に信仰の次元に「跳躍」する事は、却って宗教的教義のレベルを下げると思います。
「学問」と「信仰」を相互排他的な二項として、前者をあっさり捨てて後者をとる、というのは、創価学会と日蓮正宗がこれまで選択してきた、改められるべき態度だと思います。
また、「学問」を「常識」と等置するのも、問題があると思います。宗教がいわゆる「常識」を超越したものである事は、学術的にも定義可能です。

その両者において、どのようにバランスをとるのか。どこに学問の限界を規定し、どこを信仰の次元に託すのか。
この点を言語化することが必要不可欠だと思います。

また、仏教学者やキリスト教神学者などもそうですが、彼らはその両者の間で揺れ動き、自分の立場を言語化することを試みています。
こうした作業をせずに、「身延は謗法」「創価学会は信仰を捨てて文献学をとった」などという批判をする方が大勢いらっしゃいますが、レベルとしてはかなり低いと思います。

また私は、創価学会の会則変更を批判する会員の意見の多くに批判的です(全てではないです)。それが結局、上述のような自己の信仰や信念を反省するようなプロセスを経ていないからです(それを経れば議論が成立します)結局彼らの主張・信条は、彼らが揶揄する「バリ活」と同レベルのように、私には見えます。

② 学問(仏教学)と教学の違いについて
学問と教学の相違点については、しっかりと認識し、言語化すべきだと思います。

仏教学、つまり学術的日蓮研究は、「釈迦本仏論」を前提にして成立しているわけではありません。それは、日蓮遺文に照らしてそちらの方が自然だからという論理的帰結に基づきます。
それに対して教学とは、証明不可能な言説(=日蓮本仏論など)を絶対的前提として、演繹的に教義を構築するものだと思います。両者ともその演繹的操作(論理的推理)は共通しており、論理的である事を放棄しない限り、共通の土台で議論する事は可能です。

「対論」においては、「仏教学か、教学か」という二者択一ではなく、論点明確化や議論の基本的枠組み決定を行うとした方が、親切なように思います。こうした作業をせずに、対論の平行線状態を嘆いている方が多いように見受けられますが、それは単なる準備不足だと思っています。「議論の枠組みなんてつくれっこない」とおっしゃる方が学会には多いのですが、そうした方は相手方の教義はもちろんの事、自分の教義の論理的構造が見えていない場合が多いです。
議論はロジックに基づかなければ成立しませんから、「何が理性を超越した信仰の次元の命題なのか、そこからどのように論理的帰結を導き出すのか」というような自らの信仰体系への反省作業が欠かせません。

③ 偽書問題について
「偽書問題」については、日蓮正宗や創価学会は、都合のいいように問題を解釈しすぎだと考えています。「身延は、仏教学を悪用している」という陰謀論ばかりが学会内部で聞かれますが、こうした言説が思想の発展を妨げてきたのだと思っています。

日蓮宗が主張する偽書説には、一定の(場合によってはかなりの)説得力があります。問題は、日蓮正宗と創価学会が仏教学的・史学的な反論を避けて、上述の陰謀論や安易な信仰への「跳躍」をしてしまうことにあると考えます。同じ次元で反論できないならば、それは「知的怠慢」もしくは対論における「敗北」だと思います。

相手が仏教学と教学を利用しているとするならば、そのカテゴリーの乱用を戒めればいいだけの話であり、そこで相手の悪どさを責めるような言説を登場させる必然性はありません。

青蓮さん

こんにちは。

> ① 「学問」と「信仰」
> 「学問を突き詰めると仏法は成立しないから、信仰が必要」という立場は、極端にすぎると思います(「学問」は「仏教学」、「信仰」は「教学」ともパラフレーズ可能です)。『法華経』をおとぎ話として唾棄したり、仏概念そのものを否定するような言説は、それこそ学術的・哲学的に反論可能であり、簡単に信仰の次元に「跳躍」する事は、却って宗教的教義のレベルを下げると思います。

信仰者としての立場を捨てれば、法華経に書かれているような真実はないでしょう。宝塔やら地涌の菩薩の出現は事実ではありません。(私自身が法華経を唾棄しているわけじゃないですよ)つまり、「信仰者」としての立場を捨て、ただ経論に書いてある事だけ(文上)が全てである(という学問)なら、法華経は「お伽噺」「フェイクション小説」と同じです。仏教など興味ない人に法華経を読んで聞かせてたら、それが実際に過去に起こったことだ。とは思いません。

> その両者において、どのようにバランスをとるのか。どこに学問の限界を規定し、どこを信仰の次元に託すのか。
> この点を言語化することが必要不可欠だと思います。

そうですね。しかしそのバランス(ルール)を決められる人はいないのです。ここに仏法における相承が文献だけはない。という理由があるのだと思います。

> また、仏教学者やキリスト教神学者などもそうですが、彼らはその両者の間で揺れ動き、自分の立場を言語化することを試みています。
> こうした作業をせずに、「身延は謗法」「創価学会は信仰を捨てて文献学をとった」などという批判をする方が大勢いらっしゃいますが、レベルとしてはかなり低いと思います。

私は、文献学・学問を重んじているから「謗法」と言ってる訳じゃありません(そう言う方もいるかもしれませんが)
むしろ創価の本尊義変更に学問は「後づけ」でしかありません。

> また私は、創価学会の会則変更を批判する会員の意見の多くに批判的です(全てではないです)。それが結局、上述のような自己の信仰や信念を反省するようなプロセスを経ていないからです(それを経れば議論が成立します)結局彼らの主張・信条は、彼らが揶揄する「バリ活」と同レベルのように、私には見えます。

自己の信仰を反省しないから「信仰者」なのだと思いますよ。
反省したから大御本尊を受持の対象から外した。とは創価は言ってませんし。
そして「バリ活」の「批判者」もその信条は同じです。
「自分の信じる道を行く」それが信仰者の信条ではないでしょうか。
それは、私も青蓮さんの同じだと考えます。

> ② 学問(仏教学)と教学の違いについて
> 学問と教学の相違点については、しっかりと認識し、言語化すべきだと思います。
> 仏教学、つまり学術的日蓮研究は、「釈迦本仏論」を前提にして成立しているわけではありません。それは、日蓮遺文に照らしてそちらの方が自然だからという論理的帰結に基づきます。
> それに対して教学とは、証明不可能な言説(=日蓮本仏論など)を絶対的前提として、演繹的に教義を構築するものだと思います。両者ともその演繹的操作(論理的推理)は共通しており、論理的である事を放棄しない限り、共通の土台で議論する事は可能です。

以前、私は「仏教学」は帰納法、「教学」は演繹法と書きました。
仏教学については詳しく知りませんが「教学」は仰る通りです。
真実を探求するのが目的ではなく、真実を理解するのが教学の目的です。
私の言う教学とは「法門・法義」なのです。

> 「対論」においては、「仏教学か、教学か」という二者択一ではなく、論点明確化や議論の基本的枠組み決定を行うとした方が、親切なように思います。こうした作業をせずに、対論の平行線状態を嘆いている方が多いように見受けられますが、それは単なる準備不足だと思っています。「議論の枠組みなんてつくれっこない」とおっしゃる方が学会には多いのですが、そうした方は相手方の教義はもちろんの事、自分の教義の論理的構造が見えていない場合が多いです。

それはそうですね。相手の議論や教義を知らねば「対論」になりせんからね。
ましてや自分の教義を知らないのでは尚更です。

> ③ 偽書問題について
> 「偽書問題」については、日蓮正宗や創価学会は、都合のいいように問題を解釈しすぎだと考えています。「身延は、仏教学を悪用している」という陰謀論ばかりが学会内部で聞かれますが、こうした言説が思想の発展を妨げてきたのだと思っています。
> 日蓮宗が主張する偽書説には、一定の(場合によってはかなりの)説得力があります。問題は、日蓮正宗と創価学会が仏教学的・史学的な反論を避けて、上述の陰謀論や安易な信仰への「跳躍」をしてしまうことにあると考えます。同じ次元で反論できないならば、それは「知的怠慢」もしくは対論における「敗北」だと思います。
> 相手が仏教学と教学を利用しているとするならば、そのカテゴリーの乱用を戒めればいいだけの話であり、そこで相手の悪どさを責めるような言説を登場させる必然性はありません。

青蓮さん。身延信者と「法論」したことありますか?モチロン全ての身延派の人間がそうであるとは言いませんが、私の出会った身延信者は全員「仏教学」と「教学」を自分の都合のいいように併用し、それを指摘しても聞き入れない人ばかりでした。「カテゴリーの乱用を戒める」ことが不可能なのです。

「偽書説」についての所感はいずれ書きます。

No title

涼しくなりましたね。。。重ね重ねコメントいただき、誠にありがとうございます。
大変勉強になりました。

ただ、数点わからないことがございました。
何度も申し訳ございませんが、ご教示いただけますと幸いです。

●「信仰者として」という言葉の定義について
・仏教学=「文上で読む」
・教学=「文底で読む」「信仰者として読む」
のように規定されているように思いますが、「文底で読む」ということの定義は、どのようにされておりますのでしょうか?
私は、上記の二項対立を成立させている「文上」「文底」の定義がよくわかりません(そもそも日寛の使っているこの言葉は多義的です)。私は上記二者が相互排他的になるような定義方法を採用しておらず、またその概念規定の方法が不明であります。
また、「法華経をフィクションとして唾棄する」については管理人さまの立場として理解しているのではございません。それを管理人さまの言われる「仏教学」の定義に従うと、仏教学がそのような立場という事になるが、それは私の理解とは異なる、というものです。

例えば宮田幸一なども、「信仰者として仏教学をしている」と言えるでしょう。それを「信仰者でない」と批判する方の意見をよく聞くと、「私の定義する「信仰者」に反する」というもののようです。このような状況見るとき、「教学=信仰者として読む」という定義の修正の必要性を感じます。

大変恐れ入りますが、ご教示いただけますと幸いです。

●日蓮宗との対論について
身延系仏教学者との議論は、多く行ってきました。しかし確かに、信者レベルでの法論は知りませんし、あくどい信者も多いのでしょう。「そのような現場を知らない」とのご指摘は最もであり、私には発言の資格はないのだと思います。また、そのような経験を積まれてきた管理人さまには、多く学ばせていただいております。また、無知による発言を反省いたします。

その上で、偽書問題について、論ずる際には、以下の2つが重要になるのでは、と思います。
—「仏教学」と「教学」の相違点の定義➡これは上でも書かせていただきましたが、両者を「都合よく利用している」というならば、その両者の定義をまず行うべきだと考えます。「信仰者として読む」というのでは、定義としてあまりに曖昧なので、両者を相互排他的な範疇として定義化すべきだと思います。

—論点の明確化➡「百六箇抄の真偽問題」など、論点を明快にして論ずるべきと思います。その際に日蓮正宗系の教団として証明すべきは、「日蓮の手によるものである可能性の明示」「偽書説の弱点の明示」であると考えます。これは所感というよりも、日蓮研究者の論文等への検討・反論という形をとるのがいいと思います。
私が申し上げたかったのは、教学と仏教学をご都合主義的に使用している身延の末端信者のレベルの低い言説に合わせる必要は合わせても根本的な反論にならないので、ちゃんと史学的なレベルでも信仰の可能性を具体明示した方が賢いということです。

●議論のルールについて
これについては、「決められない」と匙をなげる事が、私には知的怠慢に見えます。少なくとも以下の作業を経た上で、現場で苦闘すべきです。
—実証的科学の限界の明示➡カント批判哲学、オーギュスト・コントに端を発する実証的方法の検討
—歴史主義・客観的認識方法の限界の明示➡フッサール現象学、プラグマティズムの導入
—超越的事物の設定方法の再検討➡キルケゴール哲学、カール・バルトの危機神学の見直し
—公共圏における「討議」方法の設定➡ハーバマス「公共圏」における討議方法の批判的導入
今日の日蓮正宗や創価学会の直面している議論の最大の敵は、西洋圏発の「近代学問」でしょう(仏教学もこれに含まれる)。それらに反論するなら、近代へのアンチテーゼとして誕生した先進的思想や議論の方法を学ぶべきだという事です。
ちゃんとした議論を避けて、広義の「バリ活」か「アンチ」しか生んでいないのが、現在の議論の状況における悲劇だと思います。私の周囲にも我見に閉じこもって、学ぼうという姿勢を持つ方が少なすぎており、そうした人とは議論しても無駄だなと思ってしまいます。
管理人さまは、別の方法で探求されており、心より尊敬しております。

色々と不躾な事を申し上げ、申し訳ございません。私のようなものにお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

青蓮さん

こんにちは。

> ●「信仰者として」という言葉の定義について
> ・仏教学=「文上で読む」
> ・教学=「文底で読む」「信仰者として読む」
> のように規定されているように思いますが、「文底で読む」ということの定義は、どのようにされておりますのでしょうか?
> 私は、上記の二項対立を成立させている「文上」「文底」の定義がよくわかりません(そもそも日寛の使っているこの言葉は多義的です)。私は上記二者が相互排他的になるような定義方法を採用しておらず、またその概念規定の方法が不明であります。


「文底」で読むというのは、青蓮さんが指摘されたように演繹法です。一大秘法の立場で読むと言う事です。依義判文です。日寛上人の「依義判文抄」に詳しいですが、依義判文で読むと法華文上にも三大秘法が説かれています。これは文上読みでは決して知ることができないのです。大聖人が法華経が一番なのは三大秘法が説かれているからと言っていますが、文上ではどこにも説かれていません。神力品の四句要法も文上ではどこにも見当たりません。これらは、ある絶対的定義を前提として読むいわゆる「文底読み」でないと分からないのです。

> また、「法華経をフィクションとして唾棄する」については管理人さまの立場として理解しているのではございません。それを管理人さまの言われる「仏教学」の定義に従うと、仏教学がそのような立場という事になるが、それは私の理解とは異なる、というものです。

はい。了解しました。あくまでも法華経をそのまま読むとそうなる。と言う事を述べたのでご了承ください。

> 例えば宮田幸一なども、「信仰者として仏教学をしている」と言えるでしょう。それを「信仰者でない」と批判する方の意見をよく聞くと、「私の定義する「信仰者」に反する」というもののようです。このような状況見るとき、「教学=信仰者として読む」という定義の修正の必要性を感じます。

宮田教授については「信仰者ではない」とは思いませんが、現在の創価がいまだに「日蓮本仏」は捨てていませんので創価の信仰者ではない。と言えます。今回の本尊義変更に異を唱える会員には「やめても結構」と言う割には、宮田教授には創価大学で教鞭をとらせているのが一会員としては腑に落ちませんが(笑)

> ●日蓮宗との対論について
> 身延系仏教学者との議論は、多く行ってきました。しかし確かに、信者レベルでの法論は知りませんし、あくどい信者も多いのでしょう。「そのような現場を知らない」とのご指摘は最もであり、私には発言の資格はないのだと思います。また、そのような経験を積まれてきた管理人さまには、多く学ばせていただいております。また、無知による発言を反省いたします。

とんでもありません。私は青蓮さんに「対論した事がないのグズグズいうな」という気持ちは毛頭ありません。ですから発言する資格云々ではありません。ただ、現実に身延の信者さんにはそのような人が多いと言う事です。私とて平行線とは思いますがそれでもちゃんとしたディペートをしたいのですが、そうならないのが常です。

> その上で、偽書問題について、論ずる際には、以下の2つが重要になるのでは、と思います。
> —「仏教学」と「教学」の相違点の定義➡これは上でも書かせていただきましたが、両者を「都合よく利用している」というならば、その両者の定義をまず行うべきだと考えます。「信仰者として読む」というのでは、定義としてあまりに曖昧なので、両者を相互排他的な範疇として定義化すべきだと思います。
> —論点の明確化➡「百六箇抄の真偽問題」など、論点を明快にして論ずるべきと思います。その際に日蓮正宗系の教団として証明すべきは、「日蓮の手によるものである可能性の明示」「偽書説の弱点の明示」であると考えます。これは所感というよりも、日蓮研究者の論文等への検討・反論という形をとるのがいいと思います。
> 私が申し上げたかったのは、教学と仏教学をご都合主義的に使用している身延の末端信者のレベルの低い言説に合わせる必要は合わせても根本的な反論にならないので、ちゃんと史学的なレベルでも信仰の可能性を具体明示した方が賢いということです。

はい。それには同感です。

> ●議論のルールについて
> これについては、「決められない」と匙をなげる事が、私には知的怠慢に見えます。少なくとも以下の作業を経た上で、現場で苦闘すべきです。
> —実証的科学の限界の明示➡カント批判哲学、オーギュスト・コントに端を発する実証的方法の検討
> —歴史主義・客観的認識方法の限界の明示➡フッサール現象学、プラグマティズムの導入
> —超越的事物の設定方法の再検討➡キルケゴール哲学、カール・バルトの危機神学の見直し
> —公共圏における「討議」方法の設定➡ハーバマス「公共圏」における討議方法の批判的導入
> 今日の日蓮正宗や創価学会の直面している議論の最大の敵は、西洋圏発の「近代学問」でしょう(仏教学もこれに含まれる)。それらに反論するなら、近代へのアンチテーゼとして誕生した先進的思想や議論の方法を学ぶべきだという事です。
> ちゃんとした議論を避けて、広義の「バリ活」か「アンチ」しか生んでいないのが、現在の議論の状況における悲劇だと思います。私の周囲にも我見に閉じこもって、学ぼうという姿勢を持つ方が少なすぎており、そうした人とは議論しても無駄だなと思ってしまいます。

仰るっている事は良く分かります。特に「ちゃんとした議論を避ける」という言葉は、本当に同感です。
学会内の「バリ活」と「内部アンチ」であれば本来は共に日蓮本仏であるのだから御書でコンセンサスをとるべきなのですが
それすら最近では難しい(バリ活の中に偽書説を持ち出す者が増えています)ましてや他宗なら尚更ですが
そこは統一ルールが望まれますね。

> 色々と不躾な事を申し上げ、申し訳ございません。私のようなものにお付き合いいただき、誠にありがとうございます。

とんでもありません。
青蓮さんのコメントを読み私自身も色々と思索をする機会を得てむしろ感謝しています。
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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