シャリホツさんへのリコメ

こんばんは。初めまして。
コメントへの回答が少し長くなるかもしれないので、
ブログ記事にて私の考えを回答します。

> 私が提唱するのは「妙法蓮華経本仏論」です。
> もちろんここでいう「妙法蓮華経」は、経典の名前ではなく、「開目抄」および「観心本尊抄」で示された文底秘沈の「(南無)妙法蓮華経」のことです。

まず、この「妙法蓮華経本仏」というのは素晴らしいと感じます。
コメントを読ませていただいて
年季の入った活動家・幹部ですら、なかなか「妙法蓮華経仏」までたどり着かない創価の現状のなか
「妙法蓮華経本仏論」をお持ちなっているのは素晴らしい。それが率直な感想です。
私も、「南無妙法蓮華経如来本仏」論者です。
そしてこの「妙法蓮華経仏」こそ、日蓮大聖人である。というのが私の考えです。
勿論、ここで言っている日蓮大聖人とは鎌倉時代の外用の日蓮大聖人ではなく
その内証。即ち久遠元初自受用身の大聖人です。
つまり、私は「妙法蓮華経仏」というのは、あくまでも「人法一体」の仏であり、故に「本仏」なのです。
「法本尊」だけ立てると「理の仏」になってしまいます。
なぜなら法としての「妙法蓮華経」とは「理の一念三千」でしかないからです。
「妙法蓮華経仏」は、いまどこにいて、何を説いたのか?
そうした「事」が全く説明できません。
「理屈として存在」しているだけで「事実として存在」していなければ、末法の衆生は救えません。故に「理の仏」です。
このような「理」の仏であるならばそれは「迹仏」であり「本仏」ではないと思います。

では「妙法蓮華経」とは、もともとはどこに存在したのか?というと

◆至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時因果倶時不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す(当体義抄)

とあるよに「理の一念三千」には最初は名前はなかったのです。
聖人(仏)に妙法蓮華経と名付けれた。つまり仏の智慧の中にあったのです。

◆ 釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき(三世諸仏総勘文教相廃立)

とあるように久遠元初の大聖人が即座開悟したときの法本尊(妙法蓮華経)とは、「我が身」つまり「自分自身」が妙法蓮華経ということです。

上記の二つの御文から分かることは、「妙法蓮華経」とは
久遠元初自受用身(大聖人)の色心を離れたところには、「事(実)として存在していない」といことです。
(もちろん理としては存在してますが)

> 「日蓮本仏論」の不審な点は、日蓮大聖人だけを「本仏」として他の衆生とは別格の存在として扱う点です。

大聖人に限らず「仏」の存在がなければ、一念三千自体が成立しません。
「仏」が存在しないとなると「仏界」が存在しないことになり、十界互具が成立しませので一念三千も成立しません。
一念三千が成立しないと「妙法蓮華経」も存在しません。
「仏界所具の人界」と「人界所具の仏界」は厳密には違うのです。
ただし、それは別格で特別な存在。といものではありません。
生仏不二。それが一念三千です。
大聖人の御内証がご本仏でないなら、仏界所具の人界の存在は証明できません。

> 大聖人はこのように考えたからこそ、人をかたどった仏像ではなく「妙法蓮華経」という法を曼荼羅本尊として図顕されたのではないでしょうか。それなのに、日蓮大聖人を「本仏」や「人本尊」として扱ってしまうと、法と同時に人も根本とすることになり、阿弥陀仏や大日如来を本尊とする他宗に近づいてしまうと思われます。

「法が能で仏が所」という「法勝人劣」は釈迦仏法の範疇の話です。
なぜなら久遠実釈迦仏も法によって 成仏したからです。
その法とはおっしゃる通り「妙法蓮華経」ですが、
その根本の法は上記しましたように「人法一体」の法なのです。
また浄土宗j系・真言宗系については、別の仏・別の法を立て
阿弥陀・大日といった迹仏に帰命するから邪宗になります。
久遠元初自受用身の本仏を立てている以上同じにはなりません。

> もし、「日蓮本仏論」や「人本尊」の考え方が正しいというのであれば、
> 1) 日蓮大聖人と(南無)妙法蓮華経が同一であること  もしくは
> 2) 日蓮大聖人を南無(帰命、信仰)の対象とすべきであること
> このどちらかを真筆御書、あるいは真筆に匹敵する信頼度のある御書で示して頂けないでしょうか。

御書を、「偽書」とか「真筆」とか分けるのは私は反対の立場です(この件はいずれ記事にする予定です)
「信頼度」とはどのようなことをもって「信頼度」と言うのか?
単なる「文献学」等の学問上の事をいうならばそれは法体と法門の違いが分かっていないと思うです。
ですが、ひとつだけ引用しておきます。

◆提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん(撰時抄)

> 突然の不躾な質問で申し訳ありませんが、私も大聖人の仏法を深く理解したいと考えておりますので、どうかご教示願います。

いえ、全然不躾なんかではありません。
むしろ、大聖人仏法を自分で求めず、
ただ創価教学だけを聞いているだけの学会員が多いなか
シャリホツさんのように、大聖人仏法を求めていく方は大好きですし、何よりも尊敬します。
今日は、私の考えを書かせてもらいました。
勿論、それを押し付ける気はありません。
シャリホツさんの仏法研鑽の何かのお役にたてれば幸いです。
また、何が意見などありましたらお気軽にコメントください。
今回は、コメントいただきありがとうございました。

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非常に丁寧な回答をして頂きありがとうございます。
勉強になる点が数多く含まれておりました。

>ここで言っている日蓮大聖人とは鎌倉時代の外用の日蓮大聖人ではなく
>その内証。即ち久遠元初自受用身の大聖人です。

南無の対象となるのは鎌倉時代の日蓮大聖人ではなく、久遠元初自受有身という概念化された日蓮大聖人なのですね。自分の中で曖昧だった点がはっきりしました。

>「法本尊」だけ立てると「理の仏」になってしまいます。
>なぜなら法としての「妙法蓮華経」とは「理の一念三千」でしかないからです。
>「妙法蓮華経仏」は、いまどこにいて、何を説いたのか?
>そうした「事」が全く説明できません。
>「理屈として存在」しているだけで「事実として存在」していなければ、末法の衆生は救えません。
>「妙法蓮華経」とは久遠元初自受用身(大聖人)の色心を離れたところには、「事(実)として存在していない」といことです。
>(もちろん理としては存在してますが)

例えばこういうことでしょうか。
アインシュタインが相対性理論を提唱する前から、「相対性理論」に相当する理は宇宙に存在していた。
けれども、まだ発見されていない以上、事実としての「相対性理論」は存在しなかった(当然、辞典や科学書にも「相対性理論」は載っていない)。
アインシュタインが相対性理論を発見・提唱して初めて事理を具えた「相対性理論」が誕生した。

ですが、いくらアインシュタインが相対性理論の発見者だからといって、「相対性理論=アインシュタイン」とは普通誰も考えないでしょう。
アインシュタインという久遠の存在がはるか昔からいて、これが19世紀に肉体をもったアインシュタインとして誕生して「相対性理論」を提唱した……などと言ったらエライ騒ぎになります。

これは当然、日蓮大聖人と「妙法蓮華経」の関係についても言えることで、開目抄には
「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」
とあります。「一念三千の法門」は「妙法蓮華経」のことなので、大聖人の主張を信じるのであれば竜樹も天親も天台も「妙法蓮華経」を知っていたことになります(少なくとも理としては)。
歴史にifはありませんが、敢えて、もし竜樹がこれを拾い出して「妙法蓮華経」を説いたとしたらどうなるのでしょうか。
「妙法蓮華経」はあくまで末法のための教えなので、竜樹が「今が末法である」と主体的に判断を下したと想定してください。
この場合、「妙法蓮華経=竜樹」となってしまうのでしょうか。
もしそうであれば、「妙法蓮華経=日蓮大聖人」は普遍の原理ではないことになってしまいます。

>「理屈として存在」しているだけで「事実として存在」していなければ、末法の衆生は救えません。

これについては全面的に同意です。いかに「妙法蓮華経」が宇宙に元から存在する原理だとしても、それが「題目」・「本尊」という形で具象化されなければ、衆生の救済には何の役にも立ちません。「妙法蓮華経」を信受の対象として衆生に扱えるようにしてくださったという点において、日蓮大聖人の功績が極めて偉大であることは疑いようがありません。しかし、日蓮大聖人はこの功績によって「報恩感謝」されるべき対象とはなっても、「南無」されるべき対象とはならないというのが私の考えです。

また、法としての妙法蓮華経には「理」のみがあって「事」がないとのことですが、私は法としての妙法蓮華経に、既に「理(論)」と「事(実)」が含まれているのではないかと考えています。
私の考える「理の仏」とは事物や現象を司る宇宙の法則です。そして、「事の仏」とはあらゆる事物や現象を含んだ宇宙そのものです。例えば、花が咲く、星がきらめく、人が生まれて死ぬ、こうした法則に基づく個々の現象のすべてが、宇宙という「事の仏」による説法であると考えています。

例えば、自然災害が起った際に、無明の人はこれを単なる不幸な事故としか認識できません。しかし、「妙法蓮華経」を信受した人にとっては、自然災害も「妙法蓮華経仏」による説法として認識されます。だからこそ、「妙法蓮華経」を受持した人は困難に負けない強い生き方ができると考えています。

「法本尊」としての「妙法蓮華経」にすでに「理」と「事」が円満に備わっているのであれば、そこに「人本尊」としての日蓮大聖人や釈尊を持ち込む必要はないのではないか、というのが私の考えです。

このように考えた場合、日蓮仏法というのは太陽、海、山などを崇拝する「自然信仰」にかなり近いものとなります。但し、「妙法蓮華経」は、己心に備わった大宇宙を貫く絶対の原理であるため、他の自然信仰の本尊(?)などとは比べものにならないほど優れています。

>>「仏界所具の人界」と「人界所具の仏界」は厳密には違うのです。

私の考える「仏界所具の人界」とは、宇宙の変化流転によって衆生が立ち現れてくることです。また、「人界所具の仏界」とは、衆生が宇宙の変化流転の様を如実に知見することです。これも、「妙法蓮華経仏」だけで説明可能だと思います。

>「法が能で仏が所」という「法勝人劣」は釈迦仏法の範疇の話です。
>なぜなら久遠実釈迦仏も法によって 成仏したからです。
>その法とはおっしゃる通り「妙法蓮華経」ですが、
>その根本の法は上記しましたように「人法一体」の法なのです。

日蓮大聖人は御書の中で何度も「依法不依人」を強調していることから、大聖人自身は「法勝人劣」の考え方を根本としていたのではないかと考えています。但し、これは何を本尊とするかという場合の話です。諸法実相、すなわち、人を始めとする個々の事物・現象を離れたところに法も存在しえないという意味においては「人法一体」であり「人法ともに尊し」であると考えています。

>法体と法門の違いが分かっていないと思うです。

法門と法体の違いというのは意識したことがありませんでした。違いについて簡単に教えていただけると嬉しいです。
文献学的に信頼度の高い御書の記述を優先的に採用することで日蓮大聖人の真意(法体?)を掴み取るというのが、今私が試みていることです。

>今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん

この御文については、前後の文脈から、日蓮仏法を行ずる者への指針として日蓮信仰を勧めているのではなく、「高僧と呼ばれている人達であっても南無妙法蓮華経どころか南無日蓮とすらも唱えられない」という皮肉の意味で言っているように思えます。

大変長い文章となってしまい申し訳ありません。
管理人様の回答によって自分自身の思考も整理することができ、一歩も二歩も理解が深まったような気がします。
また、ご意見やご指摘を頂けると嬉しいです。

シャリホツさん

こんばんは。

> 非常に丁寧な回答をして頂きありがとうございます。
> 勉強になる点が数多く含まれておりました。

こちらこそありがとうございました。

> 例えばこういうことでしょうか。
> アインシュタインが相対性理論を提唱する前から、「相対性理論」に相当する理は宇宙に存在していた。
> けれども、まだ発見されていない以上、事実としての「相対性理論」は存在しなかった(当然、辞典や科学書にも「相対性理論」は載っていない)。
> アインシュタインが相対性理論を発見・提唱して初めて事理を具えた「相対性理論」が誕生した。
> ですが、いくらアインシュタインが相対性理論の発見者だからといって、「相対性理論=アインシュタイン」とは普通誰も考えないでしょう。
> アインシュタインという久遠の存在がはるか昔からいて、これが19世紀に肉体をもったアインシュタインとして誕生して「相対性理論」を提唱した……などと言ったらエライ騒ぎになります。

宇宙に存在したとうのでなく自受用身の自身の色心二法が妙法の当体という考えです。発見書でなく所持者ということでしょうか。

> これは当然、日蓮大聖人と「妙法蓮華経」の関係についても言えることで、開目抄には
> 「一念三千の法門は但法華経の本門・寿量品の文の底にしづめたり、竜樹・天親・知つてしかも・いまだ・ひろいいださず但我が天台智者のみこれをいだけり。」
> とあります。「一念三千の法門」は「妙法蓮華経」のことなので、大聖人の主張を信じるのであれば竜樹も天親も天台も「妙法蓮華経」を知っていたことになります(少なくとも理としては)。
> 歴史にifはありませんが、敢えて、もし竜樹がこれを拾い出して「妙法蓮華経」を説いたとしたらどうなるのでしょうか。
> 「妙法蓮華経」はあくまで末法のための教えなので、竜樹が「今が末法である」と主体的に判断を下したと想定してください。
> この場合、「妙法蓮華経=竜樹」となってしまうのでしょうか。
> もしそうであれば、「妙法蓮華経=日蓮大聖人」は普遍の原理ではないことになってしまいます。

もちろんその通りですが、龍樹・天台では「妙法の法体」を所持していないので不可能なのです。
「付属がない」というのはそのことです。

> これについては全面的に同意です。いかに「妙法蓮華経」が宇宙に元から存在する原理だとしても、それが「題目」・「本尊」という形で具象化されなければ、衆生の救済には何の役にも立ちません。「妙法蓮華経」を信受の対象として衆生に扱えるようにしてくださったという点において、日蓮大聖人の功績が極めて偉大であることは疑いようがありません。しかし、日蓮大聖人はこの功績によって「報恩感謝」されるべき対象とはなっても、「南無」されるべき対象とはならないというのが私の考えです。

根本は「本尊」です。本門本尊の存在がなければ「題目」「戒壇」の存在しません。
その本尊とは宇宙の法則ではなくあくまでも自受用身の色心の二法です。
「理を事に顕したのでなく」「事を事に顕した」のが本門本尊です。それが日興門流の教義です。

> また、法としての妙法蓮華経には「理」のみがあって「事」がないとのことですが、私は法としての妙法蓮華経に、既に「理(論)」と「事(実)」が含まれているのではないかと考えています。
> 私の考える「理の仏」とは事物や現象を司る宇宙の法則です。そして、「事の仏」とはあらゆる事物や現象を含んだ宇宙そのものです。例えば、花が咲く、星がきらめく、人が生まれて死ぬ、こうした法則に基づく個々の現象のすべてが、宇宙という「事の仏」による説法であると考えています。

宇宙の法則という法に人格(仏)を持たせるのは私としては大日を立てる真言に近い考えだと思います。
森羅万象を事の仏とすると三身のうちの中諦の存在はどこにあるのか?ということになります。

> 「法本尊」としての「妙法蓮華経」にすでに「理」と「事」が円満に備わっているのであれば、そこに「人本尊」としての日蓮大聖人や釈尊を持ち込む必要はないのではないか、というのが私の考えです。

人法一体でないと「事」を説明したり顕すことができないと私は思います。
実際に宇宙の法則が自然と変化して本尊と顕れたわけでないし今後もそれはないでしょう。

> このように考えた場合、日蓮仏法というのは太陽、海、山などを崇拝する「自然信仰」にかなり近いものとなります。但し、「妙法蓮華経」は、己心に備わった大宇宙を貫く絶対の原理であるため、他の自然信仰の本尊(?)などとは比べものにならないほど優れています。

この己心に備わったという部分が重要です。
本仏の己心に備わっているのからこそ「事の一念三千」となるのだと。
当然凡夫の己心にも仏界はありますがそれは自然と顕われません。
本仏の己心である「本尊」を境としないと、凡夫の智(己心の仏界)は顕われないと考えます。

> 私の考える「仏界所具の人界」とは、宇宙の変化流転によって衆生が立ち現れてくることです。また、「人界所具の仏界」とは、衆生が宇宙の変化流転の様を如実に知見することです。これも、「妙法蓮華経仏」だけで説明可能だと思います。

なるほど、興味深い考えですね。

> 日蓮大聖人は御書の中で何度も強調していることから、大聖人自身は「法勝人劣」の考え方を根本としていたのではないかと考えています。但し、これは何を本尊とするかという場合の話です。諸法実相、すなわち、人を始めとする個々の事物・現象を離れたところに法も存在しえないという意味においては「人法一体」であり「人法ともに尊し」であると考えています。

大聖人の御書で「法勝人劣」を述べているのは対機説法だと考えています。まずは「法華経」という法の重要性を強調する必要があったのでそのように説法しています。釈迦の経典を引用しての説法ですからそうなります。

> 法門と法体の違いというのは意識したことがありませんでした。違いについて簡単に教えていただけると嬉しいです。
> 文献学的に信頼度の高い御書の記述を優先的に採用することで日蓮大聖人の真意(法体?)を掴み取るというのが、今私が試みていることです。

学問的に御書を捉える方々のアプローチはそれでいいかと思います。
だた、それで大聖人の真意をつかみ取ることができるかは甚だ疑問に思います。
末法の凡夫が汲み取れるような真意であるならば、「信」を強調しないと思います。
また、「心」という不可証命題を証明する。というのはジレンマですね。

> >今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん
> この御文については、前後の文脈から、日蓮仏法を行ずる者への指針として日蓮信仰を勧めているのではなく、「高僧と呼ばれている人達であっても南無妙法蓮華経どころか南無日蓮とすらも唱えられない」という皮肉の意味で言っているように思えます。

いえ、皮肉であってもご自身にご本仏としての自覚がなければ「南無日蓮聖人」などと釈迦仏を差し置くような言葉は使わないと思います。でめて「南無釈迦如来」と書くほうが自然です。
「法体と法門」については近く書きますのでお待ちください。

> 大変長い文章となってしまい申し訳ありません。
> 管理人様の回答によって自分自身の思考も整理することができ、一歩も二歩も理解が深まったような気がします。
> また、ご意見やご指摘を頂けると嬉しいです。

いえ、こちらこそ新しい解釈を聞かせてもらい勉強させてもらっています。
ありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。

ご意見お願いします。

記事と関係ないけど、ご意見お願いします。
お寺で、来月「特別御供養」の受付があるそうです。

計り知れない功徳を頂戴出来ることが書かれていますので、真心のご供養を精一杯させて頂きましょう。との事なんですね。

ご供養って感謝でするものだと思うんですけど・・・
どこかで何十回も聞いたこと思い出します。

コメント失礼します

やっぱめちゃくちゃ勉強になりました。ありがとうございます♪

特別御供養、そうですね運営側からするとボーナス月だからじゃないですか(((^^;)
ただ何に対しての供養なのかが問題だと思いますますけどね。
創価学会仏なのか大御本尊なのか…
使い道なんてこっちの知ったこっちゃないです。

特別御供養

仕事がたまってるのでロムするだけと思ってましたのに、またとんでもないこと言う方いらしてて。ほんと困ります。

なんでそうなるのかしら。

お寺といえども運営していかないといけませんでしょう?
教会でも礼拝の時に寄付を集めたりされますし、神社のお賽銭は神さまがお空から取りに来ているとでも?
別に珍しいことではないし過剰に反応するようなことでしょうか。

ただ、創価学会の財務だけは全然別ものですよ。

申込みから納金まで幹部は何してるかご存知でしょうか?
だいたい8月末から9月初め頃でしょうか、
昨年の公布部員数から地区あたり『プラス1』と言われ、穴が開くほど名簿を見直しては公布部員台帳を書いたり消したり、転入転出・成人した方・亡くなった方…増えるのか?減るのか?頭数を何度も何度も数え直す。
数が減っては一大事。長の一念が足りないと叱られちゃいます。理不尽ですよねえ。
それにしても公布部員数だの頭数だの無礼にもほどがあると思いませんか?
こんなのが清らかでしょうか?尊いでしょうか?

そんなことお寺はなさってないでしょう。

ご丁寧に公布部員申込書に直筆で署名、ハンコまでつかせたところからはもう強制的な『徴収』といっていいでしょう。
そんな『一筆・捺印』の必要あります?
何かの契約書ですか?

部員さんの経済力や人脈に合わせてのいつになくきめ細かい家庭訪問、激励・指導・脅し・ごますり。
要は「一口でも多く納金しやがれよ?」と言いに行くだけですけどね。

だいたい振込用紙も変。
なんで名前までわざわざ印刷したものを渡す必要があります?
『公布部員』の個人情報と毎年の納金額を創価学会組織がデータで管理してるんですよ?
気持ち悪くありませんか?

しかも何度もしつこく言いますけれど謎の『 一口 1万円』
例えば「5千円が自分の精一杯の真心」という方には「祈ってあと5千円工面することがあなたの経済革命」と言い放ち真心もくそもありません。
「御供養」ではなく「納金」「納金」って皆さん、変だとお思いにならないの?
だいたい『公布部員会』ってなんなのさ。
『徴収対象者に絶対納金しろよ?たくさん納金しろよ?と念押しする会』とちゃんと銘打ってほしいものです。

お寺は絶対なさってないことばかり。

というか、もういい加減に財務のシステムはおかしいって思ってくださいな。

ではこれにて失礼。大変大変、仕事に戻ります。

特別御供養

特別御供養は、来月の御講の後に受付がありますが、正宗の御供養は借金や定期を解約してしろとは、ひと言もありません。
それに、使い道も明記していて
国宝の三門と五重塔の補修等で使われます。
今年は物入りが、重なり、妻と二人で今年は5000円をする申し込みをしています。

No title

ご意見ありがとうございます。

言葉たらずでした。
お寺には、年二回講費を払っています。
先祖供養とか、御会式にもご供養しています。

特別御供養は、大聖人御生誕800年の為の記念事業。
お寺の新聞には、昔は大卒の初任給を基準として、全員がこの目標目指して励んだ
とか、一日百円として、36500円を目安にとか。
で、今回が第一回らしいです。

私は、申込用紙みたいのと、いつもの新聞しか貰っていません。
なんかリーフレットとか配られたとか新聞に書いてるけど、
それも貰っていません。

今回、財務の振込用紙と「振込方法について」なる注意事項の用紙ももらいました。
昨年あたりから、インターネットバンキングでも振込可能になり、ありがたさもクソもない有様ですが(笑)
インターネットバンキングの振込の注意事項で、こんな箇所がありました。

例)一口一万円をお振込の場合
振込金額9892円 手数料108円
取引金額10000円
→受領証は9892円

振込金額10000円 手数料108円
取引金額10108円
→受領証は10000円
※お振込の際お間違えないようご確認ください。

一口一万だから間違えても一万以下で振込なんかするんじゃねーぞ!創価学会仏様へのご供養なんだぞ!という本部のバカ幹部連中の声が聞こえてきます。

かりんとうさん

こんばんは。

> 記事と関係ないけど、ご意見お願いします。
> お寺で、来月「特別御供養」の受付があるそうです。
> 計り知れない功徳を頂戴出来ることが書かれていますので、真心のご供養を精一杯させて頂きましょう。との事なんですね。
> ご供養って感謝でするものだと思うんですけど・・・
> どこかで何十回も聞いたこと思い出します。

法華講員ではないので「特別御供養」なるものがどんなものか知りませんが
御供養にに「普通」とか「特別」とかはない思います。
「させていただく」という気持ちが大切なんだと思います。
もちろん、「こんなに宗門を守ってきてやったのに」てのは論外です

元創価班さん

こんばんは。

> 特別御供養、そうですね運営側からするとボーナス月だからじゃないですか(((^^;)
> ただ何に対しての供養なのかが問題だと思いますますけどね。
> 創価学会仏なのか大御本尊なのか…
> 使い道なんてこっちの知ったこっちゃないです。

その通りですね。
一番肝心なところですよね

現役男子部さん

こんばんは。

> 今回、財務の振込用紙と「振込方法について」なる注意事項の用紙ももらいました。
> 昨年あたりから、インターネットバンキングでも振込可能になり、ありがたさもクソもない有様ですが(笑)
> インターネットバンキングの振込の注意事項で、こんな箇所がありました。
> 例)一口一万円をお振込の場合
> 振込金額9892円 手数料108円
> 取引金額10000円
> →受領証は9892円
> 振込金額10000円 手数料108円
> 取引金額10108円
> →受領証は10000円
> ※お振込の際お間違えないようご確認ください。
> 一口一万だから間違えても一万以下で振込なんかするんじゃねーぞ!創価学会仏様へのご供養なんだぞ!という本部のバカ幹部連中の声が聞こえてきます。

なんだかなぁ・・
ビジネスライクですね。

線香、しきみ&ローソク代以外も必要です。

一応、広布部員の私。
未だ振込用紙は
頂いておりませんが、
他の善知識のコメントに
ビックリ!?
さすが金儲けには余念無く。
ネット銀行からも送金できるのですね。

追撃(追金)の手をゆるめるな!!
千円単位は、処理が面倒なんで!!
一万円札から創価の最低通貨です。
悪しからずm(__)m

No title

管理人さま、ご意見ありがとうございます。
特別も、普通も、関係ないですね。
ありがとうございます。

かりんとうさん

こんばんは。

> 管理人さま、ご意見ありがとうございます。
> 特別も、普通も、関係ないですね。
> ありがとうございます。

もちろんそうですよ。
大聖人はご供養を区別も差別もしてませんから。

No title

ご回答ありがとうございます。
まだ腑に落ちない点がいくつかあるので質問させてください。

>宇宙に存在したとうのでなく自受用身の自身の色心二法が妙法の当体という考えです。発見書でなく所持者ということでしょうか。
>龍樹・天台では「妙法の法体」を所持していないので不可能なのです。
>「付属がない」というのはそのことです。

この点については理解しました。

>根本は「本尊」です。本門本尊の存在がなければ「題目」「戒壇」の存在しません。
>その本尊とは宇宙の法則ではなくあくまでも自受用身の色心の二法です。

私の考えでは、「妙法蓮華経」という法則を音声として具象化したものが「題目」であり、図像として具象化したものが「本尊」です。
「題目」と「本尊」はともに衆生が「妙法蓮華経」の修行を行えるよう大聖人が具象化されたものであり、両者に優劣はないと考えています。
もし「題目」よりも「本尊」が優位であるというのならば、その文証はあるのでしょうか。
また、「妙法蓮華経」は単なる法則ではなく色心の二法を包含した法則です。これは「一念三千」の中の十如是に、色心が含まれていることから明らかでしょう。
そして、その色心というのは、日蓮大聖人という他者の色心ではなく、あくまで自己の色心です。

>宇宙の法則という法に人格(仏)を持たせるのは私としては大日を立てる真言に近い考えだと思います。
>森羅万象を事の仏とすると三身のうちの中諦の存在はどこにあるのか?ということになります。

確かに、私の表現では「宇宙仏」のような自己とは異なる仏がいるように取られてしまっても仕方なかったと思います。
私の考えでは、三身のうちの法身は森羅万象を含む宇宙そのものです。報身は森羅万象の働きです。そして応身は今ここで生きている自己です。
これらの三身が即一であるということが「妙法蓮華経」ではないでしょうか。どこにも日蓮大聖人が入り込む余地はありません。
いくら「日蓮本仏論」が三身即一を唱えたからといって、自己の外に根本の仏を置いている以上、大日如来信仰のような権大乗教と変わらないのではないかというのが私の率直な意見です。自己の中にこそ根本の仏があるというのが法華経の精神ではないでしょうか。

>人法一体でないと「事」を説明したり顕すことができないと私は思います。
>実際に宇宙の法則が自然と変化して本尊と顕れたわけでないし今後もそれはないでしょう。

星がきらめくのも、花が咲くのも、人が文字を書くのもすべて自然現象でしょう。
当然、日蓮大聖人が「妙法蓮華経」を「題目」と「本尊」として具象化されたのも自然現象です。
本尊だけは何か自然を超えた神秘的な力が働かないと顕れないという根拠はあるのでしょうか。

>末法の凡夫が汲み取れるような真意であるならば、「信」を強調しないと思います。

確かに難信難解ではありますが、末法の凡夫でも努力次第で汲み取れるものであるからこそ、弟子に学の研鑽を薦めていたのではないでしょうか。
「学」の範囲を超えたものであれば、それはオカルトであり、始めから「学ぶ」必要などないと思います。
もちろん「信」あっての「行学」なので、「信」が最も大切なのは理解しています。

>いえ、皮肉であってもご自身にご本仏としての自覚がなければ「南無日>蓮聖人」などと釈迦仏を差し置くような言葉は使わないと思います。でめ>て「南無釈迦如来」と書くほうが自然です。

たしかに、南無釈迦ではなく南無日蓮と書いたのは意味深ですね。

>「法体と法門」については近く書きますのでお待ちください。

ありがとうございます。楽しみにしています。

>いえ、こちらこそ新しい解釈を聞かせてもらい勉強させてもらっています。
>ありがとうございます。
>今後もよろしくお願いします。

ご回答ありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いします。

シャリホツさん

こんばんは。


> 私の考えでは、「妙法蓮華経」という法則を音声として具象化したものが「題目」であり、図像として具象化したものが「本尊」です。
> 「題目」と「本尊」はともに衆生が「妙法蓮華経」の修行を行えるよう大聖人が具象化されたものであり、両者に優劣はないと考えています。

ここは同意します。

>もし「題目」よりも「本尊」が優位であるというのならば、その文証はあるのでしょうか。

優劣という意味ではありません。ここはいわゆる三大秘法の開合の意味です(日寛教学なのでおそらくシャリホツさんは採用しないと思いますので説明は割愛します)
私が思うに、「本門本尊」を信じて唱える題目は必ず「本門題目」ですが、
南無妙法蓮華経の題目には必ずしも「本門本尊」が含まれていると限りません。
釈迦像や稲荷・鬼子母に題目をあげても、それらは「本門本尊にならないのです」
ですから、修行の根本は「本尊」なのです。それゆえに大聖人は本尊を顕された。
もしも「題目」に全てが含まれるなら「本尊」は必要ありません。

> また、「妙法蓮華経」は単なる法則ではなく色心の二法を包含した法則です。これは「一念三千」の中の十如是に、色心が含まれていることから明らかでしょう。
> そして、その色心というのは、日蓮大聖人という他者の色心ではなく、あくまで自己の色心です。

己心本仏論ろは、凡夫本仏ということです。凡夫が本仏ならば「仏法」でなく「凡夫法」となります。
また、自分が本仏ならば、自分以外に本尊は必要ないでしょう。
いやむしろ、自分が既に本仏なのだから修行も必要ありません。
自身が仏である。というのはあくまでも「理」の上の話なのです。
また、自己に仏性を感じるのは天台の修行であり像法の衆生の修行です。
天台の修行で事足るのなら、わざわざ大聖人が天台と違う修行を示す必要もありません。

> 私の考えでは、三身のうちの法身は森羅万象を含む宇宙そのものです。報身は森羅万象の働きです。そして応身は今ここで生きている自己です。
> これらの三身が即一であるということが「妙法蓮華経」ではないでしょうか。どこにも日蓮大聖人が入り込む余地はありません。

宇宙即我。これも上記の衆生本仏論と同様、創価教学の根幹です。
これだとやはり「本尊」は必要ありません。
自分の外は全て宇宙ですから、どこを向いても何を本尊にしてもよいことになります。
宇宙の法則=一念三千とい考えも「理」の上の話です。
三大秘法が宇宙に遍満している。という考えは「理」であり
実際にはご本仏(久遠元初の大聖人)の智慧の中にしか「事の一念三千」は存在してないのです。

> いくら「日蓮本仏論」が三身即一を唱えたからといって、自己の外に根本の仏を置いている以上、大日如来信仰のような権大乗教と変わらないのではないかというのが私の率直な意見です。自己の中にこそ根本の仏があるというのが法華経の精神ではないでしょうか。

大聖人は自己の外に根本仏を設定しません。
前回の総勘文抄の御文にあるように、あくまでも「我が身」を妙法の当体ろ即座開悟したのです。

> 星がきらめくのも、花が咲くのも、人が文字を書くのもすべて自然現象でしょう。
> 当然、日蓮大聖人が「妙法蓮華経」を「題目」と「本尊」として具象化されたのも自然現象です。
> 本尊だけは何か自然を超えた神秘的な力が働かないと顕れないという根拠はあるのでしょうか。

そういう意味ではなく、大聖人という人がいなければ、「本尊」は顕われない。という意味です。
だれも人かいないところに、自然に本尊が現れることはない。といことです。
法は自体は無自性ですから。

> 確かに難信難解ではありますが、末法の凡夫でも努力次第で汲み取れるものであるからこそ、弟子に学の研鑽を薦めていたのではないでしょうか。
> 「学」の範囲を超えたものであれば、それはオカルトであり、始めから「学ぶ」必要などないと思います。
> もちろん「信」あっての「行学」なので、「信」が最も大切なのは理解しています。

このへんは、「法門と法体」の記事を書くときにお返事します。

> >いえ、皮肉であってもご自身にご本仏としての自覚がなければ「南無日>蓮聖人」などと釈迦仏を差し置くような言葉は使わないと思います。でめ>て「南無釈迦如来」と書くほうが自然です。
> たしかに、南無釈迦ではなく南無日蓮と書いたのは意味深ですね。

この部分は。大聖人ご自身がご本仏であるという自覚の下、こう書いた。というのが私の理解です。




ここまでの読後感

 半可通の私ですし、なにしろ長い間の創価教学は今も染みついています。  それは即ち「日寛教学」です。 そしてなお悪いことには、いろんな幹部が、己義を構えて、得々と語ってきた弊害もあります。  そしてそのせいで、「学」としての己の限界を感じてしまうので、無力感やいろんな感情を持て余す。  そこへ「題目をあげながら考えなさい」という指導が来るから、凡庸な者は(もちろん私も含め)、それを「学」の壁、あるいは終着点として置いてしまうのです。

 なんせ指導する側(講師なり幹部)はしばしば「言語道断・心行所滅の世界である」として、講義は終わっちゃうというね、、。(笑)

 そして観念論の迷路に陥ることを諫め、「実践(創価のカツドウ)」に修行の重きを転嫁しちゃいます。  それは学会・センセイを宣揚し、ともかくも「入会させるんだ!」という、創価の折伏運動や、セイキョウ拡販、あげくがザイムでしょ?   たしかに実践論は大切でしょう。 しかし、片や、「信行学」が大事!とも言う。   結局、よく分かんなくなって、「お題目が最第一の修行」というふうに行く人も生まれ、あるいは、かつて流行った「信行力」とかいう冗談でもあった「バリ活」といわれる人種も多く発生。 ごく一部の偏屈、、失礼、、こだわりの人たちが、教学を深めることを第一としていくのみで、身近では県教学部長になったりしました。

 かくして、とことん突き詰めて御書や法門義の思索の修行をあきらめてしまう人が全体としては量産されました。 これはあながち間違った指摘ではないと思います。  良い悪いはおいといても、これが実態だろうと思いますね。  『一定の理解』が追い付かないから、今日では「あんな」教学試験問題が横行してしまいました。 「あてくじ」みたいなアレね。(苦笑)

 話は少し変わりますが、二年前の会則変更に際し、「首脳四人組VS教学部陣の大論争」が繰り広げられました。 それすら知らない人がめっちゃ多いですね(これが大問題) 『依らしむべし。知らしむべからず』(江戸時代か!)

 後日、除名、左遷処分になった教学部陣が書面で漏らしてました。 「あの秋谷元会長や谷川氏が、あんなに教学力がないとは思わなかった」とね。

 その例でもいえるのは、創価は宗教団体ではないと、どなたかが、ここで書いておられましたが、その通りかもしれませんね。

 上が分かってない。。。哀しいことです。  

 そういう意味でも、ある時は弁証法的にでも、議論を重ねることは、大切ですね。  でないと、この仏法がただの不可知論で終わってしまいます。 だから今回の「シャリホツさんとの対話」は実に面白かったですよ。

 「正しいものは常にシンプルである」   この言葉が私は好きです。

 創価が深淵なる仏法を大衆化した。 TRUNPさながらのオポチュニティでした。

 これは善悪をおいといて言えば、戦後の大衆運動としては成功例だったろうと思います。 私もその恩恵にも預かりました。

 そして今、私は「失意」の底にいるわけですが。。(笑)

 「法体・法門論」、実に楽しみでもあります。  
 

No title

ご返事ありがとうございました。

>優劣という意味ではありません。ここはいわゆる三大秘法の開合の意味です(日寛教学なのでおそらくシャリホツさんは採用しないと思いますので説明は割愛します)

いえ、私は日寛教学に精通しているわけではありませんが、日寛教学は大変素晴らしいものだと思っています。特に五重の相対・五重三段の教判は大聖人の教えが見事に整理されています。ただ、南無妙法蓮華経=日蓮大聖人の部分に関しては否定的な立場です。

>私が思うに、「本門本尊」を信じて唱える題目は必ず「本門題目」ですが、
>南無妙法蓮華経の題目には必ずしも「本門本尊」が含まれていると限りません。
>釈迦像や稲荷・鬼子母に題目をあげても、それらは「本門本尊にならないのです」
>ですから、修行の根本は「本尊」なのです。それゆえに大聖人は本尊を顕された。
>もしも「題目」に全てが含まれるなら「本尊」は必要ありません。

よく理解できました。確かにその通りですね。

>己心本仏論は、凡夫本仏ということです。凡夫が本仏ならば「仏法」でなく「凡夫法」となります。
>また、自分が本仏ならば、自分以外に本尊は必要ないでしょう。

いえ、私は「凡夫本仏論」にも「己心本仏論」にも反対の立場です。「凡夫」や「己心」が根本であれば、まさしく何を拝んでも良いことになってしまいます。そうではなく、「己心」を貫く根源的な法、すなわち「妙法蓮華経」こそが「本仏」であるという立場です。

>いやむしろ、自分が既に本仏なのだから修行も必要ありません。

修行が必要ないというのは本覚論ですね。私は本覚論も採用しません。
なぜなら、いくら己心を「妙法蓮華経」という法則が貫いているとしても、それを覚知できなければ何も意味がないからです。
現代的な例を挙げれば、「私の体は原子でできている」のと「私の体は原子でできていることを私は知っている」のとでは全く意味が異なりますよね。「知って」こそ、骨を作るためにリンやカルシウムが必要だね、といったことが理解できるのです。

>また、自己に仏性を感じるのは天台の修行であり像法の衆生の修行です。

「自己の仏性」という点では、大聖人の仏法も天台の仏法も同じだと考えています。ただ、天台の修行は迹門の「始成正覚・厭離断九」の十界互具に基づいているため、「根無し草(生命の実相を表しきれていない)」であり、末法の衆生を救うのには役立ちません。一方、大聖人の修行は本門の「久遠実成・十界常住」の真の十界互具に基いているため、末法のすべての衆生が仏の智慧を体現できるのだと理解しています。

>宇宙即我。これも上記の衆生本仏論と同様、創価教学の根幹です。
>これだとやはり「本尊」は必要ありません。
>自分の外は全て宇宙ですから、どこを向いても何を本尊にしてもよいことになります。

いえ、何を本尊にしてもよいことにはなりません。
末法の凡夫には、個々の事物を見て「これは妙法蓮華経そのものだ!」などと覚知する能力はありませんから、やはり「妙法蓮華経」が図像として具象化された「本門の本尊」こそ「本尊」として用いられるべきでしょう。

>大聖人は自己の外に根本仏を設定しません。
>前回の総勘文抄の御文にあるように、あくまでも「我が身」を妙法の当体ろ即座開悟したの

です。

そうではなく、
大聖人を本仏とすることは、他の衆生にとっては自己の外に根本仏を置くことになり、それは結局のところ大日如来信仰と変わらないのではないかと言いたいのです。

>だれも人かいないところに、自然に本尊が現れることはない。といことです。

分かりました。それはそうですね。

>法は自体は無自性ですから。

法が無自性というのは変ではないですか?法は条件によって変化しないからこそ法であるはずです。もし、法が縁によってコロコロ変わっていたら、それはもはや法ではなく事物です。「妙法蓮華経」は、その名称は変化する可能性はあっても、その内実は不変のはずです。
それとも、「理の法」は不変だけれども「事の法」は変化するということでしょうか?

>このへんは、「法門と法体」の記事を書くときにお返事します。

ありがとうございます。
また、よろしくお願いします。

シャリホツさん

こんばんは。

少し私の分からない部分があるのですが、


> いえ、私は「凡夫本仏論」にも「己心本仏論」にも反対の立場です。「凡夫」や「己心」が根本であれば、まさしく何を拝んでも良いことになってしまいます。そうではなく、「己心」を貫く根源的な法、すなわち「妙法蓮華経」こそが「本仏」であるという立場です。
> なぜなら、いくら己心を「妙法蓮華経」という法則が貫いているとしても、それを覚知できなければ何も意味がないからです。
> いえ、何を本尊にしてもよいことにはなりません。
> 末法の凡夫には、個々の事物を見て「これは妙法蓮華経そのものだ!」などと覚知する能力はありませんから、やはり「妙法蓮華経」が図像として具象化された「本門の本尊」こそ「本尊」として用いられるべきでしょう。

とこのように、シャリホツさんは言われていますが、妙法蓮華経という「法」は自然と(自分)で「本尊として顕われない」し、
凡夫が自力で妙法を覚知できないのですから、「本尊」として顕す人、凡夫に覚知される人が必要になりますよね。それがご本仏だと思うのですが?
シャリホツさんは「仏」とか「本仏」をどのように定義されているのでしょうか?その辺りを教えていだければと思います。

> 法が無自性というのは変ではないですか?法は条件によって変化しないからこそ法であるはずです。もし、法が縁によってコロコロ変わっていたら、それはもはや法ではなく事物です。「妙法蓮華経」は、その名称は変化する可能性はあっても、その内実は不変のはずです。
> それとも、「理の法」は不変だけれども「事の法」は変化するということでしょうか?

いえ、言い方が少しはしょり過ぎました。「法」とは「空」ですので固定された相がない。という意味での「無自性」です。

お時間がある時で構わないので、「仏」観をお聞かせください。

No title

>とこのように、シャリホツさんは言われていますが、妙法蓮華経という「法」は自然と(自分)で「本尊として顕われない」し、
>凡夫が自力で妙法を覚知できないのですから、「本尊」として顕す人、凡夫に覚知される人が必要になりますよね。それがご本仏だと思うのですが?
>シャリホツさんは「仏」とか「本仏」をどのように定義されているのでしょうか?その辺りを教えていだければと思います。

確かに、私と管理人さんとで「仏」観に食い違いがあったようですね。
まず、私は「仏」を「『空』を覚った者」と定義しています。もっと詳しく言うと「万物を『空』と捉えることによって『無分別智』を得た者」のことです。
凡夫は「生」と「死」、「善」と「悪」、「汚」と「浄」、「自己」と「他者」などの「分別」に捕らわれてしまうことによって「煩悩」が起こり苦しみます。
仏は、これらを分別せずに「空」と捉える「無分別智」をもつため、凡夫のように瑣末なことには悩まされず、自由自在に生きることができます。
「煩悩即菩提」、「生死即涅槃」、「色心不二」、「依正不二」、「自他不二」などは、どれも「無分別智」によって実感されるものです。
以上のことは、法華経・般若経・維摩経などの大乗経典や中論・大智度論等の論書に説かれるとおりで、大聖人もこの「仏」観をもっていたと考えています。

次に「本仏」ということですが、これは「仏を生み出す存在」即ち「能生」と定義しています。「本仏」がいるならば、当然「迹仏」もいます。「迹仏」の方は「生み出される側の仏」即ち「所生」と定義しています。
そして、この「本仏」即ち「能生」にあたるものこそが「妙法蓮華経」であるというのが私の考えです。

以上のことは、本尊問答抄の以下の文から判断しています。
「法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。」
法華経が能生なのだから、当然その肝心である「妙法蓮華経」も能生となります。

実は、ここで問題があって、能生である「妙法蓮華経」即ち「本門・事の一念三千」の構成要素の中に「仏界」が含まれているということです。
「妙法蓮華経」の中に「仏」が含まれているということは、当然、「仏」も「妙法蓮華経」という法則に従う衆生にすぎないということになります。また、「妙法蓮華経」を仏や本仏とみなすことにも矛盾が生じます。
よって、一番最初に言っていたことの訂正で申し訳ないのですが、「妙法蓮華経『本仏』論」というのは正確な表現ではなく、「妙法蓮華経『能生』論」と言うべきでした。「本仏不在論」と言ってもいいかもしれません。

一点確認したいのですが、管理人さんの考えでは、「日蓮大聖人=仏=妙法蓮華経」なのですよね。
では、妙法蓮華経(一念三千)の中に構成要素として「仏界」が含まれていることについてどのように考えているのでしょうか。日蓮大聖人を「仏界」の衆生に配するのであれば、日蓮大聖人=妙法蓮華経が成り立たなくなると思うのですが。

それから、
改めて調べてみて分かったのですが、日蓮大聖人は「本仏」という語を一度も使用されていないようです(少なくとも真筆では、ですが)。
私が思うに、大聖人は人々を導く「本仏」や「根本仏」といった考え方に否定的だったのではないでしょうか。
「本仏」や「根本仏」という考え方は「救う側の仏」と「救われる側の衆生」という明確な区別を生じるため、阿弥陀信仰のような他力偏重の思想を生みやすいからです。
「救う側(本仏)」と「救われる側(凡夫)」を区別せず、衆生が両方の役割を担うことこそが、日蓮仏法が目指したものである気がします。
これは地涌の菩薩が凡夫でありながら仏の特質(三十二相)を兼ね備えていたり、凡夫である不軽菩薩が仏の役割であるはずの記別を行ったりする法華経の「因果倶時」の思想とも合致しています。

>いえ、言い方が少しはしょり過ぎました。「法」とは「空」ですので固定された相がない。という意味での「無自性」です。

法に固定された相がないという点には賛成です。だからこそ「法」が「題目」や「本尊」といった様々な相として具象化されるわけですからね。
しかし、私は「法(法則)の相が空である」ことは認めても、「法(法則)それ自体は実有である」と考えています。
つまり、「法」は縁によってその「相」は変化することはあっても、「法」それ自体は「縁」によって変化しないということです。
そして、日蓮仏法において真に根本とすべきものは「法」の相(題目や曼荼羅本尊)などではなく、不変の「法」それ自体、すなわち管理人さんがおっしゃる「理の法」の方であるというのが私の考えです。
管理人さんは、「法」が相として現れたもの(題目や本尊)が成仏に必須だとおっしゃっていますが、それでは釈迦はどうやって成仏したのでしょうか。釈迦の時代には「法」が相として現れたものなどなかったはずです。しかし釈迦は覚りを開いて成仏した。それは、釈迦が「法」それ自体を覚知したからではないでしょうか。しかし、衆生が「法」それ自体を覚知するというのは不可能に近いレベルで難しい(釈迦や大聖人のような例があるため不可能ではないが)。そこで、大聖人は「題目」や「本尊」といった相として「法」を具象化し、我々が「法」それ自体を覚知できるようにしてくださったのだと考えています。
この考えに基づけば、日蓮大聖人はあくまで能生である「法」を具象化した人師であって、能生そのものではないということになります。よって日蓮大聖人や曼荼羅本尊などの物体は南無(帰命・信仰)の対象とはならないと考えています。南無の対象となるのは曼荼羅本尊が表現している「法」それ自体です。

長くなってしまい申し訳ありません。分かりにくいところがあればご指摘ください。

連続コメントすみません

相対性理論に例えるならば、

妙法蓮華経は「相対性理論」
曼荼羅本尊は「相対性理論の論文」
日蓮大聖人は「アインシュタイン」となります。

そして、航空宇宙や物理学に携わる人がこの中の一体どれを頼りにすべきかと言えば
アインシュタインや彼が書いた論文などではなく、「相対性理論」そのものということになります。

もちろん、アインシュタインの論文がなければ、我々は相対性理論の恩恵に預かることができないのですから、その意味ではアインシュタインに感謝したり、論文を後世まで残していくことは重要です。
しかし、最も大切で根本とすべきなのはあくまで「相対性理論」そのものだと思うのです。

大石寺系の教学では、「法」が相として現れたものである大御本尊を根本にしていますよね。
では、その大御本尊が事故や災害で失われてしまった場合はどうなるのでしょうか。
もしその場合に日蓮仏法というものが世界から消え失せてしまうというのであれば、日蓮仏法というのは随分と頼りない教えだということになります。

この点について大石寺系の教学を支持する人に意見を伺ったことがなかったので、気になっております。

シャリホツさん

こんばんは。
なんとなく疑問が解けてきました。

> よって、一番最初に言っていたことの訂正で申し訳ないのですが、「妙法蓮華経『本仏』論」というのは正確な表現ではなく、「妙法蓮華経『能生』論」と言うべきでした。「本仏不在論」と言ってもいいかもしれません。

これなら。納得です。「妙法蓮華経能生論」については、私も同意です。
「本仏不在論」については私はそうは考えません。
なぜなら、「本仏の存在があって」初めて「理の一念三千」から「事の一念三千」となるからです。

> 一点確認したいのですが、管理人さんの考えでは、「日蓮大聖人=仏=妙法蓮華経」なのですよね。
> では、妙法蓮華経(一念三千)の中に構成要素として「仏界」が含まれていることについてどのように考えているのでしょうか。日蓮大聖人を「仏界」の衆生に配するのであれば、日蓮大聖人=妙法蓮華経が成り立たなくなると思うのですが。

大聖人を本仏という言うときは、「久遠元初自受身」を指してそう呼んでます。そして、一念三千即自受用身なので「仏界」が含まれないとむしろダメです。そして、この自受用身は「仏界所具の人界」(仏界の衆生)ではなく、「仏界所具の仏界」という解釈です。鎌倉時代の応身の大聖人が「仏界所具の人界」の当たります。

> それから、
> 改めて調べてみて分かったのですが、日蓮大聖人は「本仏」という語を一度も使用されていないようです(少なくとも真筆では、ですが)。
> 私が思うに、大聖人は人々を導く「本仏」や「根本仏」といった考え方に否定的だったのではないでしょうか。

たしかに「直接的な本仏」という記述はありませんが、随所にご自身を「本仏」であると自覚していた御文はあります。

> 「本仏」や「根本仏」という考え方は「救う側の仏」と「救われる側の衆生」という明確な区別を生じるため、阿弥陀信仰のような他力偏重の思想を生みやすいからです。

それは違うと思います。大聖人の仏法は「絶対他力」でもなく「絶対自力」でもありません。
絶対他力である念仏も、絶対自力である禅も破折していることでそれはわかります。
一言でいうと境地冥合でしょうか。ご本仏の色心二法の体である御本尊を「境」とすることで、衆生の本来持つ仏界(智)を開く(冥合)といことだと理解しています。成仏とは「仏になる」(救われる)のでなく「仏を開く」といのはこういうことだとおもいます。そして仏を開いてしまえばそれは「生仏一体」です。「而二不二」ということです。


> これは地涌の菩薩が凡夫でありながら仏の特質(三十二相)を兼ね備えていたり、凡夫である不軽菩薩が仏の役割であるはずの記別を行ったりする法華経の「因果倶時」の思想とも合致しています。

地涌の菩薩については「仏界所具の菩薩界」だと私は考えます。


> しかし、私は「法(法則)の相が空である」ことは認めても、「法(法則)それ自体は実有である」と考えています。

それは私も同じです。それを中道というのだと思います。「空を空ずる」のが中道だと思ってます。

> つまり、「法」は縁によってその「相」は変化することはあっても、「法」それ自体は「縁」によって変化しないということです。
> そして、日蓮仏法において真に根本とすべきものは「法」の相(題目や曼荼羅本尊)などではなく、不変の「法」それ自体、すなわち管理人さんがおっしゃる「理の法」の方であるというのが私の考えです。

その通りです。

> 管理人さんは、「法」が相として現れたもの(題目や本尊)が成仏に必須だとおっしゃっていますが、それでは釈迦はどうやって成仏したのでしょうか。釈迦の時代には「法」が相として現れたものなどなかったはずです。しかし釈迦は覚りを開いて成仏した。それは、釈迦が「法」それ自体を覚知したからではないでしょうか。

いえ、釈尊は五百塵点劫に成仏しています。それは、久遠元初の人法一体の南無妙法蓮華経を修行したからです。

> この考えに基づけば、日蓮大聖人はあくまで能生である「法」を具象化した人師であって、能生そのものではないということになります。よって日蓮大聖人や曼荼羅本尊などの物体は南無(帰命・信仰)の対象とはならないと考えています。南無の対象となるのは曼荼羅本尊が表現している「法」それ自体です。

話が戻ってしまいますが、その「法」は事実としてどこに存在するのかといえば、久遠初本仏の智慧(報身)を中心とした三身の中にしか存在しないのです。「理」の上では、宇宙に何も存在しなくても「法」は存在すると考えるのか仏法的ですが、それはあくまでも「理」です。ただ法があるだけです。ただ「理法」があるだけで他に何もなければは誰も「仏」にはなりません。その「理法」を「仏」と呼ぶ人もいないし、「妙法蓮華経」と呼ぶ人もいません。また能生にもならなければ所生にもならない。この「理法」が自力で「妙法蓮華経」と名乗り、仏(人)に姿を変える。といのはいかにも荒唐無稽だと思います。
それらを「仏法」というには無理があります。
「仏法」とは「仏の法」ですから「仏と法」が揃って「仏法」になるのです。ですから「仏法」と呼ぶ「理法」は、「仏」を離れて事実の上では存在しないのです。また「法」を離れた仏も事実の上では存在しません。釈迦仏法ではこ、この「法」と「人」に勝劣を設けます。しかし大聖人仏法では最初からこの「法」と「人」は一体なのです。最初に引用した、「当体義抄」「総勘文抄」の通りです

シャリホツさん

> 妙法蓮華経は「相対性理論」
> 曼荼羅本尊は「相対性理論の論文」
> 日蓮大聖人は「アインシュタイン」となります。

この考えは私と違います。
大聖人は、我が身をして即座開悟しているので、妙法蓮華経の発見者ではなく、所持者だというのが私の意見です。

> 大石寺系の教学では、「法」が相として現れたものである大御本尊を根本にしていますよね。

いえ。ここは全く違います。
日寛教学では、「法」(=理)を事に顕したのでなく
「本仏」(=事)を事に顕したのが大御本尊なのです。
理を事に顕した。というのは現在の創価教学・池田教学です。

ゆえに
> では、その大御本尊が事故や災害で失われてしまった場合はどうなるのでしょうか。
> もしその場合に日蓮仏法というものが世界から消え失せてしまうというのであれば、日蓮仏法というのは随分と頼りない教えだということになります。

このような論が創価の中に現れるのです。
大御本尊はあくまでも今の時点での久遠元初の大聖人そのものです。
久遠元初ですから不滅です。
今の大御本尊が失われるような時がきたとすれば、また違った形でこの娑婆世界にご出現するでしょうが
それは、我々凡夫が今の時点でどうこう言えることではありません。
言えることは、

◆、日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし(報恩抄)

と大聖人が言われていることをです。
南無妙法蓮華経(ご本仏・大御本尊)が失われることを想定するのは
上記の御文に対する不信です。
「大御本尊は物理的には単なる物体だからいつかはなくなる」
そう思うのは、日興門流の本尊義を理解できない創価学会員や身延の僧俗の方だけです。
いまの大御本尊の形のみを永遠に大御本尊なのだと。と思っている方だけです。
じゃぁどうなんの?って聞かれても
私はご本仏ではないので答えられません。
ただ、「万年の外未来までもながるべし」のご金言を信じ
現時点での大御本尊を信じるだけです。

管理人様に同感です。

かの、吾(善知識殿)の如くは
多少の理解と、同感です。が、

大御本尊(日蓮大聖人)様が、
末法万年の衆生を救う為に、
命をとして、
広められた妙法を、

受けて側の我々が
命で生命で感知しない限りは、

哲学や宗教学的、見知で、
捉える事は、
出来たとしても、
仏の御心を覚知するのは
難しいと思います。

ただ、かの吾人の如く、
大聖人様の妙法を、
せんじ詰め学ばんとする
その気迫と、求道の御精神には、
敬意と尊敬の念しかない、
スリハンドクな私m(__)m
横槍失礼致します。

No title

>これなら。納得です。「妙法蓮華経能生論」については、私も同意です。
>「本仏不在論」については私はそうは考えません。
>なぜなら、「本仏の存在があって」初めて「理の一念三千」から「事の一念三千」となるからです。

管理人さんは一念三千を「理」と「事」で立て分けておりますが
私はこれは大聖人の考えではないと思います。

天台が唱えた一念三千は迹門の十界互具に基づくため生命の実相を表しきれておらず
大聖人が唱えた一念三千(妙法蓮華経)は本門の十界互具に基づくため生命の実相を完全に表しています。
どちらも「法」の表現ですが、大聖人が唱えたものの方が遥かに優れている。
という区別があるだけだと思います。

>大聖人を本仏という言うときは、「久遠元初自受身」を指してそう呼んでます。そして、一念三千即自受用身なので「>仏界」が含まれないとむしろダメです。そして、この自受用身は「仏界所具の人界」(仏界の衆生)ではなく、「仏界>所具の仏界」という解釈です。鎌倉時代の応身の大聖人が「仏界所具の人界」の当たります。

これはどう考えてもおかしいです。
仮に日蓮大聖人を本仏と認めたとします。
自受用身が「仏界所具の仏界」であれば、自受用身は一念三千の法数のうちの「仏界」×「仏界」×「十如是」×「三世間」= 30世間しか満たしておらず、「自受用身=一念三千」即ち「日蓮大聖人=妙法蓮華経」は成り立たなくなってしまいます。日蓮大聖人が応身として「仏界所具の九界」として現れたとしても、「仏界」×「九界」×「十如是」×「三世間」 = 270世間で、これと「仏界所具の仏界」を足しても30 + 270 = 300世間しかないことになります。
となれば、百歩譲って日蓮大聖人が御本仏であった場合も「妙法蓮華経」という法に従う衆生に過ぎないということになります。

そもそも「自受用身」や「自受用報身」という言葉が真筆御書には出てきませんので、
大聖人は「一念三千即自受用身」という考えを持っていなかったのではと思います。

>それは違うと思います。大聖人の仏法は「絶対他力」でもなく「絶対自力」でもありません。
>絶対他力である念仏も、絶対自力である禅も破折していることでそれはわかります。

ここには同意です。よく学会の活動家が「日蓮仏法は自力本願だ!」などと言っていますが、
あれは自他不二ということがわかっていない。自力も他力も「而二不二」と捉えることが中道です。

日蓮大聖人が大日如来や阿弥陀を否定したのは、それが他力偏重の考え方につながっていたからだと思います。
真言宗は加持祈祷して無病息災を祈るのみ、浄土宗は死後の往生しか考えていない。その状況を嘆いて正法を広めた。
だから日蓮大聖人が自分のことを大日のような存在に祭り上げることは考えにくいと私は思っています。

>ご本仏の色心二法の体である御本尊を「境」とすることで、衆生の本来持つ仏界(>智)を開く(冥合)といことだと>理解しています。

仏界を開くというのは「無分別智」を開くということなので、日蓮大聖人の色心は必要ないというのが私の考えです。
法が具象化された「本門の本尊」があれば十分だと思います。

>いえ、釈尊は五百塵点劫に成仏しています。それは、久遠元初の人法一体の南無妙法蓮華経を修行したからです。

インドのゴータマ・ブッダの場合はどうなりますか?

>「仏法」とは「仏の法」ですから「仏と法」が揃って「仏法」になるのです。ですから「仏法」と呼ぶ「理法」は、「>仏」を離れて事実の上では存在しないのです。また「法」を離れた仏も事実の上では存在しません。

その通りだと思います。
しかし、あえて私の個人的な意見を述べますと、実は日蓮仏法は「仏法(仏の教え)」ではないと思っているのです。
じゃあ何なのかと言えば「法法(法の教え)」です。文証もないので堂々と言えることではないのですが、これが大聖人の真意ではないかと思っています。大聖人は「仏」すらも「凡夫」と等しい衆生として見ていた気がするのです。

>釈迦仏法ではこ、>この「法」と「人」に勝劣を設けます。しかし大聖人仏法では最初からこの「法」と「人」は一体なのです。最初に引>用した、「当体義抄」「総勘文抄」の通りです 。

「当体義抄」や「総勘文抄」は真筆や真筆があったと判断するに足る資料がないため、私は文証として認めていません。
私が最も重要視するのは「御書十代部」です。少なくとも「御書十大部」を読む限りでは日蓮大聖人は「法勝人劣」の考え方に立っていたとしか思えません。「口伝を信ずること莫れ」「文無く義無きは信受す可からず」とあるように大聖人は文章化された教えを重視されていました。ですから「人法一箇」がそんなに重要な教えだったら、口伝などではなく、数々の真筆御書が残っているはずだと思います。
そもそも「人法一箇」とは法に人格を持たせる考え方であり、大日如来に接近するものだと思います。

>大御本尊はあくまでも今の時点での久遠元初の大聖人そのものです。
>久遠元初ですから不滅です。
>今の大御本尊が失われるような時がきたとすれば、また違った形でこの娑婆世界にご出現するでしょうが
>それは、我々凡夫が今の時点でどうこう言えることではありません。

大御本尊がなくなったら、それを埋め合わせる形で何かが出現するんですね。
理屈としては分かりました。

>◆、日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし(報恩抄)

いえ、私はこの御文を信じるからこそ、大御本尊の絶対視を疑問に思うのです。
大御本尊が絶対に失われないというのは、仏教の基本である「諸行無常」に反していますし、
仮に失われたら、何らかの形で現れるだろうというのは無責任だと思います。
まるでユダヤの救世主思想のようで、教えとしては劣っていると思います。
自力偏重と思われるかもしれませんが、衆生が自らの力で南無妙法蓮華経を残す努力をしていくべきだと思っています。

シャリホツさん

こんばんは。

> 天台が唱えた一念三千は迹門の十界互具に基づくため生命の実相を表しきれておらず
> 大聖人が唱えた一念三千(妙法蓮華経)は本門の十界互具に基づくため生命の実相を完全に表しています。
> どちらも「法」の表現ですが、大聖人が唱えたものの方が遥かに優れている。

それを言うのなら、法華経文上の本迹には何の区別もない。大聖人の文底仏法から見れば、法華経の本迹ともに迹であり理である。それが日興門流の教学です。

> となれば、百歩譲って日蓮大聖人が御本仏であった場合も「妙法蓮華経」という法に従う衆生に過ぎないということになります。

この部分は平行線でくり返しなるので、もう一度だけ書きます。
「妙法蓮華経」という名前のついた法は自受用身の存在がなければ「名もない法理」に過ぎません。
つまり「南無妙法蓮華経」という法は自受用身(本仏)と共に存在しているのです。
「南無妙法蓮華経」という法が無始ならば本仏も無始です。
「名もない法理」を信仰しその「名もない法理」を法体とするならば、確かに本仏の存在を否定することもできますが、
「無名の法理」を「法体」するのは当然大聖人の仏法ではありません。そのように思います。

> そもそも「自受用身」や「自受用報身」という言葉が真筆御書には出てきませんので、
> 大聖人は「一念三千即自受用身」という考えを持っていなかったのではと思います。

これは、「御書」をどのように捉えているか?という問題になります。
この件については、いずれ記事で書きますので、今はコメントは差し控えたいと思います。

> 仏界を開くというのは「無分別智」を開くということなので、日蓮大聖人の色心は必要ないというのが私の考えです。
> 法が具象化された「本門の本尊」があれば十分だと思います。

「法」を具現化したのが「本門の本尊」ではない。というのが私の考えです。
大聖人は「日蓮が魂を書き表した」と言われています。
「宇宙の法則を書き表した」とは言っていません。
あくまでも、ご自身の生命を書き表したのがご本尊です。
その命が「仏」の命であるからこそ仏界を開くことが可能なのです。
仏から隔離された「法」だけを書き表した本尊を「境」としたところで「無分別智」が開かれるという道理にはならないと思われます。

> >いえ、釈尊は五百塵点劫に成仏しています。それは、久遠元初の人法一体の南無妙法蓮華経を修行したからです。
> インドのゴータマ・ブッダの場合はどうなりますか?

ゴータマ・ブッタ自身が五百塵点劫に成仏したと寿量品で明かされています。始成正覚は方便であると言われいます。

> しかし、あえて私の個人的な意見を述べますと、実は日蓮仏法は「仏法(仏の教え)」ではないと思っているのです。
> じゃあ何なのかと言えば「法法(法の教え)」です。文証もないので堂々と言えることではないのですが、これが大聖人の真意ではないかと思っています。大聖人は「仏」すらも「凡夫」と等しい衆生として見ていた気がするのです。

いわゆる釈迦仏法の教えではありません。それは同感です。じゃぁ大聖人の存在は何かとあえていうならば「法王」であり「法主」です。それを言い換えれば「本仏」というわけです。

> 「当体義抄」や「総勘文抄」は真筆や真筆があったと判断するに足る資料がないため、私は文証として認めていません。
> 私が最も重要視するのは「御書十代部」です。少なくとも「御書十大部」を読む限りでは日蓮大聖人は「法勝人劣」の考え方に立っていたとしか思えません。「口伝を信ずること莫れ」「文無く義無きは信受す可からず」とあるように大聖人は文章化された教えを重視されていました。ですから「人法一箇」がそんなに重要な教えだったら、口伝などではなく、数々の真筆御書が残っているはずだと思います。

それは違うと思います。この件もいずれ書きますが、仏法の相伝は「面授口伝・一人相承」が基本です。釈迦・天台・伝教全てがそのように相伝しています。そうした仏法相伝の常識と違う相伝方法を大聖人がするのならばそれこそ数々の文証があるはずですが「面授口決・一人相承はしませんよ」という御書はありません。

> 大御本尊がなくなったら、それを埋め合わせる形で何かが出現するんですね。
> 理屈としては分かりました。

大御本尊とは法体ですから、それこそシャリホツさんのいうようになくなる事はありませんね。


> >◆、日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし(報恩抄)
> いえ、私はこの御文を信じるからこそ、大御本尊の絶対視を疑問に思うのです。
> 大御本尊が絶対に失われないというのは、仏教の基本である「諸行無常」に反していますし、

大御本尊を物体だと知見するからそう思うのだと思います。
大御本尊はあくまでも「法体」です。「法体」である以上その時々にあわせて姿を変えることもあります。
例えば、大御本尊ご図顕の前は生身の大聖人ご自身が大御本尊の体(法体)です。
いまは大御本尊です。その法体は全く大聖人に等しいのです。

> 仮に失われたら、何らかの形で現れるだろうというのは無責任だと思います。

いえ、無責任ではなく現在は大御本尊は存在しているのに、なくなったらどうすんだ?という議論そのものが不毛であり不要であるということです。そんなことは凡夫がどうこう詮索するものではない。ということです。

> 自力偏重と思われるかもしれませんが、衆生が自らの力で南無妙法蓮華経を残す努力をしていくべきだと思っています。

その思いもわからなくありませんし、当然正宗の僧俗はその努力をしてるでしょう。でも物体はいつかはなくなる論でいえば、
大御本尊を含む全ての曼荼羅本尊はいつかなくなります。勿論画像などもなくなります。その可能性はゼロではありません。そうなったとき、凡夫に何ができますか?何もできないのです。ですから将来大御本尊がなくなったらという議論はするだけ無駄だと思ってます。それを議論するならば、いまある大御本尊を信じ題目をあげる。それが「事」であり「信心」であると思ってます。

ともあれ、ここまで「妙法蓮華経」について対話をしてきましたが、そろそろ「御書」を取り上げないといけませんね。
教学的なことは記事にするのに時間がかかるので、時間があるときに書かせてもらいます。なるべく年内には記事のしたいと思ったいますので、ご了承ください。

素晴らしい善知識と成り得る
現役創価の方のコメントを
毎回、楽しみに拝見してます。

二乗の命より
昇華される事が出来る
この方は、
将来、学会組織も良い方向へ、
向かわせる事が出来るかも?

何にせよ、勉強になり
信心の確信を掴める
管理人様のブログです。
いつも有難うございます。

岡目八目

  浅博な教学ですが、 百六箇抄には

 久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり、とありますね。

 私にはこの辺で御本仏たるべきことを名乗っておられたのだと理解しています。  やはり管理人さんの仰るごとく、御書自体に踏み込んでいかないと、迷路ですね。  なぜかを言えば、仏法求道(ぐどう)のスタイルは大聖人様のご遺文を学ぶことに尽きる。 勿論、唱題も。

 もちろん、こんなことは言わでもがなでしょうが、どうかすれば勝手に自己完結してしまうことは避けねばなりません。 挙句、現今の創価のように、法門も本尊論も歪曲し、己義を構えるしか手立てがなくなりますよね。
 以前、私はあるブログで「シジフォス」を名乗っておりました。(シシューポスとも発音しますが)  どうしていいか解んないから、そうやってひねくれておりました。(苦笑)

 永遠に答えも報い(果報)も得られないまま、苦しみ、(ある意味、ナルシスティックに)生きているようなもんじゃないか。。とかいうような心境です。
 真実は常にシンプルであるべきだ、と前に書きましたが、やけのやんぱちで、最後にはそやって、開き直ってダダこねてみただけ。 

 しかし、創価のように、功利的に仏法を利用するための教学は否定したかった。 即物的すぎると思ってきました。  そうなんだけどそうじゃない、、 騙され続けたまま死んでいくことは、とりあえず避けられたから、ほんとに幸いでしたけどね。

 まあ、そんなところです。 能生は能生  所生は所生  それでいいんじゃないかなあ。。 そして所生の側も等しく十界互倶です。 六根清浄のチャンスを得られただけでも儲けもんだよね。

 余計なコメント、失礼しました。  仕事も済んだから、これで寝ます~

シャリホツさん…アインシュタインの理論に例えるのはどうでしょうか…相対性理論は罪障消滅してくれないし…

シャリホツさんのコメントは…知識さえ残してくれたら人への感謝はどうでもいいような印象…

自分はお寺の先輩から教えていただいているのは…何もわからなくても、親に手を引かれて参詣しても、ローマ字のお経本でも大石寺には凄く功徳があるということ。

シャリホツさんは…命がけで法華経を身読され、一切衆生を救われようとした大聖人様に感謝の念が薄い…だから血脈が信じられない…?

No title

>「法」を具現化したのが「本門の本尊」ではない。というのが私の考えです。
>大聖人は「日蓮が魂を書き表した」と言われています。
>「宇宙の法則を書き表した」とは言っていません。
>あくまでも、ご自身の生命を書き表したのがご本尊です。
>その命が「仏」の命であるからこそ仏界を開くことが可能なのです。

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」

この御文ですね。私はこの「日蓮がたましひを」が、「すみにそめながして」に掛かっていて、「かきて候ぞ」には掛かっていないと解釈しています。
その場合、「墨に命を込めて南無妙法蓮華経(法)を書き表した」という意味になります。
「一球入魂」というと安っぽく感じますが、それだけ命を込めて書いたのだからどうか信じてくださいということです。
また、「日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」を素直に解釈すれば、
「日蓮がたましい(命)」も「南無妙法蓮華経(法)」の現れですよ。
という意味になると思います。「過ぎたるは無し」ですから。
例えば、「母の思いに過ぎたるはなし」は「母の思い(愛情)以上のものは存在しない」という意味ですよね。

>仏から隔離された「法」だけを書き表した本尊を「境」としたところで「無分別智」が開かれるという道理にはならないと思われます。

書き表された「法」が生命の実相を如実に表わしているからこそ「無分別智」が開かれるのだと思います。
例えば我々は相対性理論を知覚できませんが、その式(E=mc2)を「境」として相対性理論を知覚することができます。

>ゴータマ・ブッタ自身が五百塵点劫に成仏したと寿量品で明かされています。始成正覚は方便であると言われいます。

経典釈迦とゴータマ・ブッダの区別がついてないのは流石にマズいと思います。
法華経や他の大乗経典に登場するのは三十二相を備えた後世に神格化された釈迦です。

>いわゆる釈迦仏法の教えではありません。それは同感です。じゃぁ大聖人の存在は何かとあえていうならば「法王」であり「法主」です。それを言い換えれば「本仏」というわけです。

「法王・法主」というのは大変素晴らしい表現だと思います。

>自受用身が「仏界所具の仏界」であれば、自受用身は一念三千の法数のうちの「仏界」×「仏界」×「十如是」×「三世間」= 30世間しか満たしておらず、「自受用身=一念三千」即ち「日蓮大聖人=妙法蓮華経」は成り立たなくなってしまいます。日蓮大聖人が応身として「仏界所具の九界」として現れたとしても、「仏界」×「九界」×「十如是」×「三世間」 = 270世間で、これと「仏界所具の仏界」を足しても30 + 270 = 300世間しかないことになります。
>となれば、百歩譲って日蓮大聖人が御本仏であった場合も「妙法蓮華経」(一念即3000世間)という法に従う衆生に過ぎないということになります。

この部分の回答がなされていないので、時間のあるときにご回答をお願いします。

それから、日蓮大聖人を本仏として衆生とは別格の存在として扱うのは明らかに阿弥陀や大日などの「権大乗教」に接近する考え方であり、誰もが仏であるとする「法華経」の精神とはかけ離れています。
「権実」の相対をあれほど重視されていた大聖人が、そんな初歩的なミスを犯して「人法一箇」などと安易に唱えるはずがないと思います。この点については平行線だと思いますが、一度大石寺教学の先入観を抜きにして法華経そのものを学ばれると、日蓮本仏論というのがいかに法華経的でないかというのが分かりますよ。

>大御本尊を含む全ての曼荼羅本尊はいつかなくなります。勿論画像などもなくなります。その可能性はゼロではありません。そうなったとき、凡夫に何ができますか?何もできないのです。ですから将来大御本尊がなくなったらという議論はするだけ無駄だと思ってます。それを議論するならば、いまある大御本尊を信じ題目をあげる。それが「事」であり「信心」であると思ってます。

確かに、大御本尊がいつかなくなる可能性を指摘するのであれば、全ての曼荼羅本尊がなくなる可能性についても考えなければフェアではありませんね。
おっしゃる通りだと思います。

法体と法門についてのお話、楽しみにしております。

名乗るほどでは…さんへの返信

>シャリホツさん…アインシュタインの理論に例えるのはどうでしょうか…相対性理論は罪障消滅してくれないし…

私の意見を明確にするための例えの1つとして相対性理論を挙げているだけです。相対性理論と南無妙法蓮華経が同列だなどとは思っていませんよ。

>シャリホツさんのコメントは…知識さえ残してくれたら人への感謝はどうでもいいような印象…

はて、私は毎日欠かさず日蓮大聖人に感謝の祈りを捧げています。
あなたは「感謝」することと「帰依」することをごちゃ混ぜにしているのではありませんか?
日蓮大聖人が自分を信仰対象とするように仰っていないのに、日蓮大聖人を「南無(帰依)」の対象とすることは、まさしく種種御振舞御書の「悪しく敬う」に当たると思いませんか?

>シャリホツさんは…命がけで法華経を身読され、一切衆生を救われようとした大聖人様に感謝の念が薄い…だから血脈が信じられない…?

日蓮大聖人の仏法に血脈などという教えはありませんよ。南無妙法蓮華経を受持したものは誰もが成仏できるのが大聖人の仏法です。それを否定しているのが大石寺教学です。

退転壮年部おじさん さん

こんにちは。

> 何にせよ、勉強になり
> 信心の確信を掴める
> 管理人様のブログです。
> いつも有難うございます。

こちらこそ、いつもコメントいただきありがとうございまず。

RAMBOさん

こんにちは。

>   浅博な教学ですが、 百六箇抄には
>  久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり、とありますね。
>  私にはこの辺で御本仏たるべきことを名乗っておられたのだと理解しています。  やはり管理人さんの仰るごとく、御書自体に踏み込んでいかないと、迷路ですね。  なぜかを言えば、仏法求道(ぐどう)のスタイルは大聖人様のご遺文を学ぶことに尽きる。 勿論、唱題も。

シャリホツさんとは御書に対する認識が違うので、本仏論についてはここまですね。これ以上は堂々巡りですね。

>  もちろん、こんなことは言わでもがなでしょうが、どうかすれば勝手に自己完結してしまうことは避けねばなりません。 挙句、現今の創価のように、法門も本尊論も歪曲し、己義を構えるしか手立てがなくなりますよね。
>  まあ、そんなところです。 能生は能生  所生は所生  それでいいんじゃないかなあ。。 そして所生の側も等しく十界互倶です。 六根清浄のチャンスを得られただけでも儲けもんだよね。

そうですね。仏に南無する。それが仏法です。

シャリホツさん

こんにちは。

> 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意(みこころ)は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。」
> この御文ですね。私はこの「日蓮がたましひを」が、「すみにそめながして」に掛かっていて、「かきて候ぞ」には掛かっていないと解釈しています。

それは、シャリホツさんの解釈ですから、私が否定したり肯定したりするものではないと思います。
ただ、その解釈だと「日蓮」でなくても「命を込めて書けば」本尊たりえる。ということになります。
その考えには私は賛同しない。ということです。

> 書き表された「法」が生命の実相を如実に表わしているからこそ「無分別智」が開かれるのだと思います。
> 例えば我々は相対性理論を知覚できませんが、その式(E=mc2)を「境」として相対性理論を知覚することができます。

「無分別智」とはどこのあるのかが問題です。私は事実としては本仏の智慧のなかにあると思っています。

> 経典釈迦とゴータマ・ブッダの区別がついてないのは流石にマズいと思います。
> 法華経や他の大乗経典に登場するのは三十二相を備えた後世に神格化された釈迦です。

であるならば、久遠実成の釈尊もそれを説いた法華経もすべておとぎ話の世界ということになります。
そのように解釈すならば、法華経の優位性もなくなり、ひいては一念三千もありません。


> >自受用身が「仏界所具の仏界」であれば、自受用身は一念三千の法数のうちの「仏界」×「仏界」×「十如是」×「三世間」= 30世間しか満たしておらず、「自受用身=一念三千」即ち「日蓮大聖人=妙法蓮華経」は成り立たなくなってしまいます。日蓮大聖人が応身として「仏界所具の九界」として現れたとしても、「仏界」×「九界」×「十如是」×「三世間」 = 270世間で、これと「仏界所具の仏界」を足しても30 + 270 = 300世間しかないことになります。
> >となれば、百歩譲って日蓮大聖人が御本仏であった場合も「妙法蓮華経」(一念即3000世間)という法に従う衆生に過ぎないということになります。
> この部分の回答がなされていないので、時間のあるときにご回答をお願いします。

「仏界所具の仏界」「仏界所具の人界」といっても、固定したいるわけではありません。基底部としての仏界であり当然仏界にも十界を具しているという意味です。

> それから、日蓮大聖人を本仏として衆生とは別格の存在として扱うのは明らかに阿弥陀や大日などの「権大乗教」に接近する考え方であり、誰もが仏であるとする「法華経」の精神とはかけ離れています。
> 「権実」の相対をあれほど重視されていた大聖人が、そんな初歩的なミスを犯して「人法一箇」などと安易に唱えるはずがないと思います。この点については平行線だと思いますが、一度大石寺教学の先入観を抜きにして法華経そのものを学ばれると、日蓮本仏論というのがいかに法華経的でないかというのが分かりますよ。

「法華経」をはじめとする、経論は3年くらいいろいろ学びました。ですからシャリホツさんのいうことも分からなくないのです。釈迦仏法に関する経論関係を学ぶと、どうしても「法」が中心になります。なぜなら経典関係が「法」とは何か?ということがテーマになってるからです。私も一時シャリホツさんと似たような考えを持っていました。「法」とは何か。そればかり考えていました。その結果今の私の考えに至ったわけです。
シャリホツさんは大石寺教学を離れて法華経を学ぶことを選択したのでしょうが、私は大石寺教学から離れて経典を学ぶことは無益だと結論しました。ですから、本仏論に関しての対話はこれ以上は堂々巡りだと考えます。
御書や経典に関する取扱いが、シャリホツさんと私では違います。そこが違う以上、二人の間にコンセンサスを得るための「文証」は存在しません。そうした「文証」が存在しないのであれば、あとは「理屈・理論」のいわゆる「理証」中心の対話となります。その意味では、シャリホツさんも私も「本仏論」に関してはすでに論証は終えたと思います。
また、御書・経論の取扱いの違いについては記事にしますのでその時にでも対話いたしましょう。

No title

こんにちは。

>「無分別智」とはどこのあるのかが問題です。私は事実としては本仏の智慧のなかにあると思っています。

どこか自分とかけ離れた所にあると考えるのが大日・阿弥陀などの権大乗教です。
我が色心の中にあると考えるのが法華経です。
日蓮本仏論がどちらに近いかといえば言えばやはり権大乗教であり、私の「本仏不在論」は実大乗教となります。当然、「権実相対」がクリアできなければ、次の「本迹相対」には進めません。
これが法勝人劣の「理証」による証明その1です。

>「仏界所具の仏界」「仏界所具の人界」といっても、固定したいるわけではありません。基底部としての仏界であり当然仏界にも十界を具しているという意味です。

日蓮大聖人の基底部が仏界であるならば、やはり日蓮大聖人は300世間しか備えておらず、南無妙法蓮華経の3000世間には及ばないということになります。
日蓮大聖人が3000世間を備えて南無妙法蓮華経と等しくなるためには、基底部を九界に変化させる必要がありますが、それをしてしまうと、もはや大聖人は本仏ではなくなってしまいます。
これが私の法勝人劣の「理証」による証明その2です。

>であるならば、久遠実成の釈尊もそれを説いた法華経もすべておとぎ話の世界ということになります。
>そのように解釈すならば、法華経の優位性もなくなり、ひいては一念三千もありません。

管理人さんは「法華経の優位性」というものをどのようにお考えなのでしょうか。まさか「正直捨方便」と書かれているから法華経が優位なんだ、なんて思っていませんよね。
法華経が優れているのは、「一仏乗」「諸法実相」「久遠実成」など、説かれている内容です。
それは法華経が例え「おとぎ話」だったとしても、揺らぐものではありません。
「おとぎ話」だったら無価値だと考えるのは「依義不依語」が分かっていないと思います。

>御書や経典に関する取扱いが、シャリホツさんと私では違います。そこが違う以上、二人の間にコンセンサスを得るための「文証」は存在しません。そうした「文証」が存在しないのであれば、あとは「理屈・理論」のいわゆる「理証」中心の対話となります。その意味では、シャリホツさんも私も「本仏論」に関してはすでに論証は終えたと思います。

互いに「文証」と捉える御書の範囲が違うので確かに「文証」によるコンセンサスは得られないですね。ただ、「理証」については、上記の通り私の明確な考えを示しました。

シャリホツさん

こんにちは。

シャリホツさんの理証は承りました。

私の主張の趣旨としては、こうです。

まず、宇宙や生命をつらなく「法」の存在は私も認めています。
しかし、それはあくまでも「理」としての存在です。
私も含めその「法」がどこにどのように存在しているのか「事実」としての認識はできません。
「法」そのものには名前はありませんから「無名の法」ですね。
この「無名の法」に「妙法蓮華経」という名前を付けたのは「仏の智慧」です。
ただの「法」が自分から「私は妙法蓮華経と申します」などと言わないからです。
ですから、「無名の法」が「妙法蓮華経」となるためには
必ず、人である「仏」が存在しなければならない。
故に「本仏」の存在の外に「妙法蓮華経」は存在しない。
それが「人法一体」ということだということです。

>法華経が優れているのは、「一仏乗」「諸法実相」「久遠実成」など、説かれている内容です。
それは法華経が例え「おとぎ話」だったとしても、揺らぐものではありません。
「おとぎ話」だったら無価値だと考えるのは「依義不依語」が分かっていないと思います。

ここまで理解されているのことが知れてよかったです。
この話はまたいずれしましょう。

ともあれ「妙法蓮華経」が「仏」から離れては事実の上では存在しない。
逆にいうと、仏と一体であるからこそ「事」の一念三千であるという理証は
上記した通りです(簡単に書きましたが趣旨は書きつくしました)
あとは、各個人が判断することですし、この話題はここまでとしましょう。
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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