偽書論について

このブログにも数人の方がコメントしてくれた「偽書論」について書いてみる。
昨年中に書くといいながら年越ししてしまったことをまずはお詫びします。
「偽書論」については身延系信者達と、もううんざりするくらいやりあったので
「偽書論」に出会うとまたこの話かぁっていうのが正直なところなところなんだけど
日興門下としてこの「偽書論」に惑わせててもいけないし
「御書」を学ぶときの基本的な部分の問題でもある。
なので話せば長くなっちゃうのだけど、なるべくコンパクトに書いてみる。

まず「偽書論」は「真筆がない」という所から必ずはじまる。
「真筆」がなければ「ニセモノ」であり、「ニセモノ」だから「用いない」
で、そこから大御本尊や日蓮本仏や血脈相承を否定していくのが
身延系信者のワンパーンなのだが
「真筆」がなければ用いなのら釈迦の経典全てを否定せざる得ないし
科学的根拠がなければ信じない。のであれば
大乗仏典に書かれているような摩訶不思議な現象は科学的に有り得ないので
大乗経典など信じるに足らないおとぎ話ということになる。
そのへんの自己矛盾を説明しないまま話を進めようとするのが身延信者だが
この件については昨年シャリホツさんが以下のようにリコメをくれた。

【管理人さんは「法華経の優位性」というものをどのようにお考えなのでしょうか。まさか「正直捨方便」と書かれているから法華経が優位なんだ、なんて思っていませんよね。法華経が優れているのは、「一仏乗」「諸法実相」「久遠実成」など、説かれている内容です。それは法華経が例え「おとぎ話」だったとしても、揺らぐものではありません。「おとぎ話」だったら無価値だと考えるのは「依義不依語」が分かっていないと思います】

実はこのリコメこそ全てなんです。
法華経が何故最上位なのかというと、その内容ゆえなんですね。
つまり釈迦の真筆があろうとなからろうと、
書かれていることが科学的に立証されようとされまいと
そんなことは何の関係もない。ということです。

◆法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり(三大秘法禀承事)

とあるように、法華経を諸仏の出世の本懐とするのは
釈迦の直説・直筆だからでなく、あくまでも「三大秘法を含めたる経」だからなのです。
これを言いかえると、釈迦仏法において法華経は経典ではなく「法体」である。ということです。
「法体」であるからこそ「諸仏出世の一大事」と大聖人は言われいるわけです。
ではこの法華経と他の教典の関係性は?というと

◆法華経一部八巻二十八品進んでは前四味退いては涅槃経等の一代の諸経惣じて之を括るに但一経なり始め寂滅道場より終り般若経に至るまでは序分なり無量義経法華経普賢経の十巻は正宗なり涅槃経等は流通分なり(観心本尊抄)

つまり法体である法華経は正宗分、爾前は序分、涅槃経は流通分という関係です。
ですが、一度法体が顕れれば序文・流通分ともに流通分になるわけです。

◆所詮成仏の大綱を法華に之を説き其の余の網目は衆典に之を明す、法華の為の網目なるが故に法華の証文に之を引き用ゆ可きなり(観心本尊得意抄)

大聖人が爾前に固執することを破折したのは、「流通分」である、法門を法体と捉える間違いを指摘しているわけです。

さて、ここまで書けば懸命な読者の皆様にはもうお分かりかと思いますが、
大聖人の御書とは釈迦の各経典と同じに捉えなければいけません。
つまり「御書」は「法体」でなく「法門」であるといことです。
私が男子部時代、観心本尊抄の五重三段を講義するときに必ずもう一重加えました。
それは大聖人仏法における三段です。
釈迦の経典、龍樹・天台・伝教等の論釈、大聖人の佐前の御書は「序文」
大聖人の佐後の御書は「流通分」です。
そして大聖人仏法の「正宗分」とはもうわかりますね。
大聖人の「出世の一大事」(出世の本懐)であり、法体である
一大秘法の戒壇大御本尊です。
そして、法体(大御本尊)を顕して後は
序文も全て流通分になるわけです。
これが私がいつも言う「御書は法体でなく法門である」ということです。

では「法体」と「法門」はどう違うかといえば、全く乖離しているわけではありません。

◆経の中の法門は其の経の題目の中にあり(曾谷入道殿御返事)

とあるように、上記の「其の経の題目」とは
大聖人仏法では「一大秘法戒壇大御本尊」です。
そして「法門」(御書)とは、この法体(大御本尊)の中にある。
逆に言うと大御本尊の外にはない。ということであり
大御本尊に帰結しない教えは「法門」とは言えないということです。
さらに言えば「法門」とはあくまでも「法体」(大御本尊)説明であり
「法体」を教え広めていく(流通する)為にあるものです。
ですからシャリホツさんが法華経について述べたように
誰が書いたか?とか真筆があるか?とか科学的に証明できるか?
というような次元の話は全く無価値であり無意味なのです。
重要なのは「法門」として正しいか?正しくないか?という内容なのです。
結論を言えば、学術的な考察で御書の真偽を問い
それをもって大御本尊を否定する身延の主張は
私からすれば全くもって「御書」を語る資格などないと思うわけです。
(御書とはなんであるか理解できていない)
「御書」の真偽を言う前に、まず「大乗仏説」を学術的見地から証明しろよ。って話です。
では「法門」としての正当性はどこで決めるのか?って話になりますが
そこが仏法が相伝(口伝)である所以であり
仏法の相伝は経巻相承ではなく法体相承である所以です。
この話も長くなるので本日は割愛します。
言えることは釈迦仏法も法華経という「経典」を信じるのでなく
法華経という「法体」を信じることなのです。

以上、簡単に「偽書論」についての考えを書きましたが
私の考える「偽書」とは「御書」そのものの真偽ではなく
読み手の信心の真偽の問題だと思ってます。
上記しましたが「法門」とは必ず「法体」に帰結することをもって「法門」と呼びます。
身延をはじめとする「偽書論者」の方々は「法体」に帰結しません。
というか既に眼前に法体は明らかであるのに
「法門」からまた「法体」を知ろうと無駄な努力しているわけです。
凡夫が知ろうとして知れると思っているならば

●諸仏智慧。 甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。

の法華経の文を否定することになります。
それはさて置き、「法体」に帰結しない御書は「法門」ではありませんので
真筆だろうとその人の読む御書はずべて「偽書」です。
とはいえ身延信者の方々にとっては「法体」は法華経ですからそこは仕方ないし
また仏教学を純粋に学ばれている方も、
大聖人の御書をどう受け止めようと自由ですので批判をする気もありません。
問題は、大聖人を末法のご本仏とか言っておきながら
大聖人の御書の一部を「偽書」扱いしたりする学会員です。
これこそ邪智・謗法の輩であると断言します。
また、そのような学会員の読む御書は全て「偽書」であり
そのような「偽書読み」をしている学会員の言うところの先に「法体」はありません。
どうか、純真たる会員の皆様には
正しく「御書」を拝してもらいたいと願うわけです。
「御書」を正しく拝する。とは決して難しいことではありません。
「大御本尊に対する信心」が「強く」「深く」なるように読むってことです。
そのように拝読することができれば
皆さんの「御書」はだれがなんと言おうと
ご本仏の「ご金言」なのです。
ざっくりと手短に書いたので、(しかも少し眠気もあり~の)
よくわからない部分はあると思いますがご容赦ください。

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いつも有り難うございます。

大聖人様に信を置いて
信心に励むべきなのに、

どうも学会活動やら、
せいきょしんぶん啓蒙に
励み、はたまた、私財を投げて
広布基金を上納して
ケツの毛まで抜かれても、
私は学会のお陰で今は
幸せと言う、

私の実母に
このブログを見せたいと
思います。

大聖人様(ご本尊様)を
根本にせずして、
三世永遠の成仏はないのでは?
今世が良ければ、センセと一緒なら
学会員は良いね👍なのでしょう。

蛇足ですが、せいきょしんぶん掲載の
new人間革命は、過去からの宗門との
対立をテーマに連載されました。

興味の有る方は、
最寄りの販売店先に
無料で頂ける場所もあるみたいですが、
決して講読せずに、
万が一、贈呈されたら、
見てあげて下さい。

大聖人様の事なんか、一文も掲載されませんけどね。

切り貼り御書が申し訳け程度に掲載されて
あとは、センセ大好き!!もしくは
全面広告に通販の掲載だけ。

あな、恐ろしや。
虚しかるべし。

うーむ。。

 法の門とは 法体へと至るべき「門」という解釈で可ですか? 

 三度、拝読しましたが、いちいちの文言(文)全ては読み切れませんでした。

 詰まるところは「信」ですね。 お題目を唱え、「信じさせて下さい!」と祈る。

 ここまで来ると、今更ですが「信を深めるお題目」と、「様々な願いを目的として」唱えるお題目とに大別されるように思います。  かなり以前ですが私の親友が最寄りのお寺(正宗)のご僧侶に指導された、という、「只只 南無妙法蓮華経なのです」
「学会のようにこうしてください、ああなりたいというのは正しくありません」の言葉は、私からすれば片務的だなあと感じたものです。

 御書には「見目麗しき女人、紅白粉をつけるが如く、」などでは、願望(欲望)肯定とも思えるわけです。 また子が母親を慕うように、、という箇所もあります。

 また、御義口伝(下)には 「無作の三身をば一字を以って得たり。所謂 信の一字なり。 仍って経に云く『我等当信受仏語』と。信受の二字に意を留べきなり。」 とあります。   信と受に集約されるわけですが、私が解りにくいのは、
 無作三身の部分であり、「はたらかず、つくろわず」という含意からすれば、意識的に「〇〇をお願いしますー!!」というような「現世利益そのものの祈り」とは、一体どういうことになるのでしょうか。

 まあ、私などはそんなレベルです・(苦笑)

 ところで、この引用の箇所は、とりもなおさず、今回の記事の義を述べていますよね?。 間違ってたらご指摘下さいませ。 よろしくお願いします・

 門前の小僧・蘭房

 

大聖人様への確信を深めて

連続コメント大変に失礼致します。

なんの為に信仰を保ち、
信仰の対象は何なのか?

大聖堂に御安置の
正宗から借りパクしたままの
ご本尊様に
日蓮大聖人様の命は
あるのか?

心こそ、大切!

では、心とは何ぞや?

大聖人に対する我が心の事だと拝します。

大聖人様を御本仏と拝さず、
我らが、そうかホトケなどと
恥もなく宣言するなど、
笑止千万。

諸天善神にも笑われます。

仕方ないですょ。
学会のインスタント勤行では、
諸天善神への回向すら
はしょりますからね。

駄文乱文は毎度です。
失礼致しました。

平成新編御書

管理人様

大変興味深く拝見させていただきました。
大石寺平成新編御書の発刊の辞に、戸田会長時代の御書全集掲載の真偽未決御書等に関する猊下のお言葉があったと記憶してます。
(只今、出先のため確認不可)

御書等の古文書の研究はリアルタイムで進んでいる事も正宗に帰依して知りました。

今回の記事は、行学を見直す端緒となりそうです。ありがとうございます。

先日、ご住職より何故江戸時代に学匠であられる日寛上人が出現されたか?のご指導を賜りました。
荒凡夫の小生にも充分腑に落ちるご指導でありました。
誤解を恐れず概略を申し上げますと、大聖人御入滅から約400年、衆生の機根が熟した時代となり、大聖人仏法(教学)をわかりやすくお示しするために、御本仏が日寛上人を江戸時代に送り込まれた、という内容でした。

大御本尊様、御本仏のお計らいというのは、信心がなければ中々わからない事、気付かない事と思います。

「功徳とは六根清浄の果報なり」と御金言にある通りです。

此方のブログを御覧の学会員さんは、今一度ご自身で思考されることを切にお勧めいたします。
今の学会の現実について、ご自身で考えることが叶えば、「六根清浄の果報」は目前に迫っていること疑いなしです。

蘭房(RAMBO)  さん

こんにちは。

>  法の門とは 法体へと至るべき「門」という解釈で可ですか? 

そうです。法体へ入る門。また法体から出る門でもあります。自行化他ですね。

>  三度、拝読しましたが、いちいちの文言(文)全ては読み切れませんでした。

すみません。私の不徳の致すところです。

>  詰まるところは「信」ですね。 お題目を唱え、「信じさせて下さい!」と祈る。

そういことになります。仏教学と教学の違いはそこです。教学は信から入り信に帰結する。

>御義口伝(下)には 「無作の三身をば一字を以って得たり。所謂 信の一字なり。 仍って経に云く『我等当信受仏語』と。信受の二字に意を留べきなり。」 とあります。   信と受に集約されるわけですが、私が解りにくいのは、
>  無作三身の部分であり、「はたらかず、つくろわず」という含意からすれば、意識的に「〇〇をお願いしますー!!」というような「現世利益そのものの祈り」とは、一体どういうことになるのでしょうか。

私はそういことを含めて無作三身だとおもいます。病気の時は回復したい。貧乏の時はお金が欲しい。等々誰もがそう願いものです。それを「こうしたい」「こうなりたい」と意識的に【祈らない】方がおかしいと思います。また自分が苦しいのに無理して友の幸福を祈るとか広宣流布を祈るとかいう指導も無作三身ではないと思います。心の思うまま祈ればいいと思います。どうせカッコつけてもご本仏にはお見通しです。「現世利益」を願わない凡夫なんてどこにいるのでしょう。もしいたらその人は既に凡夫じゃありません。凡夫でなければ当体蓮華とならず成仏できないってことになると思います。

>  ところで、この引用の箇所は、とりもなおさず、今回の記事の義を述べていますよね?。 間違ってたらご指摘下さいませ。 よろしくお願いします・

いえ。間違っていません。
と言っても身延系宗教学においては「御義口伝」は偽書あつかいですが(笑)
一番言いたいことは、仏法は端から学問ではない。という事です。
もちろん「学問」として研究するのは自由ですが
それによって「信」が生まれないどころか「不信」になるのであれば本末転倒だという事です。
「御書」を「偽書」とし、また御書に書いていないからというい理由で一大秘法を否定するならば
それに代わる法体は事実の上でどこにどのように存在しているのか?
それを示すことがないのなら、ただ単に大御本尊を否定るためだけの学問になります。
否定するなら対案を示してくれないと対論にすらなりません。

退転壮年部おじさん さん

こんにちは。

> 大聖堂に御安置の
> 正宗から借りパクしたままの
> ご本尊様に
> 日蓮大聖人様の命は
> あるのか?

ありません。

> 心こそ、大切!
> では、心とは何ぞや?
> 大聖人に対する我が心の事だと拝します。

その通りです。大聖人をご本仏と信じ
大御本尊を大聖人と信じる心だと思います。

> 仕方ないですょ。
> 学会のインスタント勤行では、
> 諸天善神への回向すら
> はしょりますからね。

日目上人も削除しましたからね。
でも三大会長には報恩感謝を強制します(笑)

古刹信徒さん

こんにちは。

> 今回の記事は、行学を見直す端緒となりそうです。ありがとうございます。

こちらこそ私の拙い文章をお読みいただきありがとうございます。

> 先日、ご住職より何故江戸時代に学匠であられる日寛上人が出現されたか?のご指導を賜りました。
> 荒凡夫の小生にも充分腑に落ちるご指導でありました。
> 誤解を恐れず概略を申し上げますと、大聖人御入滅から約400年、衆生の機根が熟した時代となり、大聖人仏法(教学)をわかりやすくお示しするために、御本仏が日寛上人を江戸時代に送り込まれた、という内容でした。

なんとなくわかります。日寛上人は本当にすごいお方です。破門後の学会では日寛上人を学びませんが日興門流と自負するならば日寛上人のご指南をしっかり拝するべきだと思います。

> 大御本尊様、御本仏のお計らいというのは、信心がなければ中々わからない事、気付かない事と思います。

そうですね。
御書も同じです。信心がないと読めないのです。

◆此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開・せらる可きか(観心本尊抄送状)

大御本尊に対する無二の信心がなければ、「御書」を読んでも無意味です。
いやむしろ、大聖人は「不信の者は読むな」とすらいわれてます。

管理人さんへ

 ありがとうございました。  

 スッキリ感がわきました。  判読できないのは、当然 私の(つまり修羅界所具の声聞界の限界、不勉強)のせいであって、管理人さんのせいではありません。(笑)

 同時に知性(、と呼べるかどうかは疑問)と「信」とが、パラレルに働かないのです。

 例えば、ドラマーのように、四肢が同時に動けばいいのですが、、私の創価脳の名残も色濃くあり、これも五陰の問題でしょうね。

 (相変わらず理屈っぽいです)

 となると、唱題して「耳根」から南無妙法蓮華経を叩き込み、思索すれば、と思ってやってはきましたが、雑念が湯水のごとく湧きまくり、未だその域です。

 以上は「凡夫の証明」でした。  ある意味、良かったなー 「ネオ凡夫更新中」で。(笑

 さてあれからボロ布団の中で考え続けてみました。  結局、、

 「依義判文であって、依文判義ではいけない」という解でいいんでしょうね。

 偽書の疑いが非常に濃厚な「小説・人間革命」での、逸話。

 つまり、戸田先生が獄中での「不思議な体験」ののち、出獄され、法華経に接し、「そうだ その通りだ!」と感得されたような情況に近いと。。?

 そういうような考えが湧いたあたりで、即身成仏して 今朝に至りました。

 おかげさまで、今朝から体調も良いです。  こういう悩み(欲求)は誰にもぶつけても良いというものでもなく、管理人さんのような「経験者(スーパー凡夫)笑」宛てでしか、トライできません。  創価ではいつもウヤムヤにされてきたからです。

 若い時分ならまだしも、いまさら古今東西の哲学書や思想書を読み漁る智慧も気力も、能力もあるわけではなく、結局、ここで今ようやくあぐらをかいて(時折、正座)おる次第です。

 なにがなんやら、、なコメントですが、そんなところです。

ありがとうございました。

 

日蓮宗と日蓮正宗は本当は仲がいい?

●青蓮さんとのやりとりを拝見して、仏教学や日蓮宗の動向について調べてみました。各お寺に残されてる日蓮上人が書かれたとされている書物は、書体や内容、文字の書かれた紙質などから日蓮上人直筆とその他とは判別は、ほぼついているようです。
●直筆やその他の遺文をどう解釈するかは各教団の自由裁量の範疇だと思いますが学問的見地からは直筆とその他との判別は必要と思います。

●当プログの読者は、日蓮宗と日蓮正宗は仲が悪いと思っておられる方が多いと思います、ボクも調べるまではそう思ってましたが事実は小説より奇なりです。

●「日蓮正宗教学研鑚所」、法華講の方はご存じだと思いますが日蓮正宗の教学機関です。
ここには日顕氏の直属の弟子と思われる長倉氏など優秀なお坊さんが属してます。まずはこれ→(11月24日 午後6時より 『本化ネットワーク研究会』 於 祖師堂会議室 」)検索窓に()の間の文字をコピーして検索してみてください、日蓮宗の常圓寺で日蓮正宗の長倉氏が講演してます。

池上本門寺でも講演してますから、日蓮宗と日蓮正宗の間にはかなりお互いの信頼関係ができあがってるものと推測されます、信頼関係が無ければ池上本門寺には呼ばれないですからね。(創価はお声がかからなかったようです)
興味もたれた方は→http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/51901902.htmlこれなんか読んでみるとおもしろいかも。

参考までに日蓮正宗教学研鑽所のアドレス貼り付けときますhttp://ns-kenzansho.main.jp/これ見ると現代仏教学との交流も頻繁に行われてることがわかります。






●青蓮 さんとのやりとりを拝見して、仏教学や日蓮宗の動向について調べてみました。各お寺に残されてる日蓮上人が書かれたとされている書物は書体や内容、文字の書かれた紙質などから日蓮上人直筆とその他とは判別はほぼついているようです。
●直筆やその他遺文をどう解釈するかは各教団の自由裁量の範疇だと思いますが学問的見地からは直筆とその他は判別は必要と思います。

●当プログの読者は、日蓮宗と日蓮正宗は仲が悪いと思っておられる方が多いと思います、ボクも調べるまではそう思ってましたが事実は小説奇なりです。

●「日蓮正宗教学研鑚所」、法華講の方はご存じだと思いますが日蓮正宗の教学機関です。
ここには日顕氏の直属の弟子と思われる長倉氏など優秀なお坊さんが属してます。まずはこれ→(11月24日 午後6時より 『本化ネットワーク研究会』 於 祖師堂会議室 」)検索窓の()の間の文字をコピーして検索してみてください、日蓮宗の常圓寺で日蓮正宗の長倉氏が講演してます。
池上本門寺でも講演してますから、日蓮宗と日蓮正宗の間にはあるていど信頼関係があるものと推測されます(創価はお声がかからなかったようです)
興味もたれた方は→www.joenji.jp/sp/blog/learnこれなんか読んでみるとおもしろいかも、参考までに日蓮正宗教学研鑽所のアドレス貼り付けときますhttp://ns-kenzansho.main.jp/これ見ると現代仏教学との交流も頻繁に行われてることがわかります。



















お詫びと訂正

●度々の投稿すいません。
手違いで同じような内容の文章投稿していまいました。
上半分が清書で下半分が下書きですので上半分の方をお読み下さい<(_ _)>

蘭房(RAMBO)  さん

こんばんは。

>  スッキリ感がわきました。  判読できないのは、当然 私の(つまり修羅界所具の声聞界の限界、不勉強)のせいであって、管理人さんのせいではありません。(笑)

いやぁ、文字で伝えるのは難しい。
だから「法体相承」なんですけどね。


>  となると、唱題して「耳根」から南無妙法蓮華経を叩き込み、思索すれば、と思ってやってはきましたが、雑念が湯水のごとく湧きまくり、未だその域です。
>  以上は「凡夫の証明」でした。  ある意味、良かったなー 「ネオ凡夫更新中」で。(笑

凡夫じゃないと成仏できませんからね(笑)

>  さてあれからボロ布団の中で考え続けてみました。  結局、、
>  「依義判文であって、依文判義ではいけない」という解でいいんでしょうね。

その通りです。すでに義(法体)が示されているのですから
依文判義する必要はないのです。

>  偽書の疑いが非常に濃厚な「小説・人間革命」での、逸話。
>  つまり、戸田先生が獄中での「不思議な体験」ののち、出獄され、法華経に接し、「そうだ その通りだ!」と感得されたような情況に近いと。。?
>  そういうような考えが湧いたあたりで、即身成仏して 今朝に至りました。

御書は感じるものであって読んだり研究したりするものではないと思ってます。
「感じ」て「変わら」なければ意味がないんじゃないかと。
それが事の一念三千ではないかと思います。

>  おかげさまで、今朝から体調も良いです。  こういう悩み(欲求)は誰にもぶつけても良いというものでもなく、管理人さんのような「経験者(スーパー凡夫)笑」宛てでしか、トライできません。  創価ではいつもウヤムヤにされてきたからです。
>  若い時分ならまだしも、いまさら古今東西の哲学書や思想書を読み漁る智慧も気力も、能力もあるわけではなく、結局、ここで今ようやくあぐらをかいて(時折、正座)おる次第です。

ははは(笑)ありがとうございます。
なんなら蘭房さんもここで御書講義してもらってもいいですよ。
何かお題をだしましょうか?(笑)

古本屋店主さん

こんばんは。

> ●青蓮さんとのやりとりを拝見して、仏教学や日蓮宗の動向について調べてみました。各お寺に残されてる日蓮上人が書かれたとされている書物は、書体や内容、文字の書かれた紙質などから日蓮上人直筆とその他とは判別は、ほぼついているようです。
> ●直筆やその他の遺文をどう解釈するかは各教団の自由裁量の範疇だと思いますが学問的見地からは直筆とその他との判別は必要と思います。

はい。学問として「真筆」か否かを研究するのはいいことだと思います。
また「真筆」がなければ信じないというスタンスも人それぞれです。
だたし「真筆」か否かということと、「法義・法門」としての正誤は全く別な話ですから
「真筆」の存在如何で「偽書」なし、その書かれている内容をも否定するから反論するわけです。
だったら釈尊の経典に「真筆」の経典はあるのか?と。
そうしたこと抜きで仏教学を学んでいる方々との意見交換は個人的には好きですよ。

> ●当プログの読者は、日蓮宗と日蓮正宗は仲が悪いと思っておられる方が多いと思います、ボクも調べるまではそう思ってましたが事実は小説より奇なりです。
> 池上本門寺でも講演してますから、日蓮宗と日蓮正宗の間にはかなりお互いの信頼関係ができあがってるものと推測されます、信頼関係が無ければ池上本門寺には呼ばれないですからね。(創価はお声がかからなかったようです)
> 興味もたれた方は→http://blog.livedoor.jp/naohito_blog/archives/51901902.htmlこれなんか読んでみるとおもしろいかも。

まぁ交流はあるでしょうね。昔は身延と交流しているから宗門は謗法だ。と創価が騒いでおりました(笑)
交流しなけりゃ折伏できませんからね。
ただ教義的な部分では交わらないでしょう。
万が一にも正宗が創価のように身延の教義を受け入れて大御本尊とほかの御本尊を同じだといいだしたら
その時は正宗が謗法になって時ですね。
まぁ、しばらくそれはないでしょう。

大聖人様のお心を拝さず

度々、申し訳けありません。

末法に生まれ、
大聖人様の仏法に
巡り会えたのにね。
私は学会経由のニセイで、
確信が、なかなか持てないけど。

大聖人様の書き遺した御文なのか?
学問的にどうなのか?

そんな事には興味がありません。

学会的に言うなら、
リンゴが美味しいとか、
果物が健康に良い理由には、
興味が無いのです。

信じさえ(食べさえ)すれば
我が身の命が感応して
大聖人様の御慈悲が分かるので。

世の中に絶対と言えるのは、
大聖人様の仏法を正し事だけ。
時代と共に勝手に変化など
しません。

凡夫ごときの
お花畑の団体が、
我らが正しいのだぁ!
心こそ大事、胸中に
大聖人様と一緒の
ホトケの生命があるのだぁ!

などと、ホラを吹く事では
ありません。

私は勝手に、そう思います。

こっ、講義ぃ??

  謹んでご辞退させて頂きます。 ウソをホントといい、ホントを大嘘にしかねず、
大聖哲から、厳しい現罰を頂戴してしまうと。

 まあ創価時代は、ワイワイ盛り上がりながら、大笑いにはなりましたが(何気に自慢)  
  だってね、 みんなが下を向いてうなだれて、あ~あ、やっと終わったか。。とそそくさ帰っていくような講義はしないようにしましたよ  疲れて仕事から帰ってきて、メシも食わずに集まって下さって、挙句、「センセ オクサマ!センセにお応え!」の連呼じゃ、可哀想ですから。  男子部、女子部、婦人部さんも、集まって下さる支部もありました(続・自慢)。

 笑わなきゃあね! 楽しくなきゃダメです。  参加して下さった方を元気にして帰ってもらう。 これがモットーでした。  一見 「むっつりス〇ベ」の顔で意表を突く。  楽しかったなー・

 というわけで、重ねてお断り申し上げます。m(__)m

退転壮年部おじさん さん

こんにちは。

> 末法に生まれ、
> 大聖人様の仏法に
> 巡り会えたのにね。
> 私は学会経由のニセイで、
> 確信が、なかなか持てないけど。
> 大聖人様の書き遺した御文なのか?
> 学問的にどうなのか?
> そんな事には興味がありません。
> 学会的に言うなら、
> リンゴが美味しいとか、
> 果物が健康に良い理由には、
> 興味が無いのです。
> 信じさえ(食べさえ)すれば
> 我が身の命が感応して
> 大聖人様の御慈悲が分かるので。

全くその通りなんですね。最終的にはソコです。
大聖人様が御書残されたのは皆が大御本尊を信じて幸せになるのが目的です。
学問は学問として研究するのは素晴らしい事ですが
それによって大聖人不信になるのなら意味はありません。

> 世の中に絶対と言えるのは、
> 大聖人様の仏法を正し事だけ。
> 時代と共に勝手に変化など
> しません。

はい。しません。時代に合うとか合わないとかは弘法の方法論であって
広める法そのもを時代によって変えるというのは間違いです。

> 凡夫ごときの
> お花畑の団体が、
> 我らが正しいのだぁ!
> 心こそ大事、胸中に
> 大聖人様と一緒の
> ホトケの生命があるのだぁ!
> などと、ホラを吹く事では
> ありません。
> 私は勝手に、そう思います。

私も全く同感です。

蘭房(RAMBO)  さん

こんにちは。

>謹んでご辞退させて頂きます。 ウソをホントといい、ホントを大嘘にしかねず、
> 大聖哲から、厳しい現罰を頂戴してしまうと。

それは残念です。ほかの方の講義を聞くのは勉強になるので是非と思ったのですが・・

>  まあ創価時代は、ワイワイ盛り上がりながら、大笑いにはなりましたが(何気に自慢)  
>   だってね、 みんなが下を向いてうなだれて、あ~あ、やっと終わったか。。とそそくさ帰っていくような講義はしないようにしましたよ  疲れて仕事から帰ってきて、メシも食わずに集まって下さって、挙句、「センセ オクサマ!センセにお応え!」の連呼じゃ、可哀想ですから。  男子部、女子部、婦人部さんも、集まって下さる支部もありました(続・自慢)。
>  笑わなきゃあね! 楽しくなきゃダメです。  参加して下さった方を元気にして帰ってもらう。 これがモットーでした。  一見 「むっつりス〇ベ」の顔で意表を突く。  楽しかったなー・

私も対告衆が男子部限定の時は、いかんと思いながら「下ネタ」満載の講義をしちゃいました。
完全に罪障つみましたね。

>  というわけで、重ねてお断り申し上げます。m(__)m

そうですかぁ。
ではやりたくなったらお知らせください。
いつでも蘭房講義を拝聴する準備はしてますから。

手元に御金言義類別入文集との書があり、今回の投稿に関連するかとおもい語らせていただこうと文面を考えています。

この書によると「法華経の行者」という御文は御書全体で18箇所出てくるようです。法華経の行者は御本仏日蓮大聖人様お一人です。釈尊が勧持品の二十行の偈で説かれたことを身読された唯一の御方です。

御本尊様を宇宙の心理がどうのこうのと言ってしまっている時点でずれています。身延は末法において釈尊を拝んでいる時点でずれています。

ダイバダッタに殺されそうになりながらも法華経を現された、竜の口に挑んだ大聖人様に対する畏敬の念が無いようです。

御書は佐前佐後あるとは聞いています。御真跡の有り無しも聞いています。

五重の三段に取り入れるのはどうかと思いますが…?

No title

具体的に「どの学者」が「どの論文/著作」で主張した「どの説」に反対なのでしょうか?

それとも、偽書という言葉を持ち出す全てに反対ということでしょうか?

恐れ入りますがご教示いただけますと幸いです

ナノルホドデハアリマセン  さん

こんにちは。コメントありがとうございます。

> この書によると「法華経の行者」という御文は御書全体で18箇所出てくるようです。法華経の行者は御本仏日蓮大聖人様お一人です。釈尊が勧持品の二十行の偈で説かれたことを身読された唯一の御方です。
> 御本尊様を宇宙の心理がどうのこうのと言ってしまっている時点でずれています。身延は末法において釈尊を拝んでいる時点でずれています。
> ダイバダッタに殺されそうになりながらも法華経を現された、竜の口に挑んだ大聖人様に対する畏敬の念が無いようです。

はい。おっしゃる通りです。
人法一体が大聖人仏法の基本なのですが
創価は破門後は「法本尊」に偏執した教学を会員に植え付けて「人本尊」を切り離しました。
そうやって「大御本尊」を捨てる準備をしてきたわけです。

> 御書は佐前佐後あるとは聞いています。御真跡の有り無しも聞いています。
> 五重の三段に取り入れるのはどうかと思いますが…?

これについては、三沢抄に

◆又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ

とご教示がありますので、この御文に即して一応は佐前の御書は序分と書かせていただきましたが
法体が顕れている現在においては
佐前・佐後すべての御書は流通分です。
ただし序分である佐前の御文に執着してはいけないということです。

非意味的切断 

こんにちは。コメントありがとうございます。

> 具体的に「どの学者」が「どの論文/著作」で主張した「どの説」に反対なのでしょうか?
> それとも、偽書という言葉を持ち出す全てに反対ということでしょうか?

大聖人の御書を「遺文」として、学問的に真筆かどうか研究することも
真筆でない「遺文」を「偽書」と定義し言葉にすることにも特に反対ではありません。
学問も信仰も自由ですし私には関係ない事ですから。
「偽」とは何を指すのかです。他人が書いたら「偽の書面」という定義ならその通りかもしれません。
しかし、他人が書いたから「偽の義」というロジックについて異を唱えているのです。
他人が書いたら「偽の義(教え)」というならば、釈迦経典は全て「偽の教え」ですし
それを元にしている仏教という教えそのものが「偽の教え」ということなります。
問題は「偽書」と主張してる方々の「偽書の定義」です。
> 恐れ入りますがご教示いただけますと幸いです

管理人さんへ

こんばんは、

 全国的に本州は寒い一日でしたね。

 さて、ご質問なんですが、上記のリコメにある

 ☆創価は破門後は「法本尊」に偏執した教学を会員に植え付けて「人本尊」を切り離しました。
そうやって「大御本尊」を捨てる準備をしてきたわけです。

 ですが。  ここがよく理解が及びません。  法・と人とが文脈上、入れ替わってるように思いましたがどうでしょう。

 よろしくお願いします。

 助師・蘭房

創価学会では御会式はしますか?私は社会人になってから毎年参詣させていただいております。

佐前ではありますが、大聖人様の御書の中心は立正安国論かと…実際に御会式に参詣してみて命の磨かれる感覚を味わっていただきたいです。

御大会にも…昔聞いた五蓋の御説法は未だに忘れられません。

魔も競います。一番厄介なのは己心の魔でしょうか?

No title

コメントいただき、ありがとうございます。

御書=「御本仏」である日蓮が書いたから拝読すべき

ではなく、

御書=日蓮が書いたとか関係なく、それがいいからいいんだ(三大秘法が含まれてるから!)ということでしょうか?

でしたら仮に、大御本尊を科学鑑定した結果、
日蓮の書いたものではないと明らかになった場合も、
「別に日蓮は関係ない!誰が書いたかわからないけど三大秘法が含まれてるからいいんだ!」ということになるのでしょうか?

大変不躾であることを承知ながらも、ご教示頂けますと幸いです。

赤ちゃんは母親のお乳を疑って飲みません?

幸せになる為の信仰ですから、
何を根本とするか?
大事な事だと思います。

大聖人様に対しては、
赤子の様に、疑いなく
信仰を貫きたく、
嘘や偽りには、
敏感に反応したいと
思います。
勿論、信を深める為の研鑽が
大事な事は、言うまでも無く。
いつも有り難うございます。

No title

>「御書」の真偽を言う前に、まず「大乗仏説」を学術的見地から証明しろよ。って話です。

それを相手に証明させる以前に、自分たちでまず「大乗仏説」を証明しなければ
成らないと思いますが。そうでなければ単に質問返しだと思いますが。


それと、eco ◆Smw69BiSBo さんの2チャンネルからの投稿文からですが、正宗が用いた御書と称する文献は実はこんな怪しげな、偽書?と疑われる様な文献だった事を知り、唖然となりました。



222 名前:eco ◆Smw69BiSBo [] 投稿日:2013/02/06(水) 06:08:09.93 ID:j/p6Ss3z

>>216

>>忍性はその著作をほとんど残していないらしいな



御書が全部 日蓮のオリジナルだと思っているのか?

それを言うのなら開目抄の原文は 明治時代に身延の大火で存在していないし

堀上人の編纂した開目抄は北山の要文だけで 全文が無いし

日興遺戒だって原本を紛失している上 御儀口伝だって5つも存在しているし

後世が書いたものだと言われている事など 知らないんですか?

No title

過激なのは私の発作的コメントです。  しかし、やれ「匿名」だのなんだの、私は好かねえですな。 せめてHNだけでも決めて名乗ってくださいませんか・。・

 こういう方のは得てして「剣呑」で、あまり読む気にもならないですね。 特定できないしね。

 いやはや、、(^^;  

 

蘭房(RAMBO) さん

蘭房(RAMBO) さん。

大変失礼しました。
では改めて「勝手に匿名」ではどうでしょうか?

しかし、eco ◆Smw69BiSBo さんの御書論は的を得ているし
道理が通ってると思いますよ。

蘭房(RAMBO) さん

こんばんは。

>  さて、ご質問なんですが、上記のリコメにある
>  ☆創価は破門後は「法本尊」に偏執した教学を会員に植え付けて「人本尊」を切り離しました。
> そうやって「大御本尊」を捨てる準備をしてきたわけです。
>  ですが。  ここがよく理解が及びません。  法・と人とが文脈上、入れ替わってるように思いましたがどうでしょう。

創価は破門後、南無妙法蓮華経を「宇宙の真理」「宇宙の法則」という「法」の面だけを強調し
南無妙法蓮華経は大聖人である。といことをなるべく隠してきてんです。
そして、御本尊は「宇宙の法則を図顕した」という「法本尊」の面だけを強調してきたのです
そうしたなかで、本尊は相貌が重要という偏った考えが蔓延した。
また仏とは自分たちであるという邪義も同時にくり返し教えた。
こうして、本尊義から「人」(本仏)を切り離したのです。
ですから「どれも同じ本門本尊」なんていうことを受け入れちゃうわけです。

ナノルホドデハアリマセン さん

こんばんは。

> 創価学会では御会式はしますか?私は社会人になってから毎年参詣させていただいております。

御会式はありません。勤行会くらいじゃなかと思います。

> 佐前ではありますが、大聖人様の御書の中心は立正安国論かと…実際に御会式に参詣してみて命の磨かれる感覚を味わっていただきたいです。
> 御大会にも…昔聞いた五蓋の御説法は未だに忘れられません。
> 魔も競います。一番厄介なのは己心の魔でしょうか?

そうですね。「不信」という己心の魔が一番厄介ですね。

非意味的切断さん

こんばんは。

> 御書=「御本仏」である日蓮が書いたから拝読すべき
> ではなく、
> 御書=日蓮が書いたとか関係なく、それがいいからいいんだ(三大秘法が含まれてるから!)ということでしょうか?

御書はあくまでも「法門」であって「法体」ではない。ということです。
「法門」とは「法体」の説明・解説です。

> でしたら仮に、大御本尊を科学鑑定した結果、
> 日蓮の書いたものではないと明らかになった場合も、
> 「別に日蓮は関係ない!誰が書いたかわからないけど三大秘法が含まれてるからいいんだ!」ということになるのでしょうか?

この件については後日、記事にて書きたいと思いますので
大変申し訳ありませんがしばらくお待ちください。

退転壮年部おじさん さん

こんばんは。

> 幸せになる為の信仰ですから、
> 何を根本とするか?
> 大事な事だと思います。
> 大聖人様に対しては、
> 赤子の様に、疑いなく
> 信仰を貫きたく、
> 嘘や偽りには、
> 敏感に反応したいと
> 思います。
> 勿論、信を深める為の研鑽が
> 大事な事は、言うまでも無く。

そうですね。
大聖人は三証を重視してます。
中でも現証です。
現証とは正しい本尊と正しい修行がなければ現れません。
そこを抜きに「偽書論」のみを主張しても意味はないのです。
正しい本尊と修行。をしない人にとって
大聖人の御書の真偽は、それこそ関係ないのです。

匿名さん

こんばんは。

> >「御書」の真偽を言う前に、まず「大乗仏説」を学術的見地から証明しろよ。って話です。
> それを相手に証明させる以前に、自分たちでまず「大乗仏説」を証明しなければ
> 成らないと思いますが。そうでなければ単に質問返しだと思いますが。

ちょっと私の言っている事と違いますよ。
私は真筆がなければ「偽書」というならば、釈迦の経典は全部偽経になっちゃうよ。と言ってるのです。
私は「信筆がなければ偽書」という説は採用していないので、
それを採用している方が釈迦の経典の信憑性を証明してくださいな。ってことです。

> それと、eco ◆Smw69BiSBo さんの2チャンネルからの投稿文からですが、正宗が用いた御書と称する文献は実はこんな怪しげな、偽書?と疑われる様な文献だった事を知り、唖然となりました。

そうですか。eco ◆Smw69BiSBo さんの主張は私は知りません。
eco ◆Smw69BiSBo さんから何かコメントがあれば直接eco ◆Smw69BiSBo さんにリコメします。


> 御書が全部 日蓮のオリジナルだと思っているのか?
> それを言うのなら開目抄の原文は 明治時代に身延の大火で存在していないし
> 堀上人の編纂した開目抄は北山の要文だけで 全文が無いし
> 日興遺戒だって原本を紛失している上 御儀口伝だって5つも存在しているし
> 後世が書いたものだと言われている事など 知らないんですか?

知っていますが、それがどうかしましたか?
記事本文にも書きましたが「法門」である以上「誰が書いたか?」はあまり重要でありません。
釈迦の経典が釈迦の直筆はひとつもない。ことを見てもそれは明らかです。
また、今の偽書論についても不明確です。
どの御書を後世の誰がいつ書いたのですか?
まづそこを具体的に示してもらわないとコメントのしようがありません。

なるほど

  管理人さん

 私の感覚では 頻発する「大聖人直結!」とか、「血脈は創価に流れている論」で受ける印象から、大御本尊不信受!にいたる流れの上で、「人」を取り、「本尊」を捨てるという結果をみるとき、そう感じたのです。  「人」を重視する」が故に、
大聖人様の、お認めの本尊はみな同列という理論構築ですね。  「人・法一箇」の切り離し論がその伏線だというのは頷けます。 私の文法上の未熟な解釈だったと思います。 ありがとうざいました。

  勝手に匿名さん


 余計な意見を聞き入れてくださってありがとうございました。

 歴史を見ても、次々と異論だの、「本当はこうだった」などの論説が出てきます。

 私は講釈師のように、あたかも見てきたかのようには書けません。 キリストの福音書にせよ、あるものの中には、イエスが行ったという数々の「奇蹟」を全否定しているものもあるようです。(どなたの福音書だったか忘却しましたが)

 結局、どうしても歴史書にせよ、史実を基にした?ドラマや小説だのは、一顧だにしてきませんでした。  これませんでした。  今でもそうなんです。 損をしてきたかもしれませんが。

 よって、歴史の試練に耐えて残った、と思えるもの、 そしてそれを僅かでも信じ、修行として行った結果が、現在の私を構成する「全て」なのです。 例え、それを「暫定真理」だ、「無知」だのと罵られようともです。  

 それと、些末なことですが、ちなみに私は「的を射た」のほうを使います。 得る・射る、は正鵠を。。。の場合と同じように、両論あるようですね。 「得る」の場合はまさに「的のど真ん中の黒い部分」に当てた場合でもあるようです。  そんな自信はありません。

 

勝手に匿名さん

話はかわりますが、勝手に匿名さんの立ち位置はどこなんですか?
ここからは私の個人的な推理ですが、
まず、無宗教または仏法以外の信徒さんではない。
そういう方だったらそもそも「御書」なんて知らないだろうし興味がない。
法華講員さん顕正会さんでもないですね。
そうだったら「偽書論」を採用するはずはない。
身延などの他の仏教宗派の信徒の方でもない。
そういった方ならば「御書」というより「遺文」と表現するのではないかと思うし。

消去法で考えると、やっぱり学会員さんでしょうか?
間違っていたならゴメンナサイね。

二乗不作仏に成らぬ様にね、

折角、大聖人様の
仏法に縁(順縁or逆縁)が
出来たのですから、
まずは、大聖人様を
信じるの?
信じないの?

もしくは、魂の独立を
成し遂げた

池田さんの思想(宇宙のリズムとか)を
信じるの?

全ては、そこから始まると
思います。

末法の凡夫ですからね、

大聖人様と
直接はお話しできませんし、
誰も真実は
分からず、
証明も出来ません。

科学的に出来たとして、
年代鑑定くらいで。
大聖人様がご在世と符合し、
文字の書き方が同じだとしても、
大聖人様が書いたと断定できないでしょ。
貴方は、目の前で大聖人様が、
書いたのを見てたの?て、事です。

そこに興味を持つ事に異議はありませんが、
信仰とは関係ない。
度々、駄文コメント
申し訳けありませんʅ(◞‿◟)ʃ

No title

こんばんは。お久しぶりです。

五重三段にもう一段付け加えるというのは、面白い発想ですね。
「法体=大御本尊」という無理矢理な解釈をするために御書も歪んだ読み方になってしまうのでしょうか。
そもそも、大御本尊が法体であることを示す御書は一つもありません。文証が存在しない天魔の教えです。
言うまでもなく、法体というのは「文底秘沈の南無妙法蓮華経」に他なりません。

経の中の法門は其の経の題目の中にあり(曾谷入道殿御返事)

上記の「其の経の題目」というのは、文字通りそのまま「南無妙法蓮華経」のことです。
加えて言うならば、三大秘法の「題目」「本尊」「戒壇」はいずれも「南無妙法蓮華経」という法体を指し示す「法門」に過ぎません。
このことは、以下の御文に示されています。

是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か(法華取要抄)

これは「(南無)妙法蓮華経という法体の広宣流布のために三大秘法という法門を立てる」という宣言です。
つまり、真に根本とすべきは「南無妙法蓮華経」という法体であり、あくまで三大秘法はそれを覚知するための手段と考えるのが適切です。
日蓮正宗は、文証のない大御本尊を法体としている上に、法門にすぎない三大秘法(合して一大秘法)を法体と解釈するという二重の誤りを犯しているのです。

己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず粗法なり(一生成仏抄)

上の御文のとおり、己心の外にある大御本尊を法体とするのは粗法です。あくまで「南無妙法蓮華経」は己心の中にあります。だから「観心本尊」なのです。
己心の外に根本の法があると考えるのは、大日如来信仰や阿弥陀信仰と同じであり、権大乗教に逆戻りしています。

内容が優れていれば偽書であっても用いて良いというのは賛成です。
しかし、その結果「大御本尊」「日蓮本仏」「血脈相承」といった器物崇拝・人間崇拝の思想が正当化されてしまうのであれば、慎重になるべきだと思います。
仏教の基本精神は一切衆生の平等と法の尊重です。

管理人さんが大御本尊というフィルターを介さずに正しく御書を読めるよう願っております。

シャリホツさん

こんにちは。お久しぶりです。

> 五重三段にもう一段付け加えるというのは、面白い発想ですね。
> 「法体=大御本尊」という無理矢理な解釈をするために御書も歪んだ読み方になってしまうのでしょうか。

いえいえ。文底下種三段の部分を理解できれば正宗分が大御本尊であることが分かるはずです。
それが分からないのは、大御本尊を法体と認めたくないという方々の解釈だと思います。
ですから御書もキリ文になるし御書全体と通しての解釈に一貫性がなくなり
そうなると、都合の悪い御書を偽書とする以外に方法がなくなるのです。

> そもそも、大御本尊が法体であることを示す御書は一つもありません。文証が存在しない天魔の教えです。
> 言うまでもなく、法体というのは「文底秘沈の南無妙法蓮華経」に他なりません。

この疑難もいろんな方がいいますが、御書に書いていなければ否定するならば
大聖人がご本仏であることも御書には書いていません。
大聖人がご本仏でない。といならば、大聖人の御書を文証とする理由もありません。
そこで本仏を釈迦とすることにすると、今度は釈迦の直筆の文証はありませんから
今の仏典すべては天魔の教えということになります。
しかし、文証がなければ天魔といってのは大聖人ですからそれすら通用しませんよ。
このように、御書に書いてあることが仏法のすべてだと思うことが既に間違っていると思います。

> 是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か(法華取要抄)
> これは「(南無)妙法蓮華経という法体の広宣流布のために三大秘法という法門を立てる」という宣言です。
> つまり、真に根本とすべきは「南無妙法蓮華経」という法体であり、あくまで三大秘法はそれを覚知するための手段と考えるのが適切です。
> 日蓮正宗は、文証のない大御本尊を法体としている上に、法門にすぎない三大秘法(合して一大秘法)を法体と解釈するという二重の誤りを犯しているのです。
> 己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず粗法なり(一生成仏抄)
> 上の御文のとおり、己心の外にある大御本尊を法体とするのは粗法です。あくまで「南無妙法蓮華経」は己心の中にあります。だから「観心本尊」なのです。
> 己心の外に根本の法があると考えるのは、大日如来信仰や阿弥陀信仰と同じであり、権大乗教に逆戻りしています。

いえ。これはあくまでも理の一念三千にすぎません。
上記引用の御書2点はどちらも佐前の御書です。
◆法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ(三沢抄)
と示されているとおりです。
また己心に法体があるのなら自信が本仏という理屈になります。
シャリホツさんは以前「己心本仏」「凡夫本仏」を否定されていましたが
では「本仏」はどこに存在するのでしょうか?
自分以外に法体が存在しないく自分が本仏でないのなら
本仏なんて存在しない。という事でしょう。
仏が存在しないのに何で南無妙法蓮華経が存在するのでしょうか?
仏が存在しないのら仏法ではありませんよね?
このような疑問が次々とわきませんか?

> 内容が優れていれば偽書であっても用いて良いというのは賛成です。

この点はコンセンサスが取れたということですね。
ここが今回のテーマだったのでコンセンサスがとれてよかったです。

> しかし、その結果「大御本尊」「日蓮本仏」「血脈相承」といった器物崇拝・人間崇拝の思想が正当化されてしまうのであれば、慎重になるべきだと思います。
> 仏教の基本精神は一切衆生の平等と法の尊重です。

そうです。
ただし、仏法や法体を単に「法則」と捉えるの事には反対です。
なぜなら、「法体」である「南無妙法蓮華経」は、大聖人の智慧の中にしか存在しないからです。
どんな理屈をつけてみても「南無妙法蓮華経」も「三大秘法」も
事の上では大聖人から離れて存在しません。
まさに、「大聖人の己心の他に南無妙法蓮華経なし」なのです
それが「観心本尊」なのです。
観心【の】本尊とはザックリいえば、ご本仏大聖人【の】心の本尊という事です。

> 管理人さんが大御本尊というフィルターを介さずに正しく御書を読めるよう願っております。

いえ。大御本尊から離れて仏法はありません。
御書を正しく読むというのは
大御本尊を正しく信じるということです。
ご本仏大聖人を否定しつつ大聖人の書かれた「御書」を
読み口にして何の意味があるでしょうか?
日蓮本仏ではないのなら御書を読む必要すらありません。
私はそう思います。
もちろん、シャリホツの考えは尊重します。
ただ賛同はしません。ということです。


管理人さん

管理人さん。
何かご迷惑お掛けしたようで、大変すみませんでした。

私の母親は学会員で、私は生まれながらの強制?学会員です。2世です。
父は名前だけの会員で、仏壇の前で多少拝む程度でした。
現在の私は、もう拝んでいない、会合も行っていない(呼び出しも来ない?)、聖教新聞も読んでいない(購読依頼すら来ない?)、もうやめた?と思われてる(別に退会届など出していませんが?)所謂、幽霊?会員です。


>そうですか。eco ◆Smw69BiSBo さんの主張は私は知りません。
>eco ◆Smw69BiSBo さんから何かコメントがあれば直接eco ◆Smw69BiSBo さんにリコメします。


> 御書が全部 日蓮のオリジナルだと思っているのか?
> それを言うのなら開目抄の原文は 明治時代に身延の大火で存在していないし
> 堀上人の編纂した開目抄は北山の要文だけで 全文が無いし
> 日興遺戒だって原本を紛失している上 御儀口伝だって5つも存在しているし
> 後世が書いたものだと言われている事など 知らないんですか?


管理人さんも仰っていますが、これらは、私の主張ではなく、eco ◆Smw69BiSBo さんの主張です。
ですので、直接eco ◆Smw69BiSBo さんにリコメお願いします。

ただ、言えることはeco ◆Smw69BiSBo さんは、タブーなど関係なく辛口ながらも的確に批評しています。
開目抄は、身延の明治の大火で焼失したのは知っていましたが、「堀上人の編纂した開目抄は北山の要文だけで全文が無いし」などは、 eco ◆Smw69BiSBo さんの指摘以前は知りませんでした。
「日興遺戒だって原本を紛失している上 御儀口伝だって5つも存在しているし」これも、その程度の文献で
「日興上人はこう仰ってるではないか!」と虚勢を張る方への eco◆Smw69BiSBo さん流の的確な皮肉じゃないでしょうか? 
辛口ですがeco ◆Smw69BiSBo さんの意見は評価出来ると思います。

また、史実の仏陀は本当は何を説いたかはっきりせず(阿含部のスッタニパータ位だとの論もあるが)
経典など直筆は一巻も存在しません。ですが、片や大聖人のケースは直筆真筆と認められてる文献だけでも幾つもあり、文献同志の比較検討など現実に出来るじゃないのですか? 仏陀と大聖人は検討のケースが違います。

非意味的切断さん

非意味的切断さん。 こんにちは。

> でしたら仮に、大御本尊を科学鑑定した結果、
> 日蓮の書いたものではないと明らかになった場合も、
> 「別に日蓮は関係ない!誰が書いたかわからないけど三大秘法が含まれてるからいいんだ!」ということになるのでしょうか?


まあ、現宗門は遣らないでしょうが、もし鑑定結果、その様に出ても
一時的には混乱有っても、大して混乱は無いでしょう。(アンチ正宗派はガッカリ?かもですが?)
墓檀家、根檀家は、「大石寺や古い末寺自体」に付いているのですし、大半の信徒は「別の結果のケースも有り得る」「信心を試されているのだ」と良い方に考えて普段通りでしょう。
信仰とはそんな感じだと思います。
混乱起こしそうなのは一部の活動的派位じゃないでしょうか?
宗門に魔が入ったのだと非難、出て行くかも知れませんね。
それと学会や顕正会も弱体化しても完全に無くならないでしょう。
あのオウムすら、法の華すら、名前を変えて存続していますからね。



シャリホツさん

シャリホツさん。 こんにちは。


>内容が優れていれば偽書であっても用いて良いというのは賛成です。
しかし、その結果「大御本尊」「日蓮本仏」「血脈相承」といった器物崇拝・人間崇拝の思想が正当化されてしまうのであれば、慎重になるべきだと思います。
仏教の基本精神は一切衆生の平等と法の尊重です。


>内容が優れていれば偽書でも

史実の徳川光圀よりも「水戸黄門漫遊記」やドラマの黄門様の方が人情があり、親しみやすいですものね。


>しかし、その結果「大御本尊」「日蓮本仏」「血脈相承」といった器物崇拝・人間崇拝の思想が正当化されてしまうのであれば、慎重になるべきだと思います。

例えば浅草の観音さん、柴又の帝釈天などは実際には真偽未定です。(先日 帝釈天板本尊のアップ画像をテレビ放映されましたが)
しかし、別にどこからも(仏教界、一般社会)批判されていません。
それは、お参り信仰だからだと思います。(お参り信仰に布教活動や金銭問題は絡まないので)
問題はおそらく組織信仰が問題じゃないでしょうか?
これが絶対正しいのだ! お前は何とか先生に申し訳ないと思わないか!今月の折伏は何世帯の目標!など組織的な人権無視、ノルマ、 ゾンザイな扱い。
それで一体、何のために信仰してるのだ、と失望してしまうのではないでしょうか?

想像ですが、例えば、柴又帝釈天を本山と崇める教団が出来て、布教活動や信仰活動など活発に行えば、社会との軋轢も生まれ、社会や仏教界から活動や教義など叩かれると思いますが。

勝手に匿名さん

こんばんは。

> 管理人さん。
> 何かご迷惑お掛けしたようで、大変すみませんでした。

いえ。全然迷惑なんてことありません。
私の方こそ勝手に匿名さんとeco ◆Smw69BiSBoさんの発言を混同してしまい申し訳ありませんでした。

> 私の母親は学会員で、私は生まれながらの強制?学会員です。2世です。
> 父は名前だけの会員で、仏壇の前で多少拝む程度でした。
> 現在の私は、もう拝んでいない、会合も行っていない(呼び出しも来ない?)、聖教新聞も読んでいない(購読依頼すら来ない?)、もうやめた?と思われてる(別に退会届など出していませんが?)所謂、幽霊?会員です。

全然、学会員から連絡ないとすると私同様に統監(名簿)から消されている可能性が高いですね。
選挙の依頼もこないならば十中八九すでに統監を消されていると思います。
まぁ、それはそれで喜ばしいことなのですが(笑)

> ただ、言えることはeco ◆Smw69BiSBo さんは、タブーなど関係なく辛口ながらも的確に批評しています。
> 開目抄は、身延の明治の大火で焼失したのは知っていましたが、「堀上人の編纂した開目抄は北山の要文だけで全文が無いし」などは、 eco ◆Smw69BiSBo さんの指摘以前は知りませんでした。
> 「日興遺戒だって原本を紛失している上 御儀口伝だって5つも存在しているし」これも、その程度の文献で
> 「日興上人はこう仰ってるではないか!」と虚勢を張る方への eco◆Smw69BiSBo さん流の的確な皮肉じゃないでしょうか?
> 辛口ですがeco ◆Smw69BiSBo さんの意見は評価出来ると思います。

そうですね。一つの意見として否定する気はありませんが
記事にも書いたように直筆の有無は法門・法義には直接関係ないと私は思っているし
我々のような後世の凡夫が大聖人の内証を詮議するのは滑稽とも思っています。

> また、史実の仏陀は本当は何を説いたかはっきりせず(阿含部のスッタニパータ位だとの論もあるが)
> 経典など直筆は一巻も存在しません。ですが、片や大聖人のケースは直筆真筆と認められてる文献だけでも幾つもあり、文献同志の比較検討など現実に出来るじゃないのですか? 仏陀と大聖人は検討のケースが違います。

そうですね。それが学問として興味がある方が研究するのは大いに結構ですし
どの御書が大聖人が直接書いた御書なのか?を知ることは大いに賛同します。
私が異を唱えるのは、それをもって信心のない人が大聖人の法門法義を詮議し
剰え大聖人仏法を否定することです。
大聖人の仏法を否定するのであれば御書の研究も必要ない無駄な時間だと思ったりもします。

今後もお気軽にコメントしてください。
基本的にコメントは全て歓迎ですので。

No title

>>いえいえ。文底下種三段の部分を理解できれば正宗分が大御本尊であることが分かるはずです。
>>それが分からないのは、大御本尊を法体と認めたくないという方々の解釈だと思います。
>>ですから御書もキリ文になるし御書全体と通しての解釈に一貫性がなくなり
>>そうなると、都合の悪い御書を偽書とする以外に方法がなくなるのです。

「分かるはずです」というのは説明の放棄です。御書に書いていないこと(大御本尊=正宗分)を主張しているのは管理人さんの方なので、こちらが納得するよう説明する責任は管理人さん側にあります。

私の御書の解釈は強固な一貫性を保っています。むしろ、大御本尊を正当化するために五重三段に「六重目」を付け加えたり、「題目」→「大御本尊」などの恣意的な操作を行っていることに問題があると思います。

>>この疑難もいろんな方がいいますが、御書に書いていなければ否定するならば大聖人がご本仏であることも御書には書いていません。

御書に書いていないということは、大聖人は自分を本仏だと思っていなかったということです。御書は常に「己義を構へず」書いてある通りに読むべきです。「日蓮本仏」も「釈迦本仏」も御書に書いていないということは、大聖人は特定の個人を崇拝する考え方を持っていなかったということです。

>>大聖人がご本仏でない。といならば、大聖人の御書を文証とする理由もありません。

これは言っていることが滅茶苦茶です。大聖人が本仏であると認めることが御書を文証として用いるための必要条件なのだとすれば、日蓮本仏を支持する日興門流の中でしか法論ができないということになります。

>>上記引用の御書2点はどちらも佐前の御書です。

まず、法華取要抄は佐前ではなく佐後の御書です。確認してください。
佐後の御書の中で「三大秘法は法門である」と明言しているのです。
これについてどう考えますか。

それから、管理人さんの考えでは、佐前では「己心に法あり」だったのが佐後では「己心に法なし」に法門が変わったわけですよね。そのような法門の変更を示す御書はあるのでしょうか。

>>また己心に法体があるのなら自信が本仏という理屈になります。
>>シャリホツさんは以前「己心本仏」「凡夫本仏」を否定されていましたが
>>では「本仏」はどこに存在するのでしょうか?

まず、大聖人の仏法に「本仏」「迹仏」といった立て分けは存在しません。「仏」は「仏」です。仏に区別を設けると「仏差別」になります。大聖人が「本仏」「迹仏」という立て分けで衆生を区別している御書があれば、それを示してください。

また、「仏の智慧」がどこに存在するのかですが、それは衆生の色心の中です。

法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」(中略)末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。(観心本尊抄)

仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば(中略)或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我らが五尺の身の内に候とみへて候。(十字御書)

どこにも大聖人の中にしか仏の智慧はない、などとは書かれていません。
大聖人は仏の智慧が一切衆生の色心の中に遍く存在していると考えていますから当然です。

>>仏が存在しないのに何で南無妙法蓮華経が存在するのでしょうか?

法体は永遠不滅です。釈迦はその法体を覚ったからブッダ(覚者)となったわけです。大聖人はその法体を「南無妙法蓮華経」と名付けて法華経文底から拾い出し、それを三大秘法の法門として開示することで末法の衆生が法体を覚知できるようにした、ということです。

>>仏が存在しないのら仏法ではありませんよね?

阿弥陀信仰は「仏勝法劣」の仏法
大日如来信仰は「仏法一体」の仏法
日蓮仏法は「法勝仏劣」の仏法
だと考えています。
どれが普遍性と平等性を持っているかと言えば、当然「法勝仏劣」の日蓮仏法です。以下、「法勝仏劣」の文証(いずれも佐後)です。

人軽しと申すは仏を人と申す、法重しと申すは法華経なり、夫れ法華已前の諸経並に緒論は仏の功徳をほめて候・仏のごとし、此の法華経は経の功徳をほめたり・仏の父母のごとし。(宝軽法重事)

彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす。(中略)仏は所生・法華経は能生。(本尊問答抄)

>>ただし、仏法や法体を単に「法則」と捉えるの事には反対です。
>>なぜなら、「法体」である「南無妙法蓮華経」は、大聖人の智慧の中にしか存在しないからです。

それを支持する文証が示せない以上、それはあなたの「そうであって欲しい」という願望です。大聖人の御書は一貫して「法勝仏劣・法勝人劣」であり、「仏智も法体も一切衆生に等しく備わっている」と主張しています。

>>どんな理屈をつけてみても「南無妙法蓮華経」も「三大秘法」も
>>事の上では大聖人から離れて存在しません。

それを言ってしまえば、大聖人を産んだ父母がいなければ大聖人も存在しなかったわけですから、大聖人の父母から離れても「南無妙法蓮華経」「三大秘法」は存在しないことになります。よって管理人さんの考え方を煎じ詰めれば、一切衆生・森羅万象が「南無妙法蓮華経」と一体ということになります。よって、いずれにせよ大聖人だけを特別視して南無するのは誤りと言えます。

>>観心【の】本尊とはザックリいえば、ご本仏大聖人【の】心の本尊という事です。

これも文証のない単なる願望です。

>>大御本尊から離れて仏法はありません。
>>御書を正しく読むというのは
>>大御本尊を正しく信じるということです。

100%の確率で大聖人の真筆であると確定している「御書」と、
後世の偽造の可能性がある「大御本尊」。
どちらを信頼すべきかという問題です。
大御本尊というフィルターを通すから御書の読み方に歪みが生じるのです。
大御本尊というフィルターを通さなければ、「五重三段」にもう一段加えたり、「題目=大御本尊」などの変換をしなくても、素直に御書を読解できます。

>>ただ賛同はしません。ということです。

賛同はしなくてもよいですが、様々なバイアスを除いた上でもう一度御書を精読することを勧めます。

シャリホツさん

> 「分かるはずです」というのは説明の放棄です。御書に書いていないこと(大御本尊=正宗分)を主張しているのは管理人さんの方なので、こちらが納得するよう説明する責任は管理人さん側にあります。

文底下種三段から説明しなとだめですか?この程度の基礎教学はシャリホツさんなら知っていると思いますが。

> 御書に書いていないということは、大聖人は自分を本仏だと思っていなかったということです。御書は常に「己義を構へず」書いてある通りに読むべきです。「日蓮本仏」も「釈迦本仏」も御書に書いていないということは、大聖人は特定の個人を崇拝する考え方を持っていなかったということです。

そうですか。それならそれでよろしいのでないですか?

> まず、法華取要抄は佐前ではなく佐後の御書です。確認してください。
> 佐後の御書の中で「三大秘法は法門である」と明言しているのです。
> これについてどう考えますか。

ああ、すみません。ってきり立正安国論と一生成仏抄を引用したのだと思ってました。
◆但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらそ法なり、
これの引用じゃなかったのですね。

>それから、管理人さんの考えでは、佐前では「己心に法あり」だったのが佐後では「己心に法なし」に法門が変わったわけですよね。そのような法門の変更を示す御書はあるのでしょうか。

違いますよ。理・事の違いを言ってるのですよ。


> まず、大聖人の仏法に「本仏」「迹仏」といった立て分けは存在しません。「仏」は「仏」です。仏に区別を設けると「仏差別」になります。大聖人が「本仏」「迹仏」という立て分けで衆生を区別している御書があれば、それを示してください。

「百六箇抄」をお読みください。

>また、「仏の智慧」がどこに存在するのかですが、それは衆生の色心の中です。

「仏の智慧」がどこに存在するか?ではなく「南無妙法蓮華経」の法体がどこに存在するのか。と言ってつもりですが。

> 法体は永遠不滅です。釈迦はその法体を覚ったからブッダ(覚者)となったわけです。大聖人はその法体を「南無妙法蓮華経」と名付けて法華経文底から拾い出し、それを三大秘法の法門として開示することで末法の衆生が法体を覚知できるようにした、ということです。

そうですか。その法体は衆生の色心なんですよね?わかりましたよ。

> 賛同はしなくてもよいですが、様々なバイアスを除いた上でもう一度御書を精読することを勧めます。

はい。ではこの話はここまでにしましょう。
長文のリコメいただきましたが、各論に回答するのも時間がかかるし
何よりこれ以上はお互いにコンセンサスを得ることはないでしょう。
このブログは法論を主眼としていません。

シャリホツさんは大聖人仏法が「法勝人劣」といい
私は「人法一体」と思っている。
シャリホツさんは本尊よりも御書を信用するといい。
私は「大御本尊」を否定する人に御書は理解できないと思っている。
それでいいでしょう。
あとは読者の方々が個々に考えることです。

出世の本涯

出世の本涯

聞いたことありますか?釈尊は法華経を説くために正法像法の仏としてお生まれになりました。

大聖人様は本門戒壇の大御本尊様を現すために末法の御本仏として御うまれになりました。

しかも三大秘宝とそこから開ける六大秘宝は一大秘宝である御戒壇様から開かれますよね?人の本尊も法の本尊も共に本門の本尊です。

偽書論というより、授持の対象にしませんと言ってしまった時点で新興の根幹を捨ててしまっています…

ナノルホドデハアリマセン  さん

こんにちは。

> 聞いたことありますか?釈尊は法華経を説くために正法像法の仏としてお生まれになりました。
> 大聖人様は本門戒壇の大御本尊様を現すために末法の御本仏として御うまれになりました。
> しかも三大秘宝とそこから開ける六大秘宝は一大秘宝である御戒壇様から開かれますよね?人の本尊も法の本尊も共に本門の本尊です。
> 偽書論というより、授持の対象にしませんと言ってしまった時点で新興の根幹を捨ててしまっています…

その通りだと思います。
仏法の相伝は経巻相承ではなく法体相承です。
法体を否定して御書を読んでも意味がないどころか己義になってしまうと考えます

No title

>>文底下種三段から説明しなとだめですか?この程度の基礎教学はシャリホツさんなら知っていると思いますが。

文底下種三段はもちろん知っていますよ。

>>ああ、すみません。ってきり立正安国論と一生成仏抄を引用したのだと思ってました。
>>◆但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらそ法なり、
>>これの引用じゃなかったのですね。

そこではなく、法華取要抄で「三大秘法が法門である」と示されている部分です。
ここについての回答をお願いします。

>>違いますよ。理・事の違いを言ってるのですよ。

管理人さんの考えでは、事の一念三千で「己心に法なし」になってしまうので同じことです。

>>「百六箇抄」をお読みください。

真撰御書には本仏論はないということですね。

>>「仏の智慧」がどこに存在するか?ではなく「南無妙法蓮華経」の法体がどこに存在するのか。と言ってつもりですが。

「どこどこのどれ」と指させるようなものではありません。
十界三千が尽く法体です。

シャリホツさん

こんばんは。

> そこではなく、法華取要抄で「三大秘法が法門である」と示されている部分です。
> ここについての回答をお願いします。

ブログ記事本文にも書きましたが、法体とは一大秘法の戒壇大御本尊です。
三大秘法は一大秘法からひらがれた義ですから、総じて言えば「法門」です。

> >>違いますよ。理・事の違いを言ってるのですよ。
> 管理人さんの考えでは、事の一念三千で「己心に法なし」になってしまうので同じことです。

いえ、一切衆生が妙法の当体というのはあくまでも「理」であるということです。
つまりシャリホツさんの自分が法体というは「理の一念三千」です。
また宇宙の法が法体というのもあくまでも「理の一念三千」なのです。

> >>「百六箇抄」をお読みください。
> 真撰御書には本仏論はないということですね。

大聖人自身がご自身を「本仏」といわえれている御書はない。と以前から言っています。
あなたの質問は、仏に本迹があるとう御文があるのか?ということでしたですよね?
「百六箇抄」は不採用ですか?(笑)
では、
◆凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり(諸法実相抄)
ここでは大聖人が「本仏」「迹仏」を立て分けていますよ。

> >>「仏の智慧」がどこに存在するか?ではなく「南無妙法蓮華経」の法体がどこに存在するのか。と言ってつもりですが。
> 「どこどこのどれ」と指させるようなものではありません。
> 十界三千が尽く法体です。

ですからそれを「理の一念三千」というのです。
法体が宇宙に遍満しているのなら、本尊も戒壇も必要ありません。
せいぜい題目だけで十分です。
そしてそうしたいのならそうしてくれても結構です。と私は言っています。

いづれにせよ、これ以上この話題は平行線です。
シャリホツさんもご自身の主張はほぼ書けたでしょう?
私はいつも書いている通りでそれはシャリホツさんの主張を読んでも何も変わりません。
何度も書きますが、「御書」の拝したからして根本的に違うのですから
これ以上のコンセンサスは得られないでしょう。
あなたが、私を破折したいと思って書いているのであっても
それもほぼ出尽くしました。
あとは、各読者の方々に判断を委ねるしかありません。
というわけで前回も書きましたが、この件についてはこれで一旦お開きにさせていただきます。
勿論、言い足りないことがあれば書いてくださって結構ですが
質問形式ではなく、シャリホツさんの主張だけをお書きください。

御本仏の定義

さて、夜勤も終わり
やっと、常宿に辿り着く事が出来ました。
冬の北海道は寒いものですね。
ー15℃は身体が痛くなります。

議論は尽くされたかとは
思いますが、
ネットサーフィンをしてたら
興味深いものが御座いました。
御存知な事だと思いますが、
日達上人のお話し。

日女抄に「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(全集一二四四頁)とおおせになっております。しかしながら、一般日蓮宗の人々は、この胸中の肉団に御本尊がましますといぅ言葉を取って、大曼荼羅本尊は要らない。自分自身の御本尊を拝めばよいのだというような説を立てている人もおります。 しからば、何をもって自分自身の御本尊を見極め、崇めることができるでしょうか。我々凡夫においては到底そんなことはできないのであります。自分自身が御本尊だ、などと考える時は、既に増上慢に陥って、地獄の苦を受けるといぅことになるのであります。そこで大聖人様は御自身の当体を戒壇の御本尊として、我ら末法の衆生の依止の本尊と顕されておるのでございます。すなわち大聖人は「末法に来入して始めて此の仏像出現す」(全集二四八頁)と申され、御自身が仏としての姿を示され「経に云く猶多怨嫉・況滅度後と此の言良とに以有るなり」(全集二五四頁)として、また「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(同)とおおせられ御本尊を建立遊ばされておるのでぁあります。この御本尊は、我々の十界互具、一念三千の姿を書き顕わされたのでありますから、これが我々の正境でございます。我々凡夫は自らの顔すら見ることができません。しかし、鏡を境、すなわち対象として前に置いて見る時は、はじめて真実の自分の顔を見ることができるのであります。まして御本尊が我々の胸中肉団に在りと教わってみても、その御本尊を拝することはできないのであります。故に大聖人は、この我等の胸中の肉団の姿を、正境として御本尊に御図顕遊ばされておるのであります

退転壮年部おじさん さん

> さて、夜勤も終わり
こんにちは。

> やっと、常宿に辿り着く事が出来ました。
> 冬の北海道は寒いものですね。
> ー15℃は身体が痛くなります。

うわ~。すごい寒さですね。
お体ご自愛下さいね。
議論としてはこれ以上は進展もありませんから終わりですね。
日達上人のご指南は御歴代から今まで変わっていません。
このご指南の通りだと思います。
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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