創価教学じゃない御書講義(29年度3月座談会御書・経王殿御返事)

但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、
日蓮がたましひをすみにそめながし てかきて候ぞ信じさせ給へ、
仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「経王殿御返事」
短い御書なんだけど、大聖人仏法の重要な教えが詰まっていて
とてもいいテキストになる御書だね。
創価の活動家は、何度もこの御書を読んだり
講義をしたり聞いたりしていることかと思う。
その中でも今回の部分は、有名かつ重要な御文だね。

しかし、この御書のしかもこの部分を
座談会御書として選ぶかね~?
何かの冗談?
それとも自虐ネタ?
或いは自爆テロ?
どっちにしても、今の創価幹部活動家が
もっとも、「やりたくない」部分でしょ?コレは?

いうまでもなくこの部分で最重要なのが
◆日蓮がたましひをすみにそめながし てかきて候ぞ信じさせ給へ
◆日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
のこの部分。
この部分を説明しないと講義になんない。
「法華経の剣」とは、ご本尊のことで、
その「御本尊」とはなにか?
大聖人仏法の「本尊義」を述べている部分が上記の二つ。
簡単にいうと大聖人の本尊義とは人法一箇ということなんだよね。
いつもブログで書いているように、
「本尊」とは大聖人の色心二法のことであり、大聖人そのものを指し
大聖人の色心二法とは、南無妙法蓮華経(法)に他ならない。
つまり、大聖人の色心二法を離れて南無妙法蓮華経はなく
南無妙法蓮華経を最初から所持するゆえに大聖人をご本仏というわけだ。
この御文の前に、
◆日蓮守護たる 処の御本尊
と書かれいるとおりである。
そしてその大聖人の色心二法を顕したのが
大聖人の出世の本懐たる
一大秘法の本門戒壇大御本尊である。
それがここでいうところの「法華経の剣」であり
それに対して信をとれば「鬼に金棒」になるのである。
そして大御本尊に信をとる信心を「けなげ」な信心という。
御信心による。というこはそういうことだ。

で?どうすんの?創価の本尊をどう説明すんの?
創価の本尊は言わずと知れた
日寛上人が大御本尊を書写した本尊を
創価が画像処理を加え、勝手にコピーをして配っているモノである。
この創価本尊に、大御本尊を捨てた創価が
どうやって大聖人の魂を入れているのか?
それを説明できるのか?
てかそこを説明しないと今月の御書講義にならない。
これは、今月は結構面白い座談会になりそうだ。
外部新来者として誰か俺を座談会に連れて行ってくれないだろか(笑)

macskaさん、今月ですよ。
御書講義の担当を願い出てください。
まさか、ここを座談会御書に選ぶなんて完全に敵失です。
千載一遇のチャンス到来です。
この御書なら思いっきり大御本尊を宣揚し
創価の本尊義を破折できます。
そんな御書を選ぶとは、
マジで自爆テロとしか思えない。
じゃなけりゃ勝負にでたか?
いずれにせよmacskaさん、出番です!

macskaさん以外の活動家さんもそうですよ。
本当に大御本尊を捨てていない。と言うならば
今月の座談会では講義をするなり
質問するなりしてくださいね。
「大御本尊を捨てた創価がどうやって大聖人の魂を創価本尊に入れているのか?」って。
本文には
◆法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ
と書いてあるでしょ?
「けなげ」とは「勇気」ということです。
今の創価の組織の中で
大御本尊を宣揚することはもちろん
そうした質問することすら勇気の要ることです。
その勇気がなければ、
◆つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし
とあるように、創価の本尊など無用の長物です。
今月の座談会は本当にチャンスです。
いままで聞けなかった大御本尊のことを聞けるチャンスなのです。
なんてたって、いままで大御本尊の件からが逃げ回っていた創価が
自らその舞台を作ってくれたのですから。
また反面、「大御本尊を棄ててない」といってる会員さんにとって
それが本心かどうか試されているとも言えます。
どうぞ「勇気」をもって「前進」し
単なるコピーの掛け軸を、法華経の剣に変えていってくださいね。

◆秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり(報恩抄)

最後に「大御本尊を捨てても平気な顔している」幹部・バリ活さんは
今月の御書講義はしない方が身のためです(笑)
いままでは、ウヤムヤにごまかして逃げ延びてきただろうけど
今回はさすがに「本尊義」を話さないとシャレにならない御文ですよ。
まさか、「相貌」が同じなら「自動的」に大聖人の魂が入っている。
そんな講義はしないよね?(それしか言い逃れができないのだろうけど)
なんなら、「今月は期末で仕事が忙しい」とかいって座談会不参加にしましょう。
仕事をしてないバリ活さんは当日「具合が悪くなる」ってのもアリです。
どうしても御書担当になってしまったら
なるべく後半部分には触れずに
サクッと大白読んで質問なしで終えてください。
まぁ「言い逃げ」「やり逃げ」はバリカツさんの十八番でしょうから(笑)
え?うちの組織にはそんな事質問しくるような部員さんはいない?って
そうですか、ではその組織は既に謗法の地と化してるわけですね。
それはご愁傷様です(笑)

しかし、何度も書くけど
創価が、ここをやるかなぁ・・・(笑)

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倫理、超越など

いつも丁寧な取り組み、誠にありがとうございます。大変に参考になります。

不躾ながら2点質問させていただきます。

●二次的引用に対する考え方について

管理人さまがが批判されております、立正大学系の学者について、
管理人さまは、論文などは読んだことないが、一般的に身延の主張はおかしいと、記載されておりました。

しかし、一般的、というのがよくわからないでおります。恐らく、管理人さまがこれまでお会いしてきた日蓮宗系の信者の主張を基に、一般的、と言われていると考えられますが、そのソースである立正大学系の学者の主張を読まないというのは引っかかります。

・引用元を、引用先からなぜ判断できるのか、引用元における根拠に対して、どのような認識を持っておられるのか
・一般的、という判断を管理人さまはどのようにされているのか

ご教示頂けますと幸いです。

●管理人さまの学問的手法に対する習熟度について

管理人さまは、本当の信仰は学術的方法ではわからない、とご主張されております。
しかし、仏教学=釈尊を本仏としているなど、かなり誤認に基づいているという印象です。
管理人さまは、

・仏教学を含む学問的手法をよくわかっている、その上でその手法を批判している
・仏教学を含む近代的学問については特に本を読んだこともなく、それについて知らないが、それはおかしいと主張している

のどちらでしょうか?
学問的手法をよく知らず、それを批判している方はよくいます。
管理人さまがどちらなのか、素朴に知りたいと考えております。

不躾な質問恐縮ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。

笑わせてくれます

おはようございます。

どうしてこんなに墓穴ダイブとか地雷プレイがお上手なんでしょうね。変態でしょうか?だんだん可笑しくなってきました。

そもそも座談会御書とか御書講義の御文って、誰がどのように選んでいるのでしょう。
御書はあんなに分厚いのに、いつも知っている一部分の箇所が、まんべんなく・繰り返し出てくるのはとっても変だわ〜。
冷ややかささえ感じますねえ。
あらかじめ決まったメニューの中からどこかの馬の骨が事務的かつ無神経に適当にチョイスしている。そんなところじゃないですか?
まあ世間は慌ただしい年度末ですしね。選挙運動もずるずると機械的に始まってますでしょ?お気の毒に。
今なら、この御文を投下しても皆さんに無視していただけるとアホな上層部が判断したのかしら?

お声掛けいただき

お声掛けいただき、ありがとうございます。
法身重視の創価がこの御書を選んだのは興味深いですね。
とは云え、あまりにも有名な御書です。
学生の頃、全編暗唱したのを懐かしく思いだします。

創価が下附している御本尊は書写本尊です。
原田会長は2014年の会則改正の際、以下のように云いました。

>末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、
>それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現したものであり、
>等しく「本門の本尊」であります。

ここでは誰が書写したかをあえて明確にしていません。
創価の本尊はすべて歴代法主の書写であることを云いたくなかったのかもしれません。
しかしそれにより、数千円で売られている身延の土産曼荼羅まで
「本門の本尊」としてしまったことに気がつかないのでしょうか。
これは明確に邪義です。

突っ込みどころ満載ですね。
しかし今月、御書講義の依頼があるかどうか。
先月物議を醸してしまいましたからね。
私にこの御書講義をやらせたら、何を云いだすかと危惧していることでしょう。
依頼が来なければ管理人さんの云う通り、質問攻めと行きますか。
周到に準備して座談会に臨むことにします。(笑)

忙中閑あり

管理人さん

 経王殿は好きな一文があり、支えられたものです。 病とずっとつきあってきた経緯もあり、いやでも?引き付けられてきました。 お陰様で、飲めなかった酒も楽しめるようになり、胃潰瘍、十二指腸潰瘍もケロっと治り、今世の喜びを味わえるようになってます。   (味わい過ぎているという噂も。。。)  

 さて私の今回の印象は、「創価は日蓮をモチーフにした独自・別個の教団」です。

 モチーフという言葉は多用されますが、以外とよく周知されていないと思い、調べると、

 
1、文学・美術などで、創作の動機となった思想や題材

2、音楽で、固有の特徴・表現力をもち、楽曲を構成する最小単位となる音型。動機

 となっていました。

  芸術世界の言葉といっていいと思います。 その意味では2が強い。 そっから訛って?「1」かもしれません。  つまり動機となった思想、という意味で書いています。

 つまり原典に忠実で、「そのものだった時点」を経て、確信的に「発展・変容した思想」であると。

 言い換えれば「世界が称賛しているらしいイケダ思想」ですね。 それを大聖人様も お褒めになって お悦びであると。。  牧口・戸田両先生も草場の陰で、、

 キモイのでやめますが、そういう存在感をどう受け止めるか・  それはいつも話しますように、創価に「どの時点」から関わったかによって、実に様々です。

 でもしかし、それらの諸条件を払拭して、絶対的とも云える原点を求めていけば、創価狂学に邪魔されず、飲まれずに、正しく信心ができるはず。

 それはなにか、、は云うまでもありません。  

 まさにその、本尊義を信徒団体の分際で、ああだこうだというべきではない、  言うべきではないのに、創価執行部がそれをやった。  大御本尊様は厳として何も変わらないのです。   経王殿御返事で大聖人様が仰った、そのままで今日に至っているのに、たかだか750年くらいあとの、信徒団体が、それをやってるだけです。

 これはキリスト教でも、イスラムでも同じ轍を踏んでいますが、それが末法という時代のありようともいうべきことでしょうね。(ちなみに戸田先生は、キリスト教を辞めて日蓮正宗に入った、という説もありますね)  

 余談が続きますが、昔、S40年代に「原点の年」という一年がありました。 今になると、どこがそうだったのかよく判りませんが、私にとっては原点とは「不動」のものという認識です。  我々にとっては「初心位」でしょうか?  

 結局、創価にとってのそれは、極論すれば「イケダセンセイ」だったんです。 これが「原点であり定点」でした。 現在の観念文がその文証です。

 イケダセンセイが黒だ!といえば白もそうなる。  ウソだ!と云うなら、過去のセンセイの指導・発言を時系列で再読すれば一目瞭然ですからね。  原発の位置づけにしても、そう。  それがついに自前の本尊まで発行権を持つに至っています。  私は今は「創価のその上部の存在」に関心があり、そこらへんを探っているのですが、まあファンタジーの世界でもあり、ドロッドロの陰謀論も出てきます。   というわけで支離滅裂になりそうな蘭房を、信心の原点に引き戻してくれるひとつが、このブログです。   

 今回もありがとうございました。

 余談居士・蘭坊

牡丹さん

こんにちは。

> どうしてこんなに墓穴ダイブとか地雷プレイがお上手なんでしょうね。変態でしょうか?だんだん可笑しくなってきました。

ですよね。ドMなんですかね?羞恥プレーでしょうか?

> そもそも座談会御書とか御書講義の御文って、誰がどのように選んでいるのでしょう。
> 御書はあんなに分厚いのに、いつも知っている一部分の箇所が、まんべんなく・繰り返し出てくるのはとっても変だわ〜。
> 冷ややかささえ感じますねえ。
> あらかじめ決まったメニューの中からどこかの馬の骨が事務的かつ無神経に適当にチョイスしている。そんなところじゃないですか?

サイコロ転がしてるとかくじ引きで決めてるとか。

> まあ世間は慌ただしい年度末ですしね。選挙運動もずるずると機械的に始まってますでしょ?お気の毒に。
> 今なら、この御文を投下しても皆さんに無視していただけるとアホな上層部が判断したのかしら?

にしても寝た子を起こさなくても、他にも都議選に向けた御文(勇気を出して選挙お願いしましょう的な)はあるじゃないですか。
やっぱりドMなんでしょうね。

macskaさん

こんにちは。

> 突っ込みどころ満載ですね。
> しかし今月、御書講義の依頼があるかどうか。
> 先月物議を醸してしまいましたからね。
> 私にこの御書講義をやらせたら、何を云いだすかと危惧していることでしょう。

そうでしょうね。
マークされているかもしれませんね。
ましてや、この御文はさすがにmacskaさんに講義をさせないかもしれませんね。
でも、やってもらいたいなぁ。

> 依頼が来なければ管理人さんの云う通り、質問攻めと行きますか。
> 周到に準備して座談会に臨むことにします。(笑)

ぜひぜひ、質問攻めでお願いします。
そしてまたブログにUPしてください。
楽しみにしています。

蘭房(RAMBO)  さん

こんにちは。

>  経王殿は好きな一文があり、支えられたものです。 病とずっとつきあってきた経緯もあり、いやでも?引き付けられてきました。 お陰様で、飲めなかった酒も楽しめるようになり、胃潰瘍、十二指腸潰瘍もケロっと治り、今世の喜びを味わえるようになってます。   (味わい過ぎているという噂も。。。)  

私も初信の頃に教えられて支えられました。
いい御書ですよね。


>  結局、創価にとってのそれは、極論すれば「イケダセンセイ」だったんです。 これが「原点であり定点」でした。 現在の観念文がその文証です。

全く同感です。
よくバリカツさんが口にする「池田先生との原点」とかいうセリフを思い出します。
私には昔も今も分かりません。
なにせ「池田先生との原点」なんて私にはありませんから。

非意味的切断さん

こんにちは。

> 管理人さまがが批判されております、立正大学系の学者について、
> 管理人さまは、論文などは読んだことないが、一般的に身延の主張はおかしいと、記載されておりました。
> しかし、一般的、というのがよくわからないでおります。恐らく、管理人さまがこれまでお会いしてきた日蓮宗系の信者の主張を基に、一般的、と言われていると考えられますが、そのソースである立正大学系の学者の主張を読まないというのは引っかかります。

私が一般的にと呼んでいるのは身延派つまり日蓮宗の教義のことです。日蓮宗の教義についてはよく分かっています。身延派信者と何度も法論しています。その中で彼らの主張(教義)についてオカシイと思っています。
身延系のどこそこの学者がどうこう言っていても結局は全て日蓮宗の教義の範疇ですので、いちいちその論文の全文を読んでも意味がないので詳しく読みません。現在の日蓮宗(身延派)の教義とまったく異なった主張ならば読みます。そういう論文があれば逆に教えてください。


> ●管理人さまの学問的手法に対する習熟度について
> 管理人さまは、本当の信仰は学術的方法ではわからない、とご主張されております。
> しかし、仏教学=釈尊を本仏としているなど、かなり誤認に基づいているという印象です。
> 管理人さまは、
> ・仏教学を含む学問的手法をよくわかっている、その上でその手法を批判している
> ・仏教学を含む近代的学問については特に本を読んだこともなく、それについて知らないが、それはおかしいと主張している
> のどちらでしょうか?
> 学問的手法をよく知らず、それを批判している方はよくいます。
> 管理人さまがどちらなのか、素朴に知りたいと考えております。

基本的には現代仏教学の研究については興味がありません。あくまでも私は信仰として仏法を学んでいるのであって研究対象として学んでいるのではありません。ですから現代仏教学には興味ありませんが、経典や論釈などは学びました。
日蓮大聖人の御書には130を超える経論釈が引用されていますがそのうちに7割はその原典を読みました。テキストは故中村元先生の書籍がメインでしたが中村先生以外の著書も読んでいます。その上で私は大聖人仏法を信仰しています。
逆に、非意味的切断さんは現代仏教学のソースとなっている原典はどれくらい読みましたか?
日蓮宗系ならば、法華経と天台・妙楽は必須かとおもいます。
また広く大乗仏教ならば、竜樹の中論や天親、世親などの唯識、馬鳴の大乗起信論くらいは読んだ方がいいと思います。
当然釈尊の大乗経典も有名どころは抑えないとですね。
また、当然大聖人の御書もですね。
本当に非意味的切断さんが仏法について学んでみようというのであれば
現代仏教学よりも先にこうした経論釈を先に学ぶのが良いと思います。
仏教の歴史や文献を学び「これは違う」「正しい」という科学的事実をを学ぶなら別ですが
仏教の思想を学ぶのであればまず先に経論釈を読むべきだと考えます。
ぶっちゃけ、龍樹の中論た天台の玄義なんて一二度読んでも分かりませんよ(笑)
私など何度読んでも理解不能ですし(笑)

学会の本尊論

管理人様お久しぶりです。
確かに墓穴ですね。
原田会長は、はっきりと日蓮大聖人様の本尊はすべて功徳があると言ってしまって
大誓堂の御本尊や日寛上人のコピー本尊は弘安2年の大御本尊様の書写した御本尊にも関わらず、謗法の地にある弘安2年の大御本尊様は授受の対象にしないと発表した矛盾をどうされるおつもりなのですかね。
まー昨年の創価学会仏からして、大聖人様から離れまくりやから、なんでもありでしょうね。

ところで、本日2ヶ月ぶりに戒壇の大御本尊様にお目通りさせて頂きました。
いつもの事ですが、涙が自然と出てきます。

五重の塔と戸田先生のお墓と三師塔と
歴代の御法主猊下様のお墓にも御祈念させて頂きました。

管理人様も素晴らしい大石寺を参詣と
御戒壇様のお目通りをされる事を御祈念させて頂きます。

教義や会則の変更の矛盾をズバリ言うとどうなるか?

●教義や会則の変更の矛盾をズバリ言ってみた。

これ、だいたい予想がつくんです。カルトはすべて同じであるという宇宙の法則がありますからね(笑)
○一原理の集会で(真のキリストの教えとは!)ということと同じですからね~

○反応はどうであったか?某有名アンチサイトのコメントから抜粋
「座談会は白け、(しらけどーり飛んでゆーく南のそーらへ)の状況です。出席者の視線が痛いのを感じざるを得ません。か弱き婦女子がこのような態度をとれば総攻撃でしょう。ただ、私の場合は、高齢で、地区部長を歴任していた地区で、自分で言うのもなんですが、一目置かれていたせいもあり、司会者より「時間が詰まっておりますのでここらで」と話の腰を折られてしまいます。私が「質問に次回までに回答してください」と言っても、担当幹部はきちんとした回答がしたことがありません。

○当、プログにコメントくださる方が大学時代の同窓生で本部職員になられた幹部に聞いても返答なしだったそうです。
この返答なしということが返答になってるんですよ(笑)

ひごちゃんさん

こんにちは。お久しぶりです。

> 確かに墓穴ですね。

ひょっとしたら「わざと」かもしれませんね。
居直ったようなきもしますね。

> 管理人様も素晴らしい大石寺を参詣と
> 御戒壇様のお目通りをされる事を御祈念させて頂きます。

ありがとうございます。

古本屋店主さん

こんにちは。

> この返答なしということが返答になってるんですよ(笑)

なるほど。
聖教新聞で説明しただろ。それ以上の回答なんてないよ。
って感じなのですね。
まぁ、あと20年もやり過ごせば大御本尊なんて知らない世代が中心になりますから
それまでは適当にやり過ごそう。って腹ですかね。

No title

管理人さん

 本尊に迷うことについて、改めて御書に触れてみると、様々に大聖人様のご金言がありますね。

 今回、強く感ずるところ、「三沢抄」の一文を得ました。

 【仏法をばがく(学)すれども、或は我が心のをろかなるにより、或はたとい智慧はかしこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず。 仏教をなを(直)しくなら(習)ひうる事かたし。 たとい明師並びに実教に値(あ)い奉りて正法をへ(得たる人なれども、生死をいで仏にならむとする時には、かならず影の身にそうごとく、雨に雲のあるがごとく、三障四魔と申して七の大事出現す。】

 この「師によりて、、、」のところ。  まあズバリな表現ですが、センセイは本仏などではなく、教学力においても、故・石田次男さんには 遠く及ばなかったというのは、当時の大幹部間においても一致する見解でした。

 その故に、あらゆる著作においては、おん自らのペンによるものではなく、まさに影のごとく別のライターがいた。  無理だったんですね。 各種提言も然り。

 また「師匠」というものは、また、その師匠に仕えた人を謂います。  

 やたらイケダセンセイは「戸田先生、戸田先生!」と仰ってましたが、必ずしも戸田先生はイケダセンセイを一番弟子だとは思っておられなかったのです。
 また、「師匠のすべての構想を実現したのは私だ」と専らに仰いましたが、それほどの人をどうして「戸田家の方々 ことごとく」が離れてしまったのか。 

 史実(ある意味現証)をもってしても、そこに真の師弟関係はなかったと私は結論しています。  

 つまり、真の師匠を持たなかった、という理由をもって、イケダセンセイも、師匠足り得ないということです。 更に当然のことながら、因果俱時して、イケダセンセイには真の弟子も生まれなかった。  これは今の「小説・人間革命」にも明らかでしょう。

 こうしてこの御文を改めて拝するに、センセイを正信の師とはいえないのです。

 正信の師ではない故に、そこに蝟集するガッカイカツドウカさんは、「我が心のまがるをしらず」になってしまうのですね。   まがってるから、本尊義が崩壊していってることにも気がつかなかった。  なんとも思っていない。

 あまつさえ、「それ」を看過できず、指摘する正信の弟子たちを迫害する立場になってしまっています。 これを「魔の存在」と云うのですね。

 それはすなわち、全国に点在していらっしゃる、「謗法・創価を憂う同志さん」たちが、「生死をはなれんと」して、いろんな形で頑張っていることは、成仏をいよいよ願うこの際に、三障四魔にあっている真っ最中だというように読めます。

 この御文からの感想は以上です。

 

ありがとうございました

管理人さま

いつもありがとうございます。

やや質問の意図が正しく伝わっていない気がしております、長文ですがよろしくお願い申し上げます。


1.これまで読んできた文献について
大学院生時代に、中村元の流れに位置する仏教学者に教わりましたので、管理人さまが挙げたような初歩的な文献は読んでます。また、北京の大学に留学したことがありますが、その際に天台系の学者にべったりで教わったので、中国系の仏教はほぼわかります。
まぁサンスクリット語は微妙なスキルしか持ってないので、初期仏典を100パーセント正確に翻訳するのは無理ですが、一応一通りは読みました。また、日蓮も、昭和定本のものは全て読んでおります。
具体的な文献を知りたいとのことでしたので、そちらは追って書き込ませていただきます。いま手元に文献がないもので…

2. 質問について
私の質問の意図は、

・管理人さまは学問的手法を分かった上でそれを批判しているのか?
・それともわからないで批判しているのか

ということです。

私は管理人さまの主張は本当に勉強になるので、いつも感謝しております。
しかし、学問的手法に基づいた説に対するご批判が、???という感じです。これまで出会ってきた創価学会員の方との主張と同じレベルで戸惑っております。

例えば、

カダマー『真理と方法』

などは、読まれたことがありますか?文献学、歴史学の欠陥を指摘するなら必須の本かと思います。まぁ、最低限の教養として。

なので、お伺いしたいことは、
管理人さまが次のどちらか、ということです。なんか嫌味っぽい言い方になって申し訳ないですが、本当に知りたく存じます。

・現代的な学術的方法を学んだ上でその限界を指摘している。
・現代的な学問的手法は知らないが、それはダメだよと言っている。

もし、現代的な学問的手法をご存じないなら、

・現代的仏教学は間違っている!

ではなく、

・仏教学の手法は知らないので無視する、それより信仰の次元が大切だ

という主張のほうがあっている気がしますが…

本当に恐れ入りますが、私の本心の疑問です。

また、代表的な文献一覧については、追ってお送りします。

いつもありがとうございます!

非意味的切断さん

こんばんは。


> 私の質問の意図は、
> ・管理人さまは学問的手法を分かった上でそれを批判しているのか?
> ・それともわからないで批判しているのか
> ということです。

そういうことでしたら、私は学者でもなく学歴も高くないので「学問的手法」なるものは知りません。
また哲学関係、特に近代の哲学者の著書も読んだことありません。
ただ私は「現代仏教学」という学問そのものを批判しているつもりはありません。
以前ブログにも書きましたが「学問」と「教学」は似て非なるものだと考えています。
ですから「仏教学」は無視するといえばそうなるのかもしれません。
もちろん「近代仏教学」を学ぶことにより「成仏」できるのであれば無視しません。
しかし「近代仏教学」を学んでいる方から「成仏できる具体的方法」というのを聞いたことがありません。
非意味的切断さんが知っているのらぜひお聞きしたいと心から思います。
ですから、「近代仏教学」を批判はしませんし
そうした「仏教学」を学んでいる方々の批判もしていないはずです。
ただ身延系学者のように「近代仏教学」を盾に富士門流を非難すのであれば対抗します。

私が知りたいのは、「歴史学」「文献学」といった学問でなく
どうしたら「成仏できるか」なのです。
蘭房さんがコメントで三沢抄を引用してくれました。
その冒頭には
◆抑仏法をがくする者は大地微塵よりをほけれどもまことに仏になる人は爪の上の土よりもすくなし
と書かれています。
私は「爪の上の土」の方になりたいのです。

非意味的切断さんへ

  いつも鋭利で真摯なご意見を拝読して、ある意味 頭を垂れる思いでおります。
 横から発言、失礼いたします。

 私などは、そもそもの話からすれば、入信時以来、アクセスの方法が既にかなり限定された指向性を示されているのです。  それは

 ① 大聖人様の幼少期からの「仏教一般のご研鑽」を前提にして信頼を置いている。

 ② その上で、抽出された「法華経最勝」の立場を取る。

 ③ 更に、少なくとも建長五年の立宗(南無妙法蓮華経・第一声)へと繋がり、

 ④ 龍ノ口(佐渡へ)の発迹顕本へと至る。

 ⑤ そして弘安二年の大事。更に日興上人~現在への法燈に信をおく。

 という、立場であります。  こんなことはご存知だと思いますが、

 つまり釈尊から大聖人様への歴史(という時点)での仏教学を大前提にしているわけで、行者としての我々は、そこがフィールドになっています。

 増して、創価流における、実践第一(現代的プレゼンス)の影響を強く受けながら、良くも悪くも結果主義・実践的検証主義に座標をおきます。

 さて、そういう位相の違いは、非意味的切断さんからすれば、例えば
「前提となる仏教解釈の違い あるいは瑕疵、あるいは未解決の諸問題」を顧みず、ここで行われている論争自体がナンセンスだ、というようなご感想をお持ちなのでしょうね。

  それは私などにも理解できなくもありません。  そういう思想的な格闘を選ばれたご貴殿(しかも相当のキャリア)と、我々との相違は、ある意味決定的な違いを、まず意識する必要がありますし、かといってお互いを無視すべきものでもないと考えます。  

 繰り返しになりますが、我々は「法華経(南無妙法蓮華経)の行者」としての作法やメソッドをとります。 儀式も様式もそうですし何よりも結果(それは日々の、そして一期をとおして)を尊びます。

 飛躍かもしれませんが、例えばテニスの錦織選手を想起してみてください。

 「テニスが好きだ!」から始まって、得難い邂逅などがあり(コーチとか) 精進鍛錬があり、そして「運」を得て、今日がありますね。  無論、テニス理論も学んだでしょう。 でもラケットを日々、振ること無しには、今日は在りえなかったでしょう。

 柔道に強くなりたい人がテニス理論やスポーツ一般の理論学習の域に留まっていることはありません。 柔道をやります。 だんだんにフォーカスしていくことで、現実世界では「どこの道場を選ぶか、どの師匠に就くか。」になっていくんですよね。  

 碩学・中村 元先生は何のために、生涯を通して仏教を探求なさったのかといえば、単なる個人的興味を越えて、後世の人々の幸福追求に資する夢もお持ちだったのではないかと、勝手に思うわけですが、全ての自然科学研究も好奇心、探求心のゆえ、という域に留まることはないはずで、人文においてもそうであって欲しい。

 しかもそれは絶えず進んで更新し、変遷を繰り返していくものでしょう。

 その点では、我々は生を受けたその時点で、チョイスの可能性は限定されていたし、100年後の赤ちゃんも然りですから、蘭房などは、15歳での邂逅をもって今日に至ります。  日蓮を選んだ時点で今日があります。

 そんなことは分かってます、と仰るでしょうけれども、私などにとっては、「仏法を行ずる」ことの焦りにも似た気持ちは今も強くあります。  それは例えば「手術の予後」を見るしか、そのオペが成功だったかどうかを判ずる方途はないわけで、ここにおいてハナっから医学の手法を研究する時間もありませんよね。  

 偽書論もにぎやかでした。 ある人からすれば「冷笑もの」であるかもしれない。
でも、実践することが宗教のかなめ(要)であろうことは、私には今更、疑義を抱くことは出来ないのです。  

 最後の最後に、私の先輩のエピソードです。

 昔、基督者と話す機会がありました。  先輩は完膚なきまでに論破しました。 稚拙なものだったかもしれませんが。。  相手に「分かった?」と訊くと
「分かった」と云いました。   「じゃあクリスチャンをやめる?」と云うと 「やめない!」と。

 こんなもんです。(笑)

 長々と失礼いたしました。 スルーしてくださって結構ですからね。
 

今晩は🌃✨

私は性格が悪いのか、難しい事を尋ねる方は、管理人様が答えられないと思ってわざと尋ねているのかと勘繰ってしまいます。

いずれにしても、上手なかわしかたです
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創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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