スメルジャコフさんのご質問へ

先日、スルメジャコフさんより次のようなコメントをいただきました。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
私は創価学会が嫌いです。しかし、大御本尊も、信じられません。
その理由は、私の祖父が、創価学会の破門と同時に脱会し、
以後月一の登山を続け大御本尊への信仰を貫いたにもかかわらず、
晩年は、癌に罹患し、国の薬事関連の政策の転換期だったことから
一切の痛み止めを打つ事が出来ず、壮絶な苦しみの中で亡くなっていった事です。
祖父は、学会員、時には親族からの誹謗にも耐えながら自らの信仰を貫きました。
その祖父が激痛による煩悶に暴れ苦しみながら、修羅の相で亡くなっていった事ー
この事がどうしても消化できずにいます。
大御本尊への信仰は、この世の幸福をもたらすものではないのでしょうか?
単に死後の安泰を約束するだけのものなのでしょうか?
仮に私が大好きだった祖父の信仰を受け継ぐならば、
現世においては苦しみを甘受しながら、死後に賭けるべきなのでしょうか?
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今日はこのコメントへの私なりの考えを書きます。
まずはスルメジャコフさんの御尊祖父様のご冥福をお祈りいたします。

さて、このような体験を持っている創価や法華講員の方は多いと思います。
「あの人は、純粋に信心をしていたのにあんなに苦しむのだろう」と。
私も信心をする前は、学会員さんとかみて
そのように思ったことは何度もあります。
「信心なんてしたって幸福になってないじゃないか」と。
では信心をしない方が苦難に遭遇しないのか?
といえばそれもまた違いますね。
苦難に遭遇することと、信仰の有無は無関係です。
信心していても苦難に遭遇することもあるし
信心を否定しても苦難に遭遇しないこともある
また、苦難の種類もスルメジャコフさんの御尊祖父様のように
臨終に際しての苦しみもあれば
生きている中での苦しみもあります。
これらはどっちが苦しいという事はなく
どちらも同じ苦しみであると思います。
このようにこの世に生まれ生き死んでいく。
それはあるいみ苦難の連続だと思います。
「何事もない」人生などあり得ないし
「何事もない」人生を望んでもそれは手に入らない。
「何の苦難にも合わない人生を歩ませてください」
と祈ることは
「宝くじを当ててください」と祈ってるのと同じです。
この世には「何事もない幸福な一生」というものは存在しない。
そもそも何事もなければ幸福と感じることすらないでしょう。
幸福とは「何事もない」という事でなく
「何事があっても大丈夫」ということだと思います。
では、「何事があっても大丈夫」とはどのような状況かと考えると
苦難の原因が分かっていて、それを取り除く方法を知っている。
そういう状況だと考えます。
それが「現世安穏」であり「安穏」であることが利益です。

病気でも原因不明だと治療ができない。
治療ができなれば夜も眠れぬほど不安でしょう。
原因・病名が分かっていて、それに対する処方箋があれば不安は消えます。
「病気になる」というのは生きていれば避けられない
その時に治療方法を分かっていれば幸福であり、知らなければ不幸。
知っていれば安穏。知らなければ不安。
多くの世の中の不幸は「知らない」ことに起因していると私は思うし
この世の幸不幸とはそのようなものだと思っています。

そうしたこの世における苦しみや悩みの原因とその治療法
さらには治療後はどうなるのか?
それらは全て日蓮大聖人が教えてくれますし
説明をすることもできます。
でも、その説明はいたしません。
なぜなら、それによって誤解が生じ不信が生じるからです。
ですが、大御本尊への純粋な信心を貫かれた御尊祖父様には
それらは全て分かっていらっしゃったと思います。
そして分かっているからこそ覚悟もされていたと思われます。
確かに臨終に際して、痛くて苦しいことは辛すぎます。
できれば安らかに眠るように。と誰しも思いますが
御尊祖父様はそれすら分かっていて覚悟をしていたと思います。
それが信心です。
そして壮絶な最後を遂げたとしても成仏されていることは間違いないです。
(それも私が勝手に言っているわけじゃありません)
しかしその現実を周囲の人が消化できないという気持ちも分かります。
この現実を消化する方法は
大好きだった御尊祖父様の信仰を受け継ぐ以外にありません。
御尊祖父様と同じ立場に立たなければ
同じ景色は見ることはできません。
もちろん信仰を強制したり
信心をした方がいいですよ。などと勧誘する気もありません。
ましてや「大好きなおじいさんの為に・・」なんて
見え透いたことを言うつもりはありません。
ただハッキリと言えるのは
大御本尊を信じて見える景色は
今見えている景色とは明らかに違う。
御尊祖父様が見ていたのは、
周囲の方が見ていた景色と違う。
という事です。
その景色を見るも見ないも個人の自由です。
今の景色に満足されているのであれば
他の景色を無理に覗くこともないでしょう。
もしも今見ている景色が自分にとって気持ちよくない景色ならば
他にある景色を見てみようとするのも悪くありません。
どちらにしてもスルメジャコフさんが思うようにされるのが一番です。
ご質問の答えになっていないかもしれませんが
以上が私の所感です。

最後にコメントありがとうございました。
またいつでもお好きな時にコメントください。

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観客構造

誠にありがとうございます。こころより感謝申し上げます。

愚鈍な私に管理人さまのお考えが理解できているか心許ありません

管理人さまのご回答の私なりの理解は、

現世での苦悩➡︎信仰によって解消されるとは限らない、ただどんな苦難も達観的に見れる視点が得られる

死後➡︎成仏確実

ということですが、お間違えないでしょうか。

またその場合の成仏とは、何を意味するのでしょうか。

木 静かならんと欲すれど

  真夜中です。 カタギの人はとっくにお休みになっている時刻。

 もうあまりヤバイ世界について、多くを語ることはやめようと、心がけていたものの、こんなギリギリの切羽詰まる話題に、少し反応します。

 私のオヤジは「肺化膿症」が直接の死因でした。 別の持病もあり、著しい体力、免疫力の低下により、通常菌にも勝てず、やせ衰えて死にました。  勤行は飛び飛び欠けるものの、御書を学ぶのが好きで、真夜中でも気になれば、講義録を開いておりました。   彼はあまり今世の祈りはなかったように覚えています。

 正義感も強かった。 多くの人にも愛されていた男でした。  生死の理(ことわり)についても分かっていたと信じますが、息子のひいき目かもしれません。

 御秘附も頂きました。  そして人口呼吸器を挿入、 おかげで?いつ臨終したのかも定かではありませんでした。  約18時間、枕元で祈り続けましたが、夜半過ぎに心拍が停止。 帰らぬ人となりました。  その年は早咲きのサクラが、舞い踊る中、逝ってしまいました。

 私が11才の時に死んだ母親の夢はあまりみませんが、オヤジはしばしば登場します。  先日はうたたねしている私に、布団をかけてくれました。

 私の中で、オヤジの死は、、、その意味は未消化のままです。 私の感情を凌駕するだけの法理を見出せないままです。 自覚できないまま、オヤジの享年を越えてしまいました。   私は不信心な男なのでしょう。

 御書を身で読めるのは 多分 私自身の臨終の時でしょう。  答えはその時でもいいのです。  私の信心観はそういうものです。

 

管理人様

横から失礼致します。
実に分かりやすいご教示、拝して涙腺が緩みます。
御文を一切用いずに大聖人様の御大法を此処まで明確に表現される管理人様は、まるで正宗の御僧侶ではと錯覚致します。

相当、御書を読み込み、信心を持って心に刻まなければ、
この様な表現は出来ないと思います。

信濃町の職業幹部には到底マネ出来ません。

御利益、功徳欲しさの餓鬼界の信心しか知らない学会員には、理解が難しいでしょう。
同様に「魔の通力と功徳」「罰と難」の違いも今の学会員には見抜くことが出来ません。

ご質問者様の御尊祖父様は大聖人様のご本懐である大御本尊様に真っ直ぐに信心され、御自身の成仏はもとより、子孫の代までの福運を命の続く限り積まれた事と愚考いたします。

小生、本門戒壇の大御本尊に渇仰恋慕の想いをよせて脱会に至り、法華講員として正宗の教学を本格的に学び始めて2年になりますが、学会時代に学んだ教学とは深さ、広さが全く違う事がようやくわかってきました。
目先の数値や、くだらない人間関係とは無縁です。まさしく「慈悲広大」であります。


今般、蘭房様と同様に、小生も反応せざるを得ない衝動に駆られ、記させて頂きました。失礼いたしました。


スルメジャコフさん

こんにちは。

> 現世での苦悩➡︎信仰によって解消されるとは限らない、ただどんな苦難も達観的に見れる視点が得られる

信仰によって苦悩が解消されないのではなく、遭遇を回避できない。という事です。
信仰によって解消されます。苦悩を解消するための信仰です。
達観といえば達観です。
これもまた信心から得られる利益のひとつです。


> 死後➡︎成仏確
> またその場合の成仏とは、何を意味するのでしょうか。

仏法においては生物学上の生死という立てわけはありません。
なので「死んだら生命は消滅する」という考えではありません。
生と死の両方の現象を生命としています。
つまり生命とは永遠でありということです。
死後成仏確定というのは、死後において安らかな世界(といっても天国とかそこかに存在する世界という意味ではありません)
に生命が住し、次の「生」において今世よりも幸福になるということです。
永遠の生命という観点から見れば
「死」は必ずしも苦悩や不幸ではないのです。
御尊祖父様はそうしたことを生命のレベルで分かったいたのです。


蘭房さん

こんにちは。

>  私の中で、オヤジの死は、、、その意味は未消化のままです。 私の感情を凌駕するだけの法理を見出せないままです。 自覚できないまま、オヤジの享年を越えてしまいました。   私は不信心な男なのでしょう
>  御書を身で読めるのは 多分 私自身の臨終の時でしょう。  答えはその時でもいいのです。  私の信心観はそういうものです。

大御本尊を信じ唱題業に励むのは、多念の臨終です。
生命レベルではすでに身で読んでいるわけです。
それを実感できるのは刹那の臨終のときなんでしょうね。
それは皆同じです。

古刹信徒さん

こんにちは。

ほめ過ぎです。赤面してしまいます。


> ご質問者様の御尊祖父様は大聖人様のご本懐である大御本尊様に真っ直ぐに信心され、御自身の成仏はもとより、子孫の代までの福運を命の続く限り積まれた事と愚考いたします。

同感です。
スルメジャコフさんの御尊祖父様の臨終のお姿は意味のある事と感じますが
誤解と不信を招くといけないので書きません。

> 小生、本門戒壇の大御本尊に渇仰恋慕の想いをよせて脱会に至り、法華講員として正宗の教学を本格的に学び始めて2年になりますが、学会時代に学んだ教学とは深さ、広さが全く違う事がようやくわかってきました。
> 目先の数値や、くだらない人間関係とは無縁です。まさしく「慈悲広大」であります。

確かにその通りです。
私は正宗で教学を学んでいませんが
基本的に日寛上人を中心とした教学なので
創価教学・池田教学の軽薄さを感じます。

心境

 こんにちは。

 コメントありがとうございました。  信心の世界について考えるに、なにかそこには「無音・静寂の地平」を感じます。   やたら騒々しいsokaの残滓が消え去らぬままいるとそう思います。   

 宇宙空間は恐ろしいほどのしじまにある。 我々は生まれなおして、この現実世界に出現したとたん、五感を必要として、それを手立てに現世特有の(限定?)生命活動を始める。 言葉と文字でもって意思疎通をする。  言い換えれば「向こう側」にいた時は、何もかも分かっていたことを、また一から学びなおさなければいけなくなるのだ。 どうやって、、?  多分 あらゆる諸法にそのヒントはあるはずだが、わが国ではたとえば「道」などがある。  剣道 柔道などの武道を通じて、真理への道程をたどる。  また文学、哲学がある そして宗教が。  今の私に言わせればそれらは芥川の作品「蜘蛛の糸」のようだ。  頼りない一本の細糸だ。

 その細い糸が切れないように登っていくには、助かりたいという自我と、あとからあとからしがみついて登ってくる、亡者たちも救いたいという利他心との葛藤を経験しなければならない。  そんな永遠のアポリアを止揚するのがsokaの教えだった。   これがいけなかった。  崇高な理念はいい。 だが、金、金!と言い出したらもういけない。 これはどの宗教や団体にも共通して言える試金石だ
 リトマス紙である。  ここらで私は「団体信仰」に逡巡する由縁を挙げておきたい。

 心の問題を金が左右する仕組みがいやなのだ。  拒めば相手にされなくなる。  もの申せば「地獄に堕ちるぞ」と恫喝される。   

仮諦としての宇宙は静かだ。   おそろしいほどの静寂だ。    そこに冥伏することが「死」だとするならば、心惹かれるのも無理はない。  空諦の宇宙とはいわゆる生と生の狭間なのだろうか。 思い出せないままだが、早くこの世の仕事を終えて、そこへ帰りたいものだ。   蜘蛛の糸は見えないままだ。    ならば自ら蜘蛛にでもなろうか。      

生死

いつも有難うございますm(_ _)m

生きる事も
死ぬ事も、大変です。

生き様であり、
死に様なのかと、

今を、どう生き、そして、
どの様に死ぬのか?
考えさせられる思いです。

質問者さまの御尊父
蘭房さまの御尊父の様な
生き様を手本としたいと思いました。
有難うございます。

退転壮年部おじさん さん

こんばんは。

> 生きる事も
> 死ぬ事も、大変です。
> 生き様であり、
> 死に様なのかと、
> 今を、どう生き、そして、
> どの様に死ぬのか?
> 考えさせられる思いです。

私もそう思います。
苦難に負けるか勝つか
そこが幸不幸の分かれ目ですね。

蘭房(RAMBO) さん

> 仮諦としての宇宙は静かだ。   おそろしいほどの静寂だ。    そこに冥伏することが「死」だとするならば、心惹かれるのも無理はない。  空諦の宇宙とはいわゆる生と生の狭間なのだろうか。 思い出せないままだが、早くこの世の仕事を終えて、そこへ帰りたいものだ。   蜘蛛の糸は見えないままだ。    ならば自ら蜘蛛にでもなろうか。      

今世での使命が残っているうちは「そっち」にはいけませんよ。

管理人様へ

素晴らしい文章です。
こうした方が良いですよと言われると、人は、やりたくないのにやらされたと感じます。
営業の仕事してる時、客にいってもらいたい言葉は自分が言ってはいけない
と所長から言われましたが、管理人様は素晴らしいです。

保存して折伏に使わせて頂きます。
私は極力御願いしたくない
相手に決断して頂きます。
実力が無いので難しいです。

miuさん

> 素晴らしい文章です。
> こうした方が良いですよと言われると、人は、やりたくないのにやらされたと感じます。
> 営業の仕事してる時、客にいってもらいたい言葉は自分が言ってはいけない
> と所長から言われましたが、管理人様は素晴らしいです。


褒め殺しは通用しませんよ(笑)
miuさんはご自分の信じたとおり進めばいいのです。
ただし、日蓮仏法を誹謗するとなれば
相応の反論はさせていただきますが(笑)
プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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