創価を批判しいるのでなく(miuさんのコメントへの所感)

今日は、miuさんからの以下のコメントについて
私なりの考えを書かせてもらいます。

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思ってる事を率直に書かせて頂きます
学会員は75歳前後の人が8割~9割で、
10年後や15年後はどうなってるかはおわかりでしょう。
脅威とは誰も思ってません。
批判しなくても、殆ど学会員はいなくなります。
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まず、創価を「脅威」だなどとは思っていません。
また創価の活動家諸氏のいう「嫉妬」とかいう感情もないです。
おそらくそれは私に限らず創価の外の世間では誰も思っていないでしょう。
創価中の人間が思うほど
世間の人々は創価なんて何とも思っていないのが現実です。
だた「鬱陶しい」というだけの存在でしょう。
創価活動家の師匠もまたしかり
世間の人の大半は大作センセなんて無視です(笑)
ですからmiuさんの言うように批判などしなくてもいい存在です。
現に多くの世間の人々は創価の批判などしません。
それは創価の存在を認めているのではなく
創価の存在など無視してるからです。
世間法ならばそれで十分です。

では、私はなぜこうして創価批判のブログを書いているかと問われれば
それは世法ではなく仏法のためです。
私がここで書いているのは
「創価を批判している」のではなく
「創価を破折している」のです。
世法上の批判は、わざわざブログに書かなくても
世間様はみなわかってます。
創価活動家の、厚かましく恥知らずで非常識な言動を
みな知っているのです。
ですから無視するわけです。

しかし、仏法上はこれを無視することはできません。
なぜならば、私は日蓮大聖人の弟子として
日蓮大聖人の仏法を信仰する信仰者だからです。
大聖人は、立正安国論のなかで

◆涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」と
◆如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。
◆但し仏道に入つて数ば愚案を廻すに謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。
◆早く天下の静謐を思わば須く国中の謗法を断つべし
◆唯我が信ずるのみに非ず又他の誤りをも誡めんのみ。

等々、謗法破折を言われています。
立正安国論以外の御書においても
同様の御聖訓を残されています。

また、大聖人のお振る舞いも
邪教・邪宗が滅びるのは必然としながらも
最後まで破折の手を緩めることはありませんでした。

いま、まさに最大の邪教・邪宗となった
創価上層部と活動家そして大作センセ
こんなものはいつかは無くなるはわかっていますが
目の前に謗法者とその団体が存在するのに
それを見て見ぬふりして放置するのは
ご本仏・日蓮大聖人の御心に背くことであり
大聖人の弟子として失格であり恥ずべき行為です。
それ故に私は謗法破折の一環として
このブログを書いてます。

アンチブログの中には確かに単なる批判を書いているモノあれば
批判以前の風説や捏造を書いているモノもあります。
また、ひょっとしてら本当に創価に嫉妬を抱き
怨嫉の念で批判する人もいるかもしれません。
でも、私には嫉妬も脅威も何もありません。
だた大聖人の仏法を守るために創価を破折しています。
その中で、創価の謗法に気づき
創価への布施を止め創価から離れ
また、大御本尊への信を取り戻してくれる
学会員さんが現れくれれば
それはそれで大いに喜ばしいと思っています。

創価が大聖人仏法を騙るのやめ
自らを大聖人仏法ではない
「池田教」「創価教」と名乗り
大聖人仏法と一切の関係ないと認めれば
創価の批判はやめます。
そんな取るに足らない新興宗教団体ならば
そんなモノ後回しでいいと思うので。
創価と創価活動家が大聖人仏法だと詐称する限り
創価破折は続けていくつもりです。

学会員さんのmiuさんには
面白くない話でしょうが
そんなブログでよければ、
是非また読んで、そしていつでも好きな時に好きなコメントを書いてください。
もちろん、私やこのブログに対する批判や反論でも構いません。
今後もよろしくお願いします。

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スメルジャコフさんのご質問へ

先日、スルメジャコフさんより次のようなコメントをいただきました。

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私は創価学会が嫌いです。しかし、大御本尊も、信じられません。
その理由は、私の祖父が、創価学会の破門と同時に脱会し、
以後月一の登山を続け大御本尊への信仰を貫いたにもかかわらず、
晩年は、癌に罹患し、国の薬事関連の政策の転換期だったことから
一切の痛み止めを打つ事が出来ず、壮絶な苦しみの中で亡くなっていった事です。
祖父は、学会員、時には親族からの誹謗にも耐えながら自らの信仰を貫きました。
その祖父が激痛による煩悶に暴れ苦しみながら、修羅の相で亡くなっていった事ー
この事がどうしても消化できずにいます。
大御本尊への信仰は、この世の幸福をもたらすものではないのでしょうか?
単に死後の安泰を約束するだけのものなのでしょうか?
仮に私が大好きだった祖父の信仰を受け継ぐならば、
現世においては苦しみを甘受しながら、死後に賭けるべきなのでしょうか?
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今日はこのコメントへの私なりの考えを書きます。
まずはスルメジャコフさんの御尊祖父様のご冥福をお祈りいたします。

さて、このような体験を持っている創価や法華講員の方は多いと思います。
「あの人は、純粋に信心をしていたのにあんなに苦しむのだろう」と。
私も信心をする前は、学会員さんとかみて
そのように思ったことは何度もあります。
「信心なんてしたって幸福になってないじゃないか」と。
では信心をしない方が苦難に遭遇しないのか?
といえばそれもまた違いますね。
苦難に遭遇することと、信仰の有無は無関係です。
信心していても苦難に遭遇することもあるし
信心を否定しても苦難に遭遇しないこともある
また、苦難の種類もスルメジャコフさんの御尊祖父様のように
臨終に際しての苦しみもあれば
生きている中での苦しみもあります。
これらはどっちが苦しいという事はなく
どちらも同じ苦しみであると思います。
このようにこの世に生まれ生き死んでいく。
それはあるいみ苦難の連続だと思います。
「何事もない」人生などあり得ないし
「何事もない」人生を望んでもそれは手に入らない。
「何の苦難にも合わない人生を歩ませてください」
と祈ることは
「宝くじを当ててください」と祈ってるのと同じです。
この世には「何事もない幸福な一生」というものは存在しない。
そもそも何事もなければ幸福と感じることすらないでしょう。
幸福とは「何事もない」という事でなく
「何事があっても大丈夫」ということだと思います。
では、「何事があっても大丈夫」とはどのような状況かと考えると
苦難の原因が分かっていて、それを取り除く方法を知っている。
そういう状況だと考えます。
それが「現世安穏」であり「安穏」であることが利益です。

病気でも原因不明だと治療ができない。
治療ができなれば夜も眠れぬほど不安でしょう。
原因・病名が分かっていて、それに対する処方箋があれば不安は消えます。
「病気になる」というのは生きていれば避けられない
その時に治療方法を分かっていれば幸福であり、知らなければ不幸。
知っていれば安穏。知らなければ不安。
多くの世の中の不幸は「知らない」ことに起因していると私は思うし
この世の幸不幸とはそのようなものだと思っています。

そうしたこの世における苦しみや悩みの原因とその治療法
さらには治療後はどうなるのか?
それらは全て日蓮大聖人が教えてくれますし
説明をすることもできます。
でも、その説明はいたしません。
なぜなら、それによって誤解が生じ不信が生じるからです。
ですが、大御本尊への純粋な信心を貫かれた御尊祖父様には
それらは全て分かっていらっしゃったと思います。
そして分かっているからこそ覚悟もされていたと思われます。
確かに臨終に際して、痛くて苦しいことは辛すぎます。
できれば安らかに眠るように。と誰しも思いますが
御尊祖父様はそれすら分かっていて覚悟をしていたと思います。
それが信心です。
そして壮絶な最後を遂げたとしても成仏されていることは間違いないです。
(それも私が勝手に言っているわけじゃありません)
しかしその現実を周囲の人が消化できないという気持ちも分かります。
この現実を消化する方法は
大好きだった御尊祖父様の信仰を受け継ぐ以外にありません。
御尊祖父様と同じ立場に立たなければ
同じ景色は見ることはできません。
もちろん信仰を強制したり
信心をした方がいいですよ。などと勧誘する気もありません。
ましてや「大好きなおじいさんの為に・・」なんて
見え透いたことを言うつもりはありません。
ただハッキリと言えるのは
大御本尊を信じて見える景色は
今見えている景色とは明らかに違う。
御尊祖父様が見ていたのは、
周囲の方が見ていた景色と違う。
という事です。
その景色を見るも見ないも個人の自由です。
今の景色に満足されているのであれば
他の景色を無理に覗くこともないでしょう。
もしも今見ている景色が自分にとって気持ちよくない景色ならば
他にある景色を見てみようとするのも悪くありません。
どちらにしてもスルメジャコフさんが思うようにされるのが一番です。
ご質問の答えになっていないかもしれませんが
以上が私の所感です。

最後にコメントありがとうございました。
またいつでもお好きな時にコメントください。

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学会2世・3世の会員さんのこと(だしまきさんコメントへの回答)

だしまきさんから

>学会2世3世をバリ活時代と今ではどのように感じていましたか?
>幸運だね、みたいなことはよく言われていたのですがやはりそのようにお考えでしたか?

とのご質問をいただいたので
今日は、学会2世・3世の会員さんについて書いてみる。
俺の世代ではまだ3世というひとは少なく2世がほとんど。
いまではもう3世・4世といったところが青年部の主流かな?
俺が少年部の本責をしていたころの少年部たちの年代だろう。
学会員の家に生まれてくる子供たちを
「福子」なんて呼んで「生まれながら福運がある」
みたいな事をカツドウカさんたちは言うけど
「福子」というのは教学的に言うと
幸運(福運がある)という意味じゃない。
四条金吾女房御書の中に「安楽産福子」という言葉があるんだけど
これは法華経の法師功徳品の偈の中に書かれている言葉で
六根清浄の功徳の中の鼻根清浄について説かれている偈で
正宗の家に生まれてくる子供を「福子」といているわけではない。
なので正宗ではどうか知らないが
創価の中で使われている「福子」と言葉は
仏法的は使い方が間違っている。
ただし、師弟契約御書で引用されている、
◆経の文には「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」
という化城比喩品の説法を見ると
過去世に大聖人と縁をした(説法を聞いた)ことにより
今世でまた大聖人(大御本尊)の元に生まれてくるわけだから
福子として生まれてくるのは、
過去世の福運というのもまぁ頷ける(福子という言葉は適切じゃないが)
というわけで幸運といえば幸運なのかもしれないが
今の創価の家に生まれてしまうのは不運だ。
不運というよりも過去世に退転した者が今の創価の家に生まれてしまう。
仏法の道理から言えばそういうことになる。

さて教学的なことはさておいて、
俺の2世・3世の学会員さんに対する感想は
創価のカツドウカに限って言えば
「信心」を分かっていない人が多い。
というのが正直な感想だ。
これは別に今に始まったことじゃなく
俺自身が活動家時代から感じていた。
いわゆる「福子」の活動家の部員さんをたくさん見てきたし
いまでも付き合いのある学会2世・3世達もいるけど
確かに信心に対して純粋な人が多い。
御本尊を純粋に信じ
創価と学会員を純粋に信じ
そういった部分においては本当に純粋だ。
なんだけど、純粋な部分がどこかズレている。
その一番の部分は信心の基本というかなんというか
そういうところがズレている。
例えば「祈る」という行為があまりにも身近過ぎて
「祈る」というよりも「題目をあげる」
という行為になってしまっている人が多い。
「題目をあげることと祈ることは違う」
2世の部員さんによく話した。
また、学会2世の男子部時代の後輩にいわれたのは
俺が男子部時代に彼に言った言葉で一番衝撃的だったのが
「学会活動は信心じゃない」
という言葉だったそうだ。
彼の中では幼少の頃から
「学会活動こそ信心の基本」だという思いがあったらしく
俺に「そんなもの(ガッカイカツドウ)は信心の枝葉でしかない」
と言われたことを20年経った今でも覚えているらしい。
そういう意味で「信心が分かっていない」と感じる。
決してバカにしているわけじゃなくて
なんだろう。純粋過ぎて全てが受動的な印象だ。
だから、少し指導(って言葉は嫌いだが使わせてもらう)を変えると
みるみる変わっていく。
男子部時代にそれまで本流を決めたことない2世の部員さんが
ことごとく本流を決めたことがある。
それは純粋だったからだと今でも思う。
「祈ること」「大聖人仏法を語ること」
この二つを御書を通して話していくと
「内部以外に友人がいません」と言っていた部員さんが
あら不思議。次々と本流が決まる。のだ。

そこなんだよな。
2世とか3世とかの学会員さんと
初代(笑)の学会員の違いは。
福子として生まれてきた会員さんは
小さな時から「池田センセ」「創価学会」って言われてきて
創価や池田センセが言っていることが信心だと思っちゃっている。
それが信心の本質であり基本だと勘違いしちゃっている
勘違いというよりもそういう教育を受けてしまっている。
だから学会活動をやることが「信心」だと思い
池田センセを「師匠」と思うことが「信心」だと信じている。
そこが大きな間違い。
大聖人の御書のどこを見ても
選挙や聖教啓蒙を信心とは書いてないし
在家の一信者を師匠にせよ。とも書かれていない。
大聖人仏法の基本は、大御本尊を信じて勤行・唱題をすること。
この一言に尽きる。
それ以外のことは枝葉に過ぎない。
ましてやガッカイカツドウなんてものは御書に書いていない。
「ガッカイカツドウ」ではダメなんだ。
「大聖人の仏法の布教活動」でなくては意味はない。
「ガッカイカツドウ」というのは「広宣流布」のためにすることであって
それ自体は全くイミのない活動だ。
選挙も新聞啓蒙も部員さんまわりも、
最終的には広宣流布へつなげていくための準備でしかない。
そこに繋げないで忙しくガッカイカツドウをしていても
そんなカツドウは信心でもなんでもない。
よって功徳なんてない。
そこが理解できる2世・3世の人達は
折伏でも世間でも立派に結果を出す。
理解できない方々は創価の中でしか大きな顔をできない
ヘタレ幹部・バリカツの道へと進んでいく。
ましてや、いまの創価は大御本尊を捨ててしまっているのだから
ガッカイカツドウなんて百害あって一利なし。である。
因みに俺が活動家時代の2世3世の部員さんで
折伏を決めた部員さんは、今でもカツドウカやっているのは二人しかいない。
当時、折伏が決まらなかった2・3世の部員さんが
今やゾーン長・本部長をはじめ壮年部の要職についている。
不思議なモノだ。

話を戻すが、破門前に2世3世として生まれた来た人達は
最初に書いたように、過去世で大聖人の仏法を聞いた人たちである
生まれる前から大聖人に縁をしていた人たちである。
その功徳は正直俺のような今世で縁した人間とは比べ物にならないほど大きい。
俺はそう思っているし、そう感じている。
なのに、なぜ自らその功徳を捨てするのか?
創価に誑かされてなで三世の師匠である大聖人(大御本尊)を捨てるのか?
悪しきモノを師匠にしてなぜ善なる師匠を捨てるのか?
創価の家に生まれてきて、幸運か不幸かは本人次第だ。
創価という仏敵に打ち勝ち大聖人に信を貫けば
末法の法華経の行者として過去世の福運の何倍もの福運が積める。
そんなおいしい所(家)に生まれてこれるは幸運としかいいようがない。
でも逆に仏敵創価に負けて、大聖人を捨ててしまえば
いままでの修行の功徳は一切消え去り無間に落ちる
まさに乞眼の婆羅門でる。
そうした状況になってしまえば不幸だ。
野球で言えば9回裏2死満塁で打席が回ってきた。
そんなイメージだ。
仏敵の中(家)に一人生まれて来たこと。
これは大ピンチでもあり大チャンスでもあると思う。
一族郎党を成仏させるか、その逆か。
まさにその使命の大きさに耐えられるのは
過去世より大聖人の弟子である福子だけだ。
ってちょっと大げさか(笑)
でも、俺の周囲の2世・3世の学会員さんには
「いまこそ大聖人の弟子として仏敵に打ち勝て」
「いまこそ三世永遠の成仏の最後の戦いだ」
そう言いたいかな。

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蘭房さん!祝・退会!

蘭房さんより昨日退会届を提出したとのコメントいただきました。
退会の宣言をされたいたので遅かれ早かれとは思っていましたが
ついに正式退会とのこと。
まづは、心よりお喜びを申し上げるとともに
いままで、本当にお疲れさまでした。
退会にあたり特に感傷的な思いはなかったとの事ですが
ここまでの道程はさぞや様々な葛藤がおありだったと思います。
わたしなぞ足元にも及ばないほど
創価に尽力されてきたはわけですから
その創価に退会届を叩きつけるまでの思いは
相当のものだったとお察しします。
本当は、蘭房さんもそうでしょうが私も含め
創価から去っていく多くの元会員さんたちは
できれば創価の中で今世を終わりたかったと
思っている人たちも多いと思います。
日蓮正宗・創価学会が好きだった。
私もその一人です。
でも、創価は宗門からの独立を企て実行し
大聖人をすて、正法をすて
金と権力だけに執着する
仏法とは無縁の謗法団体と化しました。
ことここに至っては、いくら創価が好きであっても
一信仰者として創価にとどまるわけにはいかない。
創価の組織がどうこうとかではなく
もっと根本的な部分で創価に留まれないと思う方も多いと思います。
その責任の大部分は大作センセにある。
大作センセの間違いを認める。
センセとの誓いと
ご本仏との誓いと
信仰者としてどちらを選ぶのかという事でしょうね。

話はそれましたが、蘭房さんにもこれから
いわれない悪口等が創価の組織の中で囁かれるとおもいますが
おそらく本人に直接言ってくる活動家はいないと思います。
そんな度胸も根性もありませんから。
所詮は引かれ者の小唄。負け犬の遠吠えです。
それもしばらくすればなくなりますので気にすることはございません。
(まぁ蘭房さんがそんなことを気にするはずはありませんが)
これからですね。
本当の信心ができるのは。
本当におめでとうございました。
今後も当ブログのご意見番として
「あっぱれ!」
「喝!」
などのコメント宜しくお願い致します。(笑)

最後に何度がここに書いている私の好きな御書の一節を

◆但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり、摂受折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す。

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miuさんのコメントへ(池田名誉会長の事)

少し前にmiuさんから

>どうしても管理人様にお尋ねしたい事が有ります。
>創価学会の池田先生の事をどう思っておられるのですか?

とのコメントをいただきました。
池田名誉会長についていまさらだが思っているところを書きます。

池田名誉会長。通称池田センセ。
「人生の師匠」と思っている学会員さんもいるだろけど
俺は実は一度も「人生の師匠」いや「師匠」と心の底から思ったことはない。
創価に入会したのも創価の活動はしたのも
別に池田センセの考えに共感した訳でもないし、
当然池田センセと会ったことも話したこともハガキの1枚もらったこともない。
ある意味で言えば俺の人生には特にいてもいなくても存在。
創価学会の中で一番偉い人。それくらいの認識かな。
もちろん初心の頃は池田センセのスピーチや御書講義を読んで学んだが
その講義やスピーチがとてつもなく凄い内容でないことは
行学が進んでくるとわかるようなる。
そうなるとまぁ創価活動家の象徴という地位というくらいだろう。
実際「池田先生は我が人生の師匠」と心の底から思っている活動家は
今現在はそれほど多くないと思う。
なんとなく「師匠」と言わないといけない雰囲気が組織にあるから
一応「師匠」と言っておかないと組織に居づらくなるから言っておこう。みたいな。

miuさんは、家族も顧みず創価のために尽くしてきたセンセの人生が尊い。
と思っているかもしれないが
俺はその意見には全く頷けない。
何故なら創価の組織のことをするのは池田センセの仕事だから。
しかもセンセはその仕事が好きで好きで仕方なかったフシがある。
会社(創価)の経費で日本中。いや海外にまで行けて
行った先々では「先生。先生」と歓迎され
あとは小説や詩を書いたり写真撮ったり
ある意味、何等生産性を伴わないことが仕事になり
経済的に恵まれる。
また一般の仕事よりもはるかにストレスも少ない。
そんな仕事なら楽しくて家で嫁や子供の面倒見ているより
毎日仕事していたい。と俺なら思う。
それに子供だって作っているのだから全く家庭を顧みなかったことでもないし。

また
>これだけの組織の仕組、学会員の人望を集めた事は、素晴らしいと思います。
>もし、学会員は洗脳されてると思ってらっしゃるなら、それも実力だと思います。

とのご意見だが、俺は「人望を集めること」は必ずしも素晴らしいとは思わない。
ヒトラーだって、提婆達多だって、極楽寺良観だって
「人望」を集めた。
それが素晴らしいならば、大聖人より極楽寺良観の方が素晴らしい。
ということになる。
もちろんそのカリスマ性は大いに認めるところでもあるし
人心操縦や人心掌握に長けているのだと思う
それは「人としての魅力」を持ち合わせているからだとも思う。
なので、人間としては「魅力的」な人物なのは間違いない。
何らかの魅力がなければ人は洗脳されない。
それを「実力」と表現するならば
間違いなく「実力」だろう。

ただし、それは世法の範疇の話。
大聖人仏法の眼で池田センセを見れば、
その「実力」は大聖人仏法を大いに破壊し
「天魔」「外道」等といくら言ってもいい足りないくらいくらいだ。
その悪業は極楽寺良観すら凌ぐ。
なぜなら池田センセは「大聖人の弟子」と名乗りながら
大聖人仏法を破壊しているからだ。
まさに五老僧全員が
池田センセ一人となって生まれ変わり
大聖人(大御本尊)を否定し
多くの弟子旦那の成仏を阻み無間地獄へと誘っている。
池田センセが民間会社の社長だったら
「癖はあるが魅力のある社長」でよかったのだと思う。
民間企業の社長であれな人身操縦を含め商才があればそれでいい。
だが「宗教家」「宗教団体の指導者」としては失格だろう。
なぜなら池田センセには肝心な「信心」がない。
「信心」がないから大御本尊を捨てることができる。
その本性は御書に照らせば
臆病者で求道心がなく欲深い人間。
それが池田センセの本性だと俺は思っている。
そのような人間を「人生の師匠」だの
「広宣流布の指導者」だの思える会員さんが不思議でたまらない。
そしてそんなことを言っている会員さんは本当の弟子ではないと思う。

俺はこうして池田センセのことを悪し様に書くが
俺はそれが池田センセや創価に対する恩返しだと思っている。
創価があったからこそ俺は大聖人仏法に縁することができた。
これは事実である。
創価以外。例えば正宗のご僧侶や法華講員に折伏されたことは一度もない。
創価がなければ大聖人仏法を知らないまま今でも過ごしているかもしれない。
それに対しての恩義は忘れていない。
だからこそ、謗法と化した創価と池田センセを責めるのである。
かつて池田センセは言った。
「悪を責め抜くことで相手を成仏させる。それが慈悲なのだ」と。
このままでは池田センセは間違いなく無間地獄行きだ。
本当の弟子ならば師匠の間違いを正さないといけない。
本当の弟子ならば師匠の悪を責めなければいけない。
それが唯一「天魔」と化した師匠・池田センセを救う道であり
創価への報恩じゃないのか?
俺はそう思う。
質問内容から逸れてしまったが
今の池田センセは「仏敵」
俺はそう思っている。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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