蘭房さん!祝・退会!

蘭房さんより昨日退会届を提出したとのコメントいただきました。
退会の宣言をされたいたので遅かれ早かれとは思っていましたが
ついに正式退会とのこと。
まづは、心よりお喜びを申し上げるとともに
いままで、本当にお疲れさまでした。
退会にあたり特に感傷的な思いはなかったとの事ですが
ここまでの道程はさぞや様々な葛藤がおありだったと思います。
わたしなぞ足元にも及ばないほど
創価に尽力されてきたはわけですから
その創価に退会届を叩きつけるまでの思いは
相当のものだったとお察しします。
本当は、蘭房さんもそうでしょうが私も含め
創価から去っていく多くの元会員さんたちは
できれば創価の中で今世を終わりたかったと
思っている人たちも多いと思います。
日蓮正宗・創価学会が好きだった。
私もその一人です。
でも、創価は宗門からの独立を企て実行し
大聖人をすて、正法をすて
金と権力だけに執着する
仏法とは無縁の謗法団体と化しました。
ことここに至っては、いくら創価が好きであっても
一信仰者として創価にとどまるわけにはいかない。
創価の組織がどうこうとかではなく
もっと根本的な部分で創価に留まれないと思う方も多いと思います。
その責任の大部分は大作センセにある。
大作センセの間違いを認める。
センセとの誓いと
ご本仏との誓いと
信仰者としてどちらを選ぶのかという事でしょうね。

話はそれましたが、蘭房さんにもこれから
いわれない悪口等が創価の組織の中で囁かれるとおもいますが
おそらく本人に直接言ってくる活動家はいないと思います。
そんな度胸も根性もありませんから。
所詮は引かれ者の小唄。負け犬の遠吠えです。
それもしばらくすればなくなりますので気にすることはございません。
(まぁ蘭房さんがそんなことを気にするはずはありませんが)
これからですね。
本当の信心ができるのは。
本当におめでとうございました。
今後も当ブログのご意見番として
「あっぱれ!」
「喝!」
などのコメント宜しくお願い致します。(笑)

最後に何度がここに書いている私の好きな御書の一節を

◆但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり、摂受折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す。

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miuさんのコメントへ(池田名誉会長の事)

少し前にmiuさんから

>どうしても管理人様にお尋ねしたい事が有ります。
>創価学会の池田先生の事をどう思っておられるのですか?

とのコメントをいただきました。
池田名誉会長についていまさらだが思っているところを書きます。

池田名誉会長。通称池田センセ。
「人生の師匠」と思っている学会員さんもいるだろけど
俺は実は一度も「人生の師匠」いや「師匠」と心の底から思ったことはない。
創価に入会したのも創価の活動はしたのも
別に池田センセの考えに共感した訳でもないし、
当然池田センセと会ったことも話したこともハガキの1枚もらったこともない。
ある意味で言えば俺の人生には特にいてもいなくても存在。
創価学会の中で一番偉い人。それくらいの認識かな。
もちろん初心の頃は池田センセのスピーチや御書講義を読んで学んだが
その講義やスピーチがとてつもなく凄い内容でないことは
行学が進んでくるとわかるようなる。
そうなるとまぁ創価活動家の象徴という地位というくらいだろう。
実際「池田先生は我が人生の師匠」と心の底から思っている活動家は
今現在はそれほど多くないと思う。
なんとなく「師匠」と言わないといけない雰囲気が組織にあるから
一応「師匠」と言っておかないと組織に居づらくなるから言っておこう。みたいな。

miuさんは、家族も顧みず創価のために尽くしてきたセンセの人生が尊い。
と思っているかもしれないが
俺はその意見には全く頷けない。
何故なら創価の組織のことをするのは池田センセの仕事だから。
しかもセンセはその仕事が好きで好きで仕方なかったフシがある。
会社(創価)の経費で日本中。いや海外にまで行けて
行った先々では「先生。先生」と歓迎され
あとは小説や詩を書いたり写真撮ったり
ある意味、何等生産性を伴わないことが仕事になり
経済的に恵まれる。
また一般の仕事よりもはるかにストレスも少ない。
そんな仕事なら楽しくて家で嫁や子供の面倒見ているより
毎日仕事していたい。と俺なら思う。
それに子供だって作っているのだから全く家庭を顧みなかったことでもないし。

また
>これだけの組織の仕組、学会員の人望を集めた事は、素晴らしいと思います。
>もし、学会員は洗脳されてると思ってらっしゃるなら、それも実力だと思います。

とのご意見だが、俺は「人望を集めること」は必ずしも素晴らしいとは思わない。
ヒトラーだって、提婆達多だって、極楽寺良観だって
「人望」を集めた。
それが素晴らしいならば、大聖人より極楽寺良観の方が素晴らしい。
ということになる。
もちろんそのカリスマ性は大いに認めるところでもあるし
人心操縦や人心掌握に長けているのだと思う
それは「人としての魅力」を持ち合わせているからだとも思う。
なので、人間としては「魅力的」な人物なのは間違いない。
何らかの魅力がなければ人は洗脳されない。
それを「実力」と表現するならば
間違いなく「実力」だろう。

ただし、それは世法の範疇の話。
大聖人仏法の眼で池田センセを見れば、
その「実力」は大聖人仏法を大いに破壊し
「天魔」「外道」等といくら言ってもいい足りないくらいくらいだ。
その悪業は極楽寺良観すら凌ぐ。
なぜなら池田センセは「大聖人の弟子」と名乗りながら
大聖人仏法を破壊しているからだ。
まさに五老僧全員が
池田センセ一人となって生まれ変わり
大聖人(大御本尊)を否定し
多くの弟子旦那の成仏を阻み無間地獄へと誘っている。
池田センセが民間会社の社長だったら
「癖はあるが魅力のある社長」でよかったのだと思う。
民間企業の社長であれな人身操縦を含め商才があればそれでいい。
だが「宗教家」「宗教団体の指導者」としては失格だろう。
なぜなら池田センセには肝心な「信心」がない。
「信心」がないから大御本尊を捨てることができる。
その本性は御書に照らせば
臆病者で求道心がなく欲深い人間。
それが池田センセの本性だと俺は思っている。
そのような人間を「人生の師匠」だの
「広宣流布の指導者」だの思える会員さんが不思議でたまらない。
そしてそんなことを言っている会員さんは本当の弟子ではないと思う。

俺はこうして池田センセのことを悪し様に書くが
俺はそれが池田センセや創価に対する恩返しだと思っている。
創価があったからこそ俺は大聖人仏法に縁することができた。
これは事実である。
創価以外。例えば正宗のご僧侶や法華講員に折伏されたことは一度もない。
創価がなければ大聖人仏法を知らないまま今でも過ごしているかもしれない。
それに対しての恩義は忘れていない。
だからこそ、謗法と化した創価と池田センセを責めるのである。
かつて池田センセは言った。
「悪を責め抜くことで相手を成仏させる。それが慈悲なのだ」と。
このままでは池田センセは間違いなく無間地獄行きだ。
本当の弟子ならば師匠の間違いを正さないといけない。
本当の弟子ならば師匠の悪を責めなければいけない。
それが唯一「天魔」と化した師匠・池田センセを救う道であり
創価への報恩じゃないのか?
俺はそう思う。
質問内容から逸れてしまったが
今の池田センセは「仏敵」
俺はそう思っている。

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マイノリティーだからこそ(非意味的切断さんの質問への回答)

非意味的切断さんからの質問
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日蓮は正直なところかなりマイナーな人物だと思います。さらに日蓮の論の解釈の中でも、日蓮正宗の大御本尊信仰はかなりマイナーです。 世界史的にパースペクティブが広がっている仏教において、マイナーな日蓮正宗の大御本尊信仰を受容する理由は何でしょうか?
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について今日は書くよ。
非意味的切断さんだけではなく
多くの方も同じように思っていることでしょう。
昔、俺も折伏でこのご質問と同じようなことを
何度となく言われた。
そんな方々にお答えしようと思う。

「日蓮正宗は極めて少数派である」
「日蓮正宗の教義は極めて特異である」
などなど、日蓮本仏・大ご本尊信仰について
多くの学者や世間が否定している。
だからそれは間違ってる。
あるいは信じない。
というロジックで語る人は多い。
多くの人が否定しているから否定する。という考えだね。
では何故俺は、数多ある仏教宗派のなかで
超少数派の富士門流を選んで受容しているのかというと
その理由はたくさんがあるが、
今回の質問に即していうならば
「人数が少ない」からである。
「マイノリティー」であるからこそ「正しい」
それが俺の中での結論だからだ。
なぜ「少数」だから「正しい」のか?
それは現代は仏教でいうところの「末法」であるからだ。
(仏教以外の信仰者に対してはまた違う話になるので今回は除外する)

さて、この「末法」とはどのような時代かといえば
釈迦の説いた大集経によると「白法隠没」の時代である。
「白法」とは釈迦の説いた法のことで、
末法とは釈迦の説いた法が「隠没」。つまり無くなってしまうという意味だ。
そしてその白法が力を失った後に「大白法」が流布される時代。それが「今」「末法」である。

◆大集経の白法隠没の時に次いで法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか(撰時抄)

ではこの「大白法」とは何か?といえば「釈迦の法」ではない「釈迦の法」を超えた法である。
結論を言うと「大白法」とは、大聖人が説いた「南無妙法蓮華経」である。

◆凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり(当体義抄)

仏教史においても釈迦が「南無妙法蓮華経」を説いたことはなく
「南無妙法蓮華経」を説いたのは大聖人お一人である。

で、ここからが本題で
この「妙法」を末法で信受するというのことは実に難儀なのである。
理由はいろいろあるが今日のところは難儀な理由はイロイロ書かない。
(話が飛んじゃうとわかりずらいので)
で、話を進めると

◆日蓮が強義経文に普合せり法華経の流通たる涅槃経に末代濁世に謗法の者は十方の地のごとし正法の者は爪上の土のごとしととかれて候はいかんがし候べき、日本の諸人は爪上の土か日蓮は十方の土かよくよく思惟あるべし(開目抄上)
◆仏末代を記して云く謗法の者は大地微塵よりも多く正法の者は爪上の土よりすくなかるべし、仏語まことなるかなや今日本国かの記にあたれり。(破良観等御書)

など大聖人の御書に書かれているように
末法においては「謗法の者」は大地のように多く
「正法の者」は爪の上の土ほど少ない。のである。
だからこそ「末法」なのである。
「正法の者」が多く「謗法の者」が少なければ「末法」と言わない。
「正義が少数派」となるゆえに「末法」なのである。

ここからは仏教徒目線で書くけど、
世界三大宗教の「キリスト教」「イスラム教」「仏教」
この中で「仏教徒」の人数は圧倒的に少ない。
というか「ヒンドゥー教」よりも「仏教徒」は少ないのである。
仏教でいうところの「外道」の方が圧倒的に多いの現実である。
この現実こそ「末法」であるという証明であり
だからこそ「仏教」が「外道」に勝っている証拠でもある。
もし、身延や他の仏教宗派が「多数派の方が正しい」というならば、
仏教は外道の法に劣るといのか?
ならば彼らは今すぐ「仏教」を捨てて
キリスト教徒にならなければ自語相違になるだろう。
(外道というのは「クサレ外道」っていう意味ではないので誤解なきよう)

さぁ、そう考えれば自ずと理解できる。
「大白法」の「南無妙法蓮華経」系宗派で
もっとも「少数派」である「富士門流」こそが
「爪の上の土」であることは明らかである。
なにせ、似非宗教・偽仏教の
「ホンモノのクサレ外道」の
「創価」や「顕正会」よりも少ないのである。
つまり数の多い「身延」や「創価」が「爪上の土」で
数の少ない「富士門流」(正宗)が「大地」であるという解釈はありえないよね。
つまり「マイナー」であり「マイノリティー」であることこそ
「富士門流」の教義が「正しい」「正法」であるといえるわけだ。

今が「末法」であるのならば
「謗法」の方が人数が多いはずであり
だとすればもっとも「少数派」である
「富士門流」(正宗)が「正しい」
このロジックが一番俺の中では理屈が通るし
釈迦も大聖人も言われていることに符合するするんだな。これが。
この逆だと理屈は通らないし、
釈迦・大聖人の言われていることに齟齬があることになっちゃうでしょ?

それが、特異でありマイナーな正宗の
大御本尊信仰を俺が受容する理由ですね。
難しいことでもなく単純明快な理由だけど
文理に照らせば「富士門流が正しい」
という結論にしかならない。
もちろん理由はそれだけはないけど
今回の質問の即して極論を言えば
「少数だからこそ正しい」
俺はそう思う。(あくまでも極論です)

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非意味的切断さんのコメントへ(三証について)

非意味的切断さんからの「三証」の関するコメントですが
「三証」に関しては少し書きたいこともあるので記事にします。
コメントの内容は、
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
また、三証については、私も少し勉強しましたが、確か現証が一番大事というような話ですよね?
日蓮正宗=大御本尊と分離したあと、不幸になる創価学会員が増えたという現証はあるのでしょうか…?
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
とのことです。

まづ
@「確か現証が一番大事というような話ですよね?」@
このご質問なのですが、
多くの学会や顕正会のカツドウカ さんたちが
文証・理証につまると口にするテッパンの主張です。
そのロジックとしては
「文証や理証よりも現証が一番で、私(或いは創価)は実際に結果(功徳)を出したてきた。
だから創価(或いは大作センセ)は正しい」といったものです。
で、この現証が一番大事。という論拠になっている文証が、

◆日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず(三三蔵祈雨事)

この御文です。この部分をもって「現証最上位」論を主張するのですがその主張は間違っています。
上記の御文において道理・証文・現証は「日蓮仏法をこころみる」にかかっている言葉です。
この「こころみる」を「仏法の正邪を決する」と通解しちゃう人もいますが
まづそうした通解は、通解からして間違ってます。
なぜなら大聖人はおおくの御書で仏法の正邪は文証によるようにと言われていますから
この「こころみる」というのは「正邪を決める」という風に通解するのは他の書との整合性がとれません。
で、「こころみる」というのはその言葉の通りに「試してみる」という意味です。
結論を言えば上記の御文は、個人の信心に約したご教示です。
ですから「文理より現証の方が重要だ」という意味ではありません。
例えば今現在、非意味的切断さんとこうして対話していますが
私が文証・理証を話しても非意味的切断さんには納得できないことが多いと思います。
つまりこの信心を試すなら、文理よりも現証の方が分かりやすい。と意味です。
ですから通解としては
「日蓮仏法を試してみるにあたっては文理を理解することも大切だけど、それよりも実際に自分でやってみてその結果を見たほうが早いし分かりやすいですよ」ということです。
このように個人の信心に約しているわけで、
決して「三証」の中で「現証が最上位」という意味ではありません。
これは自行の辺で、化他行の辺でも同じように

◆凡夫は此の経は信じがたし又修行しても何の詮かあるべき是を以て之を思うに現在に眼前の証拠あらんずる人此の経を説かん時は信ずる人もありやせん(法蓮抄)

とあるように、凡夫はなかなか文理ではこの御本尊を信じることができず
この信心をやっても意味はない。と思ってしまいますが
実際に現証を示している人が話せば信じる人もいるでしょう。
そうした意味で「現証」の大事を言われています。
自行化他いづれにしてもこれらはあくまでも「個人の修行」に訳せば
「現証」は文理より大切ですよ。言われているのです。

では、「法の正邪」を問うとき(対論・法論)においてはどうかというと

◆但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず(唱法華題目抄)

と言われているように「現証」よりも文証そして理証が優先になります。
そうした違いが理解できないのが
ご都合主義の切り文の創価教学・池田教学の悲しい部分で
カツドウカさんたちは対論で文理で詰まると
あたかも「現証一番」だと言わんばかりに
「現証論」を言い出すわけです。
その最たるものは「実際に信者を増やしてたのが学会だから宗門より偉い」
「創価の信心で功徳をいっぱいもらったから創価の信心は正しい」というロジックです。
しかしながら、魔の通力と言って魔にも力はあります。
実際に結果が出たからといって即その信心が正しい。とはなりません。

◆先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか(題目弥陀名号勝劣事)

と大聖人も言われています。
そして「魔の通力」か「仏力・法力」を判断する(正邪を判断する)のは
文証・理証であるということです。

これが「三証」の「三証」たる所以なのです。
「現証一番主義」ならば文理は必要なく
「現証」だけの「一証」で構わない。ということになります。

そこで、
@日蓮正宗=大御本尊と分離したあと、不幸になる創価学会員が増えたという現証はあるのでしょうか…? @
とのことですが正直言って「知りません」としか言えません。
アンチは「創価にいると不幸になる」といい
創価は「創価に敵対すると不幸になる」といいますが
現世における「幸不幸」は個人の心の範疇です。
また信心しなくても幸福な人生を送っている人も大勢いいるし
信心していても不幸な人生を過ごしている人も大勢います。
さらに他人が見れば不幸に見えても
本人は幸福だと感じているかもしれないし
その逆もあります。
ですから大御本尊を捨てた後に不幸な学会員が増えたかどうかは知る由もありません。
ただし、それが現世であれ死後であれ来世であれ
大御本尊を捨てた学会員が無間地獄に行く(不幸になる)のは
文証に照らせば間違いない。ということだけは言い切れます。
それは私が創価憎しで勝手にいてるのでなく
大聖人が御書にくり返し書いていることなので
私には疑う余地はありません。
また創価カツドウカが他人に創価の信心に功徳がある。
と説明するのはウソであり、
そのエサに釣られて入会してしまった人は「騙された」のであり
ウソをついた側はサギと呼んで差し支えないと思ってます。
ウソをいって勧誘した挙句、「騙されるのは自己責任」なんていうのは
居直り強盗としか思えません。
逆に「創価に敵対したり創価を退転したら不幸になる」
というのもありえません。
創価の言う「功徳」も「罰」も
どこにも文理がないからです。
文理がない現証論は信じるに値しません。
単なる与太話の類でしかありませんから。

「創価に会費(財務)を出したら功徳がでた」
「公明党を支援すると功徳が出る」
「創価を誹謗したら罰が出る」
こうしたことを個人的に思う分には自由ですから非難はしません。
しかし、他人に向かって言うならば個人的功徳という現証よりも
文理で「それが功徳である」ということを論証しなければいけません。
今の学会カツドウカでそれを文理で説明できる人はいません。
リアルでもそしてこうしたネットの世界でもです。
そうした現実(現証)を見れば
カツドウカさんがどんなに創価で功徳が出たと強がっても無駄です。
まさに「現証にはすぎず」ってところです。

質問の答えになっているかどうかわかりませんがもう一度書きます。
御本尊を捨てて不幸な学会員が増えたかどうかわかりません。
幸不幸は個人の決めることなで他人には決められません。
ただし、日蓮大聖人がご本仏であるのであれば
「大御本尊を捨てた学会員の最終的な行き先は無間地獄である」
というのが結論です。

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りこさんのコメントへ(結婚と入会)

はじめまして。コメントありがとうございます。
リコメしようと思いましたが、少し長文になってしまうのと
りこさんのコメントは多くの方が抱えている問題でもあるので
本文記事にて書かせてもらいます。

> 長年付き合った彼のお家が熱心な活動家であり、
> 結婚を意識するようになってから、
> ギクシャクとしている状況の中で、こちらのブログに辿り着きました。

ありがとうございます。
ネット上には、ブログをはじめとする創価関連の情報がたくさんあると思います。
大きく分けて創価を擁護する創価活動家の記事。
そして私のようなアンチ創価の記事。
読んでいるとどっちが本当なんだろう?と迷うかもしれませんが
今回のコメントに関して私なりの考えを
書かせてもらいますので参考にしてください。

> 長年付き合った彼のお家が熱心な活動家であり、
> 結婚を意識するようになってから、 ギクシャクとしている状況の中

う~ん・・・これは創価活動家さんと結婚を考える方にとって昔も今も大問題ですよね。
本来は、相手の信仰に対してはお互いに干渉しないのが一番いいのですが、
創価活動家一家に嫁ぐとなるとそうはいかないのが現状です。
その逆も然りで、彼女の一家が活動家でもやはりモメた後輩がいました。
実は、私も創価への入信のきっかけは嫁の実家(祖母)が熱心な信者で
結婚1年後に創価に入会してほしい(当時は日蓮正宗創価学会です)と嫁の祖母にたのまれ
義父は「入会なんてしなくていい」と言ってくれたのですが
祖母と嫁(当時は未活動)の顔を立てるということで
「活動しない。学会員を家に呼ばない」ことを条件に
入信したのが私のこの信心の始まりです。
(まぁ、やはり断りづらいというのが大きかったですが)
おそらく私の時と同じように、
相手側は間違いなくりこさんに入会を迫る(説得する)でしょう。
悪気はないのです。
創価に入会することが、りこさんと自分のコドモ(カレシ)
が幸福になることだと純粋に思っているのことに偽りはないと思います。
(多少、組織の成果みたいな考えもあるかもしれませんが)
そこで私のように仮に「活動はしない」という約束で形だけ入会しても
やがては活動するような方向に話をされるのも間違いなでしょう。
りこさんも、自分の旦那様や旦那の実家と揉めたくないから
座談会だけなら・・・同時中継だけなら・・・と付き合うはずです。
実はこのパターンは、結婚入会から活動家になる
テッパンのパターンなのです。
まぁ、これは創価に限らずなんですが
「とりあえず入会だけ」「とりあえずお題目三唱だけ」「とりあえず座談会だけ」
といったように小さなYESを積み重ねていく方法は
セールストーク・交渉術ではよく使われる方法です。

さて、りこさんが仮に入会したら・・・
そうなると、りこさんだけの話では済まなくなる可能性もあります。
まず生まれてくるお子さんも当然のように生まれてすぐに入会させられます。
いわゆる学会2世とか3世といわれる人たちで、
自分の意志に関係なく赤ちゃんの時に親に入会させられます。
バリ活さんのご一家となると、お宮参りも七五三も学会の会館です。
下手すると、「創価小学校」に、「創価中学校」に、となるかもしれません。
実際に創価学園へいくとお金もかかりますが、
この辺はもう親の意志ではどうにもなりません。
親がが入れたいと思っても本人次第なので。

また選挙の度に、りこさんの親兄弟にも
公明党への投票依頼してほしい。と言われるのもほぼ確実です。
ひょっとしたら、りこさんのご実家に聖教新聞を購読してと言ってくるかもしれません。
そして、年末の財務も一口(10,000円)位はやってほしい。と言われますし
聖教新聞もご主人の分と合わせて2部購読は覚悟するようです。
そうそう、それとご主人が男子部の活動家だと
せっかくの新婚生活も普通とは多少違ってくると思います。
会合で夜遅くなったり、会員さんを家に招いたり・・
これはご主人の役職や所属する組織によって若干違いますが
創価関係で家を不在にすることは多々あると思います。
パチスロやキャバクラじゃないので、お金はかかりませんが
少し寂しい思いをするかもしれません。
40歳過ぎて壮年部になればそれもなくなるとは思いますが。
もちろん、りこさん自身にも婦人部の方々から
会合等のお誘いが頻繁にあることは言うまでもありません。
それと、万一の葬儀の時は「学会葬」です。
僧侶は来ません。戒名もありません。
創価の会員さんたちは、お香典は持ってきません。
別に悪い事ではありませんが、
創価会員以外には少し奇妙に思われるのは確実です。
それまでに、りこさんも活動家になってしまえば
全て苦にならず喜んでそうしたこともするでしょうが
それはそれで、友人を失ったり煙たがられたりで疎遠になることは免れません。
また、りこさんの親御さんもお嘆きになるかもしれませんが
立派な活動家になった暁には
実の親より池田センセの方が大切になっているので
そんな嘆きにも耳を貸さないかもしれません。
これらの話は、大げさでもなく脅しとかでもなく事実です。
事実、そうした方々が「バリ活」と呼ばれるのです。
お恥ずかしい話ですが、私も子供が幼かったころは男子部のバリ活で
1年365日、夜や休日に丸一日自宅にいたことはなかったです。

> 彼は、今まで未活動のいわば幽霊会員だったのですが、わたしとの結婚を機に退会する旨を伝えたところ、
> 親族、地区部長との10:1のような面談を行い、創価班への着任をするよう命じられてしまいました。
> そして今までの彼とまるで人が変わってしまったかのように、
> 口を開けば、創価の思想の素晴らしさを語っています。

でしょうね。信仰っていうのはそういうものです。
今の彼に何を言ってもおそらく無駄でしょう。
口を開くたびにりこさんに創価の事を語っているということは
りこさんは既にロックオンされたということです。
彼と彼のご一家、そして彼の創価の仲間たちに
毎日「祈られちゃって」いますよ。
「りこさんが創価学会に入会しますように」って。
自覚してくださいね。
しかしデートとかで創価の話とかしますかねぇ。
普通ならばしませんよ。

> わたしは退会をさせることを望んだのではなく、個々の信仰の自由を尊重することを望みましたが、なぜか彼の耳には届きません。

りこさんは素晴らしいと思いますよ。
創価と聞いて「学会なんてやめてよ」と言わないのだから。
また、りこさんの言っていることは正しいです。
信仰は自由です。
そこに耳を貸してくれないとなると、ちょっと重症かもしませんね。
でも実は、りこさんのようなタイプの方が
押し切られて入会してしまう方が多いのです。
ご自身は、相手の信仰を尊重しているから
相手も尊重してくれる。と思ってしまうんです。
創価のバリ活さんはそんな甘くはありません。

> 創価の教えは、人の幸せを願うものなはずなのに、自分の意にそぐわないものは排除しろといった風潮に変わりつつあるのでしょうか。 最大の疑問です。

人の幸せを願う。だから学会の信仰を勧める。
これは信仰者として全く間違っていないと思います。
自身の信仰に自信を持ち相手を思って勧めているのですから間違っていません。
ただ、その勧め方には疑問があります。
立場を利用して創価の信仰をやらせる。
というのは間違っていると思います。
相手が断れないような状況にして入会させるのは間違いです。
例えば社長が社員に入会しろといったり、
取引先の人間に聖教新聞を取らせたり、
そして結婚を機に入会させようとするのも同じです。
そのように相手の弱みに付け込み入会させるのは
本来の日蓮大聖人の仏法を広める手段ではありません。

また、創価の自分の意にそぐわないものを排除する。
という発想は今に始まったことではありません。
「排除」の歴史が創価の歴史と言ってもいいと思います。
大聖人も折伏をされてきたので、
あたかもそうした行動が日蓮大聖人の
意に沿っているかのように勘違いされる方もいますが
大聖人仏法において「排除」という思想はないのです。

創価は常に外に仮想敵をつくり
それを攻撃することで内部の団結を図ってきた組織です。
独裁者が統治する組織に共通する戦略です。
他人を幸福に。悪くありません。素晴らしい考えです。
ただし創価のいう「幸せにしたい他人」とは
「自分たちに敵対しない人」限定です。
創価がよく言う
「人間主義」とか
「一人を大切に」とか
そういった類の言葉もみな同じで「創価に敵対しない人」限定なのです。
ですから言ってることが全くウソとはいいませんが、
あくまでも「自分たちの仲間だけ」が大前提で
もっというと仲間であっても幹部達に逆らう者は「創価家族」とは認定されません。
「創価の仲間」とは、幹部とそれに従う活動家。という定義だと思います。
15年前私とその仲間十数人は、学会活動を必死にやっていましたが
幹部のいう事を聞かない。という理由で組織から追放されました。
未活動家は追放されないけど、
懸命に活動しても、高みの見物している幹部を批判すれば追放です。
創価家族の一員になりたければ、
幹部のいう事はどんなに不条理でも我慢して聞かなければだめです。
やらなくてもいいけど、聞くだけは我慢して聞かないといけません。
そして最低限聖教新聞を購読し
選挙で公明党に投票しなければいけません。
票か金。最低どちらかは拠出しないと「仲間」になれません。
それと、「池田大作氏」を「先生」と呼んで
「永遠の指導者」として朝晩報恩感謝しなければいけません。
これは「会則」できまっていることなので拒否できません。
それが今の創価の組織の実態です。
この実態は、入会して活動してもすぐには分かりません。
最初は「いい人」だったのに、
一人なら「いい人」なのに
組織が絡むと全く違う顔を見せるのが創価の組織です。
それを知るまでには多少時間かかかります。

また、少しだけ日蓮大聖人の仏法のことを書かせてもらいますが、
創価は「日蓮大聖人の仏法」を信仰している。
といいますが、これは全くのウソです。
ですから創価の本尊に題目を上げれば自他共に幸福なれる。
という創価の説明もウソです。
教義的ことなのでここでは書きませんが、
日蓮大聖人の根本法義に照らし合わせ
上記の創価の主張の2項目は、120%ウソだと断言します。

結婚を視野に入れて悩みどころだと思います。
結婚というのは本人同士だけなくお互いの家族同士が一族になるわけですから、
創価へ入会するかどうかは慎重にお考え下さい。
私には、入会しろともするなともいえません。
立場的には「入会はやめた方がいい」とは思いますが、りこさんの決めることです。
ネットなり友人なり色々な方の様々な意見を聞いて
りこさんご自身が納得いく形で決着すればいいと思います。
一番いけないのは妥協して「とりあえず入会」です。
これだけはしないで欲しいと願います。

本来ならば、焦ってりこさんを入会させようとするのではなく
りこさんが入会してもいいかなって思うまで待てばいい話なんですけどね。
結婚すればずっと一緒にいられるのだから
何も焦る必要はないんですよね。
まぁ、焦らせているのは組織と幹部だと思います。

余談ですが、このブログにコメントをくれる
林檎さんという方も、結婚後入会で
ご主人の方はバリ活さん一家のようです。
このブログを読んで、林檎さんからコメントがいただけたら
そちらも参考になると思います。

また何かありましたら、いつでも遠慮なくコメントをしてください。

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創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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