他人のことは祈らないでください。

学会活動家さんは何かというと「題目」
唱題会だのリーレー唱題だの
「題目」あげてりゃ功徳があるとか祈りが叶うとか思っているフシがある。
以前もブログで書いたが
「題目」あげればいいってもんじゃないんだなぁ。
ただ「南無妙法蓮華」と言ってれば願いか叶う。
そんなことあるわけない。
池田教学・創価教学に毒されたカツドウカは
「題目」に力があると大きな勘違いをしている。
「題目」自体に力があるのなら
日蓮宗だって顕正会だって立正佼成会だって天理教だって
「南無妙法蓮華経」の題目を唱える。
ていうか、特定の教団に属する必要はない。
「南無妙法蓮華経」の題目を個人的に唱えれば事足りるわけだ。
何度も書くが「題目」自体には、仏力も法力の備わっていない。
仏力・法力が備わっているのは
「題目」ではなく「本尊」である。
大聖人が御書で唱題の大事を言ってるのは
あくまでも三大秘法のひとつである「本門題目」のことを言われているのである。
「本門題目」とはあくまでも一大秘法の大御本尊を信じて唱えるところの題目のことである。
「本門本尊」がATMだとすれば「本門題目」はキャッシュカードである。
ATMじゃない機械にキャッシュカードをいくら入れてもお金は出てこない。
ましてや自作のカードを使うのは犯罪である。
創価カツドウカの題目とはそういうようなモノだ。

それでもまだ自分のことや創価の事、大作センセの事を祈るは自由である。
ところが、カツドウカって連中は何を勘違いしてるのか知らないが
「世界平和」とか
「一切衆生の幸福」とか
頼んでもいないことを祈ったりするわけだ。
何様のつもりか知らないが
頼むから他人のことは祈らないで欲しい。
自分達の仲間内のことだけチマチマと祈っててくれ。

◆かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし(種種御振舞御書)

とあるように、大御本尊を、「捨閉閣抛」しながら
自分たちを大聖人の信仰をしているだの
創価は仏意仏勅だのいっている
創価のカツドウカさんは
「日蓮を悪しく敬っている」方々なのですよ。
そんな方々に「世界平和」だ
「一切衆生の幸福」だ
なんて祈られた日にゃアンタ
「破滅」ですがな。
蘭房さんのコメントにもありましたが
今世界は「平和」「幸福」とは逆の道を進んでいるような情勢です。
いろいろとその原因はあるが
法義に照らせば、創価のカツドウカさん(もちろん顕正会やら何やらも同じだが)が
大聖人を悪しく敬っている。というのも一つの要因だよ。
まさに極楽寺良観の祈祷と同じ。
滅びるのは創価と大作センセとその不二の弟子である
あなたたちだけで十分でしょ?
罪もない人々をこれ以上巻き込まないように。
誰も、あなたたちに「平和」とか「幸福」とか
祈ってください。なんて頼んでね~から。
唱題会・リレー唱題・10時間唱題・丑寅勤行
好きにやってもらってかまわないが
他人のことや創価と関係ない世間のことは
どうぞ「祈らない」でくださいね。
そろそろ自分たちが謗法だってことを自覚してくださいな。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ

創価教学じゃない御書講義(29年度4月座談会御書・立正安国論)

汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、
然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり
宝土何ぞ壊れんや、国に衰微無く土に破壊無んば身は是れ安全心は是れ禅定ならん
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

先月は座談会で「経王殿御返事」を取り上げ
自爆ネタ・自虐ネタを冗談でやったのかと思ったら
今月は「立正安国論」の上記の御文。
まさかの2ヶ月連続の自虐ネタ来たね~。
しかも先月の「経王殿御返事」よりもさらにわかりやすく
現在の創価を思いっきり破折する御文をもってくるとは
創価上層部も「攻めるね~」(笑)
この御文を座談会でやるとは
その勇気?厚顔無恥さ?は本物。
いやいや大したもんですなぁ。
で?この御文の講義をカツドウカさんはどうやってするの?
「創価の信心を改めて早く大御本尊に帰りなさい」
それ以外になんていうの?
講義のやりようがないんじゃね?
ああ、大百読むだけだから大丈夫ってことかな。

そんな講義のやりようのない今回の御書だけど一応確認の意味で書いておくよ。

◆汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、

この部分は「立正」の部分で、次下も

◆然れば則ち三界は皆仏国なり~

この部分が「安国」の部分。
で、「立正」には、二義あって「破邪」と「立正」(顕正)
「破邪顕正」をもって「立正」というわけだね。
上記の御文の
◆「寸心を改めて」とういう部分が「破邪」で
◆「実乗の一善に帰せよ」とう部分が「立正」
という意味になっている。

さてこの破邪顕正だけどその中心は「破邪」にある。
八綱要集には
□破邪の外、別の顕正なし。破邪すでに尽くれば、所得有ることなし。所得すでに無ければ、言慮寄ることなし

と書かれている。「破邪」の他に「顕正」はない(破邪の他に顕正は不可能)
これは三論宗だが、御書にも「法華折伏破権門理」と書かれているように
「立正安国」の根本は「破邪」にある。
「立正安国論」全編を読んでみても「破邪」中心に書かれている。
では「邪」とは何かといえば「正」でないものであり
この御文に照らせば「実乗の一善」ではない
「教え」またはそうした「邪教」を説く人(ここでは法然だが)
これらを「邪」としている。
では「実乗の一善」とは何かと言えば
大聖人仏法においては当然
「一大秘法の本門戒壇大御本尊」であることは言うまでもない。
なのでこの御文を講義するならばこうだ。

実乗の一善である大御本尊をすてた創価信仰を早く改めて
すぐに大御本尊への信に回帰しないさい。
大御本尊への信に回帰するとは
謗法である創価への布施をやめることです。
財務・新聞購読・創価書籍や創価グッツの購入を止めるのはもとより
公明党への選挙応援など謗法に力をかす行為もやめましょう。
それが「立正」ということです。
そうすれば「自分自身」が謗法の罪から逃れ宝土となり(一生成仏)
自分自身が宝土となれば依正不二の原理で自分の周囲も宝土となるです。
今月の座談会を最後に、二度と創価の活動をしないと決意し
最高に幸福な人生を送ろうではありませんか!

とこんな感じの講義しか思いつかない。
この御文で今の創価の正当性とかは絶対に論証不可能と思うが
果たして、今月の座談会御書担当のカツドウカ諸氏は
どんな詭弁を弄するのか?非常に興味があるが
座談会に参加できない身の上なのでそれを知れるよしもない。

ついでに、この御書の「客」はなぜ間違った信仰をしてしまったのか?
この御文のあとに書いてあるのでオマケで引用する。

◆我一仏を信じて諸仏を抛ち三部経を仰いで諸経を閣きしは、是れ私曲の思に非ず則ち先達の
詞に随いしなり、十方の諸人も亦復是くの如くなるべし

簡単に通解すると、一仏(ここでは阿弥陀仏)を信じて実乗の一善を捨ててしまったのは
自分勝手の考えではありません。
先達(法然)の言葉に従ってしまったからです。みんなもまた私と同じです。

あれれ?これは・・・
創価学会を信じて大御本尊を捨ててしまったのは
私の勝手な考えではありません。
全部池田センセの言葉に従ってしまったからです。みんなもまた私と同じです。

同じじゃん(笑)
てことは大作センセは「今法然」ってところだね。

まぁ、今月の座談会でこの御文で
本当の信心を思い出してくれる会員さんが
一人でも現れることを願うばかりだよ。
創価の邪教を改めなければ
あなたを待っているのは「安国」世界でなく
「暗黒」世界だよ。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ

聖僧について

日興遺誡置文の

◆先師の如く予が化儀も聖僧為る可し、但し時の貫首或は習学の仁に於ては設い一旦の妖犯有りと雖も衆徒に 差置く可き事

この御文に聖僧について書いてみる。
以前この御文については【或いは】という読み方は
貫首または習学の仁と読むのではなく
貫首は「もしも習学の仁が」と読むのだという内容の記事を書いたが
今回は「聖僧」の定義とは何か?について書いてみる。
この「聖僧」を「妻帯をしない」という定義にして
法主を始めとする僧侶は聖僧ではない。とか
妻帯・肉食を許されてから僧侶が堕落した。
などと創価のカツドウカは正宗僧侶を批判するが
俺はその批判は全く的を射ていないと思っている。
その理由はいたってシンプルで
大聖人が「妻帯・肉食しない僧侶」を「聖僧」であると
言われている文証がひとつもないからだ。
また大聖人が「妻帯・肉食」を禁じた文証もない。
また「妻帯・肉食」を禁じること自体が大聖人仏法の教えから外れている。
そもそも、いわゆるこのような戒律は末法には全く意味をなさない。
末法の今は、だた大御本尊を信受することのみが唯一無二の戒律であり
「妻帯・肉食をしない」ことが聖僧の定義であるわけがない。
大聖人ご自身や日興上人は「妻帯」されてはいないが
それが「聖僧」の証ではない。
そもそもご謙遜ではあるが大聖人がご自身を
「私は妻帯も肉食もしない持戒の聖僧である」などと御書のどこにも書いてない。
四恩抄で大聖人は

◆世末になりて候へば妻子を帯して候比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず

と言われているがそれをもって聖僧であるとは言われていない。
むしろ同じ四恩抄でご自身を

◆日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども

と謙遜されてはいるがこういっている。
つまりは「妻帯・肉食しない」とことが「聖僧」という意味ではないということだ。
それを僧侶の「妻帯」=「堕落」
「妻帯」=「邪淫」のように捉えるのは大聖人仏法の本義ではない。
再び四恩抄を引けば

◆故に大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて是を悩すは此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり

と大聖人は言われている。
よくよくこの御文を咀嚼してほしい。

そもそもこの遺誡置文の御文の「聖僧」の部分を「妻帯」などと解釈するのは
日亨上人の「富士日興上人詳伝」の中の記述

◇「この条の見とおしは、凡僧の自分にはつきかぬる。なるべくは、一時的の現今の僧分の弊風とみて、その内自然に振粛して、宗祖開山時代の常態に帰るべきを祈るものである(中略)それを無作と名づけてみても、けっして放縦不羈なものでない」

に基づいている。(広宣部時代に学んだから間違いない)
この日亨上人の記述から、現在の宗門の妻帯は異常自体であり
大聖人・日興上人の時代のように「非妻帯」が正常であるのだから
「妻帯」は「聖僧」ではない。という半ば強引に持っていくのが創価カツドウカのロジックだ。
そして「僧侶」=「出家」=「非妻帯」という
釈迦仏法の一般的な戒律が正しいと思っている人をだまくらかすのである。
日亨上人のご指南を「是」とするならば
日亨上人の書いた「魚鳥食開訓」には次のとおり書いてある

◇宗祖の化儀は聖僧であって、御開山の化儀も、また御門下の化儀も聖僧であった事は、史実として見るべきであるが、もちろん小乗戒でも大乗戒でもない。有作数目にして係(かか)はる戒ではない。本門無作の大戒であるから、戒目を挙げて、或は此れを遮し、此れを開する底の窮屈な事例はあるべきではない。然れども鎌倉時代に横溢する破壊無慙の妖僧等に簡異する為に、仮に断肉禁淫の聖僧を標せられたものであろう。(中略)また妻孥に慰められねば夜の明けぬと云ふ人も仕方があるまい。夫唱婦随、同心戮力して、一家平和の好模範を壇信徒に示し、宗門のためにも、住寺のためにも、国家のためにも、郷里のためにも、努力の効が顕著であったなら、帯妻の譏嫌は償はるるであろう。(中略)菜肉妻に著せずして信仰に生くべきである。弘法のためには死しても悔いなく、憾なきを所期とするのが宗徒の信念の第一義であらねばならぬ。(中略)もっとも、禁欲斎戒を標榜にする宗門の坊さんなら、何と言われても、身から出た錆で、致し方もあるまいが、六百有余年の昔に末法無戒を喝破した日蓮大聖の門下には、迷惑千万の至りじゃ。

これが日亨上人のご指南である。
宗内の「妻帯」を「聖僧の化義ではない」などと一言も言われてないのだ。
大聖人仏法における「聖僧」とは、そうした戒律を守ることでなく
法体を守ることであり、法門を守る事であり
「信仰に生き抜く」ことに他ならない。
そのような僧侶を日興上人は「聖僧」と呼んだのである。

そもそもカツドウカはいつも自分達の都合のいい日興上人の遺誡だけ取り上げる。
僧侶の妻帯が日興上人の遺誡に背く。というならば

◆檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けん や、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。

この御文はどうなんだ?
檀那。つまり在家の信者の社参物詣を禁じているが?
一見もダメなんだからどんな理由でもダメってことだぞ?
え?自分たちは在家だからOKだって?
ははは(笑)
だったら僧俗に「差別」はあるじゃん。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ

ある男子部のお話

創価が宗門から破門される前の事。
とある20代の男子部が壮年部の幹部に
「折伏とはどうすればできるか?」と質問した。
その質問を受けた壮年部の幹部は
「自分自身を南無妙法蓮華経である。と決めきることだ」と答えた。
それが折伏であり、それ以上でもそれ以下でもない。と。
するとその男子部は
「それなら簡単です」と即座に答えた。
この会話を聞いてみなさんはどう思います?
俺は、この男子部は
よほどの無知(無恥)か
かなり傲慢なヤツかと思った。
いや、無知ゆえの傲慢。傲慢ゆえの無恥。とでもいうべきか。
そもそもこの男子部の信心歴は10年もなく
信心も人生もその体験は極めて少ない。
「自分自身を南無妙法蓮華経と決めきる」
壮年部幹部のこの言葉の重みが本当に分かっていたのだろうか?
「自分自身を南無妙法蓮華経と決めきる」事。
これは折伏のみならず信心そのものの極意であり目的と言ってもいい。
生涯この信心を貫いたとしても果たしてその境涯になれるかわからない。
おれも未だに「自分自身を南無妙法蓮華経である」と
心の底から思えて言えるかと聞かれれば全く自信がない。
もしそう言えるとしたら
自分自身が生涯、大御本尊を信じぬき祈り抜いた時だろう。
生きているうちは無理だと思う。
それを、ハタチそこそこの
信心も人生も未熟な男子部員が
「簡単です」というのだから恐れ入る。
こんなことを平気で言えるのは
よほどのバカか傲慢チキかゴマすりか
いづれにしても、ロクな人間ではないな。と感じた。
もし俺が幹部でこんな男子部員がいたら
その傲慢さを注意するとともに
コイツには信心を続けていいくの無理かも?って思う。
まぁ、その時の壮年部の幹部は
その男子部の答えは聞かなかったことにしたのか
話を続けていたが・・・

果たしてこの時の男子部員のその後はどうなったか?
「自分自身を南無妙法蓮華経と決め切った」ようで
いつのまには「自分自身がご本仏」と思い込んでしまった。
結果、大御本尊を捨てた。
それだけでなく、多くの会員にも大御本尊を捨てさせて
自分を広宣流布の指導者と言わせ
「先生」などと会員に呼ばれ我が世の春を謳歌していたが
どうやら、いまではボケ老人と化してというもっぱらの噂である。
そう、あの無知で傲慢な若者こそ
若き日の大作センセであり
その大作センセの質問に答えていた壮年部の幹部は
在りし日の戸田先生である。
戸田先生は自分の信心の究極である
「自身を南無妙法蓮華経であるときめきる」という指導に
「それなら簡単です」と答えた大作センセをどう思っていたのだろうか?
自分の究竟の悟りとも言える指導を
聞いただけ簡単に分かった。という若者を
「なんと頼もしい男だろう」と思ったのか
「なにもわかってないクソガキが簡単に分かったと言ってんじゃね~よ」と思ったのか
それは戸田先生のみぞ知るところだが
どちらにしても大作センセには戸
田先生の指導が理解できていなかった。
それだけは事実だと思う。

この話を聞いて
「さすがは池田センセは俺たちとは境涯が違う」
と思ったそこの創価カツドウカさん
ご愁傷様です。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ

miuさんのコメントへ(池田名誉会長の事)

少し前にmiuさんから

>どうしても管理人様にお尋ねしたい事が有ります。
>創価学会の池田先生の事をどう思っておられるのですか?

とのコメントをいただきました。
池田名誉会長についていまさらだが思っているところを書きます。

池田名誉会長。通称池田センセ。
「人生の師匠」と思っている学会員さんもいるだろけど
俺は実は一度も「人生の師匠」いや「師匠」と心の底から思ったことはない。
創価に入会したのも創価の活動はしたのも
別に池田センセの考えに共感した訳でもないし、
当然池田センセと会ったことも話したこともハガキの1枚もらったこともない。
ある意味で言えば俺の人生には特にいてもいなくても存在。
創価学会の中で一番偉い人。それくらいの認識かな。
もちろん初心の頃は池田センセのスピーチや御書講義を読んで学んだが
その講義やスピーチがとてつもなく凄い内容でないことは
行学が進んでくるとわかるようなる。
そうなるとまぁ創価活動家の象徴という地位というくらいだろう。
実際「池田先生は我が人生の師匠」と心の底から思っている活動家は
今現在はそれほど多くないと思う。
なんとなく「師匠」と言わないといけない雰囲気が組織にあるから
一応「師匠」と言っておかないと組織に居づらくなるから言っておこう。みたいな。

miuさんは、家族も顧みず創価のために尽くしてきたセンセの人生が尊い。
と思っているかもしれないが
俺はその意見には全く頷けない。
何故なら創価の組織のことをするのは池田センセの仕事だから。
しかもセンセはその仕事が好きで好きで仕方なかったフシがある。
会社(創価)の経費で日本中。いや海外にまで行けて
行った先々では「先生。先生」と歓迎され
あとは小説や詩を書いたり写真撮ったり
ある意味、何等生産性を伴わないことが仕事になり
経済的に恵まれる。
また一般の仕事よりもはるかにストレスも少ない。
そんな仕事なら楽しくて家で嫁や子供の面倒見ているより
毎日仕事していたい。と俺なら思う。
それに子供だって作っているのだから全く家庭を顧みなかったことでもないし。

また
>これだけの組織の仕組、学会員の人望を集めた事は、素晴らしいと思います。
>もし、学会員は洗脳されてると思ってらっしゃるなら、それも実力だと思います。

とのご意見だが、俺は「人望を集めること」は必ずしも素晴らしいとは思わない。
ヒトラーだって、提婆達多だって、極楽寺良観だって
「人望」を集めた。
それが素晴らしいならば、大聖人より極楽寺良観の方が素晴らしい。
ということになる。
もちろんそのカリスマ性は大いに認めるところでもあるし
人心操縦や人心掌握に長けているのだと思う
それは「人としての魅力」を持ち合わせているからだとも思う。
なので、人間としては「魅力的」な人物なのは間違いない。
何らかの魅力がなければ人は洗脳されない。
それを「実力」と表現するならば
間違いなく「実力」だろう。

ただし、それは世法の範疇の話。
大聖人仏法の眼で池田センセを見れば、
その「実力」は大聖人仏法を大いに破壊し
「天魔」「外道」等といくら言ってもいい足りないくらいくらいだ。
その悪業は極楽寺良観すら凌ぐ。
なぜなら池田センセは「大聖人の弟子」と名乗りながら
大聖人仏法を破壊しているからだ。
まさに五老僧全員が
池田センセ一人となって生まれ変わり
大聖人(大御本尊)を否定し
多くの弟子旦那の成仏を阻み無間地獄へと誘っている。
池田センセが民間会社の社長だったら
「癖はあるが魅力のある社長」でよかったのだと思う。
民間企業の社長であれな人身操縦を含め商才があればそれでいい。
だが「宗教家」「宗教団体の指導者」としては失格だろう。
なぜなら池田センセには肝心な「信心」がない。
「信心」がないから大御本尊を捨てることができる。
その本性は御書に照らせば
臆病者で求道心がなく欲深い人間。
それが池田センセの本性だと俺は思っている。
そのような人間を「人生の師匠」だの
「広宣流布の指導者」だの思える会員さんが不思議でたまらない。
そしてそんなことを言っている会員さんは本当の弟子ではないと思う。

俺はこうして池田センセのことを悪し様に書くが
俺はそれが池田センセや創価に対する恩返しだと思っている。
創価があったからこそ俺は大聖人仏法に縁することができた。
これは事実である。
創価以外。例えば正宗のご僧侶や法華講員に折伏されたことは一度もない。
創価がなければ大聖人仏法を知らないまま今でも過ごしているかもしれない。
それに対しての恩義は忘れていない。
だからこそ、謗法と化した創価と池田センセを責めるのである。
かつて池田センセは言った。
「悪を責め抜くことで相手を成仏させる。それが慈悲なのだ」と。
このままでは池田センセは間違いなく無間地獄行きだ。
本当の弟子ならば師匠の間違いを正さないといけない。
本当の弟子ならば師匠の悪を責めなければいけない。
それが唯一「天魔」と化した師匠・池田センセを救う道であり
創価への報恩じゃないのか?
俺はそう思う。
質問内容から逸れてしまったが
今の池田センセは「仏敵」
俺はそう思っている。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ



プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
フリーエリア
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR