ブログタイトルを変更しました。

最近、学会のカツドウカさんから
当ブログのタイトルでクレームがあった。
俺はもう学会員ではないのだから
「創価学会員による」というタイトルは
「ウソ」であり「ダマシ」だ。というようなクレーム。
ホント面倒くさいなぁ、学会カツドウカってのは。
カツドウカならば、他にいう事あるんじゃね~の?
「タイトル」よりも「内容」に文句があるんじゃね~の?
その肝心な「内容」については
クレームの反論もなしかい!(笑)

そもそもこのブログでも再三書いているように
俺は「除名」にもなっていなし
「退会」もしていない。
組織が勝手に退会扱いして
統監を落としたので会員資格を喪失だけで
俺が異議申し立てをすれば会員資格を再取得できるはずだよ。
なにせ私文書を偽造されて会員資格を失ったんだから。
本来なら、組織の責任を追及して
俺の退会届を書いたやつに慰謝料請求したいくらいだ。
それを不問に付してあげているのは
俺の優しさってもんだろう(笑)
(戻る気ないだけだけどね)
だから、俺的には自分を「学会員」と名乗っても何等問題ないと思っている。

でもまぁ、こういうくだらない事を言い出すカツドウカが出現し
そんなツマラナイ事でクレームつけられるのも面倒なので
今回、ブログタイトルを変更した。

以前読者の皆様にも色々と(案)をいただいたが
結構長年このタイトルできちゃったので
あまり大幅に変えるのもなんだし、
サクッとマイナーチェンジくらいに止めることにした。
(元)とか付けるのがセオリーなんだろうけど
どうも変なところで偏屈ジジイなので
「除名」や「退会」にもなってないのに
自分から「元」とか言っちゃうのは我慢ならないので却下。
「前」っていうのはなんとなくピンとこない。
そこで「旧」をつけてみることにした。
(旧)創価学会員。
うん、これが一番フィットするな。
(旧)創価学会員ってのは、
「古い」学会員とい意味合いで
俺の中では正式には
「日蓮正宗創価学会員」っていう意味だ。
覚醒してないと言われようが何だろうが、
(俺的には創価を退会するだけが覚醒とは思ってないが)
気持ち的にはいまでも、
「俺は日蓮正宗・創価学会員」だ。
そしてこの先、日蓮正宗に戻っても
多分、俺は「日蓮正宗・創価学会員」のままでいると思う。
そんなだから、なかなか勧戒を受けられないんだろうね。
心のどこかで、完全に創価を捨てなければ正宗に戻れないんじゃないか?
みたいな感覚がある。
今の創価にはとっくに愛想をつかしているが
(旧)創価学会はいまでも想っている。
だからずっと「日蓮正宗・創価学会員」でいたいんだよね。
これじゃ、正宗には行けないのかな?
と実は思っていて、それが勧戒を受けたい
という心にブレーキをかけている部分がある。

それはさて置き、そんなわけで今日からこのブログは
【(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ】
にタイトル変更になりました。
皆様方、今後も宜しくお願い致します。

そして創価カツドウカご一同様、
これでよろしいでしょうか?(笑)

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無宗教信仰

「無宗教」の比率が日本は過半数を超えているらしい。
世界ではこうした国は、日本を含め中国や北朝鮮など6カ国程だとか。
また世界人口のうちの「無宗教」というのは
15%くらいらしく、「無宗教」という人は世界的は少数派のようだ。
そんな日本人は無信仰なのか?ときかれればそうではないと思う。
初詣やお墓参り盆や彼岸
また各地で行われている祭りの類
昔よりもそうした儀式的なことは少なくなったがなくなっていない。
ずっと昔からやっていたことが未だになくなっていない。
そう考えると日本人は信仰深い民族だと思う。
上記に挙げた宗教的儀式を宗教だと思っていないでけで
「無宗教」というのは一種の信仰だと思っている。
「無宗教」とは「何も信じない」
「何にも祈らない」「何にも願わない」というでなく
「なんでも信じる」「何にでも祈る」という信仰で
それは日本古来の八百万の神信仰の進化系だと思う。
創価はもとより宗教団体から離れる多くの人が
「無宗教」を名乗るもよく理解できる。
宗教とは全て自身の宗派の教義を正しいと主張する。
これは信仰の純粋性であり、
布教とともに信仰の根幹である。
そこに疲れてれれば
「何でも信じて」「布教もしない」という
方向にいくのは当然のことである。
ただやはり人間というのは「信仰心」まで捨てられない。
生まれてこの方ただの一度も
何かに祈ったり。願ったりしたことのない人はそうはいないと思う。
子供の頃何か怖いことがあったりすすると「助けて」と誰にとなく祈ってみたり
高校野球で負けているチームの応援団が手を組んで何かに祈っていたり
「祈り」とはそもそもそういうもであり
だからこそ「人間」だけが信仰を持つ。

宗教者から見れば「なんでもかんでも信じる」ことは信じられないし
無宗教者からみれば「たった一つの事を信じる」ことが信じられない
宗教者からみれば「絶対自力」なんて信用できないし
無宗教者からみれば「他力本願」と見えるのだろう
ただ結局は「何かを信じる」ということに代わりない。
それなのに、宗教者は無宗教者を必要以上に侮り
無宗教者もまた宗教者を必要以上に嘲笑う
そうした人たちを見ていると
なんだか可笑しくなってくる。
宗教者がそんなに偉いのか?
無宗教者がそんなに偉いのか?
どっちも変わんね~よって思う。
大切なのは自分自身が自立出来てるかどうかだよ。
宗教というのは自立するためのものであって
依存するためのものじゃない。
創価のインチキなところはそこにある。
そもそも大聖人仏法は一人の人間を自立させる教えだ。
それも「絶対自力」でもなく「絶対他力」でもなくだ。
ところが創価は会員から自立を奪い依存させる方に仕向ける。
そしてそれを「日蓮仏法」というわけだ。
これが一番の詐欺なのである。
なのでそこから抜け出した人々はある意味「自立」することができたと言える。
あとは自分自身が、宗教を続けるか
無宗教を選択するか決めればいいことだ。
無宗教を蔑む宗教者や
宗教者を嘲笑する無宗教者は
まだまだ途中だなって思う。
自分の主張を語ることはいいことだ。
ただ無駄に蔑んだり嘲笑することしかできないのはどうなんだろうね。
自立できない創価バリ活さんに多いタイプなんだけどね。
無宗教者から宗教者になるにせよ
宗教者から無宗教者になるにせよ
人は何かを信じて生きていくわけだから
自分の信じるモノは自分で決めたいもんだね。

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三沢抄(蘭房さんのコメントへの感想)

蘭房さんから三沢抄を引用したコメントをいただきましたので
2記事連続で御書ってのもちょっと堅苦しくなっちゃいますが
その三沢抄について少し書きます。
蘭房さんが引用してくれたのは

◆仏法をばがくすれども或は我が心のをろかなるにより或はたとひ智慧はか しこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず、仏教をなをしくならひうる事かたし、たとひ明師並に 実経に値い奉りて正法をへたる人なれども生死をいで仏にならむとする時にはかならず影の身にそうがごとく雨 に雲のあるがごとく三障四魔と申して七の大事出現す

この部分です。ここを引用し
大作センセは結局「正信の師」でなかった。
と蘭房さんは言われています。
まったくその通りです。
そもそも在家同士の間に「師弟」なんて持ち込む時点でオカシイのです。
在家同士は善知識の集まりであり
善知識とは、一向に師匠でもなければ一向に弟子でもない。
と以前このブログに書いた通りです。
なのに、師匠と弟子という関係を在家同士に持ち込んで利用した
大作センセは最初から大聖人の弟子という自覚がなかったわけです。
大聖人よりも戸田先生。
一見美しく聞こえますが、
これは単に戸田先生を利用しただけであり、
そのような大作センセを戸田先生が喜ぶ道理もないでしょう。
大作センセやバリカツさんは「師匠・大作センセと異体同心の戦いを」なんていいますが
在家信者同志の異体同心とはそういことではありません。
日因上人が金沢法難の時に信者に書かれた手紙の中に

◇一結講中異体同心に未来までも相離れ申すまじく候、中に於て一人地獄に落入り候はば講中寄合いて救取るべし、一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし

という一文があります。(法華講員さんには有名だと思いますが)
このご指南が、大聖人門下の在家の信徒の規範になるご指南です。
在家同士の師弟義など邪道もいいところです。

では、そこで上記の三沢抄の御文を拝すると

◆明師並に 実経に値い奉りて

この「明師」とは大作センセではなく、人本尊である日連大聖人です。
「実経」とは、法本尊である南無妙法蓮華経です。
ですから「明師並に 実経」といいうのは
人法一箇の「戒壇大御本尊」ということです。
そこを踏まえて解説すると、
「たとえ大聖人の色心二法の当体である大御本尊にめぐりあえて
正しい信心に巡り合えてもいよいよ成仏するころになると
三障四魔が必ず現れて成仏を妨げる」といことになります。

◆たとひ智慧はか しこきやうなれども師によりて我が心のまがるをしらず

まさに、旧日蓮正宗創価学会系の幹部・バリカツさんがこの状態です。
そう、大作センセという邪智謗法のモノを「師」にしてしまったばかりに
「信心」が曲がってしまった。
そしてそれを気づくこともできない。
在家同士の師弟義なんて御書のどこにもないのに
大聖人と日興上人の師弟義と創価のそれは全く異次元の話なのに
早く「明師並に 実経」に再び値い奉って欲しいものです。

てなわけで、今日はこの辺で。
次回は、もう少しライトな記事書きますね。

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創価教学じゃない御書講義(29年度3月座談会御書・経王殿御返事)

但し御信心によるべし、つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし
法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ鬼にかなぼうたるべし、
日蓮がたましひをすみにそめながし てかきて候ぞ信じさせ給へ、
仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「経王殿御返事」
短い御書なんだけど、大聖人仏法の重要な教えが詰まっていて
とてもいいテキストになる御書だね。
創価の活動家は、何度もこの御書を読んだり
講義をしたり聞いたりしていることかと思う。
その中でも今回の部分は、有名かつ重要な御文だね。

しかし、この御書のしかもこの部分を
座談会御書として選ぶかね~?
何かの冗談?
それとも自虐ネタ?
或いは自爆テロ?
どっちにしても、今の創価幹部活動家が
もっとも、「やりたくない」部分でしょ?コレは?

いうまでもなくこの部分で最重要なのが
◆日蓮がたましひをすみにそめながし てかきて候ぞ信じさせ給へ
◆日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし
のこの部分。
この部分を説明しないと講義になんない。
「法華経の剣」とは、ご本尊のことで、
その「御本尊」とはなにか?
大聖人仏法の「本尊義」を述べている部分が上記の二つ。
簡単にいうと大聖人の本尊義とは人法一箇ということなんだよね。
いつもブログで書いているように、
「本尊」とは大聖人の色心二法のことであり、大聖人そのものを指し
大聖人の色心二法とは、南無妙法蓮華経(法)に他ならない。
つまり、大聖人の色心二法を離れて南無妙法蓮華経はなく
南無妙法蓮華経を最初から所持するゆえに大聖人をご本仏というわけだ。
この御文の前に、
◆日蓮守護たる 処の御本尊
と書かれいるとおりである。
そしてその大聖人の色心二法を顕したのが
大聖人の出世の本懐たる
一大秘法の本門戒壇大御本尊である。
それがここでいうところの「法華経の剣」であり
それに対して信をとれば「鬼に金棒」になるのである。
そして大御本尊に信をとる信心を「けなげ」な信心という。
御信心による。というこはそういうことだ。

で?どうすんの?創価の本尊をどう説明すんの?
創価の本尊は言わずと知れた
日寛上人が大御本尊を書写した本尊を
創価が画像処理を加え、勝手にコピーをして配っているモノである。
この創価本尊に、大御本尊を捨てた創価が
どうやって大聖人の魂を入れているのか?
それを説明できるのか?
てかそこを説明しないと今月の御書講義にならない。
これは、今月は結構面白い座談会になりそうだ。
外部新来者として誰か俺を座談会に連れて行ってくれないだろか(笑)

macskaさん、今月ですよ。
御書講義の担当を願い出てください。
まさか、ここを座談会御書に選ぶなんて完全に敵失です。
千載一遇のチャンス到来です。
この御書なら思いっきり大御本尊を宣揚し
創価の本尊義を破折できます。
そんな御書を選ぶとは、
マジで自爆テロとしか思えない。
じゃなけりゃ勝負にでたか?
いずれにせよmacskaさん、出番です!

macskaさん以外の活動家さんもそうですよ。
本当に大御本尊を捨てていない。と言うならば
今月の座談会では講義をするなり
質問するなりしてくださいね。
「大御本尊を捨てた創価がどうやって大聖人の魂を創価本尊に入れているのか?」って。
本文には
◆法華経の剣は信心のけなげなる人こそ用る事なれ
と書いてあるでしょ?
「けなげ」とは「勇気」ということです。
今の創価の組織の中で
大御本尊を宣揚することはもちろん
そうした質問することすら勇気の要ることです。
その勇気がなければ、
◆つるぎなんどもすすまざる人のためには用る事なし
とあるように、創価の本尊など無用の長物です。
今月の座談会は本当にチャンスです。
いままで聞けなかった大御本尊のことを聞けるチャンスなのです。
なんてたって、いままで大御本尊の件からが逃げ回っていた創価が
自らその舞台を作ってくれたのですから。
また反面、「大御本尊を棄ててない」といってる会員さんにとって
それが本心かどうか試されているとも言えます。
どうぞ「勇気」をもって「前進」し
単なるコピーの掛け軸を、法華経の剣に変えていってくださいね。

◆秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり浅きを去つて深きに就くは丈夫の心なり(報恩抄)

最後に「大御本尊を捨てても平気な顔している」幹部・バリ活さんは
今月の御書講義はしない方が身のためです(笑)
いままでは、ウヤムヤにごまかして逃げ延びてきただろうけど
今回はさすがに「本尊義」を話さないとシャレにならない御文ですよ。
まさか、「相貌」が同じなら「自動的」に大聖人の魂が入っている。
そんな講義はしないよね?(それしか言い逃れができないのだろうけど)
なんなら、「今月は期末で仕事が忙しい」とかいって座談会不参加にしましょう。
仕事をしてないバリ活さんは当日「具合が悪くなる」ってのもアリです。
どうしても御書担当になってしまったら
なるべく後半部分には触れずに
サクッと大白読んで質問なしで終えてください。
まぁ「言い逃げ」「やり逃げ」はバリカツさんの十八番でしょうから(笑)
え?うちの組織にはそんな事質問しくるような部員さんはいない?って
そうですか、ではその組織は既に謗法の地と化してるわけですね。
それはご愁傷様です(笑)

しかし、何度も書くけど
創価が、ここをやるかなぁ・・・(笑)

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真実の覚醒の時

創価のMC・詐欺に気づき創価から離れることを
ネットでは「覚醒」と呼ぶ人達がいるようで
「覚醒」とは言い得て妙でなかなかいい表現だと思う。
この覚醒者の皆さんは大きく分けて二通りのよう。
一つは、俺のように「創価はやめても信心はやめない」タイプと
もう一つは「創価と一緒に信心もやめる」というタイプ。
ネット上でも、またリアルにおいてても
どちらかというと「創価と一緒に信心もやめる」
という道を選択する覚醒者さんの方が多数派だと感じる。
今日、そんな多数派の覚醒者の一人と少し話したんだけど
その彼が言うには俺のように「創価はやめても信心を続ける」タイプは
まだ「完全に覚醒していない」状態だそうだ。
ネットなどにも似たような事をいう覚醒者の人がいるが
そう言われれば、お言葉を返すようでだが
むしろ「創価も信心もやめてしまう」方が
まだ創価に騙されて続けいるんだなぁって感じてしまうんだよね。

まぁ、創価をヤメたことはいいことなんでけど
信心まで止めてしまう。もったいないあぁ
信心を止めるだかならまだしも
大聖人仏法まで創価の一部として批判する人(今日の友人がそうだった)を見ると、
創価の本当の部分の騙しに気づいていない。と思うし
これが創価の詐欺の二次被害だと思う。
そう思うとやはり創価学会という存在は「絶対悪」だと思うね。

創価と一緒に信心もやめて、
さらに大聖人仏法も否定する醒者さんが異口同音に言うには、
「紙に字を書いたもの(本尊)に祈ったところで功徳などあるわけない」
「紙に字を書いたもの(本尊)など捨てても罰なんて当たらない」
って事なんだけど、言ってることは間違っていない。
創価の本尊なんて、まさに「紙に字をコピー」した「モノ」でしかなく
そんな「コピー用紙」にいくら祈ったところで功徳なんて出ないし
そんな「コピー用紙」なんていつゴミ箱に捨てようが罰なんてでない。
そんなものが出るほうがおかしい。
それを「功徳」だの「罰」だのと言って
会員から金や時間、さらには友人や恋人まで奪う創価は
「詐欺団体」であることは間違いない。

でもね、創価が「極悪」であるのは
こうした詐欺行為をするからではなんだ。
「詐欺行為」なんての「悪党」レベルの話で「極悪」じゃぁない。
創価の悪の根本は「詐欺行為」でなく
「謗法行為」にある。
現役の会員のみならず、
覚醒した元会員さんにも「謗法行為」をさせる。
これこそが創価が「極悪」である所以だ。
創価の詐欺で奪い取られるモノよりも
創価にさせられた謗法で失うモノの大きい。
「創価は詐欺団体」これはすぐに看破できるだろう。
でも「創価は謗法団体」って気づくのなかなか難儀である。
そこに気がつくのが「覚醒」というのではないかと思う。

創価の本尊で「功徳」が出なかったのは、
本尊のせいでなく創価の信心のせい。
創価の本尊を捨てても罰がでないのは
本尊のせいでなく創価の信心のせい。
創価のいう信心が間違っているから
創価の本尊は功徳も罰もでない「ただのコピー用紙」にしかならないわけだ。
つまり、今日の友人のようなタイプの覚醒者さんは
創価の詐欺には気づいたけど創価の謗法には気がつかないままでいるわけで
ザックリ言うと、創価をやめてなお創価に騙され続けている。と感じる。
「創価で教えてもらった信心とは大聖人の仏法ではない」
そこに気がつかないまま
「創価の教え」=「大聖人仏法」と信じ込んじゃっている。
だから、「アンチ創価」=「アンチ日蓮」になっちゃう。
そういう覚醒者さんは多いと思う。
いつも書いているが正しい信心(大本尊に信をとる)をすれば
創価の本尊であっても「功徳」も「罰」もでる。
逆に正宗の本尊であっても間違った信心なら
覚醒者さんたちがいうように「紙に字をコピーしただけのモノ」でしかない。
日顕前法主憎さに大聖人を捨ててしまった創価と
創価憎さに大聖人を捨ててしまう覚醒者さん達。
こんな言い方をすると腹がたつと思うが
仏法の立場で見てみると、「同じ」カテゴリーなんだよな。
本人は創価をやめて覚醒したと思っているので
結果は創価と同じカテゴリー。
いまだに「創価宗」「池田教」から
心は抜け出せてはいないように見える。
創価をやめることで「詐欺」から身を守り
「詐欺」の片棒を担ぐことはなくなったのだから
それはそれで非常にいいことだし喜ばしいことなんだけど
度が過ぎて「大聖人」まで批判・非難の対象にしてしまうと
創価と同じ「謗法」になり「謗法」の片棒を担ぐことになると思う。

まぁ、「もう信心は懲り懲り」って気持ちもよくわかる。
俺の男子部時代に組織を追放された時に
心底「組織信心」なんて真っ平ゴメン。と思ったし。
だから、もったいないけど「無理」に信心を続けることもないだろう。
いやいや勤行・唱題をしたところで何の意味もないし。
だた「大聖人批判」まで行ってしまうのは賛成できない。
「もったいない」を通り越してしまうから。
創価に言われるまま、色々な活動をしたきただろうけど
御本尊にあげた題目だけは創価関係なく個人の信心だ。
それが実であれ不実であれその題目の分は福運が積まれたことは間違いない。
それを「大聖人批判」で消してしまうどころがマイナスにしてしまうのは馬鹿らしいと思う。
ていうか、創価をやめた今「大聖人批判」をする意味もないし
「大聖人の批判」をしたところで覚醒者が増える事もない。
だからいたずらに創価同様の謗法を犯す必要もないんじゃないか?

創価からの覚醒者さんの多くは
「まだ本当の日蓮仏法を試したことのない人達」なんだよ。
今後、本当の大聖人仏法を試すか試さないかはわからない。
また、大聖人仏法を信仰しようと批判しようと
それは個人の自由であることは言うまでもないが
どちらにしても「創価の教え」から離れて欲しいと思う。
「日蓮大聖人」と「創価宗」「池田教」は無関係である。と認識して欲しい。
その時が真実の覚醒の時なんじゃないだろうか。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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