これぞ創価活動家クオリティ

蘭房さんのコメント読んだ。
退会届をだしたら早速組織で打ち合わせ。
あの人は危険だから
会員さんをあの人に接触させないようにしなきゃ。
そんなことを打合せする。
それが「創価の組織を守る戦い」と思っている
俺が組織に追放された時もそうだった。
あいつとは、会うな・話すな・近寄るな。
ご丁寧に組織にそんな連絡網を回す。
JKのイジメじゃあるまし
付き合う人間をなんで他人がどうこう言うのかね。
クソガキなの?
組織人間の方々もクソガキで
街中で会っても挨拶もしない。
当然携帯もおれからの電話は着信拒否。
そんな具合に組織の中で策略を巡らせるくせに
当の本人にはな~にも言ってこれない。
だた逃げ回るだけ(笑)
これぞ、創価活動家クオリティ(笑)
完全に不良品としか言えない。

大聖人は、

◆彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。(立正安国論)

と仰せだ。

退会した人間が、退転者であり創価の敵と思うならば
会員に「あいつと付き合うな」と言う前に
敵である人間を破折しに行くのが王道だろう。
それもできずに陰でコソコソしていて
よくぞ大聖人の弟子を名乗れるな。

◆仏の御使となのりながらをくせんは無下の人人なりと申しふくめぬ(種種御振舞御書)

リアルでもこれだから
ネットの世界はもっと酷いね。
正宗や退会者のことを批判する創価会員がいるけれど
結局、自分のサイトや
創価コミュニティだけで
威勢のいい言葉を吐いているだけで
俺みたいにアンチ創価のサイトに
コメントひとつ書き込めない。
たま~に書いてくる活動家もいるが
全員途中で逃げ出しちゃう(笑)
全く情けないったらありゃしない。
もう、カツドウカを名乗るのはやめたら?
恥ずかしいでしょ?
え?厚顔無恥だから恥かしいって感情はない?
なるほど。納得で~す。

まぁ彼らは大聖人の弟子じゃなくて
大作センセの弟子だから
臆病なのは当然と言えば当然か(大笑)
こんな人間しか残ってないのだから
創価の人材不足も深刻だ。
正宗の心配するより
自分達の心配した方がいいだろう。
どれだけ自分たち創価が衰退しているか
少しは自覚したほうがいい。

◆夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く(富木殿御書)

ああ、佞人にはそんな自覚はないよね。

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創価教学じゃない御書講義(29年度5月座談会御書・四条金吾殿御返事)

なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、
「諸余怨敵皆悉摧滅」の金言むなしかるべからず、
兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、
ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今月の座談会御書は「四条金吾殿御返事」中の
「法華経兵法事」or「剣形書」
これもまたメジャーな御文ですね。
ここで仰せの「兵法剣形」とは
現在で言うと、能力とか才能とかスキルとか
そういった幸福になるための手段・方法。そんな所です。
で、そうしたものよりも、法華経の兵法を用いなさいということ。
もちろんそうした「兵法剣形」が無駄である。といっているのでありません。
この御書の冒頭に

◆夫れ運きはま りぬれば兵法もいらず果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり

とあるように、才能・能力・努力を活かすのも
「法華経の兵法」である。ということです。
世間でも才能があっても運がなければ成功することはまずありません。

さて法華経の兵法とは、この前文に

◆ただ心こそ大切なれ

とあります。ここでいう「心」とは「信心」ということです。
信心とは具体的にいうと「本門の題目」事。
「本門の題目」とはいつもいうように、大御本尊を信じてあげる題目です。
ここがポイントですね。
大御本尊を受持の対象としない人の題目は
「本門題目」ではない。だから祈りはかなわない。

◆いかに日蓮いのり申すとも不信ならばぬれたるほくちに火をうちかくるがごとくなるべし

とあるように、我々が祈る祈りは同時にご本仏大聖人の祈りでもある
その大聖人(大御本尊)を信受しなければ
いくら祈ったところで無駄なわけです。
「兵法剣形」即ち才能や能力を活かすのは
この法華経の兵法です。
そこが狂ってしまっては、いくら「兵法剣形」の才を持っていても
それを活かしきることができないわけですね。

ではなぜ「深く信心」を取れないか?
大御本尊に信をとれないか?
それは「臆病」だからです。
特に創価の会員さんはここをよく拝してください。
「大御本尊を受持の対象にない」ということは正しい信心ですか?
おそらく多くの学会員さんは「正しくない」と思っているでしょう。
それを「正しい」と思っているなら
もはやその人は謗法に染まっているので手遅れですね。
そうじゃない会員さんはどうでしょう?
「正しくない」と感じているけど、
創価に言われた通りにするのはなぜでしょう?
創価の組織から離れたくない。
大作センセが好きだから。
おそらくそうした人情論とか世法のつながりがあるから
創価がいうことに従っているだけではないですか?

あえて厳しく言いますよ。
それを「臆病」というのです。
しかもあえて臆病なのです。
「あえて」とは、自ら進んで臆病になっている。ということです。
病気であることを知っていながら治そうとしていない。
ですから貴方たちの祈りは叶わないのです。
「いや私は祈りが叶った」という人もいるでしょうが
そう言う人は要注意です。
それは「魔の通力」であって「功徳」ではありません。
「私は大御本尊を捨てていない」
そう反論する方もいると思います。
では、あなたがいまでも「大御本尊を捨てていない」証拠はなんですか?
五座三座の勤行をしてますか?
大御本尊へのご観念をしていますか?
あなたが創価の化義を実戦しているのならば
「大御本尊を捨てていない」なんてウソを言ってはいけません。
それも「臆病者」のすることです。

◆浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり浅を去て深に就くは丈夫の心なり(撰時抄)

創価の組織から離れること
創価の活動をやめること
創価への供養をしないこと
「そんなこと今更できない」
その「臆病な心」を捨て「丈夫の心」になりましょう。
「心こそ大切なれ」
ですよ。

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スメルジャコフさんのご質問へ

先日、スルメジャコフさんより次のようなコメントをいただきました。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
私は創価学会が嫌いです。しかし、大御本尊も、信じられません。
その理由は、私の祖父が、創価学会の破門と同時に脱会し、
以後月一の登山を続け大御本尊への信仰を貫いたにもかかわらず、
晩年は、癌に罹患し、国の薬事関連の政策の転換期だったことから
一切の痛み止めを打つ事が出来ず、壮絶な苦しみの中で亡くなっていった事です。
祖父は、学会員、時には親族からの誹謗にも耐えながら自らの信仰を貫きました。
その祖父が激痛による煩悶に暴れ苦しみながら、修羅の相で亡くなっていった事ー
この事がどうしても消化できずにいます。
大御本尊への信仰は、この世の幸福をもたらすものではないのでしょうか?
単に死後の安泰を約束するだけのものなのでしょうか?
仮に私が大好きだった祖父の信仰を受け継ぐならば、
現世においては苦しみを甘受しながら、死後に賭けるべきなのでしょうか?
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

今日はこのコメントへの私なりの考えを書きます。
まずはスルメジャコフさんの御尊祖父様のご冥福をお祈りいたします。

さて、このような体験を持っている創価や法華講員の方は多いと思います。
「あの人は、純粋に信心をしていたのにあんなに苦しむのだろう」と。
私も信心をする前は、学会員さんとかみて
そのように思ったことは何度もあります。
「信心なんてしたって幸福になってないじゃないか」と。
では信心をしない方が苦難に遭遇しないのか?
といえばそれもまた違いますね。
苦難に遭遇することと、信仰の有無は無関係です。
信心していても苦難に遭遇することもあるし
信心を否定しても苦難に遭遇しないこともある
また、苦難の種類もスルメジャコフさんの御尊祖父様のように
臨終に際しての苦しみもあれば
生きている中での苦しみもあります。
これらはどっちが苦しいという事はなく
どちらも同じ苦しみであると思います。
このようにこの世に生まれ生き死んでいく。
それはあるいみ苦難の連続だと思います。
「何事もない」人生などあり得ないし
「何事もない」人生を望んでもそれは手に入らない。
「何の苦難にも合わない人生を歩ませてください」
と祈ることは
「宝くじを当ててください」と祈ってるのと同じです。
この世には「何事もない幸福な一生」というものは存在しない。
そもそも何事もなければ幸福と感じることすらないでしょう。
幸福とは「何事もない」という事でなく
「何事があっても大丈夫」ということだと思います。
では、「何事があっても大丈夫」とはどのような状況かと考えると
苦難の原因が分かっていて、それを取り除く方法を知っている。
そういう状況だと考えます。
それが「現世安穏」であり「安穏」であることが利益です。

病気でも原因不明だと治療ができない。
治療ができなれば夜も眠れぬほど不安でしょう。
原因・病名が分かっていて、それに対する処方箋があれば不安は消えます。
「病気になる」というのは生きていれば避けられない
その時に治療方法を分かっていれば幸福であり、知らなければ不幸。
知っていれば安穏。知らなければ不安。
多くの世の中の不幸は「知らない」ことに起因していると私は思うし
この世の幸不幸とはそのようなものだと思っています。

そうしたこの世における苦しみや悩みの原因とその治療法
さらには治療後はどうなるのか?
それらは全て日蓮大聖人が教えてくれますし
説明をすることもできます。
でも、その説明はいたしません。
なぜなら、それによって誤解が生じ不信が生じるからです。
ですが、大御本尊への純粋な信心を貫かれた御尊祖父様には
それらは全て分かっていらっしゃったと思います。
そして分かっているからこそ覚悟もされていたと思われます。
確かに臨終に際して、痛くて苦しいことは辛すぎます。
できれば安らかに眠るように。と誰しも思いますが
御尊祖父様はそれすら分かっていて覚悟をしていたと思います。
それが信心です。
そして壮絶な最後を遂げたとしても成仏されていることは間違いないです。
(それも私が勝手に言っているわけじゃありません)
しかしその現実を周囲の人が消化できないという気持ちも分かります。
この現実を消化する方法は
大好きだった御尊祖父様の信仰を受け継ぐ以外にありません。
御尊祖父様と同じ立場に立たなければ
同じ景色は見ることはできません。
もちろん信仰を強制したり
信心をした方がいいですよ。などと勧誘する気もありません。
ましてや「大好きなおじいさんの為に・・」なんて
見え透いたことを言うつもりはありません。
ただハッキリと言えるのは
大御本尊を信じて見える景色は
今見えている景色とは明らかに違う。
御尊祖父様が見ていたのは、
周囲の方が見ていた景色と違う。
という事です。
その景色を見るも見ないも個人の自由です。
今の景色に満足されているのであれば
他の景色を無理に覗くこともないでしょう。
もしも今見ている景色が自分にとって気持ちよくない景色ならば
他にある景色を見てみようとするのも悪くありません。
どちらにしてもスルメジャコフさんが思うようにされるのが一番です。
ご質問の答えになっていないかもしれませんが
以上が私の所感です。

最後にコメントありがとうございました。
またいつでもお好きな時にコメントください。

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学会2世・3世の会員さんのこと(だしまきさんコメントへの回答)

だしまきさんから

>学会2世3世をバリ活時代と今ではどのように感じていましたか?
>幸運だね、みたいなことはよく言われていたのですがやはりそのようにお考えでしたか?

とのご質問をいただいたので
今日は、学会2世・3世の会員さんについて書いてみる。
俺の世代ではまだ3世というひとは少なく2世がほとんど。
いまではもう3世・4世といったところが青年部の主流かな?
俺が少年部の本責をしていたころの少年部たちの年代だろう。
学会員の家に生まれてくる子供たちを
「福子」なんて呼んで「生まれながら福運がある」
みたいな事をカツドウカさんたちは言うけど
「福子」というのは教学的に言うと
幸運(福運がある)という意味じゃない。
四条金吾女房御書の中に「安楽産福子」という言葉があるんだけど
これは法華経の法師功徳品の偈の中に書かれている言葉で
六根清浄の功徳の中の鼻根清浄について説かれている偈で
正宗の家に生まれてくる子供を「福子」といているわけではない。
なので正宗ではどうか知らないが
創価の中で使われている「福子」と言葉は
仏法的は使い方が間違っている。
ただし、師弟契約御書で引用されている、
◆経の文には「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」
という化城比喩品の説法を見ると
過去世に大聖人と縁をした(説法を聞いた)ことにより
今世でまた大聖人(大御本尊)の元に生まれてくるわけだから
福子として生まれてくるのは、
過去世の福運というのもまぁ頷ける(福子という言葉は適切じゃないが)
というわけで幸運といえば幸運なのかもしれないが
今の創価の家に生まれてしまうのは不運だ。
不運というよりも過去世に退転した者が今の創価の家に生まれてしまう。
仏法の道理から言えばそういうことになる。

さて教学的なことはさておいて、
俺の2世・3世の学会員さんに対する感想は
創価のカツドウカに限って言えば
「信心」を分かっていない人が多い。
というのが正直な感想だ。
これは別に今に始まったことじゃなく
俺自身が活動家時代から感じていた。
いわゆる「福子」の活動家の部員さんをたくさん見てきたし
いまでも付き合いのある学会2世・3世達もいるけど
確かに信心に対して純粋な人が多い。
御本尊を純粋に信じ
創価と学会員を純粋に信じ
そういった部分においては本当に純粋だ。
なんだけど、純粋な部分がどこかズレている。
その一番の部分は信心の基本というかなんというか
そういうところがズレている。
例えば「祈る」という行為があまりにも身近過ぎて
「祈る」というよりも「題目をあげる」
という行為になってしまっている人が多い。
「題目をあげることと祈ることは違う」
2世の部員さんによく話した。
また、学会2世の男子部時代の後輩にいわれたのは
俺が男子部時代に彼に言った言葉で一番衝撃的だったのが
「学会活動は信心じゃない」
という言葉だったそうだ。
彼の中では幼少の頃から
「学会活動こそ信心の基本」だという思いがあったらしく
俺に「そんなもの(ガッカイカツドウ)は信心の枝葉でしかない」
と言われたことを20年経った今でも覚えているらしい。
そういう意味で「信心が分かっていない」と感じる。
決してバカにしているわけじゃなくて
なんだろう。純粋過ぎて全てが受動的な印象だ。
だから、少し指導(って言葉は嫌いだが使わせてもらう)を変えると
みるみる変わっていく。
男子部時代にそれまで本流を決めたことない2世の部員さんが
ことごとく本流を決めたことがある。
それは純粋だったからだと今でも思う。
「祈ること」「大聖人仏法を語ること」
この二つを御書を通して話していくと
「内部以外に友人がいません」と言っていた部員さんが
あら不思議。次々と本流が決まる。のだ。

そこなんだよな。
2世とか3世とかの学会員さんと
初代(笑)の学会員の違いは。
福子として生まれてきた会員さんは
小さな時から「池田センセ」「創価学会」って言われてきて
創価や池田センセが言っていることが信心だと思っちゃっている。
それが信心の本質であり基本だと勘違いしちゃっている
勘違いというよりもそういう教育を受けてしまっている。
だから学会活動をやることが「信心」だと思い
池田センセを「師匠」と思うことが「信心」だと信じている。
そこが大きな間違い。
大聖人の御書のどこを見ても
選挙や聖教啓蒙を信心とは書いてないし
在家の一信者を師匠にせよ。とも書かれていない。
大聖人仏法の基本は、大御本尊を信じて勤行・唱題をすること。
この一言に尽きる。
それ以外のことは枝葉に過ぎない。
ましてやガッカイカツドウなんてものは御書に書いていない。
「ガッカイカツドウ」ではダメなんだ。
「大聖人の仏法の布教活動」でなくては意味はない。
「ガッカイカツドウ」というのは「広宣流布」のためにすることであって
それ自体は全くイミのない活動だ。
選挙も新聞啓蒙も部員さんまわりも、
最終的には広宣流布へつなげていくための準備でしかない。
そこに繋げないで忙しくガッカイカツドウをしていても
そんなカツドウは信心でもなんでもない。
よって功徳なんてない。
そこが理解できる2世・3世の人達は
折伏でも世間でも立派に結果を出す。
理解できない方々は創価の中でしか大きな顔をできない
ヘタレ幹部・バリカツの道へと進んでいく。
ましてや、いまの創価は大御本尊を捨ててしまっているのだから
ガッカイカツドウなんて百害あって一利なし。である。
因みに俺が活動家時代の2世3世の部員さんで
折伏を決めた部員さんは、今でもカツドウカやっているのは二人しかいない。
当時、折伏が決まらなかった2・3世の部員さんが
今やゾーン長・本部長をはじめ壮年部の要職についている。
不思議なモノだ。

話を戻すが、破門前に2世3世として生まれた来た人達は
最初に書いたように、過去世で大聖人の仏法を聞いた人たちである
生まれる前から大聖人に縁をしていた人たちである。
その功徳は正直俺のような今世で縁した人間とは比べ物にならないほど大きい。
俺はそう思っているし、そう感じている。
なのに、なぜ自らその功徳を捨てするのか?
創価に誑かされてなで三世の師匠である大聖人(大御本尊)を捨てるのか?
悪しきモノを師匠にしてなぜ善なる師匠を捨てるのか?
創価の家に生まれてきて、幸運か不幸かは本人次第だ。
創価という仏敵に打ち勝ち大聖人に信を貫けば
末法の法華経の行者として過去世の福運の何倍もの福運が積める。
そんなおいしい所(家)に生まれてこれるは幸運としかいいようがない。
でも逆に仏敵創価に負けて、大聖人を捨ててしまえば
いままでの修行の功徳は一切消え去り無間に落ちる
まさに乞眼の婆羅門でる。
そうした状況になってしまえば不幸だ。
野球で言えば9回裏2死満塁で打席が回ってきた。
そんなイメージだ。
仏敵の中(家)に一人生まれて来たこと。
これは大ピンチでもあり大チャンスでもあると思う。
一族郎党を成仏させるか、その逆か。
まさにその使命の大きさに耐えられるのは
過去世より大聖人の弟子である福子だけだ。
ってちょっと大げさか(笑)
でも、俺の周囲の2世・3世の学会員さんには
「いまこそ大聖人の弟子として仏敵に打ち勝て」
「いまこそ三世永遠の成仏の最後の戦いだ」
そう言いたいかな。

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蘭房さん!祝・退会!

蘭房さんより昨日退会届を提出したとのコメントいただきました。
退会の宣言をされたいたので遅かれ早かれとは思っていましたが
ついに正式退会とのこと。
まづは、心よりお喜びを申し上げるとともに
いままで、本当にお疲れさまでした。
退会にあたり特に感傷的な思いはなかったとの事ですが
ここまでの道程はさぞや様々な葛藤がおありだったと思います。
わたしなぞ足元にも及ばないほど
創価に尽力されてきたはわけですから
その創価に退会届を叩きつけるまでの思いは
相当のものだったとお察しします。
本当は、蘭房さんもそうでしょうが私も含め
創価から去っていく多くの元会員さんたちは
できれば創価の中で今世を終わりたかったと
思っている人たちも多いと思います。
日蓮正宗・創価学会が好きだった。
私もその一人です。
でも、創価は宗門からの独立を企て実行し
大聖人をすて、正法をすて
金と権力だけに執着する
仏法とは無縁の謗法団体と化しました。
ことここに至っては、いくら創価が好きであっても
一信仰者として創価にとどまるわけにはいかない。
創価の組織がどうこうとかではなく
もっと根本的な部分で創価に留まれないと思う方も多いと思います。
その責任の大部分は大作センセにある。
大作センセの間違いを認める。
センセとの誓いと
ご本仏との誓いと
信仰者としてどちらを選ぶのかという事でしょうね。

話はそれましたが、蘭房さんにもこれから
いわれない悪口等が創価の組織の中で囁かれるとおもいますが
おそらく本人に直接言ってくる活動家はいないと思います。
そんな度胸も根性もありませんから。
所詮は引かれ者の小唄。負け犬の遠吠えです。
それもしばらくすればなくなりますので気にすることはございません。
(まぁ蘭房さんがそんなことを気にするはずはありませんが)
これからですね。
本当の信心ができるのは。
本当におめでとうございました。
今後も当ブログのご意見番として
「あっぱれ!」
「喝!」
などのコメント宜しくお願い致します。(笑)

最後に何度がここに書いている私の好きな御書の一節を

◆但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又遺恨無し諸の悪人は又善知識なり、摂受折伏の二義仏説に依る、敢て私曲に非ず万事霊山浄土を期す。

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プロフィール

ダメ出しブログ管理人

Author:ダメ出しブログ管理人
創価幹部の謀略で本人も知らぬ間に創価組織から追放された元学会員。大聖人仏法史上、最大・最悪の謗法集団の創価学会とその不愉快な仲間たちに挑みます!

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